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InterBook紙背人の書斎(最終更新日時:14.11.5,1:20 PM
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1961年10月(15歳・中3)

 1961. 10.1 日曜日 曇り
 今日は日曜日。父母、兄、義姉等は稲刈(具足沢)。昼、母が田から帰って、私はかんづめを買わされた。大崎の商店は全部定休日なので〔、〕天神山の、店に行った。
 又、昼飯を田んぼに運んでいった。
 午後、智(小2)と音羽武夫(小6)と3人で、勝負沢にあけびを取りに行った。四時半ころまでに、南京袋に1つ程取ったが半分は、食ってしまい、半分を自転車につんで来た。田んぼで本家の力さん達が(3人)稲刈りしていたので、あけびをおいて来た。
 家に帰って、それを平等に分配した。夕方、風呂をたき、馬屋掃除。夕食の時に、あけびをみんなで分けて食べた。


 1961. 10. 2 月曜日 雨
 三・四校時の職業科の時間に、職業選択の生徒は実習田に稲刈りにでかけたが、ぼくら外国語選択の者は教室で授業した。
 又、女子の家庭は料理。昼休み、皆が玄関にいってふざけていたが〔、〕私はいかなかった。帰りに〔、〕音羽美恵〔枝〕子に寿司を食わせられた。家に帰って風呂をたき、馬屋を掃除して、夕食


 1961. 10.3 火曜日 雨
 三・四校時の二時間は美術で、先週書いた、感情を現す絵の鑑賞をした。ぼくは、10分程で書き上げたのだが、題と絵がぴったりだといってほめられた。作品50点の中で〔、〕最高の出来なそうだ。あの時の私の気持は、空しさ〔、〕それ1つであった。
 放課後、一時間の補習が終ってから、1の3の教室で、中央委員会を開いた。それは、2・3日前より盲腸炎で休んでいる、石川八重子生徒会副会長への見舞いの事だった。発言者は、どうも女子中央委員の様である。副会長には随分御世話になっているから、この際、生徒会として御見舞いをやったら〔、〕というのである。
 それに対して〔、〕私の意見はこうである。生徒会の副会長だからというのはおかしい。会長だって副会長だって〔、〕元をただせば単なる生徒会の一員なのである。もし、副会長に見舞いをやるのならば、生徒会員全員に対しても〔、〕その権利があるはずなのである。会長も副会長も中央委員も特権階級ではけっしてないのだから、この話には賛成できない。結局、みんなもこの意見にまとまり、生徒会の予算からは出さない事にした。そして、そのかわりに、中央委員九人が出し合って、少しばかりではあるが見舞いをしたら〔、〕という事にまとまった。
 帰宅の際、山田商店に立ちより、パンとナシを食った。佐藤龍美君から10円おも〔ご〕られた。


 1961. 10. 4 水曜日 雨
 今日は、このごろにしては珍しく、何日ぶりかで、自転車に乗らず徒歩で登校した。学校までは25分程かかる。自転車では5分程で行くのだが、今日は雨が強いためにやめにしたのである。やがて朝掃除の時間だが外は、雨なので校庭の掃除は出来ない。それで〔、〕教室で鉛筆をけずったりした。今朝鉛筆5本と刃金、三角定規を買って来たのだ。やがて、朝の体操、そして、一校時目(理科)。
 四校時目、体育の時間は、2組の教室で授業。山田旭先生は〔、〕どうしても成っていない。自分の感〔勘〕違いを認めようともせず〔、〕すぐ怒ってごまかすのである。今日もそうであった。常識でも解る砲丸投げの投距離の計り方を変な風に教えて、最後まで曲げなかった。これは〔、〕教育者の態度ではないと思う。間違いは素直に認めるべきである。
 補習の2時間目英語の時間、本田栄子先生は、カンカンに怒ってしまった。みんなも悪い、自分も悪い。そし先生は少しも悪くはないのである。これでは大変である。先生は、小林先生始め全職員にこの事を告げたらしい。大変な事になった。この前注意を受けたばっかりなのに、補習はやめるかもしれない。補講会は解散するかもしれないのだ。
 事の仔細を話すと、まず授業が始まった。席についたのはわづ〔ず〕かに十人程度、でも授業はスムーズに行っていた。ただし、私はあんまり乗り気がせず、相沢力君と一緒にゆっくりと問題をやっていた。そこに、音楽の練習を終えた奴達が、ギャアギャア業々さわぎながら入って来た。それにつられて、みんな悪口をはき、もう授業にならなかった。補習生でない生徒もさわぎだした。そして、先生がばく発したのである。しかしみんなは、先生のそんな様子をまたもや笑って、ものにしなかった。やがてベルがなった。先生は、そそくさと帰っていった。


 1961. 10. 5 木曜日 雨
 今朝から強い雨ではないが、弱い雨が長時間に渡って降り続いたので、この辺の小川は大して増水しなかったが、吉田川はそうとう増水したらしい。落合側はもう水が入ったという事で、落中ではすぐ授業を終えて下校させたそうだ。
 で〔、〕我鶴中でも、砂金沢、大平等、危険地域なので、四時間授業で帰る事になった。昼食をとってから、すぐ下校した。藤倉靖、音羽美恵〔枝〕子、中米富美江達と帰った。
 帰宅後、勉強。父母は本家に、金太郎叔〔伯〕父の 100ヶ日で本家に行き、兄はどこかに行き、義姉は北目の実家に行き、家には小春と小秋だけしかいなかった。


 1961. 10. 6 金曜日 晴れのち曇り
 午前中、一寸晴れ間が出たが、すぐ又曇ってしまった。学校は五時間の40分短縮授業で、午後から明後日の町内体育際の練習。それから当番(校庭)。すぐ補習が始まった。補習も一時間で切り上げて、下校。又、音羽美恵〔枝〕子と一緒に帰った。夕方、風呂をたき、馬屋の掃除。しばらくして稲刈を終えて、皆が帰って来た。楽しい夕食。今日、音羽藤一郎さんの家にテレビが入ったというので〔、〕見に行った。「湖の娘」という、いゝ放送劇を見て来た。
 朝の内は雨が降っていたので、こうもりを〔さ〕して、登校(自転車)。
 登校途中岩関の所で、おもちゃのピストルを拾った。付近の子供の物らしいが、帰りに持ってくるのを忘れてしまった。


 1961. 10. 7 土曜日 曇りのち晴れ
 朝、弱い雨が降っていて、コウモリ傘を〔さ〕して、自転車で登校。校門を上り校庭に出たころ調〔丁〕度、全国唱歌ラジオコンクール宮城県大会に出場する選手達が、出発するところであった。誰かわからぬが数人、私の姿を見つけて手を振っていくものがある。坂を下りていくバスを見ていたら、ふっと何とも言えない寂しさがこみ上げて来た。
 とに角、自転車小屋まで自転車を運び〔、〕教室に入った。そして、朝掃除、体操。授業になっても席についた人の数は少なく、何となく寂しい一日だった。一校時目数学は自習。二校時目英語も自習といっても、全然だめだった。私の態度は全然だめであった。昨日拾ったピストルで〔、〕いたずらをしていた。みんなも、日月ボールをするものもあれば、廊下に出ていくものもある。誠に成っていない自習であった。私は反省せねばなるまい。
 三校時目理科、塩素の実験。四校時目社会、瀬戸教諭。
 昼食。後、すぐ掃除。間もなく補習開始。
 一校時目理科(小林)、天体であったが、補習も出席者は10人程度、誠に寂しい授業であった。二校時目社会の地理、堀篭教頭。三校時目保健体育、この時間も全然成っていなかった。ピストルで遊び歩いて、めったに授業をしなかった。反省する。
 補習が終ってから、日月ボールをして遊んだ。組になってやり、一組はぼくと佐々木工君、もう一組は、千坂公夫君と佐藤喜巳男君。
 初めぼくの方でリードされていたが、だんだん追い込〔越〕され、又追いつめた。とうとう二組仲良く一万で引き分けとなった。
 下校した時は、もう暗くなっていた。千坂商店で、20円のカステラパン1つ食い〔、〕帰宅。すぐに風呂をたいて、馬屋掃除。父達はなかなか、帰らなかった。やがて楽しい夕食。
 夜、うっかりして〔、〕風呂にも入らず寝てしまった。

 今日で〔日記〕第五号も終りである、早いものだ。でも、 280日間の記録は貴重なものだ。これからもずっと続けよう。


 1961. 10.8 日曜日 晴れ
 朝、何も知らずに眠っていたら、突然母に起こされた。その時は、もう母達は、朝食を済ませて、稲刈りに出かけるところだっだ。母に起こされてあわてて起き出し、すぐに床をたたんで座敷を掃除し、庭をはいて、食事の用意した。それから、ラジオ体操をして〔、〕朝食を取った。午前は、少し勉強した。やがて、昼、妹達に昼食の用意をさせて〔、〕私は馬にえさをやった。間もなく父母が帰り、6人で昼食。兄と義姉は〔、〕北目に稲刈りに行っている。
 午後、本格的に数学を勉強した。夕方、まだ明るい内に風呂水を取りかえた。そして風呂をたき、馬にえさをやり、馬屋をきれいにして、父母の帰りを待った。小春と小秋は、待ち切れなくなって、飯を食って、音羽藤一郎さんの家にテレビを見に行った。母は間もなく帰ったが、父は仲々帰らない。心配になって自転車で迎えに行こうと思って走らせたら、電球が切れていて、つかなかった。その内〔、〕やっと父が帰って来た。やがて夕食。すぐ、新湯に入った。


 1961. 10.9 月曜日 晴れ
 今朝は早く起き、働き手達と一緒に御飯を食べた。途中で靖君と会い、合〔相〕乗りして学校。今日からは、我三班、一週間の当番休みである。
 三・四校時、技術の時間は〔、〕新しい製図版〔板〕、T定規、三角定規を使って製図をした。補講は美術、社会。
 今日は、父が一人で稲刈をした。とうとう〔、〕稲刈りも終ってしまった。
 今年は、7年続きの豊作、史上最高の出来だそうだが、家のものは出来が悪いといってこぼしている。雨に打たれ続けた稲穂は、もう発芽してしまったのである。そうとうの減収であるし、質の悪い米が出来るであろう。
 母は、百姓も嫌になるよといっている。


 1961. 10.10 火曜日 暴風雨
 朝から雨降りで、ラジオの予報通り台風が本土に上陸し、午後一時ごろ、宮城県地方は最悪状態となった。それでも雨の中をついて登校した。
 天気は、だんだん悪化し、四時間で授業を打ち切り、みな下校した。外は〔、〕強い風と雨がまじって嵐になっていた。コウモリは〔、〕さす事もできない程だった。一寸の間に〔、〕小川の水もいっぱいになっていた。
 靖君の家によって話して、午後一時ころ帰宅。それから勉強した。
 夕方には、すっかりいゝ天気になっていた。
 北目の義姉実家に、犬飼希典さんが来ているというので(当時九州)、会いに行くのに、山道を私と二人で行った。私も彼とは初めて会った。
 随分体格のいゝ人だ。それに、石川友義〔佐藤具嘉〕という人とも初めて会った。中学校の時見た様にも思うが。おいしそうなごちそうを食べて、ヘボ将期〔棋〕などを指〔差〕し、やがて寝た。兄は吉岡に、蛍光灯を買いに行き、僕のスタンドを直して来た。蛍光灯は、新型で30Wと15Wが一本の蛍光灯である。


 1961. 10.11 水曜日 晴れ
 朝〔、〕誰かの起きる気配に気がつき、眼を開く内に、義姉の実家に泊った事を思い出した。あわててとび起きた。気配のしたのは元兄であった。しばらくして〔、〕喬(中3)も起き出して来た。縁側の所に日月ボールを見つけたので〔、〕喬と始めた。結果は〔、〕私が敗けた。ぼく達が、日月ボールであまり熱心なので、兄と義姉は家に先に帰った。ぼく達も日月ボールをやめて〔、〕朝食を取った。そしてすぐ、山越しに二人で(喬と)家に帰った。希典さんは、まだ寝ていた。家に帰った時には、もう誰もいなかった。道具を整えて合〔相〕乗りして登校。今日も〔、〕四時間授業である。昨日と今日と、先生が半分づつ出張なのだ。


 1961. 10.12 木曜日 晴れ
 授業が終り、補習が終った。実は昨日相沢力に、こんな書文をやった。「本日午後一時〔、〕例の八幡神社に来られたし、話しあり」〔。〕ところが返書によると、どうしても家事情のため都合が悪いという。今日にしてくれという事だった。
 で、私は、無二の親友をさがして歩いた。が、いくらさがしても見つからない。実は私は、こんな事を話したかったのだ。私は彼に会ったら、気の遠くなる位、黙ってぶってもらいたかった。目がさめる様に、悪い夢から眼がさめる様に。今もその気は変わらなかった。川島節子をあきらめる事が出来たが、心のどこかには、まだ未練が残っている。それに、このごろは計画が全然進まず〔、〕計画倒れになっている。当時から、3ヵ月も経っていのに、未だ一冊も終えていない。なんたるざまだ。本当に目のさめる位〔、〕無二の親友の手でぶんなぐってもらいたかったのだが、彼は、どこにもいない。私は失望した。やけくそになって、そこに居た遠藤章をひっぱっていった。が、章には無二の親友としての価値がないばかりでなく、心もしっかりつながっていない事が解った。もし相沢力が私の無二の親友だったならば〔、〕私を打ってくれるだろう。それが真の友情である。
 遠藤章と〔、〕屋体で暗くなるまで話した。教室に帰った時、宿直の山田先生がまわって来た。そこで、今晩学校に泊りに来る事を認めてもらった。
 斉藤商店で〔、〕そば(かけそば)一杯三十円也を食った。〓〓君におも〔ご〕った。やがて、〓〓〓〓君が来た。そして、そこに驚くべき事実が起った。盗み〔万引き〕である。〓〓と〓〓が二人で〔、〕リンゴ、アイスクリーム等20円相当の盗み〔万引き〕を働いたのである。知っているのは、私と遠藤章と本人だけである。
 ぼく達がそばを食っている内に〔、〕彼達は上っていった。私と遠藤章は〔、〕後から自転車を引いていった。そうだ、〓〓も盗み〔万引き〕を働いた。私はできなかった。職員室には〔、〕彼達の盗品が並べられてあった。先生は、何もしらずにそれを食っている。私も〔、〕なにげないふりをよそおって食べた。しばらく雑談したが、先生に数学を指導してもらった。九時半から、プロボクスィング・ミドル級日本選手権をテレビで観戦。衛生室に就寝。


 1961. 10.13 金曜日 晴れ
 四時間目が終った時から、駅伝の選手がコース見学に出かけたので〔、〕組に男性はガラ空きになった。六時間目の英語このごろ、本田栄子先生、欠勤で、体操ソフトボールをした。帰る時、佐藤喜巳雄君と一緒に帰り、二人でカステラパンを食った。別所道で、音羽美恵〔枝〕子、音羽千恵子と一緒になって、ゆっくり、一緒に踏んで来た。


 1961. 10.14 土曜日 晴れ
 今年も研究発表会が迫っている。学校の共同研究を発表してくれと、笹川先生に再び頼まれた。私は、一央〔応〕は了承はしたものの〔、〕余り乗り気ではなかった。
 それが明日、仙台で模擬試験のある事に気付き〔、〕おじゃんになった。大会は明後日なのである。朝に、明日の旅費並試験代を〔、〕小林先生に届けた。明日は〔、〕がんばってこよう。仙台の奴達だって大した事ない。
 父に〔、〕久しぶりに散髪してもらった。


 1961. 10.15 日曜日 晴れ
 あゝ〔、〕うれしい。ぼくはうれしい。誰かに教えたい、この気持を。こんなにもうれしいものか。誰に教えようか、父、母、兄?それとも音羽?
 今日の模擬試験、夕食の後計算してみたら、 445点になった。初めて、点数が上った。しかも、80点近くも上ったのである。原因は、理数科・美術が良かった事である。国語79点、数学・理科供〔共〕に72点。社会が数学より悪いなんて人〔神〕武以来の事である、60点。美術が40点で音楽32、保体30、英語29、職業25。これで合計 445になる訳。理科、数学、美術、音楽が〔、〕これまで5回の内の最高点になっている。しかし〔、〕社会は最低点。
 でも 450近くとれた事は、確かな事実である。先ず一つの目的〔標〕に達した訳であるが、ここでひるんではならないのだ。直〔尚〕、倍の努力をしなくては。次の目的〔標〕は〔、〕480である。今度の試験は、私にある程度の自信を与えてくれた。
 午前七時二十分程前、登校。途中斉藤商店に寄った。私はショルダーバッグに本をつめこんでいったがみんな、いたって軽装なので、斉藤屋に頼んで、風呂敷に弁当と、筆記用具、問題集一冊を包んで、校門を上った。
 しばらくして、バスが倒〔到〕着し、それに44〜45人程乗車して仙台に向けて出発した。私は、行きも帰りも座席にありつけなかった。二高についてから、一寸して、すぐ室に入った。私は第二室で〔、〕受験番号258。私と一緒になったのは、靖君、高橋広志君、千葉哲司君、泉田一夫君、郷右近初雄君と計5人。私は、却って、試験場で他校の生徒と交〔混〕じってやると〔、〕勇気がわいてきて調子がいゝ。これは、いけるぞと思っていた。445点ばっかしでと〔、〕500点もとっている奴は、いって笑うかもしれない。でも、今に見ていろ。笑う奴は、反対に笑い返してやるから。
 仙台の生徒の印象は、全然なっていない、落ちつきがない。が、中には、いる、すごいのが。千葉哲司君の側に居た生徒、宮城野中とかいっていたが、あまり、家が裕福でないらしく、つぎのあたった古服を一人だけ着ていた。仙台一高を志望していた。あんな奴も居るんだなあ〔、〕と思った。本当に〔、〕頭の下〔が〕る思いがする。
 試験が終ってからすぐ帰校。食後、音羽藤一郎さん宅に、テレビを見に行った。音羽美恵〔枝〕子も来ていた。(青年の樹、雪暦一本刀)


 1961. 10.16 月曜日 晴れ
 今日から〔、〕残念ながら教室当番である。その第一日目から少々遅刻した。でも〔、〕真面目にした分であろう。みなに試験の結果を聞いたら、靖君は下〔が〕ったそうだ。試験が簡単なのではない。実際〔、〕試験はだんだんむずかしくなっているのだ。それに追いついて点数を上げていくには、倍の勉強をせねばならん。
 今日、門間惣一が研究発表会に参加した。


 1961. 10.17 火曜日 晴れ
 三・四校時、美術の時間は外で写生。私はどうも乗り気がせず、2時間目の中ごろから、奥羽の連山を鉛筆画で〔、〕間に合わせに書き始めた。
 帰宅途中、千坂商店でワンダーインキってやつを買った(green )。


 1961. 10.18 水曜日 晴れ
 夕方、帰宅途中、斉藤商店に立ちより、刃金等を買った。四校時目体操の時間、跳箱運動、千葉東君が足に釘をかけて、傷をつけた。跳箱運動は、私の得意なものである。英語の時間、本田栄子教諭が欠勤中なので〔、〕3年2組に合同した。その時、授業態度が良くなかったので、後で叱られた。保健室に呼び出されてどれ程しぼられるかと思っていたが、全然だった。却って正直をほめられた位で〔、〕変なあんばいだった。


 1961. 10.19 木曜日 晴れ
 昨日、母が砂金沢に泊ったので今朝は姉に、十月分の諸会費をもらっていった。それと〔、〕筆箱を買おうと思い 200円をもらっていったが、筆箱は買わなかった。
 放課後〔、〕2の1の教室で生徒会中央委員会。文化際〔祭〕についてだった。
 今年の文化際〔祭〕は〔、〕例年になく多彩である。まず、秋季遠足、弁論大会、割ぽう大会、マラソン大会〔、〕それに排籠球大会。特に割ぽう大会は今年から、陳列して点数をつける事にした。


