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下草郷土誌
若生 毅編纂
相澤 力新訂
澤田 諭Web編集




下草契約講



 歴史は真実でなくてはならない。我々の知っている祖先の行動、部落の歴史は、よりどころのない事、また、どこまでが真実であるかが疑わしいものでありました。今ここに若生毅氏によって正しい微細にわたる下草郷土誌を著されたことは、部落民ともに喜びたいことです。
祖先の偉業の真実を知り、祖先の心念を会得しそれを現代社会に有意義な活用をし得たならば、この著をして金玉としまた祖先に対する至大の供養となることを信じます。
 若生氏の並々ならぬ献身的な功績に対し感謝すると共に人々が活眼看破しこの著をして、黄金の花を咲かしめるよう念願いたします。
      一九五一、九、明月
                                          威徳禅寺住
                                            天山泰雄

序(編纂者)

 大胆にも私は 下草の尤も誇りとする契約講の沿革を編纂し、おこがましくも之を永世に伝え残さんとすることに致した。素よりこの種の調査研究は専門的なもので 浅学且つ非才の私は到底其の器でないことを自覚して居ったが 自分もこうした研究は元来好きなので 現在迄筺底に奥深く納り年二度だけ閲かれる所謂契約箱の古い文献と記録を唯一の頼みとし 更に故老の記憶を聴考し 之れを基礎として研究調査進めて郷土の誇りを伝へんとしてペンをとつたのである。
 さて私は この郷土である下草は祖先から私に至るまで幾多の恩恵を受け 住みよい安楽なところとして生育し過ごして来た。私個人もしばらく郷土を離れて居り 懐しい郷土の姿を屡々強く振り返つて見た。昭和二十二[1947]年四月より職務を退き郷土に帰り ようやく社会、家庭的にも煩しさがなくなり、名実共に隠居となつた。家祖本来の農業にも補助役として働く真似をする様になり 郷土の実情に親しく再び相見へ得て 尚一層の温かさを増して来た。
 本年晩秋のある朝現契約講講頭高橋多利治氏私宅を訪れそのお話の内に こうした時勢にはなつたが契約の本来の精神と部落の先輩が幾多の難関を突破し、辛酸を嘗めて住み好い郷土を造るために最善の努力を傾注された限りなき幾多の功績を讃へ 新しい下草を建設するための参考資料となる契約の始りと郷土の沿革を知らしめたいと言ふ尤も遠大なお考えを洩らされ 私非常に敬服すると共に共鳴を致した。郷土の事情を明かにし郷土の歴史を正しく認識することに依つて 愛郷心の発露が自然と個々の胸中にもえ出ずるものと考へたのであつた。契約講の記録は時の推移に従つてその趣きを異にしてるが 契約そのものも根本理念は終始一貫してる。豊凶の著しき変化、農業生産物の相場、部落内に異変のあつた記録、部落共同の作業及び神社仏閣其の他公共営造物等。共同備品、基本財産基本金の蓄積及び運営の一般等々部落行政の申し合せと言つた様なものを細大漏さず記したものが保存されては居るが これを整理をなし、一目誰でもが瞭然とする一巻に収めることが主眼で、これに各年代国家及び県下村内部落の主要な事なども織り混て編纂することにした。
 唯私の最も心苦しく思ふことは この杜撰な研究調査が動〔やや〕もすれば部落の人達を惑わす 後世を誤ることがあつてはといふことで。細心の注意払ふてペンをとつてきたつもりである。幸ひにも此の記録は余り部落以外には公表するものでなく、郷土の生立ちを好く認識し 反面には郷土研究の資料ともなり 愛郷精神の作与ともなり得れば幸いとするところである。
 冀(こいねがわ)くは 郷土のみなさん未熟な私の真意を了され 忌憚なき批判と指導助言を賜りたい。
 編纂にあたり激励と参考助言をいただきし 時の講頭高橋多利治氏、高橋栄吉、若生新治両氏並に部落有志各位に深甚な謝意を表して序言とする。
  昭和二十四[1949]年晩秋
                                      編者  若生 毅  誌す

目  次

題  字
 新訂版表紙
序    天山泰雄
編纂者序 若生 毅
目  次

下草の沿革
沿  革
黒川家の家系について
 黒川氏初代から十一代までの歴史年表黒川家の居舘及び其の臣下の居城伊達河内宗清家系
吉岡八幡宮について─今村(吉岡の前名)鎮守八幡縁起に拠る
下草の伝説
 ぼうふり田の伝説鶴巣舘後日雜話下草の狐話
下草の名木・地名
 大銀杏八汐白藤
 
日かげ沼樅の木山黒川坂かま堀宿尻供養石供養山鶴首の沢鶴の権現及遊園地阿弥陀様境内弁財天の碑権天大僧都 欅院宝正海上人覚位
御宮の建設及行屋について
 其の後の社殿修改築神輿堂の建築遠下の観音様平須公雷神

下草の風俗習慣
下草の風俗と習慣
 
下草に伝わる昔の演芸どっぴきと麦搗き
年中行事の一班
冠婚葬祭の諸式
 
婚礼葬式の儀礼(下草における)

下草の沿革編の二【位置と地勢小団体記録】
下草の位置地勢
 下草の位置下草の地勢下草の字地名下草の主たる災害 記録によるもの下草における大豊作 記録によるもの下草の交通下草の記録による戸口及び土地の状況家畜の頭羽数家畜頭羽数電動機の設備下草の諸団体 昭和二六年三月現在
下草の番水について(日本農業新聞)
 早乙女の唄ものどか 水争いのない平和郷(黒川郡鶴巣村下草にて特派員記)
下草部落の盛衰
 飲むくせ買う
 部落の立て直しに努力した人々(大正十四年頃)青年契約会=稲作増収競技会を併称せり青年契約会趣旨原文(明治四十一年 起章者佐藤要助氏)下草農事実行組合の業績下草有畜農業実行組合の事績下草農業協同組合の沿革とその内容下草農業協同組合定款下草協同組合創立当初の予算と決算額

下草の沿革編の三【契約の変遷とその沿革】
下草契約講の変遷とその沿革
 契約の類集合とその機能について組織歴史的類型原初形とその分解下草の契約講葬儀に関し講員の役割下草契約講の始まり契約講参加人員表旧記に徴する米穀価格一覧表
旧記に徴する各事変および戦争参加者名簿
 西南の役参加者(明治一〇年)日清戦争参加者北清事変参加者日露戦争参加者第一次欧州大戦参加者満州事変参加者支那事変及び大東亜戦争参加者
下草の沿革編の四【郷土の勝れた人々】
下草の傑出せる人々
記録による表彰を受けた人
 横田りつ女高橋久作翁須藤利四郎
明治以前下草に功績のあった人
 
若生養気橘正俊平渡高良高橋久作高橋久左エ門佐藤要助高橋久米治近藤軍吉
下草から他町村に行った人々の閲歴
 國分丸治櫻井貞助高橋義衛高橋久太郎庄子久彌若生廣助高橋 傳佐藤松十郎相澤平次郎横田清志佐藤 信熊谷勘右エ門兒玉養吉横田 登小松敏男小松民蔵佐藤源八残間 正吉田胞吉若生新三郎若生良治佐藤喜代治内海運作横田良治高橋 蔀

奥  付(原著)
新訂版発行の主旨
新訂版あとがき
参考資料
 平成23年度下草契約講総会記念写真
奥  付(新訂・WEB版)

下草の沿革

沿  革

 下草契約講の沿革を編集するにあたり先ず黒川郡及び部落の起源を記さねばならない。
 黒川郡が歴史上にあらわれたのは、聖武天皇紀(724-749)に於いて始〔初〕めて国史にその名称をあらわして居った。即ち、天平十四(742)年(紀元一四〇二年)春正月己巳〔きし〕睦奥の奏言に黒川郡以北十一郡に赤雪二寸云々とありしより称徳帝神護三年(紀元一四二九年)景雲三月辛己陸奥国黒川郡人外従六位下靭大伴部弟融等八人賜姓靱宝亀九年夏四月発己朔黒川加美等十一郡伴因三千九百二十人言回己等父祖本是王民而為夷所客遂成賎隸今既殺敵帰隆子孫蕃息伏願除因之名輸調庫之貢許之。桓武天皇延暦八年(紀元一四四九年)八月己亥勅陸奥国入庫人等(中畧)黒川郡十一郡興賊接居不可同等故復歴年同九年十一月丁亥陸奥国黒川郡石神山精神社(現在吉田村)並為宮社延歴十六年正月庚子黒川郡人外少初位上大伴部眞守等に大伴部行方蓮を賜う(日本後記)大同五年春二月辛己朔発己大政官等陸奥国俘浪人を士人に準じ狹布を輸せしむ、但し、黒川以北奥郡俘浪人には及ばずとあり。
 承和八年三月発酉黒川郡外従六位下勲八等靭伴黒成等借外従五位を授く国司の褒挙に由るなり。貞観八年春正月廿日丁酉常陸鹿島神宮司の言に尢神の苗裔神三十八社陸奥国にあるものの内黒川郡に一社ありとあるが如く当時は本郡地方は一般に蝦夷の境にありしと思われる。伝へ日く景行天皇(71-130)の皇子日本武尊東征して日高見国に居たり給うや今の富谷村大亀の地を経過し給いたりと。同地は古い昔の嶺伝に通行せし当時の通路と思われる。後坂 上田村麿征東の命令を受けるや又本郡を経過せるものの如く、平城天皇大同三年には将軍舞野観音を 勧請せり。仁明天皇承和十年乙亥十月乙亥陸奥国黒川大嶺外従五位下勲八等靭伴連黒、成授従褒公勤也云々是正に王化に浴せることを証すべきなり。
 御〔後〕冷泉天皇の御代(1054-68)阿部〔安部〕頼時東北に拠り以て朝廷に貢せざるや本郡も亦其の配下に属し、源の義家父子の征討を蒙りたること明かなり後藤原秀衝陸奥鎮守府将軍に拜せられるや亦其隷する所となる。秀衝の子泰衝に至り源頼朝の征討あり、即ち、御鳥羽帝文治五年(1189)己酉〔きゆう〕八月十四日頼朝多賀自〔より〕黒川郡経〔をへ〕之〔ここ〕玉造郡と。泰衝の滅後は頼朝の治下に属し千葉東六郎大夫〔胤頼〕に賜う。
 幾〔いくばく〕もなく北條氏の手中に帰し陸奥探題の配下に属す。建武以後は相馬氏〔東胤頼〕の所有たりしが、足利尊氏勢を擅〔ほしいまま〕にするに至り、其の簇〔斯波〕家兼を以て陸奥探題となす。後、畠山〔高国〕探題に賜う。同氏の衰えるや大崎通持の奪う所となり其の簇黒川左衛門尉氏通〔氏直〕の所領となる。これ下草に存する鶴巣城の遠祖なり。後、亀山天皇元中年間(1384-1392)は伊達大膳大夫〔政宗)の配下に帰し、爾後黒川氏の治下に属し、郡鎮を下草に置く。豊臣秀吉の天下を一統するや、蒲生氏郷の配下となり、伊達政宗と力を合せ、尋て天正十八(1590)年政宗黒川晴氏を討って之を滅せり。以後、本郡は再び伊達氏の直属となる。慶長(1596-1615)の末政宗の三男伊達河内守宗清をしてやはり下草に城を構へしめ本郡一円を鎮せしむ。
 元和二(1616)年下草より吉岡城に移りたりしが、寛永十一(1634)年宗清死亡せしを以て〔吉岡天皇寺に葬り、「桑折重長の子・定長が跡を継いだ」(「Wikipedia」)が、〕又伊達氏の直属となる。是に於いて本郡所領のものなく、黒木某藩命を以て郡治監督となれり。寛文二(1662)年に至り奥山常辰〔大学、その後但木氏〕地を本郡に賜い治を吉岡に置きたるも、単に吉岡吉田の一部に過ぎず。万治三年(1660)伊達宗房采地を本郡に賜い宮床村に居舘したるも、亦在方の一部に介するに止る。
 以上は黒川郡誌に拠る記録にして、こうした文献を見るときに下草は往古すでに郡の枢要なところであつたことが立証されるのである。又一説には正応四年十月亀山天皇(人皇九〇代紀元一九一七年)第三皇子継仁親王国司に任ぜられ奥州黒川郡高田御所(現吉田村高田)に住す徳治元年親王帰らるる趣を伝えれども高田には其の遺跡を現に発見すること能はず。依って一説には鶴巣城は古への御所ならんと考察される。一之関二之関三之関等地名の存する紀元は往古関所のありし所より出しもので其の御所との関係は頗る明確であると思われる。

