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InterBook紙背人の書斎
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清風荘
(習作小説,1963)

附 日記抄



澤田 諭



 折柄〔折りから〕、仙台の町並みは、名祭「七夕」の人出にごった返していた。この、牽牛・織女の天河を越えての年一度の逢瀬を祝う、という素朴な伝説の星祭は、かつて“森〔杜〕の都”と呼ばれた仙台の風土には、如何にもぴったりの感がする。
 〔その昔の〕奥州伊達藩、独眼流〔竜〕政宗公が青葉城下、この繁み深いみちのくの古都の夏を飾った竹飾りは、辺りの緑と相まって、どんなにか風流な味をかもし出していた事であろう。
 七月七日が巡る度に、家々の軒はたんざくに飾られ、吹き流しが乱れる。人々は銀河の下の巷に溢れ、若者達は川辺につどう。あるは歌い、あるは想い、あるは論じ………。古き良き時代、大和の国の“聖夜”は静かにふける。
 突然、この平和な日本に「維新」の嵐が訪れ、近代化の波が荒々しく日本〔の岸〕を洗った。日本古来のものは音を立てゝ崩れ去り、世人は誰もが“欧化”をとなえ、世の欧化・欧化と湧〔沸〕き立つ頃〔に〕、この情緒溢れる風俗も〔また〕、次第に日本人の心から忘れ去られていった。
 何百年来、北国のきびしい自然に乏しく生きて来た東北の農民は、〔ともすれば〕この激しい時代の波に取り残され勝ちであった。純粋な七夕は、彼達〔ら〕の〔この〕素朴な心情の中に、辛うじて生き続けた〔のである〕。

 然〔しか〕し、仙台は変わった。明治の世も遠く過ぎた今日、この仙台の空に、豪華絢爛たる竹飾りが、華麗優美この上なくたなびいている。
 辺境東北の“都”をもって任ずる仙台は、今や五十万の人口を抱える大都市に発展した。仙台は全国有数の消費都市として“鳴り”、商業は目紛〔まぐ〕るしく発展した。近頃、全国に吹き荒れている“スーパー旋風”もいち早くこの地を見舞い、スーパーマーケットの進出は華々しく、“商業戦争”今たけなわという処である。幸か不幸か、この町に工業は起こ〔興〕らなかった。「近代都市仙台」は「商業都市仙台」である。仙台は、最早“素朴な町”ではなかった。
 元々商人は、“人をだます事”にかけては天才である。貪欲なる“アキンド”の手はこの純朴なる乙女に延び、さながら厚化粧の遊女の如くにも毒々しく竹飾りを飾り立て、軒並みに軒〔妍〕を競ってなまめかせて、誘惑にこれ努めさせている。路傍の遊女は、華やかなる衣装の下できっと泣いているに違い無い。
 〔さて、〕祭の三日間というもの、町は人並みに埋まる。遊女を餌にしての釣りは、盛況の様である。元来、男は遊女の色香に迷うし、魚というものは、ピテカントロプスの時代依り、性懲りもなく餌に喰らいつく〔ものだ〕。長い未来も亦、そうあるものであるらしいのだ。
 ともあれ、仙台を訪れる外人さんは、大げさなジェスチャーで“ワンダフル”というし、観光客は湧いて尽きる事も無い。商人はボロモウケ。かくて、“センダイ七夕、ニッポンイチ”という事になっているらしい。
 仙台七夕は必ず雨に見舞われる、というジンクスがある。これは、きっと悲しい遊女の、うらめしい涙に違いない。

 既に、仙台の民は七夕を飾る事を忘れ、七夕は商店街の宣伝手段と成り果てた。殊に賑やかなのは、東北随一の繁華街をもって鳴るF通りとC通りで、“仙台七夕”は、実にこの二つの通りで持〔保〕っているのである。
 多く歩いている人はお上りさんであろうか。この祭には、近隣在郷の人達がことごとく集うのである。人々は、吹き流しをもてあそび乍らのんびりと往来する。

