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具象と抽象
知・情・意・体・物・力(エネルギー)


澤田 諭





 人間は、「人間とは何か?」と自問し、自らがその一部である「世界とは何か?」と問う「世界の自己意識」であり、あたかも己が右手で左足を掴み、己が眼で己が肢体を眺めるがごとき「世界の自己認識」である。

 「存在」は不可分の「全体」であり、全能の神ならぬ人は直接これを「把捉(把握・認識)」できない。

 人間は不断に「定立」する実存であり、「存在」は「現象」として初めて人間に現前する。

 「現象」は、「具象(事象、物象)」として人間情動(情意)と、「抽象」として人間理性と相互作用し、人間精神に把握(認識)される。

 人間のあらゆる観念(思考、学知、哲学)は「抽象」である(「具象」という概念もまた、無論抽象である)。





 さしあたり、直接的に最も確実なことは何か?それは、実践的には、私が「直接的に最も確実なことは何か?」と自問していることである。
 しかしながら「直接的に最も確実なこと」は、天動説の事例に明らかなように、必ずしも真実とは限らず、かえって無用な袋小路に迷い込まされかねず、必ずしも生産的な方法とは言い難い。
 理論的には、むしろ伝統的に「無」から説き起こす方が、賢明(「合理的」)だろう。
 一般にこの分野はPhilosophie(愛知)と定言されており、日本語では「哲学」と翻訳されている。


 無」については、本来、原理上何も言えず、言い得ず、言う必要がない。「無」は、「ない」。
 そこを、あえて蛇足すれば、
 何もなければ、簡単明瞭至極である。およそ「何事」も「何物」もなければ、何の問題もない。言うべきことは何もなく、いかなる定言・定立も無力である。ことさらに「ない」とあげつらい、「無」と名状することさえできない相談であ吏、せいぜい「沈黙」が関の山だが、これすら余計なお世話である。ことは人間理性の埒外にあり、人はまったく為す術を知らない。人は「無」を認識できず、端的至極に「無事」である。
 ことさらに138億年の宇宙の存在を持ち出すまでもなく、「無」と記述し始めた途端、「何か」(「無」の文字・音声・言語・概念・観念)が必然的に顕現し(どころか、むしろ「前提」され)、「無」はたちどころに葬り去られる。少なくとも「何か」(人間理性)が「ある」以上、「無」は「あり得ない」。「無」が「ある」とか「ない」とか忖度すること自体論理的形容矛盾であり、「無」と「有」は両立せず、「有か無か」の二者択一である。「ない」ものは、端的に「ない」、としか言表し得ない。

有・有限・存在
 幸か不幸か、何かは「ある」。この世界はある。「我思う。故に何かあり。」我々には言うべき何かがあり、故に何かの「ある」この世の中(世界)が、我々に開示される。人間とは、不断に何かを定立するものであり、故に何かは「ある」。我々は、あらゆる瞬間に、何かを定立せずには居られない。と言うより、「不断の定立」こそ、まさしく「人生」そのものの謂いに他ならない。
 いったい何ゆえ、何かが「ある」のか?この世界はあるのか?我々はそれを知らない。が、とにもかくにも、そもそもの「元始」、「初めに、何かありき」。何かの「ある」この世の中(世界)に、我々は、幸か不幸か、否応なく、運命的に生まれ落ち、生き合わせ、死んで行く。他のどんな世界でもない、この世界に。ここから逃れる術はなく、選択の余地はない。全ては、ここから始まる。だが、この度は、「ある」ものは「ある」と端的に言うだけでは済まされない。ひるがえって、「有」については語るべき無限のことどもがある。


無限小


極小


中有


極大


無限大


無限



(以下、随時執筆・推敲・加筆します。)



具象と抽象 知・情・意・体・物・力(エネルギー)
2010.2.27 執筆開始
2010.2.27 Web初版発行
著 者 澤田 諭
発行者 澤田 諭
発行所 InterBook紙背人の書斎
所在地 150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614
電 話 080-5465-1048
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