黒川家の家系について

 かくの如き古き歴史を有する下草は住古黒川氏全盛時代本町の宿と言えるが如し。城主黒川家系譜は本郡落合村報恩寺に所蔵されてありしが紛失をなしたりしとか。文学博士吉田東伍の著述せる大日本地名辞書中に黒川家系図に曰く最上修理大夫兼頼の三男左衛門尉氏直を家祖とし天文中に至り家絶へ飯坂彈正清正の子景氏を以て継がしめ下総守に補佐する云々」と始め蒜袋村に住して其の居舘を御所舘と称した後下草に築き則ち鶴楯城これなり爾来九代 相襲きて黒川一円を領せり。然るに黒川家九代黒川月舟斎晴氏のとき天文十六年伊達政宗は上洛するように秀吉から命を受け九月二十八日に一行に別れて米沢に帰へった黒川郡は今迄は伊達政宗の所領でなかったが秀吉に依ってその領有権を承認されて居ったらしい。他方では大崎合戦のとき政宗の派遣軍を苦境に陥れた鶴楯城主黒川月舟斎晴氏を米沢に拘置することが出来たので留守政景を利府城から大谷城に移して北方の守りとした。この時はすでに黒川家は政宗より攻略されつつ圧迫を加えられて居った。十月には田村氏の領地没収が政宗の手に依って行われた葛西大崎両氏の旧領地に君臨した木村吉晴に就ては余り多くのことは知られて居ない。何等かの理由に依って異例の抜擢を受けたらしい。吉晴はこの新しい所領の検地を行う関係上、かなり武断的な政治を行っていたらしく葛西大崎両氏の旧臣やら農民から強い反感を買っていた。正確に知られていることは中新田附近で伝馬を命じたところがそれを農民が拒んで反抗した為に主だったものを捕へて磔刑に処したことだけで「成実記」等が言っている程の秕政をしたが如何と言うことも充分判っていない。葛西大崎と言う一揆の勃発したのはこうした住民の反抗心の激発であつた。この一揆はこの頃奥羽の各地で一揆が行われたにも拘らず特に有名になったのは一揆が広汎な地域に亘ったことの一つには一揆のために危地に陥れられた木村吉晴父子の救援と一揆の討伐とに向った政宗、氏郷の対立抗争の結果である胆沢郡で勃発した一揆がやがて葛西大崎地方全般に波及し吉晴父子が佐沼城に包囲されたと言う情報と同時に白川にいた長政から救援と討伐の指令が米沢に達し、而して軍勢が派遣されたのは十二月二十三日のことであった。政宗は吉晴とは蘆名氏を滅して以来交渉を持続していたけれども吉晴に対してはよい感情を持っていなかつた様であるが此の頃政宗が葛西氏の旧臣にあてた手紙になんとしても吉晴父子を助けねばならないと言って政宗は微妙は複雑な気持ちを懐いて二十六日に出征の途に就いた。政宗はこのとき何故か理由は判然としていないが氏郷には出兵を差し控える様に依頼している。秀吉が吉晴を封じた時に氏郷を父とも思って万事指図に従う様にと命じたと伝えられているが氏郷としてもそれを捨てて置く訳には行かないし又徳川家康も榊原康政を派遣したので大雪を冒して黒川を出発した(この黒川は会津を指している)政宗が白石に来た頃も一揆の其の後の様子は判らなかった。吉晴父子は切腹し黒川郡にも一揆が波及したと言う噂も耳に入った。黒川郡は政宗の所領でもありそれに政宗の家臣等も加わったようでもあるので京都の思惑も心配だったので吉晴の家臣で黒川に落ちのびて来たものを生証人として政宗の立場を弁明するために鬼庭綱元を急いで上京させた。十一月中旬に政宗は下草に着陣し氏郷の下向を待つことになった。こうした間において政宗は大崎氏の前から親しかった人々を集めて一揆の動静を聞くことが出来た吉晴父子も健在であることも判然とした。
 以上が当時の宮城県に於ける政宗の活躍一歩で特に鶴巣城主黒川氏に関朕せるところから伊達政宗卿と云う冊子より下草に関する部分を抜き写ししたので葛西大崎一揆(前期の一部より)斯くして黒川氏は月舟斎晴氏(九代目)のとき伊達政宗の軍門に降り遂に政宗に仕えて一家に列す後二世にして嗣なく全く断絶す。伝へ聴く黒川氏の歴代を詳かにすることが出来ないが黒川家三家老の一たりし富谷村熊谷渡辺某家に秘蔵せる黒川家歴代の法名は次の通りである。

当寺開基
       報恩寺殿前黒川刺史松山清公大居士
    初代  文明四年八月十五日開祖  景氏
         (紀元二一三三年御士御門天皇時代)
       桂嶽院殿心月道波大居士
    二代  明応九年十一月九日 二代 不詳
         (紀元二一四〇年仝天皇時代)
       実相院殿心月同波大居士
    三代  明応九年十一月九日三代  顕氏
         (紀元二一六〇年御士御門天皇時代)
       久昌院殿自雲道慶大大居士
    四代  永正八年六月十一日四代  永房
         (紀元二一七一年御柏原天皇時代)
       円光院殿月山道船大居士
    五代  亨禄二年三月十七日五代  不詳
         (紀元二一二九年御柏原天皇時代)
       桃源院殿花嶽道英大居士
    六代  天文二十年四月十五日六代 景氏
         (紀元二二〇九年御柏原天皇時代)
       松樹院殿永庵日照大居士
    七代  永禄三年十一月六日七代  租国
         (紀元二二二〇年正親町天皇時代)
       長松院殿休巌照慶大居士
    八代  永禄十一年七月四日八代  禎家
         (紀元二二二九年正親町天皇時代)
       洞雲院殿月舟斎仙岩孚翁大居士
    九代  慶長四年七月五日九代   晴氏
         (紀元二一五九年御陽成天皇時代)
       泰運院殿仁嶽道秀大居士
    十代  慶長五年三月十七日十代  不詳
         (紀元二一六〇年御水尾天皇時代)
       久天院殿仙山洞公大居士
    十一代 寛永三年四月二日十一代  不詳
         (紀元二二八五年仝天皇時代)

黒川氏初代から十一代までの歴史年表
一四六七(室 町 時代)  応仁の乱
一四七三(室 町 時代)  黒川氏初代 景氏没
一四八三(室 町 時代)  伊達成宗上京し将軍足利義尚に謁す
一四九九(室 町 時代)  大崎氏の領内で紛乱す
一五〇〇(室 町 時代)  黒川氏二代・三代顕氏没す
一五一一(室 町 時代)  黒川氏四代永房没す
一五二八(室 町 時代)  葛西晴重の死に乗じ伊達稙宗石巻城を攻め落とす
一五二九(室 町 時代)  黒川氏五代不詳没す
一五五一(室 町 時代)  黒川氏六代影氏没す
一五六一(室 町 時代)  黒川氏七代稙国没す
一五六七(室 町 時代)  伊達政宗米沢城に生まれる
一五六八(室 町 時代)  黒川氏八代禎家没す
一五七三(安土桃山時代)  織田信長室町幕府を滅す
一五八二(安土桃山時代)  信長本能寺で自害
一五八四(安土桃山時代)  政宗家督を継ぐ(十七歳)
一五八五(安土桃山時代)  秀吉関白となる
一五九十(安土桃山時代)  秀吉全国統一なる
一五九一(安土桃山時代)  政宗米沢から岩出山に移る
一五九九(安土桃山時代)  黒川氏九代月舟斎晴氏没す
一六〇〇(安土桃山時代)  黒川氏十代不詳没す
一六〇三(江 戸 時代)  徳川家康江戸幕府を開く・政宗仙台城に入る
一六一三(江 戸 時代)  支倉常長遣欧使節出帆
一六一六(江 戸 時代)  徳川家康没す
一六二〇(江 戸 時代)  支倉常長帰国
一六二六(江 戸 時代)  黒川氏十一代不詳没す・黒川氏滅亡

黒川家の居舘及び其の臣下の居城
 黒川家の居舘及び其の臣下の居城は次の如し
◎鶴楯城 = 黒川家の成舘 鶴巣村下草にあり
     本丸の長さ三十間 = 横二十五間
     二の丸長さ四十五間 = 横二十八間
     西の丸横二十六間 = 身二十八間
     東の丸長三十八間 = 横二十二間
     東西に塹壕巾四間長さ四百二十九間
       廓長さ各二百九十三間 = 横十五間
◎腰 舘 = 大衡村奥田字下屋敷にあり黒川家の臣細川弥次郎居舘す
◎折口舘 = 大衡村大爪字十之沢にあり黒川氏の家臣福田大郎左エ門之に住す
       本丸東西四十四間 = 南北二十四間
       曲輸幅四間 = 長さ三十間
       二の丸東西二十間 = 南北十八間
◎小屋城 = 大衡村駒場にあり黒川氏の家臣児玉惣九郎玄安の居舘
東西三十間南北十間天正の末黒川氏と共に滅亡せり
◎大衡舘 = 大衡村大衡塩波にあり黒川氏の家臣大衡治郎大輔氏胤の居舘なり、別名越路城とも称したり
本丸東西三十四間 = 南北十八間
二の廓横十二間 = 長百二間
三の廓東西二十五間南北三十二間
北の丸横二十五間 = 長さ六十五間
本丸の北に亦一址あり = 東西二十五間 = 南北十二間 氏胤の父某ここに老
すとある
◎宇和舘 = 宮床村宮床字長倉にあり黒川氏の家臣鴇田信濃守国種の居舘にして黒川刺滅亡後伊達氏に属し其の旧臣帰農して現存せり
◎堂屋舘 = 富谷村一之関にあり黒川氏の家臣成田外記の居舘なりと天正の末黒川氏と運命を共にせりと伝ふ
       縦三十一間 = 横十三間
       二の丸東西八間 = 南北十八間
◎門前城 = 富谷村二之関にあり黒川氏家臣二之関紀伊の居舘なり
     縦四十三間 = 横三十六間
◎郷右近舘= 小谷舘とも言う鶴巣村字太田砂子沢に在り黒川氏の家臣江右近可斎の居舘なりと伝わる
長四十一間 = 横三十九間四方に塹壕あり幅三間長さ百七十間天正年中黒川氏滅亡と共に舘主なし
◎馳取城 =(又は作端取とも称へ富谷村志方田にあり、やはり黒川氏安芸守の長子長三郎春氏の居舘なり        
東西五十四間 = 南北四十二間
◎大童舘= 富谷村大童にあり黒川氏の家臣大童豊後之に居り天正五年迄八十四年間の居城なり
東西七間 = 南北十八間 = 北尾崎堀切りあり
◎北舘 = 小屋場舘とも称し粕川村石原にあり黒川氏の家臣石原右京允之に拠る 四十間四方
◎南舘 = 粕川村石原にあり黒川氏の家臣石原将監之に拠る
      長さ三十五間 = 横三十間
◎八谷舘= 落合村上袋にあり黒川氏の弟八谷冠者氏則の居舘なり
東西三十六間 = 南北三十五間 
◎御所舘= 落合村蒜袋にあり黒川氏の祖先鎌倉より下向し鶴楯城築城前に築城せる舘なりと伝う 西北は山をめぐらし南善川を扣(ひか)えて平野に面し東は大沢沼湖を挟みて加美山に面す、東南は山脈連る、本丸は高地平坦にして縦五十四間横二十七間今尚大石あり里人は大石舘又は石神舘とも言う。老松十数株遠くこれを望めば臥牛の如く故に臥牛山とも称す。時に依り土器を発掘することもありしと里人は伝えている。
 以上は黒川氏の居城及び其の家臣の拠れる現存してる舘の記録で如何に黒川氏は郡内に於ける勢力のありしかをうかがい知るに足る。

 又郷土下草は如何に枢要の土地であったかも想像される訳で陸羽街道は宮城郡松森より発して富谷村大亀を経て本村山田太田幕柳鳥屋の宇頭坂を過ぎ別所に入り下草の東南に位置する俗称樅の木山の南を経て黒川坂にかかる別所の沢中央を東に流れる小川を黒川と称し、黒川に架せるを黒川橋と言う。現在は中米長蔵氏宅の六丁程前方の様である、黒川坂は現在佐藤多利蔵氏居宅前より高橋武氏宅の西北に六、七丁向ったなだらかな坂を称した様に考察される。故に高橋武氏宅を黒川坂と言っている。そこで昔の道路は下草の部落に入って北に向い舞野に入り吉岡の東端現在天理教布教所の東側を過ぎて大衡村昌源寺に至り北に向った様子が判然としてる。そこで当時は下草を本町の宿と称えたらしい。下草には今尚「宿尻り」仲小路、裏小路、横町などの地名が残っている。其の後黒川家沒落と同時に伊達政宗は黒川の郡鎮として伊達河内守宗清を下草に舘せしめた