 突然、この人混みの中に、横合の通りから一台の運搬自転車が割り込み、雄〔悠〕々〔と〕F通りを逆上〔遡〕り始めた。慌てたのはお巡りさん、喚き乍ら、人混みの中を息せき切って縫う。いら立ゝしげな警官の声に、男はけげんそうに立ち止まり、初めて頭に手をやった。男は、黙って、ズボンの尻から手帳を引き出した。
 『身分証明書 No.133  下記の者は当校の生徒である事を証明する。 電子工学科二年
  鳳健二郎 昭和21年7月11月生 E工業高等学校長』
 〔さても〕見事な五厘刈りである。E工高では“断髪令”を断行している。御前達はイコール・オア小也〔≦〕囚人、という訳である。かくて彼達は、明治維新に於いて誇り高きチョンマゲを切られて一躍近代人たり、この“断髪令ジュニアー”に寄〔因〕って“近代人”に亦々箔がついた〔という〕訳である。言うなれば、彼達は“近代人の中の近代人”たる事になり、来る可き二十一世紀のトップヘアスタイルは、“イガグリモード”という事にでも成るのかしらん。
 “そんな無茶な、しゃらくせえ”てんで、ある時、“囚人宣言”を喰らった生徒〔たち〕は、総出で開校以来のデモンストレーションを強行した。“授業放棄”、労働組合ならば、さしずめ“勤務時間に喰い込む職場大会”という処だろうが、何の事は無い、体のイイ“集団サボリ”である。
 大体、この仙台という町は、多分に“変テコ”な町である。───「男女七才にして、席を同じうせず。」この金言は、今も仙台の町に残生している。この町には〔、ただの〕一個の共学高校もない。加える〔に〕“イガグリ頭”、「学都仙台」には、極めて異様な空気が漂い、巷の悲劇・喜劇も〔また〕こもごもである。
 商家というものは、多分に封建的なものである。商業都市仙台の悲しい側面かもしれない。そんな事をやっているから、〔他県資本の〕スーパーに先を越されちゃうんだ、と言ゝたい。

 雑草の執念、恐ろしい生命力、それは〔が〕そのまゝ鳳の命だ。“しいたげられる程に、雑草は伸びる”〔、〕この黄金律こそ、実に、彼を今日まで支えて来たものである。
 「温室育ちの高級草花」、その冷華な言葉は、彼の軽蔑に値した。
 「剛健」、鳳はその言葉を狂愛した。彼は純然たる硬派を自称し、軟派を見れば吠〔吐〕き気を催し、インテリぶった奴を見れば胸がムカムカする〔した〕。
 “かみそりよりも「なた〔鉈〕」になれ。かみそりに大樹は倒せぬ”それが彼の信条である。
 剛健、剛健、彼はその言葉を追った。一歩彼の部屋に入れば、壁、扉は、その狂信狂愛する言葉で埋ま〔ってい〕る。「正義」「完全」………
 字は下手だ。“ミミズ流芸術”と友人は言う。その芸術にも〔、このごろ〕増〔益〕々磨きがかかっている。そう、無茶な奴だ。家康でも秀吉でもなく、彼を魅力のとりことしたのは信長であった。「 Going my way.」「Singing my song.」「Living in my world. 」こんなのもあった。
 鳳健二郎は、まさしく“矛盾の塊”である。「一体、俺は誰なんだ」、彼はしばしば絶叫した。ある瞬間に、彼は限り無い誇りと希望に輝き、ある時には空しく苦悩する姿となり、遂にある時は廃人に似る。「鳳家」を主張する彼の目は異様に燃え上がり、「武士道」を力説する彼が、ある時は封建の罪を攻撃する徒に化す。インテリを軽蔑する彼は、時として極端なインテリジェントに一変する。
 極端な自尊心と卑下心、封建制〔性〕と超近代性、インテリと反インテリ、資本主義と共産主義、十と一、火と水、それらの両極端が、彼の内に複雑に雑居しているのだ。ある時は右、左、上、下〔と〕、それらは目紛〔まぐ〕るしく交代する。
 「俺は二重でも四重でもない。俺は矢張俺だ。唯、俺が一人で無い丈なんだ。」と彼は“俺”に言い聞かせた。
 ある友人は、「曇眼」と忠告した。何を非難しているのか、何を悲しんでいるのか、何を怒っているのか、あわれんでいるのか。“冷剛且つ批判的な眼差し”それが彼の描いているイメージなのである。そのイメージが出来そうにも無いので、こんなシカメッ面で代償しているのだそうな。彼に言わせれば、年中顔の神経のたるんでいる奴は、馬鹿か気違いである、という事だ。
 一教師は“憎悪の眼”とものゝしった。この教師は、「エゴイスト、人間のクズ」とも及言した。〔じつは、〕この若い教師を、彼は尊敬していた。多くの老師の中で、彼は一人気を吐いていた。その言葉が出たのは、若教師の悟り顔が妙に鼻につき始めた矢先〔のこと〕であった。複雑怪奇な人間の心を誰が一眼の内に読み取れよう、神〔で〕さえ出来なかったでは無いか。増して〔や〕、この俺の心を………。出来たとしたら、彼にもう生きる必要は無い。蓮座の上に掛けるが良かるる〔ろう〕。行動に表〔現〕して訴える可き事を、アラワナ言葉に聞いて、彼は浅ましさに耳をおおった。彼様な大言を公衆の面前で吠〔吐〕くとは、“能ある鷹は爪を隠す”、その言葉を教えてやりたかった。