 1961. 10.20 金曜日 曇りときどき雨
 朝、しぶい眼をこすって起き出し、皆と朝食を供〔共〕にし、登校。斉藤屋の所まで来ると〔、〕臨時バスが止〔停〕まっていた。私もしばらく、そこに止まって様子を見ていたが、やがて、やって来た、二年の門間惣一と供〔共〕に〔、〕校舎に上〔が〕っていった。職員室に行って、校旗と国旗の準備をした。校期〔旗〕いや、生徒会期〔旗〕の竹ざおをノコで切った。瀬戸先生に校旗を持ってもらい、やがて自転車隊は出発した。私は下に自転車をおいて来たので、一足先に下に降りて北目口に回ったが、先頭の3年男は、もうとうに、先をいっており、女子に交〔混〕じってしまったので急いでペダルを踏んで〔、〕下草のところでやっと追いついた。下草から、国道まで文屋政次に旗ざおをもってもらった。国道についてから、今度は、靖君に竹を渡して、私が一番先頭になった。やがて、十字路にさしかかり、私達は降りて皆が通り過ぎるのを待った。
 やがて会場の吉岡中学校についたころ、曇り空から、ポツポツと雨が降り出して来た。〔大和町内小中学校体育祭の〕開会式が始まった時には、大粒の雨がふり出した。皆、寒さにふるえながら、コンディションの悪いグラウンドを、行進した。そして、二、三種の演技が終ったころ、ついに中止になった。すぐ、自転車隊と、バス隊に別れて、帰る事になった。
 さて、ぼく達は、自転車のおいてある小学校校庭に行き、先ず足を洗い、ズボンを取りかえた。すると早川君の自転車の鍵が開かない。川嶋勝男の自転車がかえられたというので、本田章子先生に相談に行った。で、川嶋は、そのまま乗って帰る事にし、早川のは、石で無理矢理に開けて帰った。三浦のところまで来た時止〔停〕まって、賞品の荷物を川嶋勝男に頼んで〔、〕私と佐藤龍美は、吉岡劇場に映画に行った。
 「社長道中記」と「おれは死なないぜ」の二本。その途中、食事をすませて、下館。それから、私は、米城薬局に、ニキビ治療薬を買いに行ったが、どうにも気が退けて、買う事が出来なかった。佐藤巌叔父の店で20円也。家に帰ってから〔、〕美術の試験はん囲をききに、音羽美恵〔枝〕子の家に行った。音羽武彦が居り、音羽一郎も来た。
 明日は中間考査である。風呂に入って〔、〕裸のまま床に入ったら、寝てしまった。


 1961. 10.21 土曜日 曇り
 ふっと目がさめたのが、夜中の零時半。しめたまだ時間があるぞと思って、安心して、又寝てしまった。次に目をさましたのが五時半。あわてて起き出して、20分程本に目を通して、七時早くも登校。学校でも試験気分になりきれず、ぼやっとしていた。一時間目社会、80。二、美術、70。三、英語70。計 220。
 試験終了後、弁当を持参しなかったので〔、〕みなの昼食を見ていた。それから掃除。
 掃除後、職員室で生徒会の仕事。文化祭のガリ切りと印刷である。
 やがて、下校。千坂商店で筆入れ50円と、腹が減ったので、パン20円。
 家では、母が障〔子〕紙はりをしていた。父、兄、義姉は、ヌカ小屋を作っている。こんどは、りっぱで〔、〕わらよりは永久的である。杉皮である。
 私は勉強。豊彦、智(小2)、友子が来たので遊んだ。

 私の、二人目の女性として、音羽美恵〔枝〕子が浮かび出て来た。そして私は、彼女をどうやら好きになれた様である。前といちじるしく違う点は、前は一人〔ひとり〕でに好きになったのに、今度は、失敗の寂しさから、逃げようとして、好きになるために努力した事である。彼女は、川島程の美人ではない。でも、私には、むしろ川島よりも美しく写〔映〕るのである。彼女は、申し分がない。欠点というのか、そんなものは、もう少し、女子らしく、といって、今男の様ではないのだが、なにか、最、女らしくなってもらいたい事だ。それと、もう少し勉強してほしい事。でも、彼女は頭はいゝ。しかし、考えなくてはならない事実が一つある。それは郷右近初雄君である。彼とは、親友であるし〔、〕バスケットボールクラブの同りょうである。その彼が、どうやら、彼女を好きなのだ。ぼくのために彼を、苦しみのどん底に押しやるのは、かわいそうだ。一体どうすればいゝのか、それともう一つ、ぼくは、川島忘れ切れないでいる。すっかり忘れてしまう事は、およふ不可能とみられる。このごろ、彼女の私への視線が多すぎる。この何ヵ月かは、ほとんど無干渉で、二人は進んで来たのに、又元にもどりそうだ。私の心にある二人は、5分と5分である。だから、どちらへも愛の告白はできないのだ。


 1961. 10.22 日曜日 曇り
 午前中に、大崎に、絵具、絵筆、鉛筆、セロテープを買いに行った。それから、蛍光灯スタンドのコードが短か過ぎるので、電燈線を切り足した。やがて、昼食。
 午後、中米長蔵宅に〔、〕日本シリーズをテレビで見に行った。4回まで見て帰った。試合は6:0で南海が勝ったそうだ。それから、机に向って夜まで試験勉強。夜は、寝ちゃった


 1961. 10.23 月曜日 曇り
 朝、六時に目をさまして、あわてて、床の中で勉強。朝食、便所、ノートを見ながら、登校〔、〕コウモリをさして。学校につくとすぐ〔、〕当番、そして自習。一時間目、理科、85。二、保体、70。三、国、90。計 245。一昨日と合わせて 465。 昼食、小林先生は居ない。昼食後、弁論の選手を決めた。私と、靖君と、文屋みよ子さん。私は、どうしたらよいかまだ解らない。それからすぐ当番。私は、今日より職員室。当番が終ると〔、〕すぐ下校した。音羽美恵〔枝〕子の家に寄って、ギターをいたずらした。でも、ドレミファの音階とハ長の曲を引〔弾〕ける様になった。途中、大和教の教祖というのが来ておがんでいった。本当に馬鹿らしい事だ。
 夕方、何もせず、夕食。食後床に入って、修兄に四ヵ月ぶりに手紙を書いた。会社をかえた事に対する批判、高校入試、屋根の事、河北ファミリアーランドの事等。
 今度の試験は〔、〕なんだか試験の気がしない。中間考査なんて〔、〕じゃまになって仕方ない。これは、授業をしっかりやらない証拠だ。授業をしっかり受けよう。明日300 点をとっても、 765〔に〕しかならない。この上は、 100点を一つでも多く取ろう。


  1961. 10.24 火曜日 晴れ
 今日の試験、数学90、職業70、音楽30、計 190。総計 465+190 で 655。神武以来の点数である。音楽30点というのは、全くひどい。しかし〔、〕無理もない事なのだ。この考査、真面目に一〔応〕応勉強したのは理科一科目。残りは〔、〕どうにでもなれといったものだ。すぐグウグウ寝てしまった。おれは、後悔しないぞ。どうせ、自分犯したあやまちだ。今さら悔いても、何の役にもたたぬ。それよりか、明日からの授業に精を出そう。


 1961. 10.25 水曜日 晴れ
 朝、母から 300円をもらった。それは遠足の代金である。今年の遠足の、行き先は、山形県、山形市の山寺。それに本県の大蔵〔倉〕ダム、その他である。
 小学校修学旅行の時のコースの一部であるので、山寺には一度行った事がある。でも、もう一ぺん行ってみるのも良い様に思う。
 学校に行って、 300円を会計に納め、掃除。 授業終了の後、今日は、大掃除。ぼくらは、校庭の掃除だった。


 1961. 10.26 木曜日 晴れ
 今日、問題の学力テストが実施された。このテストをめぐって、今まで、日教組・文部省・教委会の間で、もまれて来たが。日教組の反対を押し切って、今日決行されたので、どちらのいゝ分にも、理屈は通っている。が〔、〕教育という事に対して何かが欠けている。
 問題は、いたって、簡単。国・数・社・理・英の五科目が実施された。 450位取れたと思う。放課後、球技大会の選手を決定した。


 1961. 10.27 金曜日 雨
 昨日行われた、学力テストの採点のため、先生2〜5名出張のため、4時間で普通授業を打ち切り、午後一時30分より、学級対抗校内篭・排球大会の予選。外は雨天のため、バレーボールは中止。バスケットボールの予選、男女計8試合を行った。我3の2は、男女供〔共〕、2の1との対戦。軽く負かした。優勝候補のNo.1と見る。私と、相沢力、高橋定夫、遠藤章、郷右近初雄、遠藤信喜等、元篭球部の面々が審判をつとめた。女子は、千坂志津子、宮沢文江〔枝〕。
 試合が終ってから、明日になった英作文コンクールの練習である。さすがに、つかれたので、注意だけして終った。
 帰る時〔、〕校庭で津田晃哉君と出会った。で、今晩、学校に泊る事を約束した。彼も私の家に行ってみる事になり〔、〕家に自転車を踏み始めたころ、雨が降り出した。家に着いた時は、かなり激しい雨になっていた。
 大急ぎで飯を食い、軍資金を 500円もらって、小降りになったところで出発。斉藤屋についたら、2年の、佐藤陸〔睦〕郎、中米寿夫〔寿男〕、中米新吾も泊りに来ていた。ぼく達が先に御菓〔子〕を50円買って、学校に上〔が〕っていった。学校には誰も居らん。玄関に回って、玄関の戸を開いたら、笹川先生が出て来た。彼がいうには、来客のため、すまんが遠りょしてくれという事だった。学校に泊りに来て断られたのは、初めてである。来客とは誰であろう?
 仕方がないので〔、〕ぼく達5人は、公民館に泊る事にした。そこに備えてあるゴザを上にかけて、津田君の毛布一枚で寝た。が、私と、佐藤はどうしても眠れないので〔、〕話をしていた
 夜中の十一時起き出して、駐在所の後の大工さんの家に行って〔、〕テレビを見せてもらった。力道山や遠藤幸吉、豊登と外人(米)選手3人の対戦だ。全く、外人の選手は猛獣としか思われない。
 今日は、 300日目。今年もあと65日で終りである。早いものだ。そして、あと5ヵ月で卒業である。


 1961. 10.28 土曜日 雨
 朝、五時起床して、一夜の宿である公民館を出て〔、〕家に帰った。家では小学校の妹達が遠足だというのと〔、〕私の〔郡英作文〕コンクールのため寿司を作っていてくれた。
 さて、その寿司を持って勇ぎよ〔潔〕く家を出発した。
 学校で3時間授業を受けただけで、一時間残して職員室に4名集まった。私と千坂志津子(英作文)、一年の千坂俊衛、馬場都〔郁〕子(英習字)である。職員室で、丹治教諭の注意をうけながら、早い昼食。
 学校のコウモリを借りて、雨と風の中をしびきまで歩いた。やがてバスが表〔現〕われて、乗車。終点〔吉岡〕下車。明星中の〔、〕篭球で顔なじみの生徒も乗っていた。時間は1時間30分。和文英訳は、いたって短かく、修学旅行について。眠るや、悪い等の単語が解らないので苦労した。
 自由課題は、 My Home room Teacher で、多分、うまく出来たと思う。大部長い。
 私達は、先生と別個にすぐに帰った。学校についた時は、もう暗かった。
 校内球技大会の篭球は、男女とも我クラス3の1が優勝したそうだ。全く、芽出たい事だ。


 1961. 10.29 日曜日 晴れ
 昨日、帰る時に、私の机の上に、「沢田諭君、あす学校に来い。TS・YS・KOより」とかかれた、紙きれが置いてあったので、約束通り学校に行った。
 TSとはTatsumi Sato、YSはYoshioki Setsu、KOはKiyo[o] Ojima の事である。
 校門の所で佐藤龍美と会って、二人で、上に登った。
 今日の目的は新聞の作成である。名称は、私の提案で、「七峰タイムス」と変える事にした。
 私は、まず記事を募集する、ポスターを書いた。うすく、七ツ森を書き、その上に、「七峰タイムス」という字を立体的に構成した。
 日直の平先生から労をねぎらわれて〔、〕御菓子が二皿出た。でも〔、〕全然その作り方がなっていない。根本からやり直しである。下書きも何もしないで、原紙を切ろうとするからあきれる。よし、ぼく一人でもやってみせるぞ。
 学校にいる内は、生徒会の仕事。家では、自分勉強だ。七峰タイムスがんばれ。で、今度は新聞の下書き用の原喬〔稿〕用紙を〔、〕原紙の箱〔枡目〕と同じに切った。これに、すっかり、字数も決めて書いてみて、後は、それを原紙に写せば完全な訳である。
 やがて、富田テイ子と川島が来た。彼達はすぐ屋体に行った。昼食は、富田にパンを持って来させた。ぼくの分は、石川が払ってくれた。
 やがて、相沢力と高橋定夫君が来たが、彼達はすぐ床屋に行った。
 やがて、テレビで、プロ野球日本シリーズが始まった。そこで、ぼくと龍美が中華そばを一ぱいかけた。ぼくが巨人、龍美が南海である。
 しかし試合は南海が一点先攻〔行〕したが、2回の裏巨人は、宮本の殊勲打で2点と逆点〔転〕した。だが9回の表南海は、広瀬のホームランで3:2とリードした。がその裏巨人は、又もや宮本の一打で逆転し〔、〕4:3で勝った。これで巨人の3勝一敗になった。龍美からそば一ぱいとれるぞ!
 昨日のコンクールでの私の成積〔績〕は〔、〕二位だそうだ。団体でも鶴中二位。英習字、馬場郁子四位。職員室の黒板に書いてあった。
 早く七峰タイムス第二号を完成させなくては。


 1961. 10.30 月曜日 晴れ
 朝掃除をしている内に駅伝の選手は出発した。みんな余裕たっぷりだったが。
 五校時目、保健は、屋体でバレーボールだそうだ。その時駅伝の選手が帰って来た。一位は落合中なそうだ、全く……… 放課後〔、〕篭球を二年一年と一緒にやった。


 1961. 10.31 火曜日 晴れ
 四時間目美術は体育。が私は、教室で勉強していた。窓からKSの姿が見える。私はそれを見ながら勉強した。
 私の好きな人はやっぱりKS。何年たっても何十年たってもSK。愛しいSKよ。どうか私の気持を解ってくれ。
 ぼくにとって君は唯一の光だ。それにしても君にのぞむ事は、あんまりだ落しないでくれという事だ。そしてたまには、あゝ愛しいSKよ!


1961年11月(15歳・中3)

 1961. 11.1 水曜日 晴れ
 あゝ〔、〕まったく情無い。情無い親を持ったものだ。こんな親をもって、こんな親のいう通りになっていたら、はたして偉人になれるだろうか。
 親は、金の事をいうと、キラリと眼を光らせる。全く意地きたない事だ。今日もそうだ。私が20円のカステラパンを買ったといったら、眼をむき出しておこっている母なのだ。全く、自分の子供と、金とどちらがかわいゝのか。私は思い余って、「そんなに金がかわいゝのなら,子供のかわりに毎日抱いていろ」といってやった。本当に情無い。
 ぼくは、きっとこんな親の世話にならないぞ。明日の遠足だっていってやらない。親からは〔、〕絶対に金なんかもらわないぞ。兄さんにだって。金は誰かに借りて払うさ。もう一銭も親にはねだらないぞ。何か、仕事があれば本気になってする。
 そうだ、こんな時は修兄に手紙を書こう。力になってくれるだろう。
 勉強しよう。先生にも相談しよう。
 今晩の宿直は誰かな、小林先生ならいゝがな、瀬戸先生でも。


 1961. 11.2 木曜日 快晴
 昨日は、あれから、夕食後、学校の先生に小林先生が居られる事を望んで、相談に出かけた。誰にも打ち明けることの出来ない寂しさを、この怒りを先生にぶちまけたかった。先生なら解ってくれるだろうと思って。
 が〔、〕安〔案〕の定、先生は居なかった。私には〔、〕もうどうしていゝか解らなかった。家にも帰りたくなかったし、で、津田晃哉と二人で学校に泊った。宿直は、伊藤太郎教諭だったが、佐藤校長、堀ごめ教頭、千葉事務官の4人で酒乱していた。そのすきをうかがって、ぼく達は、宿直室に入り込み、暗幕と電気コタツを盗み出して、音楽室に陣取った。夜、伊藤教諭が見回りに来た時は〔、〕ヒヤヒヤした。スリルは満点を越した。
 今朝は五時に起床し〔、〕てすぐ家に帰り朝食。私は、最初から〔、〕遠足に不参加する気持でいた。母は、しきりに参加させようとしたが、私は行かなかった。やがて、静枝は、六時半に家を出た。出発の予定は七時であったので、私は七時十分ころ、かばんを持って自転車を踏み始めた。
 が、学校についた時にも、まだ出発していなかった。私は、小林先生に〔、〕一応不参加する事を報告した。やがて、七時三十分〔、〕予定より30分程遅れて、バスは発車して行った。その時の私の心境は〔、〕本当に「空しさ」だった。
 不参加の生徒は、合計で5〜6人居た。で〔、〕彼達とキャッチボール等をしていたら、千葉隆がやって来た。彼は乗り遅れたのだ。しばらくキャッチボールをしていたが〔、〕全然つまらない。それで〔、〕私と千葉は、松島に行く事にした。斉藤屋でかんづめを一個買って、8時10分出発した。松島についたのは、9時20分ころ。まず、諸車通行止の福浦橋を自転車で渡って、自転車は、私は小島君、千葉は薛のに乗った。
 福浦島を一周してから、松島動物園一人30円〔、〕に入った。そこで、おでん2個10円。11時ごろ、ボートを時間の制限無しで、百円で借りた。私は、ボートは生れて初めてこいだ。で、最初の内は全然進まなかった、がだんだんうまくなった。十二時ころ、毘沙前島という島の一つに上陸して〔、〕昼食をした。それから、ずーっと福浦島の北を通って橋をくぐり抜けて、パークホテルの所の船着きについた。でも、おりても何の楽しみもないので、その辺をぶらぶらしていた。
 その内〔、〕隆は眠ってしまった。私は〔、〕一人でその辺をこいでいた。が、と、桂島まで行ってみたくなった。桂島は〔、〕小学三年の時っていうから〔、〕今から約六年前遠足に行った島である。松島とは大部離れている。とても〔、〕こぎボートでいく距離ではないのである。が、そこを強いていく所に面白味があるとういうものである。調〔丁〕度半分ころまで来た時〔、〕隆が眼をさまして、桂島まで行くと聞いてびっくりしていた。一時余もかかって、やっと桂島にいた。これで〔、〕ここの土地を踏むのは二度目である。島の様子は〔、〕そんなに変っても居〔い〕なかった。東側の海水浴場は〔、〕波がすごく荒かった。すぐ西の方に、ヨ〔代〕ヶ崎の火力発電所が見える。
 そこで、幾種かの貝を拾い、20分程居て船にもどった。あの砂浜には、小屋はあったけれども〔、〕売店の中には何もなかった。防波ていか何かの工事が行われていた。そこを出発したのが、3時33分30秒。それから、調〔丁〕度1時間5分、すなわち、4時38分30秒に〔、〕松島の陸に上った。まず〔、〕近くの松島食堂という所で腹ごしらえをした。そこで〔、〕今年の卒業生の千葉〔文屋〕誠君の兄さんという人にあった。
 それから、死にもの狂いに朝来た道を踏んで、大平下についたころ、真暗い中を遠足に行った者が帰って来たのと会ったので〔、〕直〔尚〕足に力を入れた。小島君と薛君は〔、〕斉藤屋に居た。そこで〔、〕深くわびて自転車を返した。本当にすまなかった。そこで、薛に百円、遠藤章と遠藤信喜に15円づつ借金した。千葉隆にも随分借りているだろう。金を払ったのは〔、〕全部彼である。ボート代の半分50円、おでん10円、そば50円、動物園30円の内70円しか払わないんだから。計算によると50円程借りている事になる。いづ〔ず〕れ返さねば。


 1961. 11.3 金曜日 曇り
 起床は、午前十時近く。朝食は塩のにぎり飯、それを食って〔、〕こたつをかけた。すぐ昼になった。カボチャが出た。午後は、勉強した。夕方、馬にえさをやっただけ。家では〔、〕今日〔米を〕供出した。二等米が7俵できたそうだ。予想したよりいゝよ〔、〕と苦笑いしていた。
 夕食。又、母と兄と口論した。全く、物解りの悪い人達だ。
 風呂に入ってから勉強した。これから明日〔?〕の弁論大会の原稿を書く。題は「一人の人間として」。今の私の気持にぴったりの題名である。


 1961. 11.4 土曜日 曇り
 昨日文化の日で休みなので〔、〕今日は月曜日の様な気がした。自転車で登校。途中靖君の家の所から〔、〕彼と相乗りしていった。
 当番は校庭。やがて、朝の体操、授業。授業は四校時、掃除、やがて補習。補習の途中、1の3の教室で〔、〕生徒会主催の弁論会の拾〔打〕ち合せがあった。
 三校時の補習を終えて〔、〕すぐに下校。帰宅後風呂をたき、馬屋の掃除。
 今朝、登校途中音羽美恵〔枝〕子と会った。が〔、〕私はさける用〔よう〕にして彼女の側を通り過ぎた。一度はあんなに好きになった彼女だが、今は………
 むしろ嫌いになったというのは、顔を合わせるのが嫌なので。今私のハートは、全て 100%川島節子に注がれている。何度かあきらめようとした女である。そのためにありもしない罪をなすりつけて〔、〕忘れようとした。でもやっぱり、最初に好きになった人が一番いゝのだ。何も破滅する事はない。月とスッポン、泥と雲の差である。9分9厘までは成功しないのだ、が後一厘残っている、もしかしてその一厘が………
 とにかく、自分で破滅に、わざと破滅に落し入〔陥〕れる様な必要は全くないのだ。誰よりも何よりも〔、〕その事は自分の心が一番よく知っているのだ。おおいに青年の時代を楽しもうではないか。
 顔をあわせると〔、〕苦い顔をしてすぐ逃げてしまう。そのくせ、居なくなるとなんとも寂しくなる、そんな自分なのだ。
 今日も〔、〕川島節子は3校時目で早退した。四校時目の授業、彼女一人だけ居なくなったのに、10人も居なくなった様な気がしてとても寂しく、授業に身が入らなかった。
 そんな自分であるから、自分は自分のあやまちをはっきり認め、これからの彼女に対する態度を変えなくては。
 今までの様な態度では、かえって不潔である。もっと明るく、1:1で交際しよう。ぼくは、彼女を1としたら、ぼくは1まで屈〔届〕かないものとしていたから、あんな事になったんだ。
 これからは、1:1だ。いくぜ!