伊達河内宗清家系
 伊達念西公の第四子常陸四郎為家飯坂に舘す。その子彦四郎家政吉岡に天皇寺を興す。父君為家を吊ふ。即ち天皇寺院殿常陸四郎為家大居士となす。家政の孫伊賀守政信始めて飯坂氏を称す。政信十一代の孫右京大夫宗康に至り男子なし。女飯坂局政宗の側室となり三子河内守宗清を生む。政宗公に請うて飯坂家を嗣がしむ。宗清慶長八年福島県伊達郡飯坂村より宮城県宮城郡松森に移った。河内守宗清時に年歯僅かに十才。松森在舘九年(紀元二二六三年、昭和二十六年より三百五十年前)にして黒川郡下草に移る。時に宗清十九才下草在舘五年にして吉岡城に移る元和二年なり。吉岡在城十一年にして死去。時に三十五才、嗣なくして宗清に至り全く絶えた。
宗清吉岡天皇寺に葬るその墓地現存す。
宗清の法名
 天皇寺殿空 大禪定門
   寛永十一年七月二十一日卒 河内守宗清
 寿域妙長大禪定尼
   寛永十一年閏七月十七日卒 宗清母飯坂局
 以下は家臣の殉死者
 秋光宗哲禪定門
   御附家老 大和田佐渡守 年八十三才
 旧岳紹因禪定門
   小姓衆  浦川右兵衛 年三十才
 幼心雲錦禪定門
   小姓衆  中山卯兵衛 年二十七才
 壑法周古禪定門
   小姓衆  佐伯左門 年三十二才
 不昧常光禪定門
   小姓衆  今野妥女 年二十九才
 芳林秀桂禪定門
   御徒組  森右馬之助 年五十二才
 松壑常貞褌定門
   御台所家 青木彦左右エ門 年四十五才
 以上が河内守宗溝の家系及び卒去迄の記録にして事績及び下草在舘中の記録と伝承とを記述する。

吉岡八幡宮について─今村(吉岡の前名)鎮守八幡縁起に拠る

 黒川郡鎮守八幡宮は住古奥州信夫の領主飯坂右近大夫宗康氏の氏神である。後宮城郡国分松森に御遷宮其の後鶴巣城主黒川氏鎌倉よりき黒川郡に移住するに及んで松森より下草に遷宮し、代々氏神のところ黒川氏滅亡するに及んで元和年中(1615-24)伊達政宗の三男伊達河内守宗清信仰し宗清吉岡城に移るや下草より吉岡に遷宮された。河内守は御信仰極めて篤く寛永十一年戊七月(吉岡に御遷宮になってから)玄米十五石寄附更に御神田御道具武具馬具一宇奉納になり、祭典のときは警護をせしめ神興渡御祭礼隔年とあるから神興の渡御は一ヶ年おきに八月十五日と定められた。流鏑馬もあり、町中は三町より渡御相出し今以て先例の通りとある。明治十五年頃迄は下草より御遷宮になったゆえ、祭典の御輿渡御の奉仕者は下草より出ていたところ其の後下草よりは奉仕せず下草「下」を頭字にする吉岡町下町の人達に依って奉仕されてること現在に至る。
明治の前迄は伊達家より祭典の折供奉二十人警衛の士を派遣されたこと。寛永十八年三月境内御竿入(測量)東西七十九間、南北六十間御朱引の上(赤線を以てなし神域にし免税)伊達綱宗公が御出御になりたる由、其の時伊達家の役人武市三郎右エ門笹町七郎右衛門馬渕隼人御印形を下し置かれたとある。
 文化十四年?三月伊達斎宗公奥筋御出馬の折御参詣になり信仰の思召しを以て黒川郡八幡宮と真書を以て献納になり裏書には左近少将藤原斎宗と書印して奉納せられ宮殿修復金として金壱万五千疋。銭五万疋。御酒三樽献納されたことは旧記に残っている。其の後嘉永三年伊達慶邦公奥筋御出馬の折参初詣になり祖先伝来の御旗一流奉納されている。
 吉岡八幡宮は下草に鎮座した期間は黒川家が黒川郡に移住したのは人皇百二代御花園天皇長禄年中(紀元二一一七年昭和二十六年より四九六年前の一四五五年)にして黒川家九代の間は一四一年間鎮座し更に伊達河内守時代が二十年、計一六一年の永き間下草に鎮座せられたのである。河内守は下草在城五年八幡宮の遷宮は二年後に吉岡に遷宮されてる下草の部落には八幡越戸と称する地名が現存する。
 現在の下草八幡社は御神体吉岡に在し、あみだ如来主で八幡社は名称のみとなった訳である。境内大銀杏はその古木が昔を語るが如く上空にそびえてる。伊達河内守の下草居舘は古城と称へ部落の西北隅にあり平地の城である。現在は鰐ヶ渕囲の大部分が城跡で畑田で今尚城の内城の前城の後外壕、内壕、町屋敷等々の地名が冠せられて居る。ことに城の内には池のありし部分が現在田になって居り誰でもが当時のおもかげを容易にうかがい知ることが出来る。竹林川は源を宮床村に発し、下草に流れ、河内守居城たりしところ弯曲に自然の堀をめぐらして落合村で吉田川と合する平地といえども要害堅固であつたこともうなずける。
 伊達河内守生母は仏法帰依者らしく記録に明らかな寺院を記す。
 ◎宝珠山龍泉院  現在吉岡町志田町
   曹洞宗明峰派
   本寺  宮城郡七北田村竜門院洞雲寺
   本尊  釈迦如来
   由緒  創立年代を詳にすることが出来得ないが柏翁淳岱和尚の開山にして和尚は
       文安四年示寂元下草にして寛永五年七月第四世雪山全積和尚下草の村人に
   謀り吉岡に移す。下草に於いて寺跡は黒川坂の辺りなりと伝ふ。
   末寺に粕川村石原に富有山東泉院あり。中興開山は第六世悟道和尚なりと
 ◎蓮台山九品寺   現吉岡町志田町
   浄土宗名越派
    本山  京都東山 花須園 智恩院 大谷寺
    本寺  岩城国磐前郡山崎村 梅福山専称寺
    本尊  阿弥陀如来
    由緒  創立年代詳ならず元下草にありたりしを慶長三年七月吉岡に移し本誉竜安和尚を中興開山とする
 ◎下草山安楽院   吉岡町下町東裏にあり
   新義真言宗
    由緒  黒川郡宮床村飯峰山信楽寺の末寺にして河内守宗清の生母飯坂局建立せると伝う。元下草にありしが元和二年河内守吉岡に移るや当時も又茲に移れり。寛応法印を中興開山するといえども其の年代詳ならず然るに安楽坊に対し天文十六年正月二十三日御綸旨一通下賜又鈴木駿河守平氏継より天文十二年三月朔日の奇進状を藏し居れりと安永書上に見ゆれども以後伝らず明治七年吉岡弁財山吉祥寺に合併せしと。尚 同寺の下草に於ける寺跡は如何なるか詳ならず。
 ◎不動山金剛寺南藏院   現吉岡町初片横丁
    本尊  不動明王長一天慈覚大師の作なりと言う明治七年火災の際焼失せり
    由緒  福島県信夫郡飯坂にあり開院年代不詳なるも藤藏坊を以て中興となす慶長十五年死去世々飯坂家鎮守稲荷明神の別当たる南藏院長久は飯坂局に従い宮城郡松森より黒川郡下草に移住元和二年更に吉岡に転居明神に奉供し熊野道付近に居りしを安永年間現在の地に移転せり河内守宗清命じて熊野神社及び吉田村愛宕神社の別当たらしむ明治維新にあたり復職して神官となる
以上神社一と四ヶ寺が郷土にあり其の繁栄がうかがえる。尚下草の地名のおこりは河内守時代なりと思考される。前記の下草山安楽院の山号によりて誰人もうなずける訳である。

下草の伝説

 次に下草に於ける古末からの伝説を記述する。この伝説も現今考察すれば極めて馬鹿らしく思はれるけれどやはり郷土のことはこれを否定することも。どうかと思うので実説にも符合するところもあろうし、全く造り話もあると思うが此の点は予め、ひもとくものの判断に任せたいと思う。筆者はこの伝説には責任は負はないことも予め断って書くことにする。

◎ぼうふり田の伝説
 天正十八年の春まだ浅く政宗は黒川氏の居城鶴巣城を十重二十重に囲み蟻の這い出るすきもなく攻めた。城は堅固城兵善く戦いさすがの政宗も攻めあぐんで居った。政宗は間諜をして城の様子を探らしめた。その頃城下はずれに一人の糸繰りをしている老婆が居ったところがそこへ百姓風の男がやって来てこの城は政宗公も落しかねる様子だがここの殿様は余程豪い方ですネと婆さんに話し懸けた。婆さんは糸車の手を休めて殿様も豪いがこの城は鶴を犧(いけにえ)にして造った城でしかも鶴の舞い上る形をしている。だからどんな戦上手な大将でも攻めるには、むずかしい普通の攻め方では恐らく何年経っても落城致しますまい。ただ一箇所の急所がある。それは鶴の首を切断すれば落城は疑いなしと語った。聴いた男は心中こおどりして喜んだ。すかさずその急所はどの方角にあたってるかと尋ねると、婆さんは城の東南方が鶴の首であると教えた。日ならずしてたちまち落城した。そして黒川氏は政宗の軍門に降った。その城の機密を洩した婆さんは直ちに殺された。婆さんに話を聴いた男は政宗の放った間諜であったことは言うまでもない。殺された婆さんはその辺りに葬られた。それから何十年か後、ある富谷村の農夫が婆さんの葬った附近一帯は平な草原なので田に開拓したところがその人の家族はほとんど無く一家族得体の知れぬ熱病にかかり死に絶えた。そして何回繰返し繰返し、その後開拓すればやったものの家族は必ず先と同様な病気にかかり死滅したと言うことで誰言うとなく婆さんの怨念でぼうになるのでぼうふり田と名づけて、其の後誰人も開拓したものがない。それは今尚ぼうふり田と里人は称して草原のままで現存している。方形で約二〇〇坪位の面積がある。明治の中頃誰人かが東南隅にある塚に供養燈が建立されている。其の位置は下草より富谷村三之関を経て国道に連結する里道の沿線でその辺一帯を婆々の沢と言う。この地名の残れる説に二説がある。その婆さんを葬ったからその地名があるのと又一説は黒川氏の調練場所謂馬場なるものがあったからだとも伝えられて居る。その調練場らしきところは現在十嶋山と言い沢の中央頃にあり北方は丘陵で南面は平坦で約三千坪位の面積がある。現下草須藤氏の所有で山林になっている。昔馬場のあつたところだから馬場の沢と言うのであるとの説である。
尚、馬場のあったと思われるところを十嶋山と言うのは伊達家の藩士十嶋某の居敷跡であったとのこと。明治の中頃 は居宅があったと故老が話して居る。

◎鶴巣舘後日雜話
 
朝日さす 夕月輝く 三つ葉うつきの
  その下に黄金億々 うるし萬杯
 こんな歌みたいな何にか宝の山の在りかの暗示見たいなので、里人等は当時ホントに館山には黄金が億々と、うるしが万杯埋蔵されて居ると思ったらしい。
三之関に長右エ門と言うお爺さんの惣領に長吉と言うものがおった。あんまり利口ではないがとてもお人好で皆から好かれた。大きくなったら女房はいらぬ、その替り鉄砲が欲しいと言った。ある日裏山に朝草刈に行き刈り終って馬に付け様とした処、つないで置いた馬はいつの間にか手綱を切ったか姿が見えない。長吉は朝飯も喰はずに一日中馬を探して歩いたが皆目姿が見当たらず空腹と疲労のためがっかりして夕方家に帰えった。遂に暗くなって探しにも出懸け兼ねて不安な一夜を明かした。翌朝早く再び近所の人二、三人の応援を求めて出懸け様とすると馬の姿がヒヨッコリあらわれた。長吉はこおどりして喜んだ。馬の手当をしようと思って足を見るとひざの下にネットリとした小黒い液がくっついてる。
こすってもこすってもどうしても拭い去ることが出来ないのでそのことを父親の長右エ門爺さんに話してみるとなんとそれは「うるし」なので皆な大喜びこれはお前の正直を神様が認められて宝を授けて下さったのだ。皆で館山を探しうるしの在りかをと早速に山を隈なく探したが遂に何日探しても見当らなかったそうだ。又明治の中頃下草に久右エ門と言う人がおった俗称「きんにむんだんぽ」と言った此の人目はあまり見えないがすこし利口ものでずるかしこい人だったらしい。占なったところ館山に黄金が埋蔵されて居る。又八幡様のお告げに枕神あり速に掘れと、こんなことをまことしやかにふれ込んで「きんにむん」先頭に立って慾の深い連中は黄金を掘り当てたくて人夫に御馳走をおしげもなく出した。
何日も何月も続けられたが皆目黄金は出て来なかった。年月を経ると再び「きんにむん」は前のことを繰り返すのであった。「きんにむん」だんぽは生活が苦しくて、あげくの果は見えぬ片輪で、人のなさけに依らなければ生計を営むに難しいので一策を案じた。一種のトリックであった。心ある里人等は「きんにむん」のおか金掘りと言ったそうだ。今尚鶴巣城のあった山中には無教の井戸の如くになってる深いのは一丈五尺位、浅いのでも七、八尺のもので如何に真剣に掘ったかはその跡を見てもうかがわれる。