 〔ところで、この〕アルバイトの間中、鳳は遠縁の親戚の家に宿した。彼はそこに、もう一つの“鳳家”を発見した。
 鳳の生家は県北の農村〔家〕で、そこはイワユル源氏の世からの鳳家の“御本家”である。どうせ、名も無い田舎侍に過ぎないのであろうが、彼は鳳家の“血”を誇っていた。この家は、その何代目かの分家であるとか。彼は、この“同じ鳳家の血をひく者”に会した事に、感動した。然しそこには、全く別の“鳳家”があった〔のである〕。
 この家に住む者は四人。主、妻、娘そして祖母。祖母は〔さっそく〕古い系図を持ち出し〔て〕、「鳳家」を説いた。健二郎は、いちいちそれに感動した。然し、二代離れたその家の娘には、ほとんど興味も湧かぬらしかった。彼女は、健二郎が自分と同じ姓を名乗っている事が〔に〕、さも不審気であった。
 一人娘の名は香澄といった。鳳香澄、年は二つ程下の筈である。自由でノビノビした明るさは、真に両親の愛情を思わせる。健康な美しさに溢れた香澄に、鳳は当惑した。彼の脳裏には、未だに平安朝の十二一〔単〕衣をまとった女性像が生きていたのである。“大和撫子”、それは香澄ではなかった。

 F通りの店へは、七時に出た。距離〔時間〕は十五分程で、格〔恰〕好の散歩に等しかった。小売に卸売を兼ねた、二・三十人の社員を抱える小社で、鳳は主に卸売の配達にたずさわった。運搬車を足に毎日東奔西走、倉庫整理、荷作り〔と〕、余り結構とも言えない。
 化粧のけばけばしい、皆に“ナッチャン”と愛称される店員の振る舞いが、一番目立った。彼女の大人がましい行動も不潔に思えた。鳳は彼女を憎悪した。鳳は、急にこの大人の世界に入って、困惑していた。初めての経験ではあったし。
 別に鳳は、富士なる女店員に、あるやすらぎを覚えた。少なくとも、彼女は娘らしくあり、“大和撫子的な”ものも持っていた。

 ある雨の日、〔雨を〕ついて彼は配達に出た。Mデパートの処には、“ナッチャン”が、着飾って勝気想〔そう〕に待っていた。デパートの様な大口の配達は、自動車に寄〔拠〕る。不意の雨で車道の両脇は泥水が渦巻いていた。軽装の鳳は、ズック〔靴〕の白さを想い浮かべて、困惑した。〔と、やおら、〕白い、やゝかがとの高いサンダルをはいた、形のいゝ足が、黒い水を漕いだ。鳳は、しばし唖然とした。奇跡が起こったのだ。彼は、唯慌てゝ制〔抑〕えようとした。しかし、声には成らず、手丈が動いた。ナッチャンは、にっこり笑っていた。
 仕事を終わって、涼しい広瀬河野辺りを散歩していた時も、鳳はナッチャンの白い足ばかりを思い浮かべた。然し彼は、あの時から一ぺんにナッチャンが好きになったのだ、という事は解〔判〕っていた。

 鳳家は、この広瀬川の川端に、木々の緑に包まれてある。窓下は断崖絶壁、開け放たれた窓からは、木々を伝う川風が涼しく迷い来る。青葉山、八木山を望む景色は実に素晴らしく、ひっ切りなしにセミの声さえする。表の騒音を除けば、こゝが仙台とは思えない程である。〔初めてここに〕来た時、鳳が「旅館でもやったらどうですか」といったら、香澄が「そうよ、“清風荘”ヨ」とといって笑った。それ程素晴らしい。
 川風の涼しさに比して、この家の中は、暖かさでいっぱいだった。一人娘への親の愛は限りが無かった。家族の者全てが仲睦まじく、家の中には常に花が咲いていた。両親のただれる様な愛の中で、然し娘は天使の様に美しく育っていた。この家の中では、どんな悪人も微笑まずにはいられないのではないか、と思われた。それは、幸福そのものだった。