 1961. 11.5 日曜日 晴れ
 今日はサンデー・日曜日。朝はゆっくり寝た。何よりも〔、〕少しでも寝る事である。朝食が終ると父、母、兄、義姉〔、〕それに小秋と小春の六人は、田んぼに稲上げに出かけた。みんなで馬車に乗って〔、〕出発である。私と静枝は〔、〕留守居である。静枝は勉強していた。私は最初・2日の日にに桂島で取って来た貝がらを、すっかり洗って砂をおろした。それが終って〔、〕ごろごろしていた。
 やがて午後、今度は私が本気になって勉強した。静枝はどこかに行った。
 午後は、父母兄姉たちは脱こくであるので、小秋と小春もどこかに遊びに行っていない。夕方、風呂の水を取りかえて新湯にした。


 1961. 11.6 月曜日 晴れ
 学校へ行くと供〔共〕に〔、〕一昨日の態度を行動に移した。成功した。なんだか、学級内での生活が変わった様だ。皆と同じ様に明るく話す事が出来た。彼女の所を時々見た。一度、こっちを向いている彼女と視線がしっかりとあった。ぞっとする様だが〔、〕そんな時がぼくには一番うれしい。
 今日の授業は、一時間。後、公園で排球大会。ぼく達の組の男子は〔、〕準決勝まで二試合相手チーム危〔棄〕けんのため不戦勝。決勝で3の1に敗る。女子は予選通過。その後、後はいに篭球を指導した。


 1961. 11.7 火曜日 晴れ
 朝、眼をさましてから、あわてて、今日の弁論の原喬〔稿〕を書いた。「一人の人間として」という題。話は、まず、人間の生命という事から入り、その生命の証明する生という事についてその意味を検討し、それから人間社会の構造、その移り変わり〔、〕そして自分のなすべき事、やがて結論。
 この中に〔、〕名句がずい分生れた。その一つ、「人生は短い。だが人類の一生は長い。」「とに角、死ぬまで生きなければならない」etc.
 この原喬〔稿〕を読むのに〔、〕八分30秒かかったそうだ。 が審査の結果は〔、〕以〔意〕外だった。優勝賞3人は石川八重子、佐藤睦郎(2)、大宮司慎一(1)。優良賞五名小島清夫、千葉裕子、須藤けい子(2)、千葉彰(1)。全く、不公平である。私は、私の演説には自信が持てる。今までに〔、〕これ程無念な思いをした事はない。全く………
 午前で弁論会を終り、午後映画会。「海を渡る愛情」etc.


 1961. 11.8 水曜日 晴れ
 朝登校して、門を上〔が〕った時から彼女に出会った。彼女は校庭を掃除しに出て来る所だった。とに角、我まんをして、自転車小屋に自転車を入れて来た。
 そして、教室に入った。掃除は休みである。やがて、朝の体操。
 一時間目、日直が解らないので〔、〕変〔代〕わってとりに行った。が〔、〕すぐ後から日直が来たので、それを渡した。が、ぼくと靖君は〔、〕そこで以〔意〕外な事を先生から聞かされた。二年生のある生徒、それも二人の生徒である、上着をがけの所においておいたら、いつのまにやら見えなくなって、さがしてまわったところ、3の1のクラスのある生徒(〓〓)の腰掛けの上にあったのだそうだ。それだけならまだよいが、ポケットの中の金銭類がきれいになくなっていたそうだ。〓〓君の机の上にあったから〓〓君を疑うのは〔、〕最も良くない事である。とに角〔、〕私達はそのそうさの手助けを頼まれた。で、まず、2年2組時代に、2〜3この様な事があったので、元の組の生徒の中からしぼって見る事にした。私も2の2だったが。
 四時間目、体育の時間ぼく達は屋体に入っていたが、山田先生があんまり来ないので、私が迎えに行ったら、のこのこ出て来た。何をするのかといったら、何だ解らんのかといって、どなられた。調〔丁〕度玄関に一年の点数表がはられたので、ますますやられた。で、教室に集合させられて、頭を全員一つづつやられた。ねぼけているくせに、自分の非をたなに上げて〔、〕と思う。
 放課後、屋体に行ったら、彼女が平均台を練習していた。補習にも来なかった。補習が終った時は真暗。帰宅後、すぐ夕食、勉強、入浴、そして今勉強。今晩はがんばるぞ。

 ※勉強法について。計画によれば、もうすでに七教科の復習を終えなければならないわけであるが、実際は全然〔、〕まだ一教科も終らぬ。このざまはなんであろうか。全て意思の弱い所に原因がある。で〔、〕考えなければならぬ。今まで進んだのは〔、〕数学40ページ、美術40ページ程度、これだけ。で〔、〕数学だが、今度から数学にあまり重きをおかない事。あの問題を全部していたのでは〔、〕きりがない。それで〔、〕簡単なのはぬかしてもよかろう。どうにもしょうがない。で〔、〕12月31日までに全部を終ろう。それからは〔、〕問題集一点ばりである。計画の立て直しをしよう。いや計画等はいらん。とに角〔、〕理解する事だ。

 今日は十一月の八日、今月の残り22日と来月の31日足して53日。今年はこれで終りである、鳴〔泣〕いてもわめいても。53÷7=7…4で、7週間と四日。それまで全教科を決めるとなれば〔、〕大変である。
 とに角〔、〕一度全部を終る事である。それから、局部に入る。そして〔、〕問題集と。もう〔、〕寝る時間も飯を食う時間も惜しんで勉強しなくては………

 ※それともう一つ、川島節子ジョウ。本当に〔、〕寝ても起きても考えるのはその事だけである
。今でも〔、〕早く明日学校に行って〔、〕あの美顔を拝みたいのだ。
 とに角〔、〕最高に好きだ。が〔、〕相手は好きの「す」の字も言った事はないが、もう私の気持を解っていてくれると思う。
 相沢力と今日は一日中、うで組みをして歩いた。彼も相当、馬場いく子という女性を愛している。ぼくと同じ位に。彼はいゝ奴である。もし彼が女だったら、私は彼に惣〔惚〕れたろう。

 ※今日、第二学期の中間テストの順位が玄関に張り出された。私は五位だった。初めて一位の座からすべり落ちた、初めて。 701点という点数も〔、〕神武以来である。川島は私の次の次だ、7位である。一位は千坂志津子、 734。2位小島君、733 。三位藤倉靖君、4石川。でも、一番は 734しかとっていない、情ない。3年生が最も悪い。ても〔、〕ぼくよりもよい点をとった人達は〔、〕油断するなよ。ぼくに追い越されるなよ。でも〔、〕今考えると〔、〕音楽の36点馬鹿らしかったな。音楽を70とれば、 745であっさり一位なのに、いや60とっても735で一位になれるのにな。あゝ〔、〕早く明日学校へ行きたい。彼女と会うために。私はそれ程彼女を愛している。自分の形相の事も忘れて。


 1961. 11.9 木曜日 晴れ
 実際のところ、私は、少々失望して帰って来た。朝は特別早く登校した。クラスでも来ているものは少なかった。8時20分の朝掃除まで何とはなしに、歩いてみた。玄関には、例の点数表がはられている、もう平気である。
 掃除は休みなので、しない。やがて朝の体操。ハダシで校庭に出て、申し分け〔訳〕の体操を行った。そして授業。放課後、保健体育の補習は山田先生、試験。英語は、本田栄子先生。
 補習の始まる前に相沢力と、一緒に屋体にバスケット部の奴達の様子を見に行った。でも〔、〕もう誰も居なかった。一年生が二・三人居た。
 そこに〔、〕アイツも平均台の練習をしていた。私は何だか、どうしてか自分がみじめになって、その場に居られなくなり、こそこそと外を回って逃げ帰ってきた。相沢にも黙って来たのである。相沢が、おこっていたっけ。でもとうしようもなかった。


 1961. 11.10 金曜日 晴れ
 朝ずるずると〔、〕七時三十分ころまで寝ていた。でも〔、〕起きて朝食をすませて八時、登校したのが八時十分で遅刻寸前。斉藤屋に自転車を置いて、坂を上〔が〕った。
 一校時目は道徳。例の金と服の紛失事件がそれとなく先生から話されて、紙を一枚ずつ渡して心当りのものは、無記名でその事を書くというのだ。私は知らんと三字書いた。それから、明日の料理について引き続き打ち合わせがあった。で、料理は班に分けて行う事になった。私は第一班。
 持参物等、詳細は、時間がないので五校時目の国語の自習時間に決めた。米三合、じゃがいも2ヶ、すみ一本、まき一本、まないた一、卵一、食油茶のみわんに一ぱい、食器類等々。会費は、修学旅行の残金があるとかなそうで、出さんともいゝ事になった。
 授業六時間を終えて、当番の時間は、屋体に居た相沢力、薛義興、藤倉靖、高橋定夫達とバレーボールをした。補習一校時目の職業は〔、〕笹川先生不在のため自習。テレビを見ていた。二校時目伊藤先生の理科、熱量。補習が終ったら、定夫君が本田章子先生が屋体で呼んでいるというので〔、〕行ってみるといなかった。で〔、〕今度は職員室に行ったら、テストの印刷物を数枚下さった。明日まで書いて来いという事だった。今度の〔音楽の〕試験の事を〔、〕まだ気にしてくれているらしいのだ。有難い事である。がん張らなくては。
 それから、靖君と宿直室でテレビを見ていたら〔、〕アイツと門間あや子が服をとりかえに来たので宿直室を出て教室に行き、かばんをもちだして教室を出た。
 斉藤屋のところから自転車を出して〔、〕靖君と二人乗り。暗い中を〔、〕わざと電燈をつけずに帰った。家に帰って、夕食、入浴、そして今、これから音楽と理科を勉強。おれの明日からの生活、最〔もっと〕手綱を引きしめなくっては、あらゆる面で。休み時間、昼休み、空き時間にブラブラしてるなんてもったいない話だ。
 女友達の事だって、今はそんな事あんまり考えない方がいゝんだ。どうせ〔、〕なる様にしかならないんだからな。
 今朝、兄は早朝、筑館町のダム工事に出かせぎに行った。音羽圧〔充〕男さん、中米イナ〔胞えな〕五郎さんと三人だ。民家に泊るそうである。
 音楽の時間に〔、〕横田からピストルのアクセサリーをもらった。横田清君である。
 明日はマラソン大会である。生徒会の文化際〔祭〕最後の行事である。そして中学生活最後の。 嫌〔いや〕、もう一生の内にマラソンなどというものは2度と再びしないかもしれないのだ。一つ、全力をつくして〔、〕体力のつきるまで走ってみよう。自分のために本気になって倒れるまで走ったのなら〔、〕何位であろうとそれ〔は〕ほんもうだろうと思う。


 1961. 11.11 土曜日 曇り
 七時四十分〔、〕やっと起き出した。昨夜遅かったので〔、〕とても疲れた。さて、とに角、朝食を食った。その間、母と義姉に今日の割ポウの材料を用意してもらった。で服をとりかえて登校。途中、坂で沼田テイ〔てい〕子と会ったので〔、〕それを頼んでやった。それから〔、〕ぼくらは作業にかかった。3の1の男子は〔、〕温床作りである。校舎の土手の真中の段、調〔丁〕度二の三・元の応接室の前である。
 大部傾斜していた土手を〔、〕直角に切り下ろす仕事だ。三田村先生も交じってやった。途中、アリの巣を見つけたので〔、〕作業はそっちのけで、いたずらしていた。女子はその間料理の準備を始め〔、〕香りをただよわせていた。
 やがて十時、マラソンがスタートを切った。中学生活最後のマラソンである。走距離は7km余。出発する時には誰かの小さいズックを、かが〔か〕とを押しつぶしてはいていたが〔、〕すぐ脱ぎ捨ててしまった。
 一生懸命走った、が、どうやらマラソン等というものはぼくの体に合わんらしい。道路にしかれたじゃりのため、足の肉はちぎれそうだった。で、自然歩幅もせまくなるのである。苦闘に次ぐ苦闘の連続であった。
 県道に出たころから、ずっと遠藤信喜と一緒に来た。でも決してふざけなかった。真面目に走った。シビキの所に相沢力が立っていた。 120位位だといっていたが、それでもがんばった。学校が近くなったら〔、〕急に力がわいて来た。
 で結局95位。 150人位走ったろうか。でも随分後の方である。教室に入って〔、〕ズボンをはいて服を着てから、すぐ割ポウの陣列だなを〔、〕生徒会中央委員で作り始めた。家庭用の机をコの字にならべ、その中に一つ机を置き〔、〕ブルーの幕をゆるくかけた。真中の机には図工用の果物かご、花びんを置いた。やがて〔、〕各クラスから8つの料理が運ばれて来た。ぼく達のクラスはカレー、3の2はいなり寿司だ。
 それから〔、〕外で閉会式があった。一位は中居、大会新。二位中米、三位曽根、四位薛義興、五位千葉東。
 やがて会食。三田村先生も来た。カレーは、女性には悪いが、そんなに………
 食事が終わり〔、〕食器を洗ってHR。そして〔、〕一応解散。女子は〔、〕それから後片付けである。私は机を整えてから〔、〕靖君と合〔相〕乗りして下校した。
 家に帰って、小春に布団をかけてもらってすぐ寝た。それから、ぐっと眠って、夕方、暗くなってから眼をさました。で、起き出して風呂たき、外は小雨だった。風呂をたき終ったころ〔、〕馬車に稲をつんで父母が帰って来た。それを下ろして、まず夕食。食後勉強している、今12時40分、もう11日の分ではない。今まで最初、英語を勉強して、入浴それから、すこし工作した。
 というのは、鉛筆でコケシを作って、その心〔芯〕を抜いて、そこにこんな事を書いた紙きれを入れたのである。「I love Setsuko Kawashima. Though I am no beautiful boy. Oh, Got[d]! 36.11.11. S&K 」と。それから、それでも足りなくて、今度は横田君にもらったピストルの中にも〔、〕こんな事を書いた紙きれをいれた。「I love Setsuko Kawashima. Though I am no beautiful boy. Oh, Got[d]! 36.11.11. S&K 」と。

 でも〔、〕このこけしどこか、彼女に似ている様に思う。大事にしよう。
 コケシと、ピストルを鎖でつないだ。これをはだ身離さず持っていよう。で、これを見てアイツを思い出して〔、〕勇気を出して毎晩がんばるんだ。

 帰る時、中間考査と九日の模擬試験の点数表をもらって来た。
 知っての通り〔、〕中間は彼女は七位に食い込んだ〔、〕が女子だけでは4位、三年一組でも四位。更に三年一組の女子だけでは二位なのである。全く〔、〕成〔積〕績は上ったもんだ。点数も 690と〔、〕ぼくより11点悪いだけだ。その内容を見てみると、国語は73点、案外良い。私は83であった。社会が78で〔、〕まずだ。数学は46でだめです。理科が〔、〕その割にして78で相当いゝ。音楽が91、僕は36だから問題にならない。美術が80、ぼくが79だからこれも一点上だ。保体も72でぼくの64より8点多い。技家も84でぼくより2点上。英語は78で、でもぼくより5点少ないだけだ。こうしてみると〔、〕ぼくが負け気味の様だ。
 ぼくが今度悪い点を取ったので〔、〕彼女はどう思ったろうか。見下げただろうか。それとも、身近に感じただろうか。後者だといゝがな。
 でも学期末の成績を見ていてくれ。きみもがんばってくれ。


 1961. 11.12 日曜日 曇り
 朝、本当に気がつかずにぐっすり寝ていた。昨日の7キロの疲れが残っているのだろう。起き出したのは九時過ぎであったろう。午前はなんとはなしに。午後、小秋と小春は砂金沢につかいに行った。このごろテレビを買ったので〔、〕砂金沢に行きたがっていた。本家の叔〔義伯〕母と、智、豊彦、友子、音羽美雪さんが来て茶飲みした。その人達が行ってから勉強した。
 夕方も何もせず、夜、がん張ろうと思って床に入ったら、眠ってしまった。
 小秋が新しい方の自転車をこわした。サドルじゃない、ペダルが曲がったのだ。昨夜作ったこけし〔、〕48時間もたたない内に首がもげてしまった。ピストルもこわれてしまった、全く。
 で、亦、二番目のこけしを作った。今度のは少し風変わりである。頭に、槍がついている。中にも何も入れない。ただ裏に、SAK・SCSと書いた。相沢力、川島節子、それと私の頭文字を組み合わせたもの。