下草の狐話
 下草には昔から狐が多い処だ。明治の末項迄は狐にばかされた話が残っている。其の代表的なものは「館山の要吉狐」鼡谷の「ねんねご」「八幡越の桑子」等々其の場所に依って年老いた狐の族があつたらしい。そして場所によって人間を馬鹿にする方法にも特徴があつたらしい。
◎館山の要吉は主として武士になって里人をまよわしたそうだ。重作と云う爺さんが館山に萱刈りに行った晩秋のある日、日足の短い季節と言えども午前中に暗くなり手許さえ見えなくなったので草原に腰かけてる処え武士数人あらわれこれ重作ここを何んと思う勿体なくも鶴巣城内であるぞ、下郎速かに下りおろうと一かつされた。重作爺さんびっくりして私は決してあやしい者ではありません。この部落に住む重作奴に御座ります屋根をふく萱を刈りに参ったのです。城内とは少しも気付きませんでした。どうか御勘弁下さいませと参拝九拝して頭を上ると忽ち昼すぎの秋の日ざしが「さんさんと」輝いていた。爺さんが昼飯をしようと思って木につるした筈の弁当は無くなってたそうだ。それからは重作爺さん館山には一向に行かなかったと言う話が伝えられている。
◎鼡谷の「ねんねご」これは主として子守になって泣く赤子を唄を唄って寝むらせることが得意らしかった。主として女が馬鹿されたと言い伝えられている。ある婦人が朝早く田に肥料を施すべく出懸けたところ火のついた様に泣く赤ん坊を子守が唄を唄いつつ慰てるがどうしても止まない。そして子守はその女に向ってなんぼうあやしても泣きやまぬから乳を下さいと願った。その女にも子供があったのでしばらく乳を呑ませてやり東の空が白んだ頃に肥料を散布しようとした処家から持ってきた肥料が(それは魚粕)半分も無くなったそうだ。その肥料は魚粕の始めて使用した年だったと古老が話している。
◎八幡越の桑子これは善人を専門にしてる馬鹿し方だったらしい。昔は好く田舎では麦搗きが各所に催された青年連中は夜一里も二里もある処へ出かけたらしい。帰へる頃には必ず意中の女にばけて迷わした話が残ってるが余りにも「わいせつに」渉るので例を挙げて書くことをひかえる。

下草の名木・地名

大銀杏=八幡社境内にある周囲凡そ一丈五尺天をまする巨木である数百年を経た様に思考されるが「実はならぬ」、従って乳房もないところをみると男の木らしい。
八汐=これも八幡社境内にある老木である。やはり銀杏の木と同年代と思われる、こんな麦搗き唄が残っている。
           下草のなァお構へ屋敷の白藤はやァ
             あみださんの八汐に色とられたやァ

白藤=前の唄にある通り尾構へ屋敷とは現平渡家須藤家の屋敷一帯を称している。白藤は昔尾構へ屋敷一帯は白藤らしかった。五月の始めあの高雅な藤は仲小路の川に映じてとても壮観だったと古老が話してる現在は須藤氏屋敷に二三株その名残をとどめてる。 

◎日かげ沼
 部落の東端北目区との境界近くで里道の沿線にある今はその原形を認めることが出来ないが昔は相当に大きな沼らしかった。七ツ森から吹きおろし風を真っ向に受けて、冬は里人等も大崎方面への往来には難儀な場所である。凍死したものも五指を屈する程である。俚話に
          下草のなァ日蔭沼のすがの(氷の方言)割れ
             いつとけて流れるやァ

◎樅の木山
 やはり下草の東端にある小高い森がそれである。自然木の樅の木が次から次へとうっそうと繁っている。頂上には雷神の祠があって旧六月二十五日が祭典である。旱抜があると必ず里人は樅の木山に登って雨乞いをする場所である。往古は国道が樅の木山の南すそを東より西へ通ったそうだ。今尚割山になってそのおもかげを忍ぶことが出来る。
◎黒川坂
 先にも述べた如く樅の木山から西へ来た国道が北進して又西に向ったところになだらかな坂道五、六丁それが黒川坂であり伊達河内守時代その附近に寺があつたらしい。吉岡に現存する竜泉院それであったと伝えている。
◎かま堀
 下草の殆ど中央では北に沿って道路の沿線にある用水路がそれである。昔は「ほたる」がよくとんで里人等の夕涼みに一段と趣をそえたところであると古老が語っている。今はその名残りをとどめ夏になると二つあるいは三つとびかっているのが見受けられる。
◎宿 尻
 往古本町の宿と称へたときの名残である。ここは鶴巣城下のお下町で仲小路の東端になって農道が十字路をなして居る一帯を言う。昔は好く子供の遊び場所で暮になると「たこあげ」をしたところである。今は共同作業場、農業倉庫、ポンプ置場、火の見やぐら、耕地整理記念碑などが建てられている。ここが丁度用水路の幹線で春から秋にかけて馬や牛の運動を兼ねて行水させる場所なので先ず下草の一番にぎやかなところであると共に馬ひて場として親しまれている。
◎供養石
 下草の西端で富谷村三関と境してる北は吉岡に通ずる里道、南は富谷村方面に行く三又路に湯殿山、月山、羽黒山、馬神、山神、黄金山神社等々の石碑が建ってる処で昔から供養石として知られていると 同時に里人等の信仰も篤い場所なのである。
◎供養山
 下草の中央で南面せる雑木林の丘陵地帯で昔は寺跡であったらしい、今尚石碑が散見している
◎鶴首の沢
 鶴巣城は鶴の舞い上る形をなしてるとか、その首の部分にあたっている本丸から東南に続く丘陵地で城の弱め手にあたって居ったらしい。先に伝説で述べた如く伊達政宗が城兵の退路を遮断した様に考察される。最高二丈位の堀割が今尚残ってる。里人称して鶴首と言う。
◎鶴の権現及遊園地
 昭和三年の春下草の佐藤某女病気のため医療を受けたがはかばかしからず法華信者に祈祷を依頼した処黒川家落城の折戦死城兵の霊魂があらわれ、吾々無縁の霊を慰めて貰いたいとのお告があった由そこで佐藤某女は高橋もり氏及び高橋栄吉氏に諮り小祠を建立した。昭和五年に高橋栄吉氏は里人に相談をなして部落にてお祭りすることに協議が成立し部落の淨財に依りお宮を新築し、従来十二月八日と二月八日の二回に?現講と称する講を一回に改め毎年九月八日を祭典日と定めた。お宮のある敷地は高橋多利治の所有地にして同氏が無期間無賃貸の契約なる由、この処は城の本丸の北端らしい。更に神苑兼ねた遊園地が設置された。此の土地は平渡家の所有地なるも区有地と交換條件にて承諾を求めこの遊園地の作業は部落の奉仕更に下草青年親友会が東屋を建築寄贈、青年団は桜樹の植栽奉仕にて旧城跡は面目を一新すると共に下草部落の唯一の遊園地が誕生した。あづま家に立って西は七峯に対し奥羽山脈の主峰大舟形山は雲表にそびえ薬来山は富士に似た姿を見せ奥羽街道と吉田川、竹林川の流れは白布を三又に交流し平野は遠く牡鹿方面に及ぶ眺望は四季に依り変化をなし実に好い眺めである。最近小中学校の遠足あるいは風流人の杖をひくもの多くなって来た。黒川家及び家臣の霊よ、幾百の星霜を経たといえども以て冥すべきであろう。
◎阿弥陀様境内
 阿弥陀様には八幡社が合祀されて居るが前に詳述したので、此の稿では境内のことのみを記して見る。境内には幾多の供養石が建立されて居るその主なるもの二、三を見ると
  庚申供
  天明八年(光格天皇第百拾九代紀元二四四八年にして建立者の氏名なし
◎弁財天の碑
 天文五年(桜町天皇第百拾五代紀元二四〇〇年にして建立者氏名なし
権天大僧都 欅院宝正海上人覚位
 宝永二年十二月二十四日(東山天皇第百拾三代紀元二三六五年で上人の墓であることは事実であるが阿弥陀様に対してどう言う関係を有して居ったかは誰人も知るものがない

御宮の建設及行屋について

 御拝殿の新築は明治二十一年二月十一日に着工、同年四月十五日竣工と記録してあるが、以前の宮殿は何時の頃何時の時代なるかつまびらかではない。吉岡に遷宮された八幡宮はその記録に依ると黒川家下草に築城のみぎり すでに下草に鎮座ありしことは黒川家代々が宗拝せりとあるところより考察すれば黒川家以前にあったことは事実である。只其の年代がつまびらか
にすることが出来ないことを遺憾とする。
 御拝殿新築の記録原文は次の通りである。
  八幡神社明治二十一年四月十五日
      御拝殿新築入費
一.金参拾四円三拾七銭壱厘 諸材板買入金
一.金九円拾貮銭六厘    芦及萱買入金
   但し芦二尺二寸丸キ六二〇丸
   萱五尺丸キ三一丸半
一.金六拾銭        〓(米に秋)〓(米に菊)代
一.金参円六拾銭      清酒三斗
   但し棟上及屋根葺き止めの節相用いたること
一.金壱円参拾貮銭     酒米三斗代
   右は接待の酒に用いたること
一.金拾五銭四厘      餅取粉米代
一.金壱円也        棟上祝儀
一.金壱円四十六銭     屋根ふき麻代
   但し中麻一個に付き七五〇匁
一.金壱円六拾五銭弐厘   釘かすがい
一.金五拾五円  大工木挽作料
一.金五円    屋根ふき作料
一.六拾銭    石工作料
一.金拾銭    小唐竹
一.金弐拾銭   篠竹
一.金壱円七拾銭九厘   米持寄り節酒肴代
一.金弐拾参銭  付目呉座四枚
一.金三十九銭  布団五間三十日損料
一.金拾七銭   八幡様下浅宮入用
一.金五拾九銭五厘 棟上道具
一.金八銭    棟上げ及び屋根ふき上探り銭         
・ 金拾四銭壱厘 料紙七帖但し御札用
・ 金拾銭    美濃紙二帖
・ 金四銭五厘  てつみ小紙一枚
・ 金五銭四厘  三十枚折三帖
・ 金四十銭   神道様への初穂料
・ 金壱円七十銭 額細工賃
・ 金壱円七十八銭七厘 八百屋物及び醤油
・ 白襦四斗壱升 棟上及び落成式撒餅但一升六銭
・ 縄百拾弐把  但し一把に付壱銭五厘
・ 藁千七百九把 但し一把に付一厘五毛
・ 人足四百弐拾参人三歩 但し同郡宮床村笹倉より諸材運搬建築方に用する
・ 駄馬七拾八駄 但し宮床村笹倉より諸材運搬 並に宮城郡竹谷より芦運搬に要す
一.金参拾五銭  御宝前に鈴壱個
一.金拾貮銭   奥の院戸前錠
一.諸物相場
一.玄米壱石に付き 三円八十五銭
一.白糯壱石に付き 六円
一.白米壱石に付き 四円四十銭
一.清酒壱升に付き 拾弐銭
一.人足壱人に付き 拾五銭
一.駄馬壱匹に付き 拾八銭
一.杉角一円に付き 百才
一.松板正五分壱坪 弐拾七銭
一.杉板正三分壱坪 三十三銭
一.桂角一円に付き 百三十才
一.桂挽角一円に付き 百十五才
一.桂板正五分壱坪 弐拾銭
一.桂板正八分壱坪 弐拾五銭
一.桂板正壱寸壱坪 弐拾七銭
一.桂板正三分壱坪 弐拾五銭
一.桂かまず三寸八分長十一尺一本に付き弐銭八厘
      一寸六分
一.芦弐尺弐寸縄〆 壱円に付き八十〆
一.萱五尺縄〆 壱円に付き参拾〆
一.大工木挽賃 壱人金弐拾銭 但し喰料共
一.石切工賃 壱人に付金参拾銭但し喰料共
大工棟梁  下草村  高橋 久左エ門
脇棟梁   今泉村  若生 与太郎
大 工   下草村  石川 清一郎  大 工   三之関村 江本 平治
大 工   相川村  渋谷 文七   大 工   三之関村 伊藤 庄蔵
大 工   今村   那須久之助   大 工   下草村  若生 柳七
木 挽   下草村  鈴木 甚助   
屋根ふき (三之関村) 伊藤 栄蔵 (今村) 千葉 幸五郎 (大亀村) 万右エ門
     (大竜村)喜吉 (鳥屋村)?吉 (鳥屋村)円蔵 (幕柳村)寅吉  
右之通りに候也
新築御世話方
下草村 高橋 久作   平渡 高良   横田三五郎   横田平太郎
    須藤 利右エ門   若生 大吉   若生 養四郎   高橋 庄右エ門
    横田 運吉   横田 平蔵   佐藤 伝作   高橋 養右エ門
    高橋 与左エ門   鈴木 要助
三之関村 早坂 喜久治
一之関村 村上 幸吉     以上十六人
村社八幡神社御拝殿新築建設仕候事依而一村契約帳へ相記す置候也
       下草村組長  高橋  久作
以上原文のまま