 家の者は、鳳を家族の一として遇した。鳳は、彼達の間にとろけてしまいそうであった。〔が、〕然し、彼は遂に溶け切らなかった。彼は次第に、心にある圧迫を感じた。家族の者と顔を合わせるのが何故か辛くなった。鳳は、我が家に帰れる日を、指折り数えて待つ人に成った。仕事を終えても、気軽にその家の門をくゞれなかった。何度も門を前後した末、肝を決めて、敵陣に乗り込む思いで扉を開くのだった。

 「只今」と言えば、家族の者は皆出て迎え〔てくれ〕た。〔しかし、〕それさえも、鳳は苦に思う様になった。この家の中で、唯一人鳳のみ〔が〕、暗い想いをしていた。鳳は、〔まさに〕泥沼へ落ち込む思いであった。生活の調子が乱れた。余計疲れて、それで、夜は眠れなかった。彼は自らを攻〔責〕めた、恥じた。その自問は、却って彼を沈ませた。彼は、唯意思の無い人の様に生きた。
 鳳は、面喰らったのである。彼の無茶は、通す可きものも見当たらなかった。彼の「なた」は、振るう可き大樹が見つからなかった。彼の批判の目を、浴びせる可き〔何〕物も無かった。“不屈の生命力”は、それを発揮する物〔場〕が無かった。彼は完全に面喰らった、成(為〕す可き事が無かったのである。
 彼は、無力に等しかった。鳳健二郎は、既に存在す可き意義を失っていたのである。

 ナッチャンの姿は、あれ以後見る事が出来なかった。
 〔そのうえ、〕村上という中年の部長と富士の、嫌な事を見た。富士は、とりとめ〔しまり〕がなかった。だらだらと何処迄も続いて、とどまる処を知らないらしい。鳳は、改めてナッチャン〔のこと〕を思った。蓮葉想〔そう〕に見えた彼女の生活には、想えば、けじめがついていた事を思った。仕事は仕事、ツキアイはツキアイ。彼女は自分を主役に、自分の世界に、自分の思う〔が〕ままに生きていた、………強く。

 〔いよいよ〕清風荘を辞する時、祖母と両親は外に出て〔いて〕、娘一人が残っていた。娘は言った、「亦いらっしてね」〔と〕………
 「俺が今度この家を訪ねるのは、何時〔のこと〕だろう」、鳳は思った。「〔はたして、〕その日は来るだろうか?」

 鳳は、今も〔ときどき、〕フッと清風荘の事を思い出し〔て〕、非常になつかしくも思い、亦訪ね堅〔難〕くも想うのである。
 雑草は、処〔所〕詮雑草。雑草は、余りに濃い肥料の中では、却って根が浮いて、育たないものであるという。肥料が濃過ぎたのだ!
 やがて、彼の壁には、〔例の〕“〔ミミズ流〕芸術”が一つ増えた。その詞は、「愛」。

(終わり)



附 日記抄

 1963. 7.7 日曜日 晴れ
 森嘉雄、早川亀一と町に出る。金港堂で「電気用数学」、早川と供〔共〕に求む。二技に備えての勉強の心算である。目的の最たるは、微分・積分にある。
 更に一番丁を上る。例の瀬戸屋の前で尻込みして、腹が減ったので“長崎屋食堂”に入る。ところが、こゝに一寸した事件が持ち上がる、名付けて長崎屋事件。早い話が、ただ食い視されたのである。大いに憤慨して、抗議書を書いて来た。
 イヨイヨ“瀬戸屋”に入る。〔叔従母〕今〔金〕野とし子氏を訪ぬ。店には居ないで、堤通りの自宅を教えられてそちらに向〔か〕う。夫君:社長も居て、〔私と早川〕二人のアルバイトの件は成立する。
 後、すっかり御チ走になる。
 (中略)