 1961. 11.13 月曜日 晴れ
 朝、降り出した。何が降って来たと思う、雨? 勿論雨も降った。それに混じってね。そうSNOW・雪ですよ、雪。十一月十三日にですよ。まだ稲上げも終らない内に〔、〕初雪が降ったのです。雨に混じって降ったの〔、〕でみぞれというものかもしれないが、一番盛んに降った時は〔、〕もうりっぱな雪です。登校する時には晴れたが〔、〕授業が始まって又降り出した。二時間目ころまで雪は降り続いたがその後、空は、うその様にカラリと晴れて、たちまち、雲一つ見当たらない日本晴になった。六時間の授業を終えて、今日から残念ながら教室掃除である。
 当番を終えて補習。一校時目美術。途中で、第五回目の、仙台二高で行われた模擬試験の答案を返された。 438点、今までの最高である。国語74で予想点の−15点。社会64で−2。数学72で〔+−〕0。技術28で+3。英語31で+2。で予想では、 445取れたと思ったが〔、〕−8〔7〕で 438となった訳である。順位は、3165名中 192番で、3000人中、 200番という所である。これを 300名にカン算すると、約20位という事になる。鶴巣中学校は男子は参加校六十一校の内30何番。女子は驚くなかれ、59位、後から3番目である。黒川郡では富谷中が参加したが、女子の 380点台が最高である。我校はというと私の 430台。二位は、 350台2人。 330台2人。女子の最高はなんと 320台。2位が、280台。これでは話にならぬ。だが驚く事は最〔もっと〕ある。東北大附属中学校の平均点が 472.1なのである、全く。受験者は28名で我校より4名多い。ところが我校はというと 238.0という点数である、全く………又今回の学習会新報では、志望校別の点数を乗せている。私は仙台一高と書いたが、それに恥じない様に本気でがんばった。仙一の志望者は 113人居た。その内の私は56〜61位の間である。38であるから57位程度にして、いや60位にして、大体 110人中の60位であるから、一高の受験者は定員の 2.5倍つまり 300× 2.5= 750名で、その中では約 450位という事になる。全く恐ろしい事だ。見事な落第である。でもこの試験には仙台市内の中学はほとんど参加しているし〔、〕市内の奴達を除けば、優秀な秀才様は少ないだろう。だから、入れる可能性はあるんだ。
 さて、今私が五橋中に入ったとすると、受験者 178人の内40番目である。一位は愛宕中の生、 606、ついに 600を越えてしまった。片や 438である。情無いけど仕方がない、勉強するより。〔元〕兄が築館から一端〔旦〕帰った。


 1961. 11.14 火曜日 快晴
 朝起き出してすぐ洗面して朝食、歯をみがいて床をたたみ、服を着がえる。学校の用意をして、登校。〔元〕兄がふとん袋を買って来た。兄は今日、結核検診を受けて、帰るそうだ。
 登校には、初めて昨日母に買ってもらった手袋を使用した。案外暖(か)かった。
 自転車小屋を出た時調〔丁〕度、アイツの姿が校門に現われた。この分でいくとかばったり会ってしまうのである。私はしばらく立ち止まって〔、〕少し遅れて行った。朝掃除の時間も〔、〕どうもアイツが見ているので素直に出来ない。アイツは当番が休みなのである。この世の中でたった一人、おれの行動に変化を与えさせる人間である。どうもおれは、あいつの1m側に、いや視界にいると何も出来ない。どうも照れくさくって、自分で落ち着こうと思っても〔、〕落ち着けないのである。
 授業が終って教室掃除、補習。アイツはとうとう来なかった。でもぼくには相沢力がいる。ぼくは、二人とも同じ様に好きである。アイツは体操の大会の練習をしているらしい
 昼休み、19日の二高会場の模擬試験に参加する人を募集した。アイツは行かないらしい。アイツがどこの高校を希望しているのか解らんが………
 補習が終った時は〔、〕もう真暗。職員室にマジックインキを持って行ったら、先生方は全員居た。そこで説教されたり激れいされたりで、照れくさくて仕方がなかった。三田村先生は、もう5点ず〔つ〕多く取ればいゝといった。今度の試験で 438より下〔が〕ったら〔、〕どんな事になるか解るか。自分の名誉にかけて、がん張らなくては………

 正直言って〔、〕私は自分をみじめに思う。親をも憎みたい気持である。なぜ〔、〕もう少し人並みな面ぼうに生んでくれなかったのだろう。
 おかげで、ぼくのこころの底には〔、〕いつも一つの暗い影がある。そして〔、〕その影が影をよび、苦しみ、悩むのである。その事さえなければ私は、自分は底抜けに明るい人間になれるはずです。人並みに、アイツに対していけるはずなのである。それなのに、頭の悪いのは、ある程度の努力で直る。気持の持方も変える事が出来る。が、人相・面ボウだけは〔、〕そんな訳にはいかない。生れた時から〔、〕変わるはずがないのである。私の心に只一つ束縛を与えるものは〔、〕これなのである。それだからは、私は、悩むのである。
 私には、この世にアイツ程美しい奴は居ないと見える。これは私だけだろうか。私だけにそんな風に見えるのだろうか。それとも〔、〕誰が見てもそう見えるのだろうか。が〔、〕もし、誰しもが彼女をそう見るならば〔、〕誰しもが彼女を好きになるはずであるのである。が、実際は、彼女をそういう目で見る者は、おそらく、私の知っている限りでは、3人、3人である。小島君、千坂君、それと私と。外の奴たちは、それぞれ好きな人を持っている。彼達には、その人が一番美しく見えるのであろうか。実際例を上〔挙〕げて見ると〔、〕津田君、2年1組の女性に熱を上げている、が私の見たところでは、その女性は、普通の女性に見えるのである。その外にもそんな例は沢山ある。
 確かにアイツは美しい。しかしどの程度、実際にはどの程度美しいのだろうか。やっぱり一番美しいのだろうか。おそらく彼女と並ぶに足りる女性は、我校にも居るだろう。千葉裕子、出井富子、門間あや子、富田テイ子、文屋みよ子等。2年生にもかなりいる。しかし私にはアイツが………
 常識で判断して〔、〕アイツが世界で一番美しいという事はありえない事である。世界には美しい少女スタアだって〔、〕沢山星の数程いるだろう。しかし私には、その誰よりも彼女が、アイツが美しく見えるのである。好きなのである、世界で一番。
 とに角私は、彼女と対等に張り合う資格がないのだろうか。が考えてみると、そんな影の方に言〔行〕ってウロウロして行〔居〕たって何にもならない事である。私も一人の人間である。対等に立ち会う権利は充分にあるんだ。ぶつかろう。アイツが、もし私を好きなら、どんな男でも迎えてくれるであろう。私は奇亦〔蹟〕を願う。


 1961. 11.15 水曜日 快晴
 スコップを自転車のわきに、うまく、はさみつけ、補習のテキストだけを持って登校。今日は、恒例のまき取りの日である。
 が、私達・3の1の男子の一部10余名は、温床作りをする事になっていた。普通よりも5分早く、八時十五分朝掃除開始。後、朝のラヂオ体操。それから朝礼。すぐ山にマキ取りに行く人達は、石の沢に出発した。私達は、唐グワ等で、土手を掘り返し始めた。最初の内は気負いたってやっていたが、だんだんあきて来た。それで、半分に別かれて交代でする事にした。最初はぼく達が休んだ、テレビを見たり、レコードを聞いたり。仕事の能率はあがるどころか〔、〕だんだん下がって来た。この温床は文屋畜産の経営者が二万円で寄贈するのだそうだ。
 やがて十一時になり、そろそろ早いものはたき木を背負って山から帰って来た。で私達も作業をやめて昼食にした。腹はものすごく減っていた。弁当を食っても足らないので、333番斉藤屋に下りていった。そこでは柿を食っただけ。それから、山から帰って来た相沢力と高橋重幸と山田屋に入った。サンドパンを一ヶ。学校に行ってから、土手で船形山を眺めながら3人でそれを食った。船形山はもう雪化粧していた。
 やがて、午後の作業が開始された。午後は取って来たマキを短く切って、束にする事である。でも私達は相変わらず、土建業?である。
 やがて、作業をやめて、集会。その後、三の一の男子は、土建である。女子は掃除。ぼく達は適当にやっていた。3分程したら先生がもうやめていゝといったので〔、〕やめた。補習はなしである。
 三人組で屋体に行って二年生のバスケットを見てやったり、体操の練習風景をみていたりした。でもすぐ下におりて来た。家に帰っても何もしなかった。夕食後眠くて〔、〕コタツに横になって眠ってしまった。九時ころか起きて、リンゴを食った。


 1961. 11.16 木曜日 快晴
 このところ2・3日、底抜けの日本晴れの日が続いている。全く雲一つ見られないいゝ天気である。この青空の元〔下〕で本気になって暴れまわりたいところであるが。今の私にはそんな元気もない、何かがあるのである。
 朝、太陽がさんさんと、いやギラギラと高く照りつけるころ起き出して、洗面をすませて、皆の食事の仲間入りをした。全くこのところ、オテントー様より早起きした事はない。朝食をすませて、学校の用意をして、つめてもらった弁当をもって〔、〕元気にペダルを踏んで登校。坂を自転車を押しながら、校庭まで上がり、自転車小屋にしまった。教室の窓のところから窓際の自分の机のところにカバンをほうり込む。朝はいつもこうするのである。なぜって、とっても照れくさくって仕方がないから。
 やがて朝掃除、教室掃除も楽じゃあないです。一央〔応〕当番を終った。皆は外に出て体操を始めた。が私は文屋政次と二人で、壁の張りものを張り直したり、新しいのをはったりした。今日はアンマリ暖かすぎるせいか、頭がボンヤリしていた。三・四校時目ごろは〔、〕本当に授業がつまらなかった。午後・七校時目、学級活動の時間は、男子は温床作りで交代制、空いている時はソフトボール。女子は自由時間である。それから掃除、教室の掃除である。最初、職員室の側で、こわれたちり取りを直した。それから教室にもどって、フキ掃除。その後補習。補習が終った時は、もう真暗。それでも〔、〕一番最後に電気〔灯〕を消して教室を出た。重幸君と一緒に下校。別所の道に入って音羽千恵子と会ったので〔、〕乗っけて来た。家に着いた時は〔、〕胃袋は空ッポでお腹はペコペコ。それでもガマンして〔、〕コタツに入って新聞を見ていた。
 やがて楽しい夕食。でも小春と小秋が帰って来ない。夕食後、コタツに入って勉強を始めた、今夜はがんばらにゃあ。小秋達は八時に帰って来た。音羽美雪さんの家でもちを食わせられて、いやごちそうになって来たのだそうだ。
 夜皆が床につき、私だけ起きてコタツで勉強していたら。義姉の実父が来た。私は、父母、義姉を起こして来た。それから、みんなでお茶を飲みながら話した。彼は間もなく帰り〔、〕私は勉強を続けた。
 十二時過ぎ、勉強をやめて床に入った。

 ぼくと相沢力と高橋重幸と遠藤章の4人で埋めたつぼ、今日、2組の女生徒によって発見されてしまった。幸い、相沢力と高橋重幸が側にいたので、中はみられないですんだが、彼達は、それを打ちくだいたそうだ。

 この日記「思い出の日々」もついに、六巻を数えた。 320日の貴重な記録が記されてあるのである。
 思えば、今年の冬・一月一日より、実に 320日の様々な記録なのである。ある時は、怒りをぶちまけ、ある時は苦しみ・悲しみを訴え、またある時は楽しい事を相談して来た、まるでこの日記がもう一人の自分である様に。一口に 320日といっても、これを書くには、早〔相〕当の苦労がいるのだ。
 私は〔、〕この記録をいつまでも続けなければならない。私の生命の灯が消える寸前まで……

 今日より3日後の11月19日、又二高会場で模擬試験が行われる。前の5回目の試験は 438であった。今度は、 450を突破する事だ。あと12点働けばいゝのである。12点、がんばれ。

               第六巻終了


 1961. 11.17 金曜日 曇り
 黒い花びら、静かに散った。あの人は帰らぬ、遠い夢。おれは知ってる、恋の悲しさ、恋の苦しさ。だから、だからもう来い〔恋〕なんかはしたくない。したくないのさ………
 誰かの歌である。もう流行らない歌であるが、ぼくは、初めて、この歌の言わんとしているところが解って来た様な気がする。もう〔、〕本当に恋なんかしたくない………
 今日は初めて補講をサボタージュして〔、〕早く家に帰って来た。補講をさぼったのは初めてのことである。というのは、今私の胸の中は〔、〕なんとも空しい気持でいっぱいなのである。
 おれは〔、〕最〔もっと〕しっかりと自分を見つめなおさなければならない。自分はたるんでいる。たかが女の一匹に〔、〕なんたるざまだ。
 そんな事に夢中になる前に〔、〕自分はそれよりも最々〔もっともっと〕死ぬ程夢中にならなければならない事を持っているはずである。
 自分は凡人であってはならない。なんとしても〔、〕世に名乗りを上げなければならないのだ。自分はぶ男である。男の名に恥じぬ様に〔、〕がんばらなくてはならない。外の事を考えているヒマなど〔、〕今の自分には全くないのだ。
 川島節子嬢には嫌なおもいをさせてしまったろう、すまん。
 以後〔、〕絶対あなたをそんな眼でみません、少なくとも来年の三月までは。しかし〔、〕あなたを思うこの気持は変わりません。が〔、〕今は心の奥底深く眠らせておきましょう。あなたが私をなんと思おうと〔、〕私は私の態度を変えません。私は私の道を行きます………
 聞いて下さい。私はあなたに次の事をちかいます。
 私はあなたを心から愛します。あなたは私の胸の中に存在する只一人の人です。例えあなたがどの様にだらくしたとしても、あなたという人間に対する気持は変わりません。私はきっとだ落した貴方の精神を直せるでしょう。
 が、あなたが、私を心から、嫌な奴だと思うならば、私は勇ぎよ〔潔〕く、私の態度を変えましょう。が、心のどこかにあなたの面影を残しておく事だけは〔、〕お許し下さい。しかし、もし私が私の名誉を汚された場合には、私はふん然として、あなたに抗議するでしょう。私は〔、〕決してあなたに迷わくをかけません。そして〔、〕出来る事ならあなたを一生幸福にしてやりたいのです。
                               みにくい小生 S

 おれはあの歌のとおり〔、〕恋の悲しさ恋の寂しさを苦しさを味わった。今の私には〔、〕そんなのんきな事をしているひまがないのだ。私は〔、〕素朴な人間にならなくてはならない。
 私がこの決心をしたのは〔、〕帰りの掃除当番中であった。その時から今まで、私は真面目な〔、〕静かな人間になって来た。
 今は〔、〕点取り虫ににならなくてはならない。死にものぐるいで〔、〕一点でも多く点をとらなければならないのだ。それが今の私の職業。おうおうにして、今の私の神経は鈍感過ぎる。最鋭い人間にならなくては。思えば、三十三〔 '58〕年の四月に鶴中に入学してから二年と七ヵ月余の間の、ここの空気は甘過ぎた。周囲を見ても〔、〕みんなのん気な友達ばかりであった。
 そんな中で大事な時期を過ごしてしまい、自分は全く鈍感な〔、〕のん気な人間になってしまった。が〔、〕自分は今目ざめる事が出来たから〔、〕幸福な自分である。友達の大部分は〔、〕まだ夢の内にくらしている様である。
 本当に可愛想な奴達である。大人になったらどんなに後悔する事やら。でも、そんな空気もだんだん張りつめつつあるが〔、〕まだまだである。本当にあわれな人達である。
 私も〔、〕将来決して悔いる事の無い様に〔、〕残りの中学生活を送らねばならない。来年の三月十五日までは明日から数えて96日、わずか九十六日である。
 もしここですべれば、一生の遅れを取る事になるのである。


 1961. 11.18 土曜日 曇りのち雨
 四時間の授業と昼食が終った後、明日の模擬テストの受験者の集会が宿直室で持たれた。午前八時まで仙台駅に集合との事である。
 その後、当番をやって補講。それから、なんとなく時間をすごしていた。がその内に、千葉喬〔隆〕と遠藤章と3人で、今晩、学校に泊る事に話が決まった。
 皆が帰った後、ぼく達三人は雨の中を私の家にやって来た。途中斉藤屋で千葉和夫と会い、一行は四人連れとなった。私は自転車で登校したのだが、皆で歩く事にしたのである。歩きながら語ってあるくのも〔、〕いゝ事である。
 家で四人で夕食を取った。大したおかずでもないが〔、〕おいしかった。しばらく休んで、私は、参考書をカバンにつめこみ、又四人でしゃべりながら学校に向った。斉藤屋に着いて、御菓子等を買って、しばらく休んでいた。学校に電話をしたら、宿直の小林教諭が出て〔、〕職員が飲んでいるし、私も忙しいから今夜はよしてくれとの事だった。が〔、〕ぼく達はそれも聞かず、しばらくしてから宿直室に入っていった。その宿直室での話である。
 ぼくはどうも職員の間の注意人物の一人である様である。おれっていう奴は〔、〕どうも不思議な奴である。どうして〔、〕おれは先生に好かれないのかしら。小林先生が私の受持になられるとき〔、〕こう言われたそうだ。「沢田という生徒は、頭がいゝようだが〔、〕大した事はないんだ。それに品行が悪いから、ちゃんと教育して下さい」と。確か〔、〕に私は頭は悪い、しかしこの鶴巣においては、ぼくの相手になるものがどこにいる。それに〔、〕ぼくの品行のどこが悪かったというのだ。今でこそ反省すべき事が沢山あろうが、あの時代はひたすらに生きてきた時代なのだ。この学校に私より人間的にまさっているものが何人いるだろうか。何〔、〕みんな、常識を知らない冷たい奴達ばかりだ。畜生〔、〕おれは口惜しい。
 おれがいゝ奴である事を友達に聞いたならば、みんな双手を上げて証明してくれるだろう。それなのに、がんこ頭の先生供は………。エーイ、畜生、眼をどこにつけているんだ。あなた方は人の見方を知らないのか。
 そしてとんでもない奴を、可愛がっている。あなた方は裏を知らないのだ。彼の心の裏を見抜く事が出来ないのだ。あなた方の目は節穴だ。口でなんか、いくらでも偉い事がいえるぞ。なんだ、あの酒を飲んだ時のざまは。エーイ、この馬鹿野郎供。おれは、今確かに偉くはない。しかし、今のあなた方がどれだけ偉いというのだ。エーイ、先生なんて、なんて、うすっぺらな人間なんだろう。

 小林先生はそんな私をあわれむ様に、こう言った。「な、人間にはそれぞれ、自分の好むタイプと好まないタイプとがある。君は、大人には余り好まれないタイプなのだ。が〔、〕子供達には絶対に好かれる人柄だ。が、今のままでいったならば、将来相当の苦労をしなければならないだろう」こう………
 さらに、先生はこう行〔言〕ってくれた。「が、ね、君。こゝに一人の絶対に君を信用している大人がいるという事を忘れちゃだめだよ。幸い私は君の担任だし〔、〕君の立場だって、そう不利には絶対させないつもりだよ。たとい外の先生方がなんといおうと。自分にまかしておけよ」と。
 これがその時の私のせめてもの、なぐさみ〔め〕だった。

 おれは生きるぞ。強く。誰に注目されなくとも、好かれなくとも、見放されても。おれというのは、元来、孤独が好きな奴だ、一人で静かな所にいたりするのが。おれは〔、〕絶対苦しみに敗けないぞ。そして、一生をりっぱに生きてみせて、おれを軽べつした奴達を見返してやるんだ。
            ぼくは生きるぞ 生きるんだ
                君の面影 胸に秘め
            思い出すのは 思い出すのは
                北上川原の 月の夜
                            (北上夜曲)