 斯して現在の八幡社々殿が新築して現在に及びたり。其の後明治二十五年十一月十日八幡社御坂新築をなせり。総費用明細次の如し、原文の通り
村社八幡神社御坂檀新築費
・ 金弐拾円   石工
・ 金九拾銭   駄送方へ補助
・ 金拾五銭   三分板半坪
・ 金弐拾銭   五分板三尺半
・ 金五拾銭   初穂料
・ 金五拾銭   献膳料
・ 金七銭五厘  料紙及水引
・ 金壱円五拾銭 村内若者踊り子へ祝儀
・ 金弐円拾七銭 清酒一斗五升五合
・ 金弐拾銭   八百屋物代
・ 金九銭    醤油壱升
  計 金弐拾六円弐拾八銭五厘
右之内有志金人名次の通り
当村
・ 金弐円    高橋 久作     一. 金壱円五拾銭 平渡 高良  
・ 金壱円    高橋 庄右エ門   一. 金壱円    高橋 廣右エ門 
・ 金壱円    若生 大吉     一. 金壱円    佐藤 養作   
・ 金五十銭   若生養四郎     一. 金五十銭   若生 栄之助           ・ 金五十銭   高橋喜代蔵     一. 金五十銭   高橋 粂治 
・ 金五拾銭   相沢 金助     一. 金五拾銭   横田 長治    
・ 金五拾銭   横田 助治     一. 金五拾銭   横田 金兵衛
・ 金五拾銭   横田 保之助    一. 金五拾銭   小松 直蔵
・ 金五拾銭   小松 長右エ門   一. 金五拾銭   須藤 利右エ門
・ 金五拾銭   横田 運吉     一. 金七拾五銭  佐藤 伝作
・ 金参拾銭   佐藤 万作     一. 金参拾銭   高橋 與左エ門
・ 金参拾銭   横田 平六     一. 金弐拾銭   斎藤 養太郎
・ 金弐拾銭   遠藤 卯吉     一. 金弐拾銭   伊藤 松吉
・ 金弐拾銭   高橋 長太郎    一. 金弐拾銭   横田 重吉
・ 金弐拾銭   横田 周助     一. 金弐拾銭   遠藤 寅吉
・ 金弐拾銭   高橋 清五郎    一. 金弐拾銭   玉川 粂蔵
・ 金弐拾銭   横田 庄之助    一. 金拾五拾銭  横田 運五郎
・ 金拾五銭   伊藤 熊松     
・ 金壱円    大谷村羽生    蜂谷 平助         
・ 金壱円    富谷村大亀神宮  植村 神守            
計拾八円九拾五銭也
一金八円七拾五銭
右は明治二十一年御拝殿新築の際残金四円八拾九銭三厘を横田運吉及佐藤伝作へ貸し置いた元利請求金を充当す
 総計金弐拾七円七拾五銭
右金より諸入費高差引残高一円四拾壱銭五厘
      当村三十一番地   世話人  高橋 久作
   明治二十五年旧九月廿一日
右之通り報告仕り候也
残金壱円四拾壱銭五厘は当区内若者契約世話方当村二九番地佐藤勇三郎らに八幡社鳥居修繕費としてお渡し申候なり
    御定約証
下草村八幡社石坂新築の処金弐拾円を以て右吉田村釡房より下草宿尻迄運送委託請負仕候
・ 前坂拾坂にして巾壱尺 厚さ五寸 側面岩材厚巾五寸角のこと
・ 敷石内法三尺五寸 厚四.五寸 柱塚は五寸角のこと
・ 第二段坂拾弐坂前坂と同じ岩材の寸法
・ 第二敷石も第一敷石と同じなること
来る八月迄総落成のこと。依而為後日定約証壱札如件
   明治二十五年旧四月朔日
                  吉岡町下町 
                         請負人  石田 伊三郎 
 下草村
     高橋久作様
以上が石壇坂建築の決算書原文のままを記述する。

◎其の後の社殿修改築
 昭和十一年旧閏三月十一日に従来萱ぶきであつた。社殿を鉄板に改造された。これに要する総工費は一金参百五円也と記されている。
経費は淨財の寄附に依らず契約講の内神佛講から支出されている。
模様替に関係する世話人と職工は次の通りに額に記されてるのを転載する。
    職人
  棟梁   下草区   熊谷 国藏     副棟梁  二之関   鈴木 栄
  大工   下草区   横田 右エ門    大工   下草区   橋本 盛
  トタン職 吉岡区   後藤 庄八     ペンキ職       水戸 清
   世話人氏子総代
  高橋久左エ門     高橋多利治     須藤助右エ門
  横田栄三郎      高橋 栄吉     平渡 高伝
・ 屋根材料及昇龍虎   寄附者   高橋多利治
・ 御拝殿畳       寄附者   岡 あやめ
・ 昭和十三年四月一日   石鳥居を献納せり
契約講及神佛講に依って経費を負担。
国威宣揚。武運長久と刻まれている。けだし日支事変に遭遇した年であったからである。
 一、総工費  金五百四拾円也   石材、職工、搬送賃含
 一、製作所及石工者は仙台市覚性院町小梨石材店一式請負工事にして搬送から現場に建立する迄。
   その他雑役人夫は部落負担。

神輿堂の建築
昭和十一年旧閏三月十一日 御拝殿屋根模様替へのときに建立。関係者及職人其の他は屋根改造と同様なれば記載を略す。
・ 行屋に就いて
建築の年月詳にすることは明らかでないが、建築様式から考察すれば相当に古い建物なることがうかがわれる。
昔から精進講などに使用し、部落の公会堂でもある。明治三十年頃から鶴巣小学校の分校で尋常一年生のみ教育して居った様に記憶してる。明治三十八年に廃止されて以来公共的集合所になって現在に至る。
昔は契約の宿は廻り宿だったが現在はここを使用す

遠下の観音様
 下草の東端に北目の境に近い所に御観音様がある此の辺一帯は観音堂囲である。
毎年旧四月十九日が祭典日で黒川坂の氏神と称している。(現高橋武氏の家を昔から遠下とも言い又黒川坂とも言う)勧請年月を詳〔つまびらか〕にすることは出来ないが、元平渡家の氏神だったものを黒川坂の何代目かの人が替って氏神にしたと伝えられている。観音様は金仏の一寸八分の神体なりしとか明治の中頃盗難にかかり紛失した由、かって遠下の廣右エ門と言う爺さんが刈田郡鎌先に入湯中白石町の骨董屋の店に盗まれた観音像がかざられて居るのを買求めて元のお堂に安置したと伝えられている。
其の後再び盗難にかかり石像に現在はなっている。黒川郡三十三所順礼の第三十二番になっている。
その御詠歌は
    つゆ下や草の枕もいとひなく
       みのりをしたふ黒川のさか
 こんもりと茂れる松杉にかこまれ静かに安置され、梢には昔からのことどもを秘めていることだろう。

◎平須公雷神
 当主横田保吉氏の氏神がある舘山東舘の東下に鎮座し。保吉氏の祖先平蔵と言う人が白旗の畑堀りの場合土中より掘り出した神体を白旗に小祠を建立してお祭りした。氏子も五、六名あって百姓の神様として崇拝したらしい。およそ百五十年前らしく保吉氏の父親平六と言う人が若かりし頃現在の位置に遷座したときく。尚神体は保吉氏の家屋内に安置されて居る。




下草の風俗習慣

下草の風俗と習慣

 南に丘陵地帯を控え、北西は小大崎耕土の称ある志田郡鹿島台までの一大沃野である。陸羽街道は西に十三四丁、吉岡町に一里と云う比較的黒川としては交通に恵まれている下草である。往古は国道の沿線にそうように本町の宿と称へ、今の吉岡より繁華であつた下草も案外に、風俗等習慣が善良とは言い得ぬ。自然博徒等多く風俗優柔なるも、又一方には侠気に富む強者は好く弱者をたすけ、隣保相互に固き誓いあり。最も共同的精神に富めることは下草のいさゝか誇りとすることが出来る。明治十九年鉄道東端松島を通過するに至りかえって交通に不便を来し他に比すれば軽佻の風なしとせざるも、一面において進取の気性に乏しき憾あり。
伊達家において一般藩内に下したる宝暦八年の條目は維新以前まであえて変ることなく、忠孝を専らにし 儀を守り質素を重んじたが、本部落においても、万事倹約を旨とし、衣食住の如きも士農工商具の階級に従って等差があった様子である。
 即ち絹紬は士分、大肝入、山伏、神主、禰宜等に限られ、其の他は一切木綿を用い、絹類は帯襟などにも用いることを許されず、衣服の染模様もまた紫、紅を禁ず。その他は無地とし、小紋形付は之を許されたと言う。木綿の合羽は士分の外は用いしめず。青地紙合羽も組頭、肝煎の外着用は禁じられて居た。総て赤紙合羽にして先ず一般には簑を用いしめ傘は肝入、組頭も禁ぜられて居った。妻、娘などは日傘を用いることすら禁じられ、農民の妻や娘は櫛を用いることもまかりならぬと。
 麻上下は士分一般の礼服で之に大小を帯び。士分にあらざるも由緒功績あるものには特に着用を許され又更に大小を佩(はい)用を許されるに至っては実に名誉となせしとか
 農家は羽織の着用すらも禁ぜられた程であった。
袴は現今伝っている平袴を通常用い、ツマ高は之を馬乗袴と称して、乗馬の場合のみに用いたそうだ。士人は一般に素頭で道路往復には菅笠を用いた、食物も一般に野菜を用い、之を魚類に配して、生魚は無塩と称え多く塩物を用いた様子であった。獣肉類は一切之を用いず、牛豚は勿論鹿猪等も食うことを禁じられ隅々之を食せんとすれば通常の?(ろ)に於いて煮焼することを固く禁じて居った。又之等の肉を食った者は穢(けがれ)ありと言はれて家の中に入ることをきらった様子なり。兎は只鳥類なりとして用いることを許されたので、鳥類は一般に用いられたことは間違いなき様子なり。諸振舞にも一汁三菜、酒三献酒は濁酒を以て常酒となす。祝儀たりとも之を犯すことを許されない。外人の会合たりとも旗本の如き格式着には二汁五菜とし其の他一汁三菜或は五菜とした。又之に用いる器物も金銀の箔せるものを用いることを禁じられ婚礼、葬儀、祭礼も一般に質素を旨とし、所謂、條目なるものを堅く遵守した様子なり。
 当時の正月祝に用いた一般のものは、面取大根煮、がらぼし、煮豆、数の子、鱈の吸物の如く、上下共定例なりき。又常食は白米に大根糧、若しくは麦粟を混用し、たまに白米のみを用いることは士家にのみ限られて居った。又吉礼には小豆飯をたき、あるいは赤飯、餅等を製することは、現今と変りなし。
 家作は絵図面を製し之を代官に差し出し認可を受けた様子だったが後には此の繁雑を省いた様子なり。旅人宿は襖、障子、唐紙を許され、大肝入、肝入、検断は表向き板敷きは許されたが、天井、長押は禁ぜられ、其の他の農家は一切之を禁じられる。士人には其の制なきも四脚門は厳禁されて居った。燈火の如きは農家にあっては、松ふしをとり之を焼き、又デッチと称して松ヤニを以て製したものを用いて点じ、行燈と言うものを用いた様子なり。明治十四、五年頃より石油を用い、これを洋燈と称した。大正七年鳴瀬川発電所の工事に依り吉岡町に電燈がついたのを始まりに下草には、大正九年電燈の設備あり。其の後仙台=中新田間を結ぶ仙台軌道がはしり益々交通至便となり、今これを回顧すれば感無量なるものがある。
 文明の利器はここ下草のはてにも及び、ラジオを聴き、居ながらにして世界、社会の情勢を知りかくの如き昔のことを記したところで一笑に附される憾はあるが世代の人達は真面目に踏襲したことを見逃してはならないと思う。