 1963. 7.18 木曜日 曇り
 今日からアルバイト………。早川がアルバイトを無断でやめた。

 1963. 7.19 金曜日 雨
 (中略)
 “働く”という事は素晴らしい事。

 1963. 7.20 土曜日 雨
 今日から〔夏休みに入り、〕晴れて正々堂々のアルバイトである。働け、働け。
 (中略)

 1963. 7.21 日曜日 曇り
 寮が閉鎖されて、帰省を決意し、アルバイトを断りに行ったのが、今〔金〕野氏の計らいで、こゝ〔叔従父〕澤田〔實氏〕宅に来た。素晴らしい土地であり、家庭である。みんなスゴク、スゴク良い人だらけ。そのはず、同じ澤田の血がながれているんだ。
 (中略)

 1963. 7.22 月曜日 雨
 今日から新しい一日が始まった。朝、片平丁の“叔父”〔叔従父〕宅を出る。仕事はだんだん楽になって行く。
 夜勉強しなくては。

 1963. 7.23 火曜日 曇り
 夕方、“帰宅”後洗濯する。仕事、仕事………そして勉強、勉強。

 1963. 7.24 水曜日 曇り
 アルバイトも今日で6日、そろそろ第一次の呆〔飽〕きがやって来た。仕事を覚え始めると、好きな仕事と嫌〔厭〕な仕事が出て来る。然〔しか〕し父を思え、母・兄を思え。頑張れ。

 1963. 7.24 木曜日 曇り
 さすがに“疲れた”。働く事は素晴らしい事である、でも疲れる。早く一日が終ればいゝと思う。夜は勉強が出来ないし、朝は寝過ごす。
 実は、余り張り切り過ぎたのかもしれない。とに角、この一週間自分は全力を尽くして仕事をした。只、働く丈、長い一週間であった。最初の二・三日は、殊更長い一日だった。今は、だんだん短く感ずる。前の半分程にも………。
 家に手紙を書いて出した。父当〔宛〕て。

 1963. 7.26 金曜日 快晴
 この清涼な“広瀬川”の河畔の家に在って、自分は何かを考える。
 眼下の断ガイの下をほとばしる、河水、そのせせらぎに一日中包まれて、都会の中の最も自然な所に生活している。只その“水”と“木”を眺めた丈で、“天下タイ平”の感がする。
 “人生とは何か。”嫌〔いや〕、その前に“生活とは何か”と言う事を、この家に触れる様に成ってからは、痛切に感ずる様になった。自分の“陰気・下品さ”に比して、この家の人達の何と明るく、高等な事か。こゝにも、こんな人生があったのかと。
 亦職場で思う、“真の社会とは何ぞや”。“社会に生きる”という事は。
 “真の善人とは、如何なる人なるか”。誰が、一番世の人に親しまれるか、どんな人間が。
 亦思う、自分の生きる可き道を。

 人生は長い、然し十七年は既に過ぎた。“青春”、正にその時期なり。最も楽しい時代、青春、青春、青春。あゝ青春よ万歳。
 働け、学べ、ブッ倒れる迄。生きろ、くじけるな。
 何を恐れるか。自分を信じよ。人生はバラ色だ。
 “完全、剛健、猛激”………。完全………。

 1963. 7.27 土曜日 快晴
 六時に眼を覚ます。然し、あく迄も覚ました丈であって、別に床から出て勉強した訳でも無い。そのまゝ、夢うつつの内に六〔七?〕時近く迄過ごす。当宅の“若奥さん”の起きたのにつられて、我輩も亦やっと起床。後、英語をやる。8時15分“出勤”。今日の仕事は楽だった。
 頑張れ!!頑張れ!!アルバイト“9〔く〕るしい所”
 特筆無し。