 1961. 11.19 日曜日 晴れ
 朝最初に眼をさましたのが四時半〔、〕外は真暗で、次の起床は六時十分過ぎ。あわてて起き出した。遠藤章は受験しないので後は彼にまかせて、自転車で一目散。家に着いて腹ごしらえをし、軍資金を貯えて、勇ぎよ〔潔〕く出発。斉藤屋のところで、待っていた高橋春男、藤倉靖と3人で、吉岡に向〔か〕って踏んだ。途中、千葉隆と千葉和夫が自動車に乗っているのを見た。砂金沢で、佐藤重信と遠藤信喜が交〔混〕わり、それに忘れていたが大崎から文屋政次も一緒だったので、一行は六人になった。吉岡で、自動車の二人と会い8人にふくれ上〔が〕った一行は〔、〕バスで仙台に上った。後の連中は松島を回って仙石線組である
 仙台駅に着いたのが、八時一寸過ぎ。例の時計の下に〔、〕丹治先生が一人立っていた。ぼく達の姿を見ると〔、〕こちらに来た。外の連中は〔、〕誰も来ないそうである。
 心配しつつも時間に追い立てられて、電車に乗って、(北仙台行き)、大町一丁目でおりて、二高に急いだ。とそこには〔、〕もう小島君たちが倒〔到〕着していた。彼達は〔、〕もうとうに来ていたそうだ。
 中は、寒かった。やがて、一時間目が始まった。どうも調子が本当じゃあない。とうとう、問題を余してしまった。初めての事である。二校時目数学、これもチンプンカンプン、全然だめでした。三校時目の理科はもうだめ。四校時目の図画・職業に至っては、全然だめである。やる気がしないのだ。いゝくらい書いて〔、〕外をながめていた。
 やがて、一時間程、昼の休けい。私達は玄関で、パンと牛乳を一緒に買って食べた。この時、ほんとに面白い事があった。実は〔、〕ぼく達のパンと牛乳は丹治先生がまとめて買って来たのである。でぼく達が、金を先生に手渡しながらパンと牛乳をもらっていると、どこかの学校の生徒、先生を行商と思ったか、金を出してパンと牛乳をもっていったのである。先生はそんな事は知らず、しっているのはぼくと重信君と小島君だけ、あっ薛も知っていた。でその子供、いかにもおめでたい様で、大きな口を開けてパンを〔に〕かじりついている。小さな生徒だった。ぼく達は、それを見て笑いが止まらなかった。
 激しい寒さと、不調子とに嫌になって、午後私と佐藤重信、中居善弘は試験場を抜け出してしまった。橋で広瀬川を渡って、どこか知らないが歩いている内に、東一番丁に出た。で藤崎デパートに入った。そこで私はスケッチブックを買った( 100円)。デパートでしばらく、すごしてから又通りに出て、一番丁の通りをずっと歩いた。やがて電車道に出たので、そこから、その電車に乗ってずっと、北仙台まで行ってしまった。終点北仙台でおりて、その辺をブラついた後、そば屋に入って中華そばを食べ腹に元気をつけて、又電車に乗って、大町一丁目でおりて、二高に帰った。二高では、調〔丁〕度試験が終った時間だった。
 それから又、元の道を引き返したが、ぼく達男生徒数名は又先生を見失ってしまった。仕方がないので〔、〕電車通りを仙台駅の方に向って進んだ。途中東一番丁通りに入って、「アイエ」という本屋に入った。そこで参考書二冊買った。
 で今度は反対側の歩道を歩いて来たら〔、〕高山書店のところで(、)先生達と会った。
 又電車通りに出、仙台駅まで電車。そこから汽車組とバス組に別れた。バスは仙台駅発五時十五分。吉岡について〔、〕まず腹ごしらえ、中華一杯、親子どんぶり一ぱい。実は〔、〕親子どんぶりっていうのは初めて食ったが、けっこううまかった。それから自転車。夜〔、〕砂金沢に泊った。テレビを見ていた。


 1961. 11.20 月曜日 晴れ
 朝〔、〕砂金沢の奥の間で起床した。砂金沢では、この家を近く建て直すそうである。この家は、そうとう古いものである。むろん〔、〕釘等つかわれた訳じゃない。屋根には〔、〕太い丸たん棒がある。
 朝食をすませて、七時二十分、砂金沢を出た。重信君はそのまま学校に行き、私は家に帰った。道具をそろえて、再び登校した。勿論遅刻寸前である。
 六校時目体そうの時間鉄ぼうだったが、カゼでしなかった。教室で遠藤章、千葉隆と語らっていた。


 1961. 11.21 火曜日 晴れ
 一校時目の音楽は自習。三・四校時美術の時間、頭が痛くて書きたくないので、眠ったり、人の書くのを見ていたりしていた。昼食の時は、放送室でひなたぼっこをしていた。が、五校時目は受けないで早退して来た。家に帰ってすぐ寝た。義姉が昼食を持って来てくれた。


 1961. 11.22 水曜日 雨
 今日は授業一時間。朝寝過ぎて、あわてて朝食をとって登校。が〔、〕授業の科目が解らないので何ももたずに登校。一校時目の授業は数学だった。数学の授業を終えて掃除、後〔、〕職員は全員研究会に出張した。
 ぼく達は、屋体でレコードをかけたりして遊んだ。
 昼近く、下校。途中小雨だったが、母と会った。母は大崎に出る所だった。私のアノラックは〔、〕買って家に置いたそうである。
 家に帰ってみると、二つの型が置いてあった。一つはいわゆるアノラックスで、もう一つはジャンパー型の防水コートである。
 私はアノラックスを選んだ。その後は家に行って、コタツに入っていた。


 1961. 11.23 木曜日 晴れ
 今日は勤労感謝の日。で〔、〕休日の朝を十分に味わって寝ていた。3〜4日来のカゼもまだすっかり直〔治〕らず〔、〕このところ夜の勉強は一切しなかった。
 午前中はなんとなくくらして、昼食。午後、少し勉強をしてから、前に取っておいた格好のいゝ木の根にサンドペーパーをかけていると、遠藤章が来た。今晩小林先生の宿直だから、学校で勉強しようというのだった。
 しばらく章君と遊び、彼を送り出してから、風呂たき。夜、クイズをとこうとしたが〔、〕早張解けなかった。と、又遠藤章と信喜が〔、〕今度は迎えに来た。仕方がないので〔、〕私は参考書を持って、学校に向った。買い立てのアノラックスを着て。
 学校についてちょっと先生と雑談や勉強の話をして〔、〕すぐ勉強を始めた。保健室で、ベッドの上に電気コタツを上げて、暗幕をかけたものだ。一時ころまで勉強した。


 1961. 11.24 金曜日 晴れ
 四校時目社会の時間、卒業記念アルバムにのせる写真を取〔撮〕った。
 六時間を終って、職員室の掃除をして、私はすぐ帰った。家に帰って勉強。しばらくして、砂金沢の重夫叔父が来たので、私は、正さんの宅に父と母を呼びに行った。叔父の話とは東京の修兄についてだった。
 修兄の事について、東京のサカシ伯母〔栄志叔母〕が速達をよこしたのだそうだ。手紙によると、その日、サカシ〔栄志叔母〕〕さんの家に音羽栄吉さんが訪れて〔、〕修兄についての事を話して、その消息を訪〔尋〕ねたのだそうだ。
 ぼく達は、栄吉さんの手紙で、修兄が栄吉さんと同じ会社を退〔辞〕めて別の会社に行っているとう事は知っていたが〔、〕どこにいるかは知っていなかった。さらに、サカシ〔栄志叔母〕さんの手紙によると、修兄と〓〓〓〓〓〓〓〓〓も居なくなっているというのだ。きっと修兄の〓〓〓〓〓のだろう。
 これを聞いて父の主張するところは〔、〕次の通りだ。
 「修兄は〔、〕自から父との約束を破ったのだ。父は、修兄が職を変えた事は、心機一転してやる気を起こしたものと見て歓迎していたが、それが〓〓〓〓だったとは。修兄は〔、〕自から父と修兄との間の関係を切ったのだ〔、〕という。もう修兄の父ではない〔、〕というのだ」
 とに角〔、〕修兄の〓〓〓〓〓〓が、いったならば又事は面倒になって来る。でも〔、〕私はどんな場合でも兄を信じる。私は〔、〕幼い時かわいがられた弟なのである。父も間違っている。父と子の関係はそんなに簡単に切れるものではないのだ。いや、永久に切る事のできないものなのである。


 1961. 11.25 土曜日 曇り
 四校時目理科の時間、松島の庄司写真店の若い人が来て、学級の理科の授業風景をカメラに納めていった。卒業記念アルバム作製〔制〕のためのものである。四校時を終って、昼食。牛乳が配られた。これで今冬2回目なのであるが。一回目は早退した日なので〔、〕信太亀一郎君に飲ませた、で〔、〕私は最初だった。昼食を持参しなかったので、千葉和夫と一緒に斉藤商店に行き〔、〕20円のサンドパンと豆パンと十円のパンを一ヶ買った。学校に上〔が〕る途中十円のパンを食い、学校でサンドパンを食った。豆パンは〔、〕信太亀一郎と遠藤章に分けてやった。それから、当番。
 テレビを見ていると〔、〕宮沢政二さんが酒乱して、机、腰掛けを持ち出してとても危険だった。修兄から手紙が来て〔品川区〕、母が〔、〕砂金沢に手伝いにいった父に持っていった。


 1961. 11.26 日曜日 晴れ
 私家でテレビジョンを買った。ナショナルの人工頭脳テレビだ。
 なんだか〔、〕私は今月中に家にテレビが入る様な気がしていた。それがみごとに的中した訳だ。 58000円という高価なもの。父としては〔、〕一大決心だったかもしれない。事のしだいはこうだ。
 夕方近く、ナショナルテレビの車で、その会社のセールスマンになった目黒喜助〔喜一義〕叔父が訪れた。そして、ものの10分もたたぬうちに〔、〕話は結ばれた。で早速取りつけにかかった。終った時には外は真暗だった。
 最初に写〔映〕った番組は、相もうだった。今日が千秋楽で〔、〕新横綱の大鵬が優勝した。夕食もテレビの前でとった。八時半、文書の交換などをすませて〔、〕義叔父達は帰っていった。それから〔、〕ずっとテレビを見た。ぼくらよりも父の方が熱心で、父と母は、ぼく達が寝てからも見ていた。
 実際ぼくは落ちついている様だったが、どうして〔、〕テレビがつくまでは、胸がさわいで〔、〕何をやってもとりつかなかった。
 どうやらうれしいらしい、かといって、家族のうちの誰かがうれしくないのではない。みんなうれしいのである。妹達は〔、〕勿論最高にうれしいだろう。
 元兄も今は、働きに行っているけど、うんと買いたがっていたのだ。父も勿論。しかし〔、〕このテレビも〔、〕私にとっては妨げになるかもしれないのだ。ぼくは〔、〕そうならない様に気をつけねばならない。
 午前中トランプなどをして、午後は勉強。夜はテレビを見て寝てしまった。テレビを買ったからこうなっただなんていわれない様に〔、〕ちゃんとしなればならない。


 1961. 11.27 月曜日 晴れ
 朝八時ジャストまでテレビを見てい、登校、朝掃除。信太亀一郎が腹が痛いというので〔、〕保健室に寝かせてやった。三校時目が終ってから行ってみたら、大部ひどいらしかったので、そこに有った水枕に水を入れて〔、〕しいてやった。授業は職業科だったが〔、〕欠席して彼をかん病してやった。熱が大部あるので、手ぬぐいを何度も水でぬらしてやった。
 四校時が終ってから昼食。やがて、五校時。それが終った時、信田〔太〕が保健室から起きて来た。
 六校時目・体育の時間は、山田教諭出張のため変更されて、校舎内外の清掃。六校時を終ってすぐ掃除。で下校、補習はしない。
 家に帰って、すぐに明るい内に〔、〕風呂たきと馬屋掃除をきめてしまった。やがて、テレビを前に義姉、妹と私の五人の食事が始まった。父と母は、本家に手伝いに行っている。
 夜テレビを見ている内に〔、〕眠くなって寝てしまった。


 1961. 11.28 火曜日 晴れ
 朝〔、〕常時よりも早く起床して洗面をすませ、学校の用意をして朝食。食後弁当を母につめてもらって、しばらくテレビを見ていた。八時五分家を出発。が学校に着いた時はもう当番が始まっていた。急いで教室にカバンを置いて校庭に出て、朝掃除。今日は体操はなし。指導主事が来校するので〔、〕校舎の内外は至ってきれいである。校舎増築工事も順調に進んでいる。
 私は相変わらずの忘れん坊で、今日三校時授業だという事を忘れて普通授業の用意七時間分持って来たのだ。皮肉な事に、その中には今日の授業にあてはまるものは国語だけしかない。理科と数学は、ノートもテキストも持参していない。
 一校時目はそれも忘れて〔、〕後の阿部キヨ江に借りた。信太も持って来ないのだ。二校時目数学始業間もなく〔、〕誰かが後に入って来た。でも〔、〕そんな事はいっこう気にかけなかった。十分程、嫌〔いや、〕実際は5分といなかったかもしれない、彼達は出ていった。ここで〔、〕教室は再びざわめきを取りもどした。
 三校時目国語の時間にも〔、〕指導主事が入って来たらしかった。数学の教科書は〔、〕二組の千葉法夫君に借りた。授業終って〔、〕すぐ解散。
 私は〔、〕今朝父に手紙を頼まれていた事を思い出して、郵便局まで一度下った。二通で、一通は修兄に、もう一通は栄志伯〔叔〕母宛のもの。
 再び学校に帰って屋体で、千葉隆、遠藤章、高橋定夫、遠藤信喜、佐々木工、佐藤重信達と雑談。30分程して下校した。途中〔、〕便せんと封筒を買った。
 家に帰って、テレビを見ながら弁当を食った。それからテレビを見て、夕方、仕事、夕食、後、テレビ。十時、今テレビをやめて勉強しようとしている。
 あんまりテレビばっかり見ていちゃだめだ。ホントに、今まで無かった時には、テレビなんか見る気なかったのに。とに角〔、〕こんな事ではだめだ。大体考えが甘すぎるよ、11月もあと2日で終るというのに。テレビは〔、〕ぼくには決して良いものではなかった。でも〔、〕妹達は、父母、義姉にとっては、この上ない楽しみものである。ぼくにも〔、〕今にゆっくりテレビを見られる時が来るだろう。その時まで見ない様にしなければ。そんなものに負けてはいけない。これからテレビは〔、〕飯を食っている時、ヒマな時意外は見ない事にする。
 それから〔、〕今日音羽栄吉氏から父に手紙が来た。修兄の居所をしっていたらしらせてほしいというのであった。家ではちゃんと解っているのだが彼は、兄がまだ〓〓〓〓〓〓〓〓〓と誤解している。
 千葉隆は、来月の3日に試験がある。少年自衛隊だ。それにしては〔、〕あいつはのん気すぎる。気の毒な事だが〔、〕おそらくだめだろう。が〔、〕今度の事がいゝ薬になるだろう。ここで意地を持たない様な男では〔、〕見損なってしまう。
 級友の荒木ケイキ君〔、〕職業訓練所の入所に合格した。


 1961. 11.29 水曜日 晴れ
 昼食後の昼休み、全校生徒三百余名で、温床用の玉石を1回づつ運んだ。六時間の授業を無事に終えて〔、〕掃除。校庭だが、朝から強い風が吹いていたのだ。木の葉一つちり一つ落ちていない。いゝかげん時間を過ごして〔、〕当番を終らせた。それから、補習。一校時目は国語、二校時目は英語。この補習だが、ぼくには解らない事だらけである。何がって、みんなの補習に対する心構えが。そして、ぼくの補習に対する心がまえ。
 本来の補習授業の形体〔態〕というは、向学心に燃える生徒の多数の希望によって、発案され、そして、熱心な生徒によって運営されるべきなのである。それが〔、〕今の我校の実情は、全く情け無いという一語につきる。
 一度先生の側の立場に立って見れば〔、〕大外〔概〕の先生方は迷惑に感じているだろう。それは、彼達の義務ではないのだから。
 それに、生徒の不真面目な態度を見ては〔、〕誰でも馬鹿らしくなるだろう。普通授業と補習授業に対する考え方の相違。三年生もいよいよ、12月に入ろうとするころ、受験勉強の後半戦なのである。常識からいってそれは、良くない事かもしれないが〔、〕普通授業よりも補習授業の方が活気がある様でなくてはならない事である。
 補習とは〔、〕あくまでも生徒が職員にお願いして教えてもらうものである。従って、これに関する限り〔、〕補習生は一歩下に出なければならないのである。しかし〔、〕現在の情勢は逆である。平均して、生徒の方が先生の上に立っている。先生に頼まれて授業を受けている様な調子だ。特に女の先生の時間、英語、音楽、保健体育、図画工作、職業、国語と、これらはその例に入るだろう。ちゃんとやっているのは、理科、数学、社会だけである。しかし〔、〕それも出席者は、大変少ない。最〔もっと〕も〔、〕ぼくもその一人かもしれないが………
 以上の様な事を総合して考えてみて、はたして補習というものが私のプラスになっているだろうか。それともマイナスだろうか。
 残念な事ながら、私には〔、〕皮肉にもプラスになっているとはいえない。大きな、それこそ、何にも増して大きなマイナスだと思われるのである。で〔、〕生徒が無理にお願いして発足したはずの補講会ではあるが、私は脱会したいと思ったのである。もし補習をしないで〔、〕当番を終ってすぐ下校して勉強したならば、下校時間を平均四時として、かえって能率が上る様に思える。少なくても下は回らないだろう。それに〔、〕補習の内容だって家でできる様な事だけである。それに、時間のむだが非常に多い。誠にすまないが〔、〕私は十一月一ぱいで補習会から脱会させてもらおう。
 二校時の補習を終って〔、〕すぐに下校した。外は真暗。


 1961. 11.30 木曜日 晴れ
 鬼、試験の鬼。いゝ言葉だ。試験勉強の鬼か………
 試験の鬼。鬼に、試験の鬼になろう。明けてもくれても勉強する人間、いや鬼になろう。鬼になるためには〔、〕それこそ超人的な努力をしなければならない。超人的努力、それこそ………
 努力は天才に勝つ。努力だ。私は天才でも秀才でもない。ただの凡脳の持ち主である。彼達に勝つためには、努力こそ唯一の武器である。努力という武器に身を固めて彼達の中に入り込まなければ、当然勝つはずのない戦なのだ。弱ければ弱い者程、武装を固くしなければならないのだ。そして、努力のかい合〔あ〕って、彼達に勝った時に、私は天才にも増したものになるのである。この世に天才は数少ない。
 試験の鬼になろう。明けても暮れても〔、〕試験と共にくらそう。勉強、勉強、勉強である。死ぬ程つらい思いをしても〔、〕がんばろう。
 何を始めるにしても〔、〕強い意志が必要である。まず先立って〔、〕私は強い、何者にもくじかれる事のない強い意志を〔、〕作り上げなくてはならないのだ。
 それには〔、〕きっかけとなる何かが必要である。意志、強い意志、私はそれが欲しい。明日から〔、〕もう十二月である。試験勉強は終ばん戦に入ったのに、今の私はまだ前半戦の始まりごろである……… がんばれ。


1961年12月(15歳・中3)

 1961. 12.1 金曜日 曇り
 おれは〔、〕補講会を脱会した。補習授業を退〔絶〕めたのである。実は、補講が始まるまで〔、〕私は一昨日の考えを変えて、補講を受けるつもりでいたのである。それがものの数秒の間に〔、〕正対に考えが変わったのである。
 私は補習を受けるつもりで、B組の教室にテキストを持って入って行った。そして、私が来た事を先生につげると、みんなが〔、〕なんだやめたんじゃないかといった。ぼくはとっさに、それじゃあやめて帰ります〔、〕といってしまった。そんな訳で〔、〕男の一言を取り消す訳にはいかない、すぐ小林先生のところに行って〔、〕事情を話した。で〔、〕先生と話した結果、こういう風に話がまとまった。とに角一週間の間仮に休む事にして〔、〕家でやってみて、その結果の判断によって、受ける受けないは君にまかせる〔、〕とこうだ。
 で〔、〕とに角一週間試してみる事になったのだ。
 そんな訳で、一央〔応〕、一週間休むつもりだ。勿論私は、ずっと受けない気持なのだ
 二校時を終ってから、熊谷信一君の義父・熊谷次男故人の葬儀に〔、〕学級代表で出席した