◎下草に伝わる昔の演芸
 明治初年頃から中期にかけて田植踊りと称するものと田植狂言と言う芝居があったらしい。
 田植踊、黒川七つ森田植歌と称し、下草のみではなく本郡一円に流行したらしい。やんじろうと称する二人の少年と笠をかぶる早乙女三人或は四人の少女で舞うのである。横笛により拍子をとり其の歌詞優長自ら特殊の郷風あり、其の歌詞数多くいずれも古代めきたるものあり左の一首を代表的なもの
    「せんだいくろかわの七つ森さてもみよい森かな」
 やんじろうの言葉
  苗打った代掻へた苗と申せば、とうしも苗、投げればシヤンと立つ如く。植えればすぐに黒葉さす。それもそうそう仕度よくんば植え始められ候」
歌につれて舞う。
 「次に早乙女の言葉」
「やんじろうどん、駒を早めて代掻かさんせ」と云うのである。
  此の舞を終ると狂言に入り、いわゆる田舎芝居をしたそうだ。下草では忠臣藏五段目、安達ヶ原鬼婆々、熊谷次郎直実と敦盛等は得意中の得意らしかったと伝えられている。
  神楽。明治の末から大正の始に懸けてこの神楽と言うものあり。郡内各所にあった模様で、下草でも盛んに行われたのであった。
 一種の男子舞踊なり、直垂を着し、鳥帽子或は白鉢巻をし刀を佩(お)び幣束をとり、或は扇、鈴等を鳴らして大鼓と笛、摺金にて拍子をとり歌によりて舞う。その歌詞勇壮にして機敏、観るものをして足を踏み自ら舞台中の人たらしむ。其の歌詞は、
    ◎愛宕山高きも高し名もひろく
        土用の六月小雪サヨナラ
    ◎うてはなるうたねはならぬ大鼓
        うたうより早く神があつまる   折返す
    ◎おもくとも軽くあがれや羽黒山
        羽黒の山は石のきざはし     折返し
    ◎つくばねの神のやしろを通るなら
        いかなるなんものがれたもうぞ  折返し
    ◎山の神々腰に下げたるほらの貝
        一ふき吹けば国をさわがし    折返し
 此の神楽歌を唄う前にヤウ、ハウ、ハーと、して行く

◎どっぴきと麦搗き
 農村に於ける賭博の一種にして多くは老いたる女のなせることであつたらしい。「ど糸」と称する多くの麻糸を束ね其の中一本に銭若しくは赤魚をゆわえて置き一度にそれを引き、幸に着きたる糸を引いたものが当ったらしい。筆者は幼少の時分見たことがある。明治の末頃迄に盛んにやったらしい。又当時夜麦搗きなるものもあった由、旧八月の十五日頃から七つあるいは八つの臼を列ね一つ臼に向い合って二人で手杵を持って搗く。近隣の青年集りこれに手伝い一種の唄を歌い杵を上下する。これ一面に於て男女間の風儀を乱す媒となる。故に其の歌詞卑猥なるもの多し。
    ◎ 本町のナァ 尾構へ屋敷の白藤なァ
        あみださんのやしおに色をトラレタヤァ
    ◎ 本町のナァ板橋たもとのたへさん木はナァ
        男さへ通れば出来てからまるやー

年中行事の一班

 下草に於ける年中行事は次の如し
正月の元日より三日迄
  雑煮餅を食す。二日目は新年宴会を催すことを恒例とした。三日の夜はとろろを神に供す。
正月七日
  (七草たたくなにたたく唐土のとりと日本のとり(田舎のとりと言うが普通なれど日本のとりは止しい)と渡らぬさきに七草たたく)と唱へ六日の夕辺から翌朝にかけてたたくのである。之を粥にして神前に供し家人も食す。七草日と言う。
正月四日
  新婚夫婦の里入り
正月十一日
  農はだてと称して朝早く起き出て老幼に至るまで縄をなう。それは主として荷縄と言って、春から秋にかけて種々の荷をせ負うのに用いる
正月十四日
  女の年取りと称する日朝早く起き出でて二回の餅を搗き、粟坊 舞玉を造る「ちゃせご」と言うものもあったらしい
  「あきの方からちゃせごにきした」
  なまこ引き「なまこどのお通りだ、もぐらもちおるすか」と唱へて屋敷の周りを縄に石を結びつけたものを引いて歩く。
 なっかなんネェか「なにを持って一人が果樹に向って」なっかなんネェかと唱えれば、一方にて「なりもうす、なりもうす」と応答するのである。
正月十五日
  朝早く起きて 正月の飾り物 一式を一まとめにしてあきの方に納める。門松には暁粥を供して「ハーヤハヤハヤー」と唱へつつ納め、暁粥は其の他神前にも供し家人も食す。
正月十六日
  鳥追いと称して朝早くからハーヤハヤハヤーと唱へて 朝日の登る迄続く。近隣は申すに及ばず他部落のも聴こえ、にぎやかさを通りこして実に騒々しいものであった。しかし近年は衰えつつあり。
正月二十日
  餅を食し後、昨年刈り置いた蓬(よもぎ)草に火を点じて之をかぎ全身を薫り後家屋の各部を薫り廻り二十日きうと言う。
二月一日
  餅をつき、刀之餅、鏡の餅を造る。刀の餅は男の人数だけ、鏡の餅は女の人数だけ
  又かぎの餅と言って自在鍵に結びつけて置く
二月八日
  八百万神出雲に種子を取りに行くと称して団子を供す。今日山に行けば帰えらぬものがありとて行かぬ例あり。
二月十五日
  釈迦のねはん
   彼岸入り
  中日、今日山に行けば盲になるとて山に行かぬ日
  社日、今日山に行けば「びっこに」なるとて行かぬ日
二月二十五日
  日本だめし、今日天気好ければ豊作。悪ければ不作
三月三日
  上己の節句と称して又雛祭り餅を撒いて雛に供える。
四月一日
  あみだ様のお祭り。近時農作業の都合に依り新五月一日の祭典多し。
四月八日
  釈迦の誕生又は薬師如来の祭典。地方春祭りのラストなり。
五月五日
  前四日には菖蒲と蓮を以て屋根を飾り菖蒲湯に浴す。餅を撒き武者人形に供へ幟を立つ。端午の節句とも言う。
六月一日
  むけの朔。いわゆる三朔の一つなり。三朔とは六月、八月、十二月の朔なり。桑の下にいくことをいましめた。
六月十一日
  虫送りと称し、短冊に稲虫、大根虫送れ送れ送れよと認め、青竹に結び部落境まで送って戻る慣習なり。
六月十五日
  加美郡の河童神の祭典にて一日休み
六月十八日
  病送り、虫送りと同様短冊に四百四病送れ送れよと書く。藁づとに家族の人数だけの餅を入れて境まで送ること。虫送りと同じ。
六月二十九日
  大早苗振りと言って本日田の草取りだけ休む日なり。
七月七日
  七日祭り。前六日に五色の紙を短冊又は吹流しを造り笹竹に結びてこれを立つ。七日朝これを撤収して川に流すか大根畑に虫除けに立てるかにする慣習あり。
七月十三日
  盆棚を造り飾りつけをする。精進かためと言って魚類を食す家もある。夜団子を造って仏前に供す。
七月十四日
  朝にうどんを食す。おひるながと言って昼食す処もある。盆火本日より始まる。
七月十五日
  朝餅をつく。夕方盆火にあぶって食う習慣もある。
七月十六日
  此の日盆棚を撤収す。十四日より十六日迄墓参りする。
七月二十日
  二十盆と称して一日休む。
七月二十九日
  送り盆。此の日も一日休む。
二百十日
  赤飯を炊き祝う。今日は厄日にして暴風雨のあること例年の如し。
八月一日
  (八朔)にして餅をついて祝う。
八月十五日
  中秋名月、豆やいもを茹でて盆に盛り井桁の上に上げて供す。
九月九日
  重陽の節句、わらづとに赤飯をはさみ神前に供す。十九日、二十九日共に同じ。
十月廿日
  恵比寿 と言って神棚に掛鮒を供える。特に商家では此の日を祝うこと最も盛んなり。恵比寿講相撲と称して相撲の奉納したる時代もあったと言う。
十一月四日
  太子様、即ちお太子様なり、四日、十四日、二十四日団子を造り神前に供す。四日にはカヤの箸と言って長きカヤ二本を供える。
十二月一日
  水こぼしの朔、豆腐を四角に切り串にさし炉の四角に立て水を注ぐ、この日餅をつく。
十二月八日
  師走八日此の日団子を造り青竹につけて門口に供す。即ち八百万の神々出雲の大社にお出ましを祝うためなりと言う。
十二月九日
 妻迎へ、二又大根 に水引を懸けて大黒様に供え、豆を煎り主婦神前棚に向ってまきうたう「大黒お大黒様耳をあけてよいこときけ」
十二月二十五日
  年雇の出入りの日、或は納豆ねせの日で、すす払いをする家もある。どたらばたらの二十五日と言ってる。
十二月十四日
  あみだ様のお歳取り、夜部落人は参詣に行く。
十二月二十八日
  餅搗きの日、朝早くから起き出でて餅を搗く。暁の静けさを破ってきこゆる杵の音、まさしく正月を迎える前奏曲にしてとても勇壮なり。
十二月三十日
  おとしとりの日、朝早く風呂水を替えて身体を清浄にし、正月を迎える準備、七五縄、門松等々全部をととのえて祝膳に向って年を迎える。

冠婚葬祭の諸式

 種々の諸式あれど紙数の都合に依り最も代表的な婚礼と葬礼の二つのみ記述する。
婚 礼
 媒酌人(地方では天下様と言っている)は婿、嫁を貰い受ける方とくれ渡す方の仲間を周旋し、両方の承諾を得れば吉日を選び酒壱升を持参両方の家に至り儀式決行の日取を定める。これを内酒と言う。ここにおいて双方婚姻の約全く整う。嫁の場合なれば貰い方より新婦の衣服の上着其の他相当のものを新調し封金をととのへ(此の封金のことを結納又はお化粧とも名づく)のしを附してくれ方の家に贈る。婿も同じ結納と称する。祝儀当日に至れば媒酌人夫妻貰状及結納を結納樽に雌雄の蝶を付したるものに酒一升を入れ自家新婿たるものの近親を伴いくれ方に至る。此のとき近親の数必ず偶数を取るを例とす。くれ方これを座敷に講じて慰斗を進む。これを御手懸けと称する。茲で双方の近親者の会見あり次に結納、貰状を親権者に渡す。親権者是にくれ状を媒酌人に進む。次に饗応に移る。席定まるや新婦装束を整へ其席に加わる。席順は床柱を象りて媒酌人其の左右に先方の近親、其の次に当方の親類右方末座に婦の席を定む。其の上は媒酌人の妻、その下は婦添えと称する女なり。婿に対しては婿添えとなる。近時婿入りと言うこと流行し、新郎当日新婦の家に行く。然るときは左方に席を定めて之を据へる。先ず餅を饗す(餅振舞の場合のみ)唯雑煮餅一品を例とす。但し勝手には小豆餅をも用いる。終って酒宴に移る。祝儀とし媒酌人夫妻に金円若しくは呉服類を呈す。謠曲は二番即ち、四海波静、長生の家にこそ、さんさ時雨、三番此の間大笠の廻りあり。終りに謠曲納なりを唱い祝おわりて媒酌人新婦を伴って出立す。親類おたちと称して門出を祝し其の歌詞
      おまえおたちかお名残りおしい
         雨の十日もふればよい
 此のとき当家にては先方より送られた結納樽に酒一升を入れ替え是れを先方に遣す例なり。新婦媒酌人に伴われ自身は最近親通常先方より客として来られる近親の二倍の数に送られ調度を納めた箪笥、長持ち持参し婿の家に至る。此のとき長持ちかつぎは赤い手拭をかぶりて歌を唱いつつ勇ましく舁(かつ)ぐ。これを長持ち歌と言う。
   歌詞
  1 めでためでたの若松様よ枝も栄へる葉もしげる
  2 かどのさかちあくまを払へ内の南天福を呼ぶ
  3 故郷恋しと思うなよむすめ故郷当座のかりの宿
  4 さらばお立ちかお名残惜しい今度くるとき孫つれて
  5 富士のたかねに西行のひるネかいを枕に田子の浦
 此の頃新婦媒酌人夫妻は乗掛けと称して乗馬なり。其の後人力車から現在は自動車を用いる様に変遷。日暮頃婿の家にて嫁を待つことしきりなり。長持唄遥かに聞えれば近向いと称して提燈を持って若者五、六人これを門口に迎える。新婦待女房と言う介添へ役に伴われて勝手口より入る。其の場合嫁に萱笠をかざし水を飲ませて藁草履をはかす。家人に一礼をなさしめ内方と言う座敷に休息させる。但し婿は玄関口より入る。会見、饗応の礼総て婦の家と同断、此の時媒酌人より主人に対してくれ状を渡す。婿、嫁三三九度の儀式あり新婦の服装は維新前は身分家格に依り制裁ある為これを犯すことは禁じられて居ったが通常白襟紋付を用い更に打掛けを着るを上とし。又着替へとして三三九度儀式前後に装束をかえることあり。新郎は昔麻上下を用いたが維新後現在迄紋付羽織袴を着用すること常例となった。当日は主たる親類のみ招待、比較的疎き方或は親友、知己は翌日招き披露の宴を開き、此のとき新郎新婦出てて酌をする例もある。又くれ方では出立の後、後見(あとみ)の祝儀として宴会を催し、徹夜で飲むところもあり又「はえどう」と称し貰方の方へ些少の御祝儀を持参して覆面をし酒肴を請うものありしとか、若し くれざれば井戸に籾がらを入れて悪戯をなしたりと言う。現今では全く此の種のものは絶えた。翌日嫁の実家に婿の父親付添終礼の式を行う、これをお里見という。