 1963. 7.28 日曜日 快晴
 “清風荘”、家人がそう呼んだそうである。“清風荘”の中に居る。
 広瀬川の水音と渡る河風につゝまれた、この“館”。誠に“清風荘”………。
 “清風荘”の中でいろんな事を感じる。快い、流れの声に浮かれて………。
 “アルバイト”という“仕事”を自分は始〔初〕めて経験した。多くの事を思う。
 “如何なる人間が最も価値ある人間であるか?”初めて自分は“職場人”としての成年男女と交わった。彼達の中で誰が一番“素晴らしい”のか。部長:渡辺、加藤、早坂、小山、佐藤、藤橋、笹崎、佐々木、“ヤッチャン”、更に近藤。
 年頃のせいか、女性社員の事について多くの事を思う。最も最初、“ヤッチャン”なる人間に反感を感じた。“丸光デパート派遣店員”、勝気に整った“面”を持った女。美しいという女を見て、第一印象に反感を感じる、そんな男が自分である。ひねくれていると言われても仕様が無い。“美しい事を自認して振舞う女性〔ほど〕醜い者は無い”と信じる。彼女の行動がそれにピタリである。
 ある配達の時に、一つの“感激”に出会った。にわか雨で、道は小川と化した。その中に、自分を止めた“ヤッチャン”の足が入った。水は汚れた泥水。自分は彼女を見直す。
 只利己的な“きれい好き”は、人に嫌われるだろう。彼女に対する感情は一変して、急に素晴らしい女になった。それ以来彼女の姿を見る事ができないのは、残念な気もする。然し、そんな人間もあったのだ。暖かい心”が、どれだけ人の心を打つものか?自分は、身を持〔以〕ってそれを感じた。
 藤橋なる女に最初は好感を持った。対照的な二人………。
 そんな事を多く感ずる。下らん事かもしれない。
 “働く”という事は、素晴らしい事だ。然し、“仕事”は楽しくは無い。
 “幸福は俺らの願い、仕事はとっても苦しいが、流れる汗に未来を込めて、明るい社会を作る事”
 父から一千円と文が来る。〔叔従父〕実氏にも来た。手紙は嬉しいもの。
 仕事中、南光沢に初めて行く。“南光”はいゝ所にある。実はゴミを投げに行ったのが、一寸したドライブ気分であった。
 そろそろ勉強に身を入れなくては………、遊びは返上である。

 1963. 7.29 月曜日 快晴
 “アルバイト先輩”近藤〔氏〕を見習わなくてはならない。彼は職務に誠に忠実である。どんな仕事でも、只黙々とやる。聞けば、「アルバイトだもの」と答える。
 自分〔僕〕が嫌〔厭〕で嫌〔厭〕で投げ出し度くなる様な仕事も、何時の間にか、彼がちゃんと片付けてしまう。言葉使〔遣〕いでも、僕よりテイネイかもしれない。それでいて、決して〔僕の〕軽ベツする“インテリ”では無い。たくましい男である。大学の経済学部に籍を置くとか。とに角、好まれる人間だ。
 “アルバイト”とはこんなものなんだ、とあきらめて、彼と同じ様に働かねばならない。思い切り働いた後は、何とも言えず気持の良いものである。
 今日でアルバイトも十一日目、呆〔飽〕きが回っている頃だ。頑張れ、近藤君に負けるな。ズルイ心等起こしちゃならない。ファイト、ファイト、後十日余で家に帰れるぞ!!
 “昼は働き、夜は学ぶ。”素晴らしい生活では無いか。この生活を、存分に味わう事だ。 “剛健”の二字を再思せよ。剛健、剛健………

 1963. 7.30 火曜日 快晴
 暑い。イヨイヨ、本格的な暑さである。“冷夏”もやっと通り過ぎたかの様だ。こゝの家の長老婆〔上〕と、娘は、どっかに旅行に出かけたらしい。

 1963. 7.31 水曜日 快晴
 七月も晦日、明日から“八月”である。いくら“冷夏”とは言われても、「八月」といえば夏の真盛り。この所、連日猛暑に襲われている。当家の“オバアチャン”達は、未だ帰らない。

 1963. 8.1 木曜日 快晴
 “むきだしの自分”、“ありのまゝの自分”、“神の定めた自分”、“生れたまゝの自分”………、考えさせられる言葉である。自分は何時も、少しでも自分を偉大な人間にしようとしている。“剛健”の二字に向って黙々と歩んでいる。“むきだしの自分”とはどんな自分なのか?それが解らない。
 虚栄はつまらない事である。が、現在の自分に果して“虚栄心”が無いでろうか。
 自分は人一倍“自尊心”の強い人間である。それが、実際の生活に当たって、多くの“矛盾”と問題を投げかけている。
 今晩、父に手紙を書こう。

 1963. 8.2 金曜日 快晴
 “何故だろう?”………。
 こんな素晴らしい家庭に何故、自分は“オックウ”を感じるのか。何故だろう?
 この家庭に“トゲ”のあるはずが無い。
 要するに、“裸になって溶け込む”事にある。
 今日、〔妹〕静枝〔しずゑ〕アテの手紙を郵送する、いや、“した”。
 後八日だ、後八日で家に帰れる。八日、八日。頑張れ。