 1961. 12.2 土曜日 曇り
 朝はやゝ遅目に起床。家族と朝の食事を供〔共〕にして。八時十分ころ、登校。
 四校時目の理科の時〔、〕席順を変更された。今度の草案の発案者は藤倉靖君、私はこの仕事を副委員長の彼に一任したのだ。なぜって〔、〕私はどうも、きまりが悪いから。第一の原因は〔、〕あいつの置き場所に困るからだ。私の新しい席は、窓側から数えて、最後の班・七班の前から四番目、何回か前の席である。今こゝでこんなことはいゝたくないのだが、アイツは、となりの列、すなわち第六班の六番目、とに角遠くはないのである。今は何も〔、〕その事について言いたくない。
 昼食は〔、〕そんなこんなでとうとう食べなかった。当番をしてから〔、〕すぐ下校。帰宅して飯を食った後、勉強。夕方も何もしないで〔、〕補習のかわりだといって勉強。今晩はもちである。理由は〔、〕元兄が帰ってくるかもしれないという事だが、兄はとうとう帰って来なかった。父は砂金沢に〔、〕新築工事に当っての準備にいっているし、男手はぼく一人。で〔、〕私は、生れて初めてもちをついた。
 端で見ていると楽な様だが〔、〕実際やってみると口の様には行かない。それに〔、〕早〔相〕当な重労働である。でも〔、〕最後の方では慣れて〔、〕手つきもうまくなった。米もなんとか〔、〕もちに化けたらしい。
 自分のついたもちも〔、〕中々うまいものである。おれのついたもちをみんなが喜んで食っているのを見ていると、なんだかうれしくなっちゃった。
 食後テレビを見ていると、八時半ごろ突然遠藤章が訪ねて来た。彼は興奮していた。話によると〔、〕家の人とけんかをして来たとの事だ。
 が、その時調〔丁〕度テレビで「帽子」という、劇をやっていた。とってもいゝ劇だった。劇が終ってからも、しばらく、ぼう然とさせる様な何かがあった。彼・遠藤章は、あの劇に非常に感激していた様である。その劇の感情が〔、〕彼の興奮した様子をなぐさめるに重〔十〕分だったのである。
 彼の興奮のさめた所で〔、〕二人で自転車を、しいたばかりの砂利道の上を引いていった。途中、色々な事を話しながら行った。
 一度学校に上〔が〕って、授業〔自転車〕を校庭に置き、又下に下りて〔、〕そこいらをぐるぐる歩きまわった。所々見える美しい冬の星空をながめながら、流れ星が時々飛んだ。
 学校に再び上り、職員室に入ってみると〔、〕誰もいなかった。宿直室にいるらしい。それに外の生徒もいるらしいので、二人は、千葉隆の家に行く事にした。
 昼間では出せない早さで、またたく内に幕柳の千葉隆の家についた。彼は、母家とは離れた〔、〕倉庫か何かの二階の屋根部屋に〔、〕一人で寝ているのである。中は割合ちゃんと整理されていたし、掃除もされていた様だった。彼は眠っていたが、ぼくらの物音に驚いて眼をさましたらしい。それからなんとはなく、明日の試験の話等をして、零時半眠りについた。


 1961. 12.3 日曜日 快晴
 午前五時、例の千葉隆の屋根部屋で起床、外は真暗やみ。彼は〔、〕今日が〔少年自衛隊の〕試験日なのである。いわば〔、〕今日が彼・千葉隆の運命を決定する日なのである。彼の睡眠はおよそ、三、ナイシは四時間程度であろう。
 とに角部屋を出て、千葉隆は朝食を取りに行った。試験場は仙台。吉岡に六時二十分ころまで倒〔到〕着して〔、〕仙台に八時三十五分までだそうだ。
 それにしても〔、〕誰もついていかないのである、彼一人である。今日は日曜日なんだし、先生がつきそっていってくれてもよさそうなものである。
 郵便局の前まで行って〔、〕二人と別れて〔、〕私は家に帰って来た。朝食を取った後、母は松島のヘルスセンターに〔、〕一寸した日帰り旅行に出かけた。これは共同の予算で行くもので〔、〕家ではこれに入っていない。けれども、宮沢みどりさんの家から、一人紹〔招〕待を受けたのである。


 1961. 12.4 月曜日 雪
 朝起き出してみると、おや、外は雪である。地面にこそ積もらないが、そこらの木や草には随分つもった。積もるまで降った雪は〔、〕今冬初めてである。仙台の積雪量は〔、〕3cmなそうである。
 朝食後、アノラッスクに身を固めて登校。教室の中は妙にポカポカしていた。今日はストーブの入火日なんです。
 授業は四時間で切り上げて、午後から映画会が屋体で催された。いわゆる「納豆映画」である。小林先生が写した。その後屋体を片づけて、私はすぐ下校、勉強した。
 夕食後、テレビを見ていた。が、勉強はしないで寝てしまった。


 1961. 12.5 火曜日 晴れ
 でたらめだ、みんなでたらめだ。おれのなす事やる事全てでたらめだらけだよ。でたらめもいゝ加減にしろ………
 おれっていう奴は、知らぬ間に全くでたらめな人間になってしまった。何もかもが〔、〕昔と変わってしまった。あの純真な童心は〔、〕今はどこに行ったのやろ。昔の自分を取りもどせ。今自分の身体の中に残っている、昔の面影に、さらに、拍車をかけてみがき上げるのだ。
 素朴な、純真な、青〔清〕純な、純情な、熱意ある自分を取りもどすのだ。何も考える事はないのだ。唯一つ解っている事は、でたらめな生活はいけないという事だ。でたらめ、それはいけない事である。

 一、全校通して、一朝に四十〜五十名の遅刻者がある。多くの場合私はその内の一人である。それは、正身正命〔正真正銘〕のでたらめである。こんな事は、気持の持方一つによる。明朝からは絶対に遅刻をしない事。
 二、授業の態度もでたらめである。試験の鬼とは〔、〕あれはいったいなんだったんだ。三日も続かなかったではないか、意気地無し奴、恥を知れ、恥を。試験の鬼にふさわしい授業態度を取れ。休み時間だって、同じ。おまえは、寸カの時間を惜しんで勉強しなければならないんだ。とに角、頭につめ込まねばならないのだ。明日からの授業は絶対に誠意を持ってこれに当たり、授業に熱中する事。又休み時間及び昼休みの時間は〔、〕用便その他の用件の外は、絶対に席を離れず学習する事。
 三、掃除も全然でたらめ。例え誰が掃除をしようとしまいと、黙って黙々とこれに熱中する事。又〔、〕朝の体操も、堂々と活発にやる事。
 四、家庭での入試学習及予・復習も〔、〕全然でたらめである。掃除当番終了後直ちに帰宅、一切の作業を抜きにして夕食ギリギリまで勉強する事。夕食中とその後六時三十分までは自由時間とする。
 七時三十分より、翌日午前一時三十分まで勉強する事。従って、勉強時間は六時間〔、〕それに夕食前の分をたすと七〜八時間となる。
 五、朝の起床については、起床時間午前六時、寒さに負けず元気にとびおきる事。起床後は〔、〕先ず必ず布団をたたむ事。続いて、洗面、磨歯、登校準備、朝食、登校。始業時間が八時二十分であるから、明日からの登校時間は少し余裕を持たせて、七時五十分とする。朝の余った時間は自由時間とする。
 六、日曜日その他休日については〔、〕次の通り。起床は、常と同じく午前六時、で〔、〕朝食までの間は、洗面時を除いて自由時間とする。引き続いて朝食から、午前八時三十分までの間は自由時間。八時三十分より昼食一寸前まで勉強、昼食。昼食の前に〔、〕必ず馬にえさをやる事。昼食時から午後一時までは自由時間。午後一時より午後三時まで勉強。三時から夕食までの間に、風呂たきをする事。残りは自由時間。夜は夕食から午後八時まで自由時間。八時から十一時まで勉強。来週の活力のために、日曜の夜は特に十一時就寝。
 七、学習の方法については、何も計画をしません。とに角一日も早くテキストを終る事。それが終ったら、問題集に頼る事。又〔、〕疑問の点があったら〔、〕どしどし係の先生に質問する事。
 八、毎朝必ず健康のため、用便、磨歯、洗顔を実行する事。
 九、食事については、食事前は必ず洗手する事。又〔、〕始めと終りのあいさつをきちんとする事。
 十、テレビの観償〔賞〕については、自由時間内に限る事。間違っても、学習の時間に食い込む様な事はない事。ただし、学習上必要と思われる番組は例外とする。
 十一、家庭内にあっては、良き兄であり、良き弟であり、良き息子である事。常に〔、〕家庭内を和やかに保つ様努力する事。
 十二、学校内においては、良きHR委員長であり、良き級友である事。学級のために、学校の名誉のために、自分にできる事は誠意を持って実行する事。クラス内においては、いつも良き指導者である事。
 十三、全ての行動をする時の心構えは、誠意を持って、正しく、慎重に、熱心に、根気強く、暖かく、という事をモットーとする事。
 必要もないおしゃべりをする事もいけないが、全然無口になるのもいけない。適当に話す事。
 十四、いつもついも、きん張していたのでは気が狂ってしまう。ふざける時は〔、〕われをわすれておゝいにふざけてよろしい。やむを得ない事である。
 友達関係については、美しい友情関係を創る事。同性愛〔友情〕は今までのままで大変良ろ〔宜〕しい。しかし異性との愛〔恋愛〕となると、このままではいけない。

 先週の土曜日、席を交代させられた。今度の案には私は一つも口出しをしなかった。それはあの人の置き場所に困るからだ。私には、すぐ側においた方がいゝのか、ずっと遠くに離した方がいゝのか解らない。
 結局〔、〕じき近くになってしまった、私の斜め後である。最初の内は〔、〕とってもそこに居られなかった。無理もない、もうずっと離れてたのだから。
 今日図画の時間〔、〕余りうれしくない事を聞いた。津田君がアイツにいった言葉である。小島清夫君がアイツを好きだ〔、〕っていったのである。アイツはだまっていた。あるいは〔、〕あいつも好きなのかもしれない。しかし〔、〕おれだって男だ。だれが来たって、負けやあしない。おれ程深くアイツを愛している奴が居るだろうか。おれは誰が来たって、アイツを放しはしないぞ。初一念をつき通すぞ。おれがアイツを失った時の事を思い浮かべただけでも……… おれはアイツが居なくては、とても生きる望みもなくなる。そのアイツを他人に取られたのでは。
 四時間目それを聞いた時は、何げなく聞いていた。が、五校時目・六校時目はそれを考えて、何も頭に入らなかった。苦しかった。が〔、〕今決意して〔、〕やっと気が晴れた。今までは〔、〕何といっていゝか、解らない気分だった。
 おれは、もう少し積極的にならんと、アイツに対して好意の色を示さなくては。今までのおれはどうも、逃げる様にばっかししていた。何も逃げる事はないんだ、明るくつき合おう。ブスブスしめっぽいのは不けつである。

 朝〔、〕遅刻してしまった。授業が終ってから、小林先生に教訓された。当番は、補習を受けないものが〔、〕職員室だけやった。
 家に帰って、すぐに夕食。おれのセーター〔、〕そろそろ出来上がるかもしれない。義姉が編んでくれている。黒い毛糸である。


 1961. 12.6 水曜日 ?
 今日〔、〕小林先生は出張ででかけた。で、一校時目は自習、課題を書かされた。四校時目体育の時間、跳箱だったが、私は準備運動までして教室に帰ってしまった。最初、社会を勉強していたが、しまいには友達と雑談していた。そこへ〔、〕体操担当の山田旭教諭が入って来た。いゝ所を見つけられた。中には、ストーブの周りで弁当を食っているものもあった。千葉哲司などはその手で合〔あ〕った。その場はそれですんだが、昼食後職員室に呼び出された。三田村宏道教諭にだ。その場で〔、〕私は聞かれもしないのに、しゃべってしまった。それで、又、教訓され直したのである。
 二校時目〔、〕私は席を交かんした、遠藤章とである。それで私は、一班の後から四番目に来た。前の席の一つ前である。
 私の前の席は高橋嶺〔みね〕子、となりが八巻信子、後が千坂公男。誰も私の心に障害をきたす様な人は居ない。こゝなら、静かに勉強できるであろう。
 やっぱり〔、〕おれには無理な相手なんだ。とても〔、〕同等な地位の人間ではないのだ。あいつが高級なスピッツなら、私はおそらく、雑種の汚れた野良犬だろう。そしてあいつ本当に、そう思って見ているのだろう。いや〔、〕あるいは〔、〕目にも入れていないのではあるまいか。スピッツはスピッツどうしで、お高くやりゃあいゝだろう。おれはどうせ雑種犬だ。あいつらは〔、〕とうていおれの力ではおぼつかない世界にいるのだ。エーイ、畜生、お高く止〔留〕まりやあがって。
 しかし、別な面から見れば〔、〕こうも考えられる。奴達はおろかな人間だ〔、〕という事だ。お高いどころか、最低の人間である。
 おれは、奴を見損なった。奴もやっぱり、普通の女に過ぎなかった。私は、それが悲しいのである。私が、調〔丁〕度一年程前に心を引〔牽〕かれた女性は〔、〕川島節子という女だ、が、あいつではない。おれは、あんな奴に惣〔惚〕れたんじゃあないんだ。
 おれの心をとりこにしたのは〔、〕奴ではないんだ。奴の持っていた、静かさ、冷静さ、利口さ、暖かさ、女らしさ、それに神秘という感に〔、〕おれはみせられたのでる。一生涯の最初の〔、〕思いつめた人だった。
 しかし、今の奴は〔、〕まるで抜け空〔殻〕である。昔の面影は〔、〕見る影もない程に砕かれている。あの高貴な顔も〔、〕男好きのする、いやしい顔になっていた。そして他の男生〔性〕に対する自身〔信〕とうぬぼれのために、全く変わった感情の持主になっていた。冷静さ、神秘さ等は見る影もない。まるで女王蜂の様に、男供からもてあま〔はや〕されているのをいゝ事にして、気ままに振るまっている。まるで〔、〕自分が世界一の女であるかの様に。
 しかし〔、〕時々、本〔ほん〕のしゅん間ではあるが、奴が昔の奴にもどる時がある。その時こそ、私は〔、〕奴の一番美しい時だと思っている。
 そんな奴を見る時、私の心臓は一担〔旦〕停止するかの様に驚き、そして又、昔の自分に返るのである。その時が〔、〕私の一番幸福な時である。


 1961. 12.7 木曜日 晴れ
 朝学校へ着くなり〔、〕担任の小林教諭のところに行って〔、〕席を正式に変えてもらいに行った。その時、理由を聞かれた。理由がなくて変えるわけにはいかない〔、〕というのだ。「友達関係でか」と先生がいったので「ハイ」といってしまった。先生の指した友達関係とは〔、〕一体何をさしていたのだろう。先生は〔、〕私の考えている事が解るのだろうか。でも、とに角許してもらったのだ。
 ところが、自習の授業の時間である。私と席を交代した遠藤章、奴達と盛んに口論していた。そして、その波紋が私にまで広がって来た。とうとう奴達が私の席にまで来た。遠藤章と門間綾子、川島節子である。
 で、奴は私にあやまった。「うるさかったのは私が悪かった。すみません。これからちゃんとしますから、元の席にもどって下さい」と。
 しかし、それも、私には、良く解っていた。その行動が〔、〕クラスのみんなの目を引くためのキョエイである事も。あついのいう事には〔、〕真心がこもっていなかった。奴は〔、〕全く女王蜂の様にふるまっている。かわいそうな事だ。
 夜テレビを見ていたら、元兄が働きから帰って来た。


 1961. 12.8 金曜日 晴れ
 一校時目道徳。二校時目、屋体に上〔が〕って音楽の授業。六校時の授業を終〔わ〕ってから、一年三組の教室で、初の校内選挙管理委員会が開かれた。例によって、私・書記は選挙管理委員長にされた。選挙、嫌な思い出である。でも〔、〕自分はよくやった。自分は正しかった。決して間違っては居なかった。自分の言った事は〔、〕必ず実行しなければならないことなのだ。もし私が当選していたら、嫌々、そんな事を考えるのはよそう。
 今度も選挙がある。そして、そこは〔、〕一票の差でも当選と落伍の差のつく世界なのだ。その時の敗戦者程〔、〕みじめなものはない。
 それで〔、〕今年から選挙の方法を変える事にした。今までの例によると、会長は先ずよいとしても、副会長に問題がある。すなわち、会長落選者と副会長の問題である。会長落選者とはすなわち私の事である。私が唯一の義制〔犠牲〕者なのである。それでこの問題を解決するために、昭和参拾七年の生徒会からは〔、〕次の様にする事にした。先ず立候補者はそれぞれ○○候補と書いて〔立〕候補届を提出する。それに従って先ず会長候補だけを集めて、会長の選挙をするのである。それを即刻開票して、当選者を決める。その時、落伍者は自動的に副会長候補に変更されるというのである。
 投票日は12月22日。20日に立会演説会、15日に告示。
 今日私のセーターが完成し、朝着用した。私はセーター等というものは初めて着た、大事にしよう。


 1961. 12.9 土曜日 晴れ
 今日は土曜日、授業は四時間。昼食をすませてから、すぐ帰る事にした。来週の火曜日から、第二学期末の試験が始まる。それで、受験勉強をと思って〔、〕遠藤章を誘った。それに遠藤信喜と佐藤重信も交じって、一行四人は我家に向った。
 が、風変わりな男である遠藤章は、自分で一人だけ引き返してしまった。おれも風変わりな奴だが〔、〕奴は最〔もっと〕上手だ。
 我家についてから〔、〕早速3人で受験勉強を始めた。といっても〔、〕私は専ら進学のための勉強をしていたのだが。彼達は熱心に〔、〕五時ジャスト暗くなるまで勉強していた。明日又来る事を彼達と約束して〔、〕別れた。
 夕方、夕食直前まで勉強。夕食後、テレビを見て、明日は日曜だと思い眠ってしまった。


 1961. 12.10 日曜日 快晴
 あゝ全く情けない、余りにも差がつき過ぎているのである。全く不公平だ。おれはなんでこんなに生れて来たんだろう。おればかりじゃあない、兄妹全部がだ。全く、生きる望みもなくなる、もう〔、〕何もかも終った様な気がする。母が、今晩、昨日来帰って来た。その時、従姉秋葉幸子さんの写真を持って来た。私の従姉に当る人である。たしか〔、〕高校一年である。ところが〔、〕その写真を見た途端、何ともいゝ様のない感に襲われた。似ている、全く似ているのだ。まるで兄弟〔姉妹〕の様に〔、〕奴とうり2つなのだ。一しゅん〔、〕私はなんともいえなくなってしまった。思っていたよりも美しかった。その写真を見て以来〔、〕私は考え込んでしまった。なんて、自分を情無く思ったろう。私は、そこに、美しい者とみにくいものとの区別を〔、〕はっきりと見せつけられた様な気がした。彼達は生れながらにして、私達とは別の世界にいるのかもしれない〔、〕とさえ思った。私がいくらがんばってみても〔、〕とうていおぼつく所ではないのである。あゝ、もう、死んだ方がましだ。
 (ここまで書いて、私はたまらなくなって〔、〕外にとび出していった。どうにも〔、〕この感情をおさえる事ができなかったのである)
 さて、日記を続けよう。その時の私の気持は〔、〕何だったであろうか。それは、絶望に近い怒りであった。誰に対して?それは解らない。私は全ての事に怒りを感じた。しかしその怒りの中に〔、〕絶望的な悲しみがひそんでいた。その悲しみが〔、〕私の心の中に黒い幕をはっていた。私は何とかしてそれからさけようと、狂気の様に、何かをわめいた。そし歌にならない歌を歌った。だんだん平静を取りもどして来た。私は歌い始めた。この怒りと悲しみと絶望感を〔、〕私の胸から取り出すために。最初の怒りをぶちまけた様な最初の歌から、だんだんもの静かなさみしい曲に変わっていった。そして歌った、私の知っている全ての歌を〔、〕歌いつくした。そして、最後には、なんともいえないさみしさだけが〔、〕胸に残った。それこそ〔、〕空しさである。この言葉こそ〔、〕その時の私の気持にぴったりであった。
 朝食を終えてとに角、勉強の用意をしてコタツに入って、あれやこれやと思案していると〔、〕昨日の二人がやって来た。十分程してから、勉強を始めた。彼達、気を利かして御菓子を買って来た。計百五十円相当位である。相当無理をしたらしい。午前中〔、〕とに角本をにらんで昼時、一度黒川神社に散歩してから昼食。午後三時ころ、彼達は帰っていった。