◎葬式の儀礼(下草における)
 本下草の葬礼は仏式のみを執り行う故、普通の葬祭の一班をしるす。
死亡のものあれば近親集まり先ず訃をなす、この近隣への使いは男一人なれどもやや遠方へは必ず男二人をつかわす、訃音(しらせ)を受ければその家にては必ず飯を炊き魚類を調理してこれを饗す、死者の近親は進と称し膳を亡者の霊に供し集会の人を請じてこれを餉す、大抵近親一人にて一賄いなれど数人合して一賄いなるもあり、葬式当日契約講員集まり葬礼一式の準備を整える、講員は各番に従って講員に葬礼の日取りおよび訃を報ずるものこれを肝入れと言う、町使いと称するものは死人の旅用意一般を準備し、穴を掘り棺を舁(かつ)ぎその他提燈、竜頭、天蓋、仮門等のものを持つ、葬式の行列は仮門、松明、白張、竜頭、線香、菓子、団子、茶、水、高盛、位牌、棺、竜頭、白張、生花、造花、五色の旗、高張、を配し本鍬、藁筆、を加え死者葬家の地位により一定せぬも位牌は必ず相続者なるもの捧持することなり。高盛は次男その他は近親により順次持ち役を定め、葬式の前日か当日牌所の住職来て法名を授け読経をなす、葬式終わればその夜百万辺の念仏をなす、五日目には法事を行いたるものなれど現在は当日法事を行うようになった。葬式の後は初七日と言い僧を請じ近親を招いて供養をする。四十九日、百ケ日も初七日と同じ。また、一周忌、三・五・七・十三・二十三・三十三・五十年忌、これを法事と言う。又、最近まで奇習あり【口よせ】と称して巫子を招き死者の意中を語らしむ。巫子青竹にて造りたる弓の弦をうちならして縷々(ろうろう)、数千言聴者感動号泣するを常とする。しかし近ごろはこうしたことは昔日のようではない、又正月下ろしということもある。一カ年中の吉凶禍福をただすものである、巫子語る事一種異様の音調あり家族一同に対し正月から十二月まで事変を筆記してこれを保存して堅く信じていたようである。近時は全く正月下ろし絶えた。



下草の沿革編の二【位置と地勢小団体記録】

下草の位置と地勢

下草の位置
 鶴巣村の西端に位置し西南は富谷村に境し宮床村に水源を発する竹林川は西南より東北に向かって部落の北端を貫流して落合村舞野との境界をなしている。部落の南面は丘陵地帯にして旧城跡は丘陵中の主丘をなしている。部落の住宅は丘陵地の北側に村道の沿線に沿って東西にわたりほとんど密集している。耕地は西から東へ品位沼までの広範な平野地帯に位置し農業の経営生産には理想的な条件を具備している。

下草の地勢
(イ) 土 性         埴壌土    壌土
(ロ) 気 候
    1 初 霜           十一月五日前後
      晩 霜           四月二十六日前後
    2 初 雪           十一月十五日前後
      晩 雪           四月三日前後
    3 最大積雪量         地上二尺五寸内外(七五センチ)
    4 年内屋外作業の不可能日数  七十日~八十日
    5 最高気温          三十三度
      最低気温          六・九度
      平均気温          十・九度
    6 雨量総量          一二〇七・九mm 最大雨量 一五三・二m
    7 風速            平均二.・九m    最強  二七・五m
    8 風位            北西又は東南
    9 日照時間          二〇九四・四八 
(ハ) 水利     灌漑良好便利  排水も良好便利
竹林川の堤防は明治の末期砂金鉱区の境界より西上して鼡谷囲と鰐ケ渕囲間を完成し更に大正十一年秋より翌十二年春までに鰐ケ渕囲より白旗囲を西南に迫囲に及ぶ六百間有余の築堤を完成。更に明治三九年に耕地整理組合を結成して翌四〇年に完成した。
一、 耕地整理面積           四十四町三反歩
二、 耕地整理に要した総額       二千七百八十一円
三、 役員     委員長   高橋 久作
   工事監督者  高橋久左衛門  若生 大治  佐藤 要助  高橋久米治
          高橋 林作   横田 政治  平渡 高良
 工事設計者  宮城県農林技手   木村 章

下草の字地名
字 迫 囲     主たる地目    山林及び宅地 田畑一部
字十文字囲     主たる地目    田及び宅地  畑一部
字 白旗囲     主たる地目    田及び畑
字鰐ケ渕囲     主たる地目    田及び畑
字田中浦囲     主たる地目    田及び畑
字 下畑囲     主たる地目    苗代全部
字 上畑囲     主たる地目    田及び苗代一部
字観音堂囲     主たる地目    山林及び宅地田畑一部
字 鼡谷囲     主たる地目    田及び畑一部
字作内田囲     主たる地目    田及び畑一部
字千刈田囲     主たる地目    田全部
字杉ケ崎囲     主たる地目    田全部
 以上十二囲に分割する。明治十九年以後は変更なし。以前と雖(いえど)もこの囲名以外に名称なき記録有り。

下草の主たる災害 記録によるもの
天保四年  大不作・大洪水    天保六年  大洪水    天保七年  青立飢饉
天保八・九年  大不作・大洪水    弘化元・二年  大不作・大洪水
明治二・三年  大不作    明治六・七・八・十一・十二年  大洪水・大不作
明治三十八・三十九年  不作    明治四十三年  大洪水
大正八年  大旱害 半作    昭和九・十・十一年  冷害による不作

下草における大豊作 記録によるもの
天保五年  大豊作    明治五年  大豊作     明治十三年  大豊作
明治十六年  豊作    明治三十四年  豊作    大正四年  豊作
大正十一年  豊作    昭和八年  豊作      昭和十九・二十五年  豊作

下草の交通
部落中央を東西に貫通する道路は幅四mにして貨物自動車及び諸運搬車の出入り自在なり。国道へは約二km県道へは三km、往古国道は下草を通過したと聴く。西へ国道転じての以後はさしたる変遷もなく現在に及ぶ。部落民の唯一の交通機関は現在は毎戸自転車の備え付けあり二十四km以内は大部分バスを利用しないまでに発達した、しかしながら今より三十五年前には部落に三台の自転車あり、高橋久左衛門・高橋多利治・佐藤要助が自転車購入の草分けなり。

下草の記録による戸口及び土地の状況
元禄八年      戸数  二十六戸  人口及び土地は不明
明治二年      戸数  三十六戸  人口及び土地は不明
明治三十年     戸数  三十七戸
明治四十四年    戸数  三十五戸
大正二年      戸数  三十五戸
大正十四年     戸数  三十六戸
昭和九年      戸数  四十一戸  人口二九五人 耕作田六十七町  耕作畑二十町
                    一戸当たり耕作田一町六反四畝  畑五反歩

家畜の頭羽数
1、馬 三十三頭  2、牛 三頭  3、豚 十七頭  4、緬羊 七頭  5、ウサギ百五十羽  6、鶏 五百羽  7、ヤギ二頭  8、養蚕年収入 二千三百九十二円
9、わら工品年収入 六百六十八円
昭和二十六年三月現在下草協同組合生産部調査による
戸数 五〇戸  内農家戸数 四七戸  非農家 三戸   人口 三五八名    耕地面積  田 七二町(苗代畦畔含む)  畑 一三町一二歩  宅地 四町四畝一八歩
山林原野を含む  二二町九反六畝

家畜頭羽数
1、馬 二十七頭  2、牛 七頭  3、豚 二頭  4、ヤギ 五頭  5、兎 五羽  6、鶏 一一九羽  7、犬 二十二頭  8、諸車の設備 (1)牛馬車 四
車 三台  (2)二つ車 五台  (3)リヤカー 三十一台  (4)自転車 四十二台

電動機の設備
電動機三馬力脱穀調整 製粉・製縄        須藤 利四郎
石油発動機脱穀調整精米             平渡  高博
石油発動機脱穀調整精米             横田  金治
電動機三馬力脱穀調整 精米 搾油        相澤  平吉
電動機一馬力脱穀調整 精米           横田  保吉
石油発動機脱穀調整精米             吉田 大三郎
電動機三馬力脱穀調整 精米 製粉        高橋 長十郎
電動機三馬力脱穀調整 精米 製粉        高橋  好治
電動機一馬力脱穀調整              高橋  正俊
電動機二馬力脱穀調整 精米           若生  公一
電動機二馬力脱穀調整 精米           若生  新治
電動機三馬力脱穀調整 精米 製麦 搾油     高橋   武
電動機一馬力脱穀調整              高橋  利一
電動機一馬力脱穀調整              横田  清雄
電動機十一台 総馬力数 二十二馬力
石油発動機 三台

下草の諸団体 昭和二六年三月現在
下草契約講       講員部落全員
下草農業協同組合    組合員 四七名
父母教師の会      会 員 四二名
下草男女成年団     団員 男二二名  女五名
神仏講         講員部落全員

下草の番水について(日本農業新聞)

 下草の部落は水害にはさしたる心配もないが、ただ旱魃には相当苦労するところだ。用水の必要に迫られ一五日~二〇日くらいの降雨がないと大騒ぎを演じて番水瀬堀となる。その番水の方法は他ではまねの出来ない特殊な方法でやっている、この方法は部落の農家各戸から出役していわゆる我が田に水を引くのではない。先ず五人か六人の当番を定め、部落の全面積一番上のほうから誰彼の差別なくかけていく、一昼夜交代制で朝に部落全員寄合をして、当番のものは水かけの終了した面積と耕作関係者の報告をし次の当番のものに引き継ぎをするのである。この方法はいつの時代からやっているのかその年代をつまびらかにすることが出来ないが、明治以前から踏襲していることは間違いない事実であって、昔から下草ではあのいまわしい水引喧嘩のあったことは聞いたことがない。抗して労力の節約を図ると共に団結の強きことは他に対して誇りうることであってこうしたことは契約の精神をいかに講員が守ってきたかを裏付けるものである。昭和二四年六月二四日に日本農業新聞はこの水当番を以下の記事によってほめたたえている。原文のまま掲載する、

早乙女の唄ものどか 水争いのない平和郷(黒川郡鶴巣村下草にて特派員記)
 各地に起こった血なまぐさい水争いをしり目に、全部落四七戸が一丸となっての共同水引実施、ここ百数十年来水かけ問題でのけんか口論の例を聞かないという文字通りの平和郷がある。猫の手も借りたい昨今なのにここだけはなんと一周一度回ってくる水番に一戸一名が出るだけであとは万事他人任せでオーケー、家族総出動で夜・昼もない暗い窮屈な気苦労から全く解放され小気味のよい程仕事がはかどっている。仙台軌道志戸田駅から東へ二kmに鶴巣村下草部落民が誇る協助の精神とそのたゆまぬ実行力は六人当番制による合理的運営方法と相まって見事な結定を見せ刻下の焦点たる農繁期の労力効率化問題に一つの解答を提示している。碁盤の目にかっきりと展開する六十七町余には早くも水がたたえられて白雲去来する七つ森の秀峰がその美しい山容をやどし早乙女の唄声がのんびりと流れてる。
目立つ労力節約
 水番小屋のある火の見やぐらの下に、整理記念碑が建立され下草部落の古い歴史を物語っている。明治三十九年十二月十五日下草契約講を主体として総工費二千七百八十一円也で工を起こし四十四町三反歩の耕地整理に手を染めたのが今見るがごとき割然たる整地の土台を築いた。当時の整理委員長高橋久作・担任技手は木村 章というひとであった。翌四十年三月二十五日に竣工している、そのスピードぶりから推しても当時から人の和が大きな推進力をなしていたことがうかがわれる。今、大きく浮かび上がった協同水引のしきたりはすでに部落民不文律のうちに育まれていたというが個人主義的動きを一掃して相互扶助の精神に立脚せる部落の人々の協同体へとふみきるまでには、水争いの苦い体験と部落民を絶望のどん底に叩き込んだ幾多の災害にも屈せぬ土地を愛してやまぬ激しい意欲を伝承して部落の人たちの心に銘じていることは見逃しえないことである。
 営農の純粋な立場からいっても共同水引による利得は計り知れない。田植えの季節になればどこでもそうだが、我が田に十分水をかけるには、いくら家族総出で働いても手が足りず夜中に水を盗まれやせんかとおろおろ眠れず全く精魂をすりへらしてしまう。しかしこの部落だけは違う、一週間一回程度の水番でそれも一戸から一人出れば事すむゆえ、他人を雇っての気苦労もいらず、家族も安心して仕事に励むことが出来るので能率が上がるし、精神的にもゆとりが出来て、いきおい家の中も丸く明るいのである。
 部落の中心人物として縦横に活躍をなし、重厚な人格をうかがわれる元区長高橋栄吉氏へ往訪の記者を案内した元宮城県農会技師若生毅氏(下草出身)は労力節約の点から共同水引礼賛を語られ、更に高橋氏は用箪笥から下草区共同水利組合台帳を引っ張り出して水番当日の天候や水かけ高など克明に記入された各年の記録をみせてくれた。
根本は人の和 部落の姿を語る若生・高橋の両氏    
 昭和十六年五月の同記録には九日間 人夫五九人 水の掛け高五八町四反八畝 一人当たり掛け高九反九畝 日当一人一円五〇銭見当で一反歩当たり一六銭の割と記録されている。経済的にみても一反歩当たりの水掛け代がいくら物の安い当時とは言え、たった一六銭の割安になっているといえ驚くよりほかない。それもこれもみな部落民相互の絶大なる信頼感が生んだ尊い賜物である。五月二十六日の日誌には当番六名の氏名が記入捺印されて次の如く記されている。
◎水の掛高左に
 十三町七反八畝歩
 前日来の降雨により当分水番の必要を認めず、ひとまず水番を中止する。
明治の初めころは部落の会議が開かれておった様子だったが、現在見られる様な秩序整然たる運営を生むまではやはり幾多の変遷があり、災害による苦い体験と自覚とあいまって部落の人々の奮起と人の和が根本をなしている。戦争で人手不足のおりには共同田植えもやり五班を編成移動式に応召家族の田植えから稲刈りにも当たった。
当時を追想し苦難を思い出してか、しばし黙した栄吉さんはいきどおりをひめた静かな口調で戦争の犠牲の大きかったことをポツリポツリ語るのだった。そして社会生活を平和に維持するにはまことに平凡な言葉だが結局人の和が、根本条件であると若生さんが結論された。