 1963. 8.3 土曜日 快晴
 (中略)
 事務所で、一寸したトラブルがあった。当家の祖母様が兼ね〔予〕てからいっていた、小山氏の短気を、今日、初めて自分は見た。でも自分は、あんな一途な激しい人間を好む。

 後七日、一週間。頑張れ、頑張れる。

 1963. 8.4 日曜日 晴れ
 “日曜日”だからといってアルバイトを休んだりしたのでは、商売は上がったりである。かくて、今朝も出勤した。彼・“アルバイト先輩”近藤さんも来ていた。渡辺部長、佐々木、藤橋の三人は“公休”した。
 日曜日の仕事は、楽でし方が無い。何しろ人手不足の上で〔に〕少人数になるので、“悪い方”に皆の意が一致し、今日も実質的に仕事をやめたのは五時頃であった。余す一時間は、何となく過ごしたという程度である。
 さて今日は四日、明後日には、三日間に亘っての“仙台七夕祭”が開催される。“華レイ”この上ない行事である。今日当〔辺〕りから、もう“アーケード”内には“小型の七夕飾り”が彩々〔とりどり〕に飾られていた。町、殊に一番丁等は、七夕気色一色に飾られようとしている。後二日もたてば、“溜息も出る様な”人だかりが、街頭に殺到する事だろう。商店街としては、こゝで“ガッポリ”ともうけたい所であろう。
 もうけるといえば、当瀬戸屋の七夕飾りは、“一万五千円也”なそうである。一本の飾りが何と“三千円”、只々溜息が出る計り。こういう飾りが何百本も立ち並ぶというのであるから、壮観なのは素晴らしい〔もっともな〕はずだ。“仙台七夕祭”が全国に聞こえるのも、極めて当然と言えよう。とに角、仙台市最大の年中行事である。それらの豪華な七夕飾りは、発展する“大仙台”を象徴しているかの如くである。七夕祭が晴天に恵まれて、盛会である様に祈る。
 (中略)

 1963. 8.5 月曜日 晴れ
 例年、“仙台七夕祭”の頃になると、次第に天候が崩れ出して一雨来るというのが“慣例”の様になっている。今年も亦その例にもれず、この所天候はやゝ下り坂である。“一雨”と迄は行かないまでも、商店街の経営者達に取〔と〕っては、いさゝか歯がゆい天候であろう。そのはず、“一万円”もする飾りを雨で台無しにされる外〔他〕に、客は早張〔さっぱり〕という事になれば、とんだ“大穴”になろうというもの。
 “仙台七夕祭”は明六日より開催されるのであるが、気の早い商店・“長崎屋”等では、華レイこの上もない“天下の七夕飾り”をこれみよがしに、飾り立てゝいた。あれでは“一万円”どころか、五・六万は要するであろうに。明日になれば、あんな竹飾りが、軒々に見られる事であろう。“仙台七夕祭”は、今や押しも押されもせぬ“全国の祭典”に迄成長した。仙台市の発展の様に。
 夕方、“瀬戸屋”の飾りを一央〔応〕店に運んだ。イヨイヨ“七夕”である。
 全国の同志が、こゝ仙台にやって来る。九州からも、北海道からも、広島、大阪、名古屋からも。全国の学生が集まる、仙台へ、仙台へ………。やがて、町は七夕一色に塗りつぶされる事であろう。
 先月の二十一日、こゝ“〔仙台〕澤田家”に世話になってから、今日で16日目、早いものである。“16日”も経ってしまったのかと思う丈である。後“5日”でこの宅を辞す事になる。“5日”。
 例の自分の“つまらない性格”にヨって、今、自分は、この宅での生活の中に“大きな”問題を見出している。当家には、“たえ子”なる娘が居る。漢字で言えば“多恵子”。幸か不幸か、子供は、彼女一人。俗に言う“一人娘”という奴である。おそらく、溢れる様な両親の愛情の中に、何不自由ナク育てられて来た事であろう。家族の者に取っては、“眼に入れても痛くない”娘であり、孫娘であろう。それこそ、“家の宝”に違いない。無理もない事、極めて当然の事。
 この家庭は、それこそ“暖かい”、上品である。皆“高等な動物”である。自分という人間は、かつて述べた様に、暖かい愛情に最も弱い。つき放されゝばつき放される程、強くなる人間だ。自称“雑草”。
 雑草は、余りに濃い肥料の中では却って育たない。然し、荒漠とした土地に於ては、何者にも増して強健である。むしられてもむしられても、雑草は延〔伸〕びる。そして、その度に、彼は強くなる。
 “雑草”と“精華”が同居する………、こゝに問題の起きない事は、却って不思議といえよう。雑草は、単身大いに悩む事であろう。