 1961. 12.11 月曜日 快晴
 遅かれ〔まき〕ながら〔、〕今夜から受験勉強を始めた。試験は明日から向こう3日間である。差し当って、明日の音楽、数学、技術をやった。でも十時ころに眠ってしまった。
 今度の試験、嫌でもがんばらなければならない試験なのだが。この前の試験は五番だった。勉強しなかったからといって〔、〕全く情ない。今度一番にならなければ全く、校内を真すぐ向いて歩かれない。
 とに角、私の面目にかけても、せいいっぱいがんばらねばならないのに。もう少し本気にならなくては。


 1961. 12.12 火曜日 晴れ
 今日は二学期末試験の第1日目。朝に、間に合わせに今日の科目を復習して、登校。やがて試験が始まった。数学でヘマをしてしまった。全く、本当に、誰でも満点とれる様な試験なのに。くやしいなあ、98点だ。これは、はっきりした点数。音楽は、良く見積もって75というところかな。技家は80かな。で今日は 253点。それにしても〔、〕教室で感じる事は、みんなの試験態度が変わった事だ。みんな本気になって勉強して、本気になって試験を受けている様だ。私が一番馬鹿だったかもしれない。


 1961. 12.13 水曜日 晴れ
 夕辺もまた眠ってしまった。それで早朝6時、眼をさまして、勉強を始めた。といっても、ものの十分程、すぐ亦、どうにでもなれと思って、眠ってしまった。観念して試験を受けた訳であるが、案外、簡単だった。社会は、90点を下らないだろうし、美術だって90点は取れたろう。英語も90は大丈夫だと思う。とする〔と〕 270点。昨日と+すると、 253+ 270= 523点。勉強しないでこの位とれたのだから、誰かに感謝しなければならない。 800取るには後 277点取れば大丈夫と思う。


 1961. 12.14 木曜日 晴れ
 全く成っていない。本当に〔、〕試験を何と思っているんだ、貴様は。夕べも寝てしまったではないか。寝てしまった寝てしまったって、三日も続いてしまったんだぞ。この辺で考え直したらどうだ。全く変な奴だよ。試験になったら、かえって普通よりも悪くなったんだから、しょうがない。
 ところで、今日は試験の三日目。理科は、70とればい〔ゝ〕方だろう。国語は90取れると思う。保体は、80取れればいゝ。すると 240。〔総〕合計は 763点となる。これじゃ、十番位がいゝとこだろう。
 とに角今日で試験は終った。余り勉強もしないくせに、やっぱり試験が終ったとなると肩の荷が下りた様な気がする。
 今晩は〔、〕安心してゆっくり寝よう。そして明日から………


 1961. 12.15 金曜日 晴れ
 今日は、夜来朝まで雪が降り、庭には、真白い雪が一面だった。十センチは積もっただろう。こんなに積もったのは、今年最初である。雪が降ったせいか、朝からヒョンな事、それに寂しい事〔、〕嫌な事が沢山あった。それ達〔等〕を順に追って書いていこう。先ず朝食を取って、登校の用意をしていたら、中米美恵治〔美恵寿〕さんが来た。その話はなんだかややこしくて、今でもよっく解らないところが沢山ある。私の名儀〔義〕で、中米さんが百万円の生命保健〔険〕に入ったそうだ。中米さんは昨年あたりから、明治生命の外交員をしているのである。それで〔、〕彼の家では全部保険に加入している。が、それでも足りなくて、私の名儀〔義〕を貸してくれというのだ。勿論、金は彼の家で出すのである。が、でも、何だか変だ。とに角これは、私の名儀〔義〕の保健〔険〕である。私が死んだ時、保険金が他人の家におちるのだろうか。なんだか〔、〕あんまりいゝ気持ではない。それで〔、〕今日吉岡の瀬戸医院に行って、健康診断を受けてくれとの事なのだ。大切な授業だが、同級生の父君のためである、なんとも致し方がないので〔、〕出かける事にした。北目大崎発仙台行で吉岡下町まで、そこから歩いて瀬戸医院に向った。開業時は九時。それまでその辺をうろついていた。九時を過ぎたけれども、どうも入っていくのに気が引〔退〕けるので、前のスーパー丸金マーケットをうろうろしていた。が〔、〕その内に瀬戸医院から、一人の看護婦さんがでて来た。私を呼んだ。それは、一年先輩の高橋せつ子さんだった。大崎部落である。こゝの看護婦をしていたのである。本当に〔、〕あの人が居てくれなかったらどんなに困っただろう。中に中米さんがいた。どうやら〔、〕ぼくがうろうろしている内に来たのらしい。それから診断を受けた。血圧、身長、体重、胸囲、腹囲、歯、目、それに、尿まで検査されてしまった。全く〔、〕あの時は嫌な感じだったよ。診断を終って、十時三十八分〔、〕松島線で帰って来た。斉藤屋まで歩いて来て、そこに置いておいた自転車で帰宅、弁当を食った。それに、もちを焼いて食べた。やがて〔、〕義姉と母が昼食を始めた。私はテレビを見ていた。十二時半、時間を見計らって、再び自転車を踏んだ。斉藤屋の所に自転車を止〔停〕めて、学校の坂を上った。坂は〔、〕今朝の雪が三百余人の足に踏み固められて、ツルツルになっていた。教室では〔、〕みなが昼食を取っていた。私がこのカラッ風の中をアノラックスに身を固めて登校したのには、2つの目的があった。一つは昨日までの試験の答案を返してもらう事。もう一つは、彼女に会う事。しかし、この2つは見事に破られたのである。確かに、彼女に会う事はできたし〔、〕試験も返された。しかし〔、〕試験はみな予想より下まわった悪い点数ばかりだった。それに、アイツだってちっとも、ぼくを待っていてはくれなかった。ぼくが教室に姿を表〔現〕わしても〔、〕ちっとも変化を見せなかったのである。私は〔、〕もう何しに、たった二時間ばかりの授業を受けに来たのだろう〔、〕と思った。やっぱり〔、〕おれは一人なんだ。おれはたった一人なんだ。誰も〔、〕おれを気に留めてくれる人は〔、〕一人も居ないんだ。
 六校時目の授業は英語だった。この一時間〔、〕全くつまらない事で八割までをすごしてしまった。みんな試験の事に、関係づけて、先生をからかい始めた。それを、先生は真に受けて、一生けん命だ。野郎供は、ふざけ半分だというのに。そしてあいつまでも、どうやら、その一員らしいのだ。私は〔、〕なんともいえないさびしさのため、一時間一言も話さず〔、〕一人で勉強していた。


 1961. 12.16 土曜日 晴れ
 四校時を終えて昼食、そして掃除、今日は特別の班編成でやった。で私は職員室掃除に当ったが、生徒会の用事で当番はしなかった。
 宿直室で、生徒会役員の改選について、各候補者の責任者を集めて、放送演説会や、立会演説会の順序や打ち合わせをした。なお今〔、〕日から選挙運動が開始され、校内にはポスターが張り出された。
 放課後〔、〕第七回目の模擬試験が行われた。今日は三科目だけでした。夕方、目黒喜一〔義〕叔父が来て、テレビの事務を済ませていった。


 1961. 12.17 日曜日 晴れのち雪
 朝起き出したら、時計の針はもう八時を回っていた。今日の登校時間は八時三十分だった事を思い出し〔、〕あわてて朝食をすませ、鉛筆を二・三本胸のポケットに差し入れて〔、〕自転車で登校、もう級友の大部分は来ていた。八時四十五分から試験が始まった。四時間試験をして〔、〕解散。私はストーブの後始末をきちんとするために、少し残って火に暖っていた。皆は机を整えて帰ってしまった。私と藤倉靖君、郷右近初雄君、熊谷信一君、遠藤信喜君達で〔、〕ストーブの火を始末した。それから〔、〕靖君と二人で下校した。家に帰って昼食。食後ずっと、五時ころまでテレビを見ていた。いゝ劇だった。「王将一代」というのと〔、〕もう一つ題は忘れてしまったが、明治時代の辺の物語。夕方、庭をはいて、それから、夕食。午後からずっと雪で〔、〕今は大部積もったらしい。
 食後〔、〕テレビを観償〔賞〕。それから勉強、今十一時半。
 模擬試験の点数を自分でつけて試た。とに角 457点という点数がでた。国語66、社会70、数学40、理科68、音楽47、美術31、保体44、技術46、英語45で、計 457というわけ。この通りいくかどうか。又、これをどの程度下回るか、せめて 450はとりたいものである。
 それにしても〔、〕何だか不思議な気持だ。今度の試験はさ程苦労もしないのに、そしててんでだめだと思っていたのに。こんなにとれたんだ。ひとりでに、力がついたのかもしれない。いくらかでも私が苦労した分、報いられたのかもしれない。でも〔、〕こゝで考えねばならぬ事、50点科目の事である。この平均がなんと44点なのである。これに対して百点科目は61点。これは考えねばなるまい。

            
努力は天才に勝つ


 1961. 12.18 月曜日 雪
 降り積った雪も晴天のためにすっかりとけてしまった道や田畑の上に、又雪が積〔も〕った。いくらかみぞれ気味の小粒な雪だった。15cm・5寸は積〔も〕った。それで自転車の登校不能となり。徒歩で登校した。これからは〔、〕徒歩の登校が多くなるだろう。でも遅刻はしなかった。

 今日で二学期末考査の点数が全部そろった。逆さになってかん定してもゆすぶっても、740といくらという点数である。今度も又、五位辺だろう。
 ドイツの詩人ゲーテの言葉である。
 「あせる事はなんの役にもたたない。後悔はなおさら役にたたない。前者は誤〔過〕ちを増し、後者は新しい後悔を作る」
 この言葉がせめてもの、私のなぐさみ〔め〕である。しかし、人々はこんな私をどんな目でるだろう。家族のものは、先生は、級友は、そしてあいつは?
 皆は、もう澤田には限界が来たと見るかもしれない。無理もない、推理である。二回も続けて、敗れたのであるから。又、この成績は、てき面に通信表に表れて来る。これを見て〔、〕家族のものはなんと思うだろう。
 しかし、後悔はなおさらない。後悔は新しい後悔を生む、である。それよりも、明日の生活に希望を持とう、明日の生活に。明日の生活が〔、〕今日のこの日より、少しでも良い日であります様に。


 1961. 12.19 火曜日 晴れ
 降り積もった雪も〔、〕昨日午後からの晴天で〔、〕自動車の両車輪の後〔跡〕だけ、二本平行に、土が表〔現〕われていた。それに、氷点下の温度で〔、〕あの悪い砂利道も氷〔凍〕りついてしまった補〔舗〕装道路並であるとは余りにもおおげさであるが、とに角、そんな通いなれた道を〔、〕自転車で登校した。思えば〔、〕このおんなじ道を何度往復した事だろう。九年間という長い間〔、〕雪の日、雨の日、風の日、寒い日、暑い日、良く通ったものだ。この道路には、ぼくの苦労の跡がしみこんでいるんだ。
 登校してすぐ、朝掃除の時間〔、〕今週は、職員室の当番である。それからレジオ体操。一校時目は数学。二校時目選択・英語の時間、半分は自習であった。三・四校時は美術、版画の原画描きであるが〔、〕どうも乗り気がしないので。一時間何となく遊んでた。間もなく〔、〕二時間目が始まった。突然〔、〕誰かが教室に跳んできた。文屋政次がけがをした〔、〕というのだ。それで〔、〕私は何となく外に跳びだした感だったのである。校庭を〔、〕顔と手を血だらけにした文屋政次が走っていく。私は〔、〕すぐ後を追いかけた。私の後を〔、〕遠藤信喜が追って来た。前には、文屋政次当人と、千葉隆、安藤章悦達が走っていく。すぐに〔、〕診療所についた。私達は汚れた靴で雪を二・三度踏んでそのまま、そそくさと診療室に入って行った。どこかで転んだと見えて〔、〕文屋政次は泥と、それに頭から吹き出す血にまみれていた。
 幸い、傷は大した傷ではなかった。頭に傷がついただけであった。傷の原因は、千葉隆と文屋政次がふざけて、文屋〔、〕が階段のところにある〔、〕え〔柄〕の折れた手回しサイレンの、折れ口に、頭をぶっつけたのだそうだ。それで〔、〕あわてて診療所にかけ込んだという訳である。私がそれを見て一緒にかけ込んで来たのは〔、〕勿論委員長だという事も少しはあったかもしれないが、つまらない授業から開放されたいためだった。
 治療が終ったころ、その時間の授業担任である丹治教諭が入って来た。それから、すぐ診療所を出た。途中、郵便局で年賀状を百円(20枚)買った。学校では、もうみんな昼食をすましていた。まず〔学級〕担任に報告に行った。
 帰宅してから、昼食の弁当を食べた。それから勉強、夕食。食後、テレビを見て勉強しようとして、寝床の前に本を置いたまでは良かったが、知らぬ間にすっかり眠ってしまった。


 1961. 12.20 水曜日 晴れ
 早朝も早朝〔、〕本日午前一時三十分、尿意を感じて眼をさましてから、朝方まで眠っていたのか起きていたのかまるで解らない。眠ってしまった様でもあるし〔、〕起きていた様でもあるのである。半分は眠って〔、〕半分は目をさましていたのかもしれない。誠に〔、〕夢うつつとは、あの事かもしれない。昨夜眠ってしまったので、今朝目ざめた時は、はっと思って、これから勉強しようと思った。時計を見ればまだ一時半である。朝までこれから何時間あるか数えた、までは良く覚えているが、その後は眠ってしまったのか起きていたのか、全く解らない。時々気がついては又、眠ってしまったらしい。そんな状態が〔、〕朝まで続いたらしい。この事からも解る様に、私には勉強する意志が、ある事は確かだ。だが、その通りに手が動かないのである。十二月ももう二十日である。今年も〔、〕あと十一日でおわりである。今年の最後まで〔、〕勉強ですごそう。早くあのテキストを処理してしまわなくては、全力を上げて。それなのに、今の私は、テレビを見て、一夜を明かしてしまっている始末だ。テレビが何だ、あんなもの。見まいとすれば、いくらでも。
 とに角〔、〕速〔早〕くテキストをやってしまわなくては、一日も速く。しかし〔、〕あせってはいけない。「あせることはなんの役にもたたず、それは返〔却〕って誤〔過〕ちを増す」である。
 朝食を終えて、登校。朝掃除、ラジオ体操、授業。四時間目の体育の時間に、今日の午後行われた立会演説会の会場作りをした。昼食後屋体に、泉田君と二人でマイクをすえつけた。そこで、笑い話が起った。配線盤の電源を入れないで〔、〕おかしいおかしいといって、いろいろいじくっていたのである。やがて〔、〕立会演説会。それも終って掃除当番、下校、帰宅、すぐ飯を食った。それから今まで日記をつけて来た、二日分である。今五時十分である。一校時目理科の時間、こう言われた。何か一つでもいゝ、卒業するまでにたった一つでもいゝから、永久に職員の心の中に残る様な事を〔、〕みんなでしていってもらいたいと。卒業するまで………
 その言葉が〔、〕今でも私の心の中にこびりついて消えない。卒業〔まで〕の間に〔、〕何かを……


 1961. 12.21 木曜日 晴れ
 「光陰矢の如し」。時のたつのはまったく早いもの。私がこの日記をつけ始めてから〔、〕早や一年の月日が流れんとしているのである。今年の正月元旦より三百五拾四日目・今日十二月二十一日を以てこの日記も第八巻を数えるに至ったのである。この一年間の苦しみ、悲しみ、うれしさが、貴重な一ヶ年間の記録が、この日記には余すところなく、ぎっしりと書き連ねてあるのだ。君は〔、〕この日記を何年後かに見て気がつくだろう、日記の名が変更されている事に。最初の日記の名は「想い出」だった。それから一寸つけたして「想い出の日々」とした。そして今度は「鬼の手記」である。鬼の手記、誠に味わい深いことばである。鬼。そう、私は鬼になろうとしている。テレビの番組に〔、〕「悪女の手記」というのがある。私は〔、〕無意識の内にそれからヒントを得ていたらしい。これから私は思うままに、日記の名前を変えて行こうと思う。日記の名弥〔称〕〔、〕はいわゆるその時代の自分の感情を代表することのできる〔、〕唯一のことばなのである。これからこの名がどの様に変わるかもしれないが、その名弥〔称〕の後をたどるだけで〔、〕私の感情の成長の様子が解るだろう。調〔丁〕度〔、〕中国の国名が変わった様に、それは〔、〕私の世代がかわったものなのである。今の自分の感情を他の違った感情が征服した時、その名弥〔称〕は変わるのである。鬼の手記、これが現在の私を征服している感情に〔、〕又は理想にぴったりの詞なのである。私は鬼になりたいのだ。何もかも忘れて〔、〕唯鬼と化したいのである。勉学の鬼に、試験の鬼に。鬼・鬼・鬼………。鬼に成り度い。


 1961. 12.22 金曜日 曇り
 まだ道々や、田畑に、雪が残っている初冬のすがすがしい朝だったよ、お前さん〔姪裕子〕の生れた日は。すなわち西暦一千九百六十一年・昭和参拾六年十二月二十二日金曜日の午前九時ころ〔八時二五分〕だと思う。その時君は、この世に生み落〔と〕され〔た〕んだよ。それで〔、〕私は伯〔叔〕父さんという事になってしまったんだよ。今から十何年か後の私は、そう、髭をはやして〔、〕いばって君の前にいるかもしれないよ。でも、今の私は、十五才の〔健〕気な少年だよ、中学の三年生だ。HRの委員長だよ、これでもね。成績だって〔、〕悪くはないんだぜ。で今〔、〕はとっても急〔忙〕しいんだ、高校の入試の勉強にさ。今から15年たったら〔、〕君にもこの気持解ると思うよ。でも君は、女の子だから、どうだか解らないけど、多分〔、〕解ってもらえるだろうな。いゝかい、君のパパとママはね、いや、お父さんとお母さんかな、とに角〔、〕二人はとってもいゝ人だよ。ぼくには、よっく解るんだ、だって〔、〕ぼくの兄さん姉さんだもんな。君はしあわせだよ。いゝかい、君は、私を伯〔叔〕父さんだなんていっちゃ嫌だよ。兄さんだと思ってくれよ。ぼく達兄弟の中では、君が初めてのベビーなんだから、みんなで君をかわいがってやるよ。それからね、君のおじいちゃんとおばあちゃん、とってもいゝひとだよ。僕のパパとママだから。大事にしておくれよ。
 そうだな、君が今の僕の年齢十五才になったころは、みんなどうなっているかな。おっといけない、ぼくはもう三十才だよ。父は六十五才か。母は六十才。君のお父さんは四十才。お母さんは、三十七才かな。修兄は、三十五才。そしてぼくが三十才と静枝が二十八才、小秋が二十六才、小春は二十三才。そしてその頃には君の弟や妹もできるだろうし、従兄妹も沢山できているだろうな。なんだか楽しいぜ。そう、ぼくね〔、〕ずっと前から考えていたんだよ。君の名前、香澄っていうのはどうだい。ぼくは〔、〕とってもいゝ名前だと思うけどな。こんな名前〔、〕嫌いかい。まあ〔、〕みんなと相談してみよう。
 そう〔、〕君の生まれる時の事を詳しく話してあげよう。ぼくがいゝ気持で寝ていると急に、母に〔、〕そう君のおばあちゃんに起されたんだよ。それで客間の所に行くと〔、〕君のお母さんがうずくまっているんだよ。びっくりしたよ。大部苦しそうだったよ。しばらくして、タクシーが着いた。そして君のお母さんとお父さんそれに、お婆ちゃん、そして伯〔叔〕父さんの喬、その時は中学二年だったが、その四人が乗って、タクシーは出発した。一度〔、〕北目によっていったそうだ。黒川病院について間もなく、君は生れたそうだよ。前の晩は〔、〕君のお母さんは編物をしていて〔、〕とても元気だったよ。それに予定日は一月の二日だったし〔、〕まさか今日生れるとは思わなかったよ。とに角〔、〕君の大きくなるのが楽しみだよ。(36.12.22. 8:25)