 1963. 8.6 火曜日 曇り
 昼休み眠ってしまって、午後の作業時間に仮なり〔かなり〕食い込んだ。“社長”からの電話で、堤通りの宅にすぐ来る様にとの事だった。親父が来仙していた。今〔金〕野氏宅でテレビ等観ていた。“授業料の滞納”についての督促状が来ていた。別にあわてもしなかった。三十分程して立町に帰った。
 父は、あれから片平丁〔の實叔従父宅〕に行ったそうな。返〔帰〕る時に立町にヨって行った。
 仙台七夕に雨はつきもので、今朝も遂に雨が降った。が、日中はやっと曇り空で通ったらしい。夕方、亦雨が降ったが。

 1963. 8.7 水曜日 曇り
 今日も亦、生憎の曇〔り〕空である。仙台七夕祭にまつわる“ジンクス”は、今年も亦やって来た。でも、町は早〔相〕当な人出であったらしい。
 七夕の三日間は寮が開放されるので、今日早速、二十日振りに訪ねた。部屋の中は、荒れ放題。真黒のトレーニングズボン等には、カビが生えていた程だ。シーツ二枚、合わせ〔袷〕二枚、トレーニングズボン・シャツ、長軸〔袖〕シャツ、バスタオル、タオル二枚、手ぬぐい、等を洗剤を買って行って洗濯した。
(中略)

 1963. 8.8 木曜日 曇り
 朝、向山迄下りて、バスで片平丁まで。飯を食う。後、すぐ出かける。
 アルバイトの日もイヨイヨ大詰め。明日は店が休みなそうな。映画でも見に行こうか、土産の品でも物色するとしようかな。
 とに角、明日はゆっくりと休まにゃあ。今日は、もう疲れて。
(中略)

 1963. 8.9 金曜日 晴れ
 (中略)
 東北劇場で「隊長ブーリバ」を見る。初めての70mm映画、¥ 250。
 イヨイヨ明日が“Last day”である。“立つ鳥後を濁さず”という。立つ鳥、後を濁さず………。

 1963. 8.10 土曜日 晴れ
 終った………。
 二十二日間の生活が、遂に完了した。“アルバイト”が終ったのだ………、辛かった。 でも、何時の間にか22日過ぎた。“夢”の様に、と果して言えるかどうかも………。
 夢は夢でも、“悪夢”である。色んな夢を見た。そして、いろんな事を覚えた。アルバイトは、極めて“有意義”であった。
 働く事は苦しい。苦しかった。然し、良く辛抱した。
 午後九時十九分、例の小部屋の中。眠い、眠い。
 書きたい事が沢山有る、山程。明朝、書こう。
 家に行ったら、先ず眠りたい。気の抜ける程、眠ってみたい。
 今夜は、風呂に入って寝よう。明朝、亦続けたい、今日の分を。とに角、眠い。
 暑い、今日は………。立っていても、汗がにじみ出て来る。
 尼〔尻〕に“出来物”が出来て、座れない。頭がガンガンする。三日も続けて眠ってみたい………。

 1963. 8.11 日曜日 快晴
 九時頃に、〔叔従父〕実氏夫妻と、その母方らしき人と、もう一人の女人が、車に乗って何処か北の方の親セキに出発した様だ。家に残るは、多恵子〔嬢〕一人らしい。
 自分は、その三十分後程に、先月の二十一日来、二十一日振りに“思い出深い”宅を辞した。本当に、迷惑計〔許〕りかけたものだ。
 十時きっかりに、瀬戸屋を訪れた。“日当三百円”(中略)
 海岸急行というバスで帰る、十一時。
 昼時には家に着いた、といっても〔、母の実家〕砂金沢。別所の我〔が〕家へは、夜着く。



『清風荘』(習作小説) 附 日記抄
1963 初版発行
2010.3.17 Web版初版発行
著 者 澤田 諭
発行者 澤田 諭
発行所 InterBook
所在地 150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614
電 話 080-5465-1048

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