 今日試験の点数を張り出された。予期していた事ではあったが。やっぱり痛かった。四位だった。でも〔、〕ぼくは僕の取った点数に責任を持つ。これで皆は、完全にぼくが終ったと見るだろう。しかし見ていろ、模擬試験の成績を、三学期末すなわち学年末の試験を。
 今日〔、〕生徒会役員の改選があった。会長千葉平、副会長門間惣一、須藤けい子。


 1961. 12.23 土曜日 曇り
 義姉も母も居ないので〔、〕今朝ははりきって、掃き掃除までやった。学校にいても〔、〕全然つまらない事ばかりだった。おれは〔、〕あいつを見損なったよ。


 1961. 12.24 日曜日 晴れ
 夕方、母が帰って来た。その時、クリスマスケーキをもって来た。これは、義姉の妹の八島節子さんに〔、〕もらって来たんだそうだ。妹達が杉の小枝をとって来て、クリスマスツリーを飾った。とっても楽しそうだ。でも一寸かわいそうな気がする。それとケーキをテレビジョンの上に飾って〔、〕夕食をした。すると子供達がテレビを見に来た。人が飯を食っているのに黙って戸を開けて入って来て、ひとりでこたつに入っている。全く礼儀を知らない奴達だ。食事の時くらい〔、〕遠慮したらいゝのに。それに、あいさつぐらいしたらいゝだろうに。
 夜、皆が帰ってから、ケーキを食った。ほんとは、生れて始〔初〕めて食ったんだ。


 1961. 12.25 月曜日 雪
 朝、七時三十分ごろ起床。あわてて洗面、朝食をすませ登校。今日は四時間授業。昼食後〔、〕屋体で生徒大会並映画会。生徒大会は、新旧役員のあいさつに終った。私は司会という事で、開会のあいさつをした。これで〔、〕私達は正式に引退した事になるのだろう。
 映画は〔、〕「天狗まつり」という時代劇と〔、〕「母ちゃん死ぐの嫌だ」という、時の名現代悲劇。前者は大友柳太郎主演で、外に、丘さとみ、若山富三郎等。徳川時代のある一人の兵法者の物語。後者は先ごろ、中村錦之助と結婚した有馬稲子主演。外はものすごい暴風雪で、暗幕がふくれ上がり、窓が音をたてて、光が入って、コンディションは悪かった。映画が終ってすぐ下校。


 1961. 12.26 火曜日 晴れ
 考え様によっては〔、〕全くつまらん事であったかもしれない。しかし、もうあの時は、興奮していて、どうにも仕様がなかったのである。もう一度冷静に考え直して試〔み〕よう。事の仔細はこうである。それは斉藤商店でのでき事であった。私は自転車を斉藤屋の側に置いてもらっていたが、青天井の下においておいたので、朝に降ったみぞれのために、サドルがびしょぬれになっていた。それで何かふくものがないかと思って、店の中に入った。調〔丁〕度こわれた、まん画の本があったので、なんの気なしに、それをもって自転車を店の前でふいていた。そしたら、じいさん(兵記)かどなりながらとび出して来た。そして、私を泥棒とののしった。泥棒といわれては、私も黙っていられない。それは私も、確かに、悪かった。他人の者〔物〕を無断で使ったのだから〔、〕確かに泥棒かもしれない。でも………。たかが二・三ページの雑誌の切れはしである。何も泥棒とまではいわなくとも。それに〔、〕相手が店をやっている以上、私はあくまでも客である。それが客に対する態度だろうか。私もそんな仕打ちにがまんしきれなくなって、つかみかかろうとした。しかし、やめた。私は中学生である。それに相手は、正常の人間じゃないんだ。それに老人だ。不思議な事に私は、彼を憎む気にはなれなかった。あわれだという感が〔、〕先に立ったのかもしれない。おろかなものを相手にしてもはじまらない。私は学生らしく、自分の至らなかった点をわびる事にした。それまでは本当に、涙が出る位口惜しかった。でも〔、〕その時は冷静を取りもどしていた。私は、静かに頭を下げた。しかし〔、〕相手は頭を下げなかった。それでも〔、〕私は黙って帰って来た。その方が利口である。相手にしてもどうにもならない事である。私はりっぱだったと思う。それでこそ〔、〕中学生だと思う。家に帰っても〔、〕その事は誰にも話さなかった。一人で〔、〕心の中でもう一度考えていたのである。
 この事件を〔、〕第三者はなんと見るだろう。どちらに同情をよせるだろう。そこに居あわせた学友達は、こぞって私の助言をしてくれた。本当に有難い。大体事の起りは全く、微小な事である。それを〔、〕あのじいさんが始めからどなりつけて来たからいけないんだ。そして〔、〕泥棒とののしった。余りにもひどいののしり方だった。そこを通りかかった人、又は近所の人は〔、〕私が万引きを働いたとでも思ったろう。話せば解った事ではなかったろうか。普通の大人なら、静かに注意してくれるのが関の山である。それどころか〔、〕大外〔概〕の人は大目に見て〔、〕気にも留めない事だろう。増してや、相手は商人である。客に対して、なおさらサービスをしなければならんのではなかろうか。少なくとも私は、あの店の常連である。その位の事は〔、〕大目に見てくれてもいゝはずだ。

 全く〔、〕あのじいさん、子供の様な大人である。終始私が比較的冷静で、理性を守ったのに対して、相手は最初から感情をむき出しにして来た。子供だからといって、客をこんな風に扱われたのでは黙っていられなかった。全く、常識のない大人である。しかし〔、〕かといって、私が正しかったというのではない。私も大いに反省しなければならない事なのだ。昔のきびしい教育を受けたあのじいさんには、私がそんな風に見えたのかもしれない。


 1961. 12.27 水曜日 晴れ
 遅ればせながら、朝食後床をたたんで登校。昨日あんな事があったので、斉藤屋の側には自転車を置けなかった。それで〔、〕氷のはった坂道を仕方なく、自転車小屋まで上げた。四時間目が終ったころ、父兄が、ぞろぞろ集まって来た。私は今日PTAの総会があった事を知った。
 家に帰ってから、母をせきたてて学校に行かせた。父はその時、役場に、裕子の命名の手続きに行った。「裕子」、これが名前である。香澄は〔、〕やっぱりだめだった。裕子という名前に反対したのは、私一人だった。
 それから〔、〕夕方まで勉強していた。真暗になってから、母が帰って来た。父はその前に帰って来た。母が通信表をもって来た。音楽が3である。保健体育と社会が4。全五から一挙にこの成積〔績〕である。でも通信表等〔、〕もう、どうでもいゝのである。でもうれしい事もある。模擬試験〔、〕やっぱり 464取れたのである。 450の壁を〔、〕やっと破れたのである。あと36点で 500点である。数学が44点だから、まだまだ余裕はあるんだ。
 私は〔、〕とに角一高を希望する、誰が何といおうと。とに角努力する事だ。それから、東北電子高校を受けて試〔み〕ようと思う。私立高校では最高のレベルだろう。


 1961. 12.28 木曜日 曇り
 登校後、朝掃除、ラジオ体操と進み、一校時きりの授業は理科。といっても、理科に関係する事は何も言わなかった。昨日の父兄会の感想。それから、昨日父兄が来なかった家の生徒に通信表が返された。それが終ってから、進学希望生の名が次々に呼ばれた。最初に呼ばれたのはぼくだった。もう一度、模擬試験を受けて、その成績で決めるという事だった。それから、電子高を受けて試〔み〕る事、そんな事であった。
 二校時目はHR、一校時の続きである。三校時目屋体で第二学期の終了式。四校時目は部落生徒会。それが終ってから校〔、〕庭から燃料室まで亜炭運びをした。その後〔、〕昼食。昼食後〔、〕すぐ掃除。放課後、2年3組の教室でバスケットクラブの集会を開き、分散会の事について話しあった。結果、日時・十二月三十一日午前九時より。会場・鶴中一ノ三教室。内容・会食、その他レクリェーション。会食料理名は、のりまきと、いなりずしで〔、〕調理員は全女子部員。会費は七十円で〔、〕その他持参物は、各自米 2.5合、卵一個。成可く全員が参加してくれればいゝんだが。その後〔、〕すぐ下校、帰宅。日記のナンバーを調べてみたら十二月三十一日になっても三百六拾五日にならない。それで第六巻からひっくり返して改〔訂〕正した。そしたら生後の日数も10日程も違っていたので〔、〕なおした。一番最初から違っていたのである。それをやるのに晩までかかってしまった。夕方〔、〕大崎に使〔遣〕いにやらされた。納豆、タマサトー、唐がらし、等を買って来た。今日はもちである。それで父や兄は多忙なので、風呂をわかした。父と兄は、本家から機械を借りて来てもちをついている。家の分をつき終ってから、夕食にして、又、彼達はつき始めた。


 1961. 12.29 金曜日 曇り
 今日十二月二十九日より来月の、いや来年の一月七日まで、十日間、冬期並びに正月の休業である。いわば、二年越しの休業である。冬期休業といっても〔、〕見渡す限り雪のあるのは、奥羽の山々ばかりで、里々はまるで春の様な暖かさである。それに、正月といっても、我町では、旧暦の正月らしいので、何といって変った事はない。まったく、張合いのない〔、〕意味の無い休業の様にもある。それでも〔、〕私達はこの休みを何とか意義のある休みにしなければならないと思うのである。今となっては、一日の時間も惜しまねばならないのである。今年もあと二日余り。光陰矢の如しとは全く、生〔上手〕い事をいったものである。「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず………」か。


 1961. 12.30 土曜日 快晴
 朝起きて、朝食を食べ終り、勉強をしようかなと思って、コタツの側に教科書類を用意して、一寸外に出て、昨日洗った長グツの乾燥具合を調べていたら、級友で親友の相沢力、佐藤龍美、高橋重幸の三人が一緒に訪ねて来た。父と静枝は仙台に正月用のもちを運んでいったし、母と小秋、小春は本家に行き、義姉と赤ちゃんは病院にいるので家には、私と元兄しかいなかった。四人でコタツに入って、無い事、ある事雑談をしたり、テレビを見たりした。昼私だけ飯を食って〔、〕今度は学校に行った。学校では、まだ補講をやっていた。この三人は〔、〕補講をサボって来たのである。行く途中、家から荒縄を二個〔、〕自転車で運んで来た。それを仕上げて来〔呉〕れる様に頼んで、学校に行った。補習のじゃまになってはと思って、一度下におりた。そこで〔、〕私は郵便局に年賀状を出した。昨日の午後〔、〕書いたのである。それから、又、すぐ学校に上〔が〕って、屋内体操場まで行った。黒川高校にいっている先輩が三〜四人、剣道の練習をしていた。皆が校庭を下りていくのが見えた。僕達は、三の一の教室に入って〔、〕明日の分散会の事について話しあった。その後〔、〕すぐ帰った。その時、去年の三月東京に働きに行った、一年先輩の音羽光雄君が帰ってきた。私は〔、〕一寸後姿を見ただけであるが。それから〔、〕今度は吉岡にでかけた。目的は二つ。一つは薬を買う事。もう一つは、裕子ちゃんに会う事である。しかし、もう一つの私にとっては、重要な事も偶然に会〔有〕った。十字路を渡り、劇場前の停留所で〔、〕富田テイ子と川島節子に出ったのである。あいつの方は後から気がついたのらしいが。富田テイ子に先に気付かれた。全く、その時の私の心臓はぶちこわれんばかりであった。ペダルを踏む足に直〔尚〕一掃〔層〕の力を込めて〔、〕振り向きもせずに素通りしていった。米城薬局の前に止〔停〕まったが仲々〔中々〕入りにくくて、店の前をうろうろしていたら、中米勝男さんの四輪車が来て泊〔停〕まった。どこかに用事があったらしい、その中に義弟八島喬も乗っていた。彼は病院に行って来たのである。
 私も薬の方は後まわしにする事にして〔、〕黒川病院に行って見〔み〕た。室は、十五号室。トントンとドアーをノックすると、義姉の実父八島静夫氏が顔を出した。そして赤ん坊と初対面した。第一印象は、余りにも小さいなあという事だった。本当に小さかった。赤ん坊ってこんなにも小さいものかなあ〔、〕と思った。それに仲々〔中々〕まとまった、面であると思った。きれいな女の子になると思う。結構な事である。とに角、私の体験から言うと〔、〕美しいという事程幸せな事はない。何といっても〔、〕美しいという事は幸福な事である。それから一時間程、八島氏夫妻や姉と談笑して、又吉岡の町に出た。遠藤屋の隣りに、余り目立たない、小さな薬局があったので〔、〕そこに入った。小さな薬店ではあったけれども、なんとなく、入り易い、気風が流れていたのである。そこでモンゴル・セブンという、便秘薬を買った。 200円也である。そのまま、家まで真直に帰宅。もう大部暗くなりかけていた。柴崎の所で、畜産センター建設のための土木工事をやっていた。随分大規模な経営の奴を〔、〕作るらしい。


 1961. 12.31 日曜日 晴れ
 昨日の約束では、遅くとも八時半までは集合という事であったが、私は九時を過ぎてやっと腰を上げた始末。当の私がこんな風であるから〔、〕全員集まって準備を始めたのは十過ぎ。参加者は全員で十六名。予算の方は16×70=1120円である。それに〔、〕後から残った卵七個と米二升を売り払って 270円の金を作り、結局合計1390円の予算という事であった。それは一銭残らず、さらりとなくなってしまった。まず持ち寄った材料を集めて、料理の方は、女子チームにおまかせである。女子は六人、男子は十人の参加者である。男子の方は専ら、買物に専念である。そんなわけで、いなりずしとのりまきのできたのは、一時過ぎ。三年一組の教室で〔、〕楽しい(?)会食となった訳である。その後家に帰る途中、瀬戸理髪店で散髪。終ったのは、もう真暗になってから。その足で、音羽光雄君の家に行って、久し振りに彼と顔を合わせた。夜は、二日がけで、テレビを見た。

 さて、思い出の三十六年・一九六一年も、あと数時間で終りを告げようとしている。思い出多き、一千九百六十一年よ。思えばいろいろな事があった。だが、その一年三百六十五日も今になっては、まるであっという間に過ぎ去ってしまった様な気がする。今こゝに、この三十六年を振りかえってみるに、この年は私の一生涯にとって、一つの大きな曲り角の年だった様な気がする。それは、一口に言えば、少年から青年に移り変わった様な気持である。私は、この一年三百六十五日という長い時間の間、何を学び何を体得したか。私は〔、〕人間的にどれだけの進歩をとげたのだろうか。どれだけの社会性、教養、技能を身につける事が出来たろうか。そして、それ達〔等〕は、全て満足すべきものであるか、どうか。この一年は、これまでになく人生の苦しさを味わい、又、最高の人生の歓びを体験する事ができた。私は恋をした。勿論〔、〕生れて初めての恋である。これこそ〔、〕人生の唯一の希望である。青年は何を希望にこの世代をおくるか。それは青春である、若くはつらつとした青春である。私はその青春を体験する事ができた。私のそれは、端から見れば極めて消極的なものであったかもしれないし、そして私も努めて、その様に見せてきたのである。なぜ?それは、私が笑われる様な気がしたからである。そして、当の本人にさえも〔、〕まるで消極的だったのである。しかし決して私は積極的になれとはいわない。とに角、自然に、なるがままになっていようと思う。しかし、その間に、最高の思慮を働かせて考える事はいうまでもない。何か月かは、只彼女の顔を見るために学校に行った様な日もあった。そして今もそうなのである。それなのになぜか、彼女と顔を合わせると〔、〕却って彼女を避けてしまうのである。私は〔、〕常にある一定の距離を保っているのである。それ以上は〔、〕私は絶対近づかない。彼女の前に顔を出すと〔、〕いかにもわざと顔を出している様な気がするのである。それで〔、〕用便にも水を飲みに行くにも職員室に行くにも、私は、教室の南側を抜けて玄関を通って、あるいは三ノ二を通って〔、〕それぞれの用を足すのである。誰よりも誰よりも愛しているのに、誰よりもつらく当る、なぜだろう。私とは、こういう男なのである。そんな事にかけてはまるで勇気のない、純情過ぎる青年なのである。私と彼女との心の間を冷たくさえ切〔遮〕るものは、一体何であろうか。それは、私には、はっきりと解っている。その冷たいカーテンは、私をいつもおおっている、暗い、一つの劣等感である。何かの事について劣等感を持たなければならないという事は、全く不幸な事である。そして劣等感を持ち合わせない人間は〔、〕この上もなく幸福である。そして劣等感を持つべき事に劣等感を感じない人間も〔、〕上べは幸福そうに見えるが実は、かわいそうな人間だと思う。その劣等感が、自分の気持や行動次第でとり消せるものなら、その人は、まだ幸福になれるチャンスをもっている。しかし〔、〕生れつきの不治の劣等感を持つものはどうであろう。しかるに〔、〕私は後者に属するのである。私の劣等感は〔、〕親にもらったどうしようもないものなのである。人並外れた、面ボウの持ち主である私。人より以上の面ボウを持った彼女。私は〔、〕このへだたりをどうして埋めようかとして〔、〕悩むのである。彼女にも〔、〕欠点がない訳ではない。数にしたら、むしろ彼女の欠点の方が私より多いかもしれない。しかし、それらの示す比重は、この私達の大きなへだたりに比べれば、まるで比べものにならないものなのである。私は〔、〕今まで唯一つ、その事にだけ悩み苦しんで来た。そして〔、〕これからも悩み続けるだろうし、もしかしたら、一生尽きぬものなのかもしれない。この不気味な黒い幕は、何をする時にも私の心をいっぱいにおおっている。それゆえに〔、〕私は彼女に人対人では、付き合えない様な気がしているのである。私は彼女を女王とも、女神とも思っている。しかし彼女は、私を犬や猫位にしか思っていないかもしれないのである。それゆえに、一対一の交際はできないのである。同等の立場で交際する事は〔、〕できないのである。いつも〔、〕私は数段下の世界に居なければならないのである。私は〔、〕彼女以外の人達とは、誰とでも自由に〔、〕一対一で交際できる自信を持っている。例え私の劣等感をズバリ当てられて、笑われても。しかし何十億という全人類の中で唯一人、その交際ができない人がいるのである。彼女だけには笑われたくない。誰が私から去ってもいゝ〔、〕彼女にだけは、去ってもらいたくないのである。私は、彼女との別れがこわいのである。彼女と別れる事が。もしそうなったら、私は死んでしまうかもしれない。不思議な事に、私は彼女のどこにひかれたのか、解らない。今冷静に考えてみるに、彼女はまるで欠点だらけの様でもあるのである。しかし昔の私が彼女にひかれた時の姿が今も脳に、しっかりときざみ込まれてしまったのである。この分では、例え彼女が殺人犯になったとしても、又どんな悪女になったとしても、私の気持は変わる事は無いだろう。もう〔、〕どうしようもないのである。冷静にこの事を考えて見〔み〕るに〔、〕全く人間の心は不思議なものである。しかし、その人が何か悪い事をしてしまったというので愛が消えてしまうというのでは、本当の愛ではないと思う。私は〔、〕この片思いがいつ終るにしても美しく、この私の初恋を終らせたいのである。今までのこの片思いは、この上なく美しいものだった。只一つの汚点も見い出されない程〔、〕清潔なものだった。この初恋が終った後で私が恋をするにしても〔、〕この様な美しい恋はできないだろう。しかし〔、〕今の私としては、天に、神に祈願して、千に一つのこの願いが〔、〕奇跡〔蹟〕的に花を咲かせるかもしれない日を〔、〕毎日夢見るばかりである。


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InterBook紙背人の書斎(最終更新日時:14.11.5,1:20 PM
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