 以上が農業新聞に掲載された記事原文で、いかに下草の契約が堅実であったかその一班によってうかがい知ることが出来る。ここにこの記事原文をのせたのも何十年か何百年か後まで当時の新聞を保存しているものはなかろうと思うので書き記したような訳である。
更に又、下草部落の村外から模範的部落と認識を高められたことは大正の中期頃からの芽生えが実を結んだことだろうと思う。しかしこうなるまでの部落の人たちの並々ならぬ努力は見逃してはならない。

下草部落の盛衰

 ここに下草部落の盛衰をたどって見ることにする。明治の初めから末までは下草部落の最も苦難な時期だったと思われる。来る年も来る年も災害は続出し生活が苦しくなり人心は「たい廃」し「飲む、買う、打つ」この三つの悪いくせが揃っていたらしい。
◎飲むくせ
 下草にはその当時「茶屋」酒を売る店が十戸に対し一軒の割にあった。すなわち三十五・六戸に四戸位の茶屋があって、いずれも大繁盛を見せておったものだ。当時他部落のものは「下草は下戸(げこ)も三杯」といって酒の嫌いなものと雖(いえど)も七合五勺の酒を飲むんだと風刺した、いかに飲むかはこの言葉によっても想像されるわけで結局経営が困難となり、北海道に移住したものは十戸内外あったようである。
◎買う
 これは俗に言う女郎芸者と遊びたわむれることで地方ではあまり感心の出来ぬ、いわゆる身代をなくしてしまう代名詞の一部である。下草の部落ではそうしたことはあまり聴いておらんがむしろ沙汰・苦情で法廷で争うことがもっともはなはだしかったらしい。このために身代限りをしたものも少なくないように聴いておった。

 農業生産においても家計の苦境にあるために肥培管理充分ならず、田圃にでると地主の田か小作の田か一目瞭然としたものであった。最大の原因は化学肥料の購入意の如くならず、経済難のものは購入すらも容易でない。したがって肥料商人はあやしげなものを貸し売りをなす、しかも八十分の一の利子で連帯責任でなければならぬと言った様な状態で四苦八苦して肥料を求め、作付をなすも一たび不作に見舞われると極度に経済は行き詰まりを生じて、北海道に移住したり、可愛い娘を売り飛ばしたり実に悲惨を極めたのであった。ここのまま放置すれば部落は自滅の一途をたどると憂慮し、敢然として部落の有志青壮年が決起し、共同の力をもって相互扶助をやろうと、先ず肥料の共同購入を始めたのであった。
 共同購入の具体的方法は、部落の農家各戸共同責任のもとに各々の使用量を集計して商人と特約をなし、現金支払いの能力あるものはただちに支払、現金購入不可なるものは出来秋勘定の分は部落代表者によって証書を差出して農家の欲する肥料を意の如く使用せしめた。初年度の経過すこぶる順調なるにかんがみ、これに力を得て漸次に好調を示すのであった。これ実に下草農家組合の前身であり部落修復の光明を見出したのは昭和の初めであった。こうして模範部落として県下にその名声を博するに至ったのも偶然のことではなく、たゆまざる各人の努力と指導的立場にある中堅層の奮闘は見逃すことの出来ぬことである。契約講の全機能を発揮したことはいうまでもない。平和郷下草の部落にも長い年月の内には波静かな時代ばかりは続かなかった。風波が立つ、それがおさまり又暴風と何回繰り返したことやら、波乱を乗り越えこうして現在では静かな元の下草に立ち返っていることは喜ばしい限りである。

部落の立て直しに努力した人々(大正十四年頃)
    当時の区長        高橋多利治氏
       代理        高橋 栄吉氏
    肥料共同購入組合長
                 佐藤 和輔氏
         副組合長    若生  毅氏
    肥料共同購入組合会計主任 須藤利四郎氏
              役員 齊藤勝三郎氏
                 高橋 幸衛氏
 この当時相澤平吉、横田金治、横田保吉、吉田久三郎、高橋寿、横田作治の諸氏は睦光舎なるものを結成して、やはり肥料の共同購入と同様な形態で事業を進めたのであった。
 後には部落一円に合流したのであることを加筆しておく。肥料共同購入組合から農家組合 農事実行組合 農業共同組合と四度改称して現在に至っている。このほかに青年親友会(明治四二年創立)初代会長佐藤五郎兵衛氏 次代佐藤和輔氏 三代若生毅氏 四代高橋長次郎氏 三十三年間の歴史を有する声年の指導機関であった青年会も昭和十六年に解散した。

青年契約会=稲作増収競技会を併称せり
 青年契約会の前名は罵耕講である。記録によれば嘉永四年十月十日に結成して、明治三十年まで罵耕講の名称で同年十月十日に青年契約講と改称され、明治四十一年十月十日に一大改革をした。この間における役員の氏名は不詳にして記録し能(あた)はざるも、青年の集合団体なることは事実であり契約講の配下にあることはいうまでもない。

青年契約会趣旨原文(明治四十一年 起章者佐藤要助氏)
 そもそも契約会なるものは、そのいずれを問わず必要にして諸事関係の大なるや 言を待たずして明かなり往時よりの罵耕講 若者講 若者契約講 名称を変えること三度 更に青年契約会と改称するも事業の運営になんらことなることなし これ実に区内青年相互提携して益々親交を厚くし諸般の発展と駿駿たる世界の進運に伴い 将来益々生産の実を上げもって国力の充実を図り国民の本領を発揮し もって地方産業の基礎を確立し青年の意気を向揚して衆の範たらんことを誓う。
右により会員三十四名自署捺印をして益々意志の堅固にせんことを神前に誓う。
明治四十一年より大正十二年 三期間役員
  顧 問   佐藤  要助       幹 事   高橋   寿
  顧 問   高橋久左エ門       幹 事   平渡 高 博
  会 長   高橋 多利治       評議員   小松 清太郎
  副会長   佐藤五郎兵衛       評議員   横田 栄三郎
大正十三年より昭和六年まで 二期間役員
  顧 問   高橋 多利治       会 長   佐藤  和輔
  顧 問   佐藤五郎兵衛       副会長   相澤  平吉
  幹 事   若生   毅       幹 事   須藤 利四郎
  評議員   横田 金 治       評議員   高橋 利 一
昭和十年より解散まで(昭和二十一年農業協同組合結成まで)
  会 長   須藤 利四郎     副会長   相澤 平 吉
  庶務部長  若生  毅      庶務副長  高橋 長次郎
  生産部長  若生 幸 英     庶務副長  横田 金 治
  経済部長  吉田 大三郎     庶務副長  高橋  武
  社会部長  高橋 利 一     庶務副長  佐藤  衛
  慰安部長  早坂 幸 助     庶務副長  高橋 林兵衛

下草農事実行組合の業績
 農事実行組合は昭和六年に結成されて青年契約会と姉妹団体であり、その機能においても大同小異であった、ただ、実行組合は法人団体で宮城県でも設立の早きことは有名なことで、この当時から村外から驚異の目をもたれ下草の組合として設備内容等視察者が部落を訪れたものであった。県農会・農林省・帝国農会より選奨および推挙等は次の通り。
(1) 宮城県農会より指導組合に選定された
(2) 宮城県農会より農業簿記指導を指定された
  (イ)農業簿記指導員委嘱者は 若生 毅、須藤利四郎、横田金治、吉田大三郎、早坂幸助、若生新治
(3) 農林省より自作、自小作、小作の農業経営五ケ年の模範施設を命じられた。その担当者は
     自作経営模範農場     高橋長次郎
     自小作経営模範農場    相澤 平吉
     小作経営模範農場     吉田大三郎
 以上の諸氏であったが農事実行組合が主体であったことは言うまでもない。この経営状態は東北六県単作地帯の三階級の指針になったのである。

◎下草有畜農業実行組合の事績
昭和八年に設立   有畜農業経営の指針(原文のまま)
 本組合設立当時昭和八年において組合員三十一名につき生産および消費状況の実態を調査したるに現金収入総額二万八千五百八十円 現金支出総額三万六千七百八十円 差引八千二百円の超過支出を見るに至ったこれすなわち従前の農業経営欠陥の現われにして労力分配の不合理と金肥の濫用がおもなる原因と認められる ここにおいて農業経営改善の必要を痛感し従前の経営状態を組合員ごとに調査検討し合理的に大小家畜を取り入れ余剰労力の利用と自給肥料の増産に努めた結果、本年度においては現金総収入、総支出の差額二千六百五十円となり短日月にかかわらず予期以上の好成績をあげた、これらの実績にかんがみ更に一定の標準を定めて各種家畜(牛、緬羊、鶏)を取り入れ、畜産発達の万全を期し農業収入の増加を図り、不足額を補充し組合員の生活安定を図った。
事業成績
イ  畜舎の改造?主として厩舎をコンク     二  牛舎の建築     三 棟
   リートに改造  実施ヶ所 五ケ所    ホ  緬羊舎の建設    五 棟
ロ  堆積場舎屋        二ケ所    へ  育雛舎の建設    一 棟
ハ  簡易堆積場        五ケ所    ト  鶏舎の建設

◎家畜の実態 昭和九年現在
馬    二十六戸   三十二頭       緬羊    五戸     七頭
豚      七戸    十七頭       兎   二十五戸   百三十羽
鶏    三十一戸  四百五十羽       山羊    二戸     二頭
昭和九年度新規購入家畜
改良和牛    三頭     種豚    四頭(牡一頭・牝三頭)
種鶏     十一羽(雄一・雌十)
農林省より補助および表彰を受ける、宮城県より模範組合として指定される。
中心人物
指導者
宮城県農務課地方農林技官  江崎 秋邦    黒川郡農会技手   門傅  進
鶴巣村長兼農会長      高橋久左衛門   鶴巣村産業組合長  鶴田 癸己
鶴巣小学校長青年学校長   田副 軍治    鶴巣農会副会長   犬飼勘之助
鶴巣村青年学校教諭     蜂谷 善右エ門  鶴巣村農会書記   石川 久治
農産物検査鶴巣派出所技手  高橋 禎太郎   鶴巣村農会技手   森  武
農産物検査鶴巣派出所技手  矢野 舜吾
役職員
組 合 長        若生  毅(後宮城県農会技師)
副 組合長        横田 金治(後下草区長代理)
種 畜 係        須藤利四郎(後村会議員)
種 畜 係        佐藤  衛(大東亜戦争従軍戦死)
庶 務 係        若生 新治(後宮城県農会技師)
庶 務 係        高橋 利一(後下草区長)
販 講 係        高橋長次郎(後下草区長)
販 講 係        吉田大三郎(後鶴巣村農業委員)  
固体員の素質
イ、 団体員数      三十一名   ロ、 その家族       二一六名
ハ、団体員平均年齢    三三歳    二、 農家経済簿記者    三一名全員 
ホ、 教育程度  中学校 (七名)   高等卒業 (二四名)
へ、 団体員の耕作内容   自作者(八名)・自小作(一五名)・小作(八名)
 以上が有畜農業組合の概略であった。こうした苦心の結晶が時勢の推移に従い日支事変から大東亜戦争、戦後の混乱、農地法による耕地の均等分配とあらゆる過程を経て各種の団体が統合され農業協同組合という純然たる自主的団体が誕生した。

下草農業協同組合の沿革とその内容
 昭和二十五年現在の調査
 昭和二十二年春、従来の町村農会は半官半民の農業団体で軍政治に加担の故と時代錯誤の団体あるとのことで農業会と称して改組するに至った、この農業会も一年の短い命で更に二十三年度には農業協同組合の誕生を見た、部落は部落的に共同組合の結成が行われた。
◎下草農業協同組合定款
    第一章   総  則    
第一 条 本組合員が共同して農業の生産効率を上げ、経済状態を改善し社会的地位を   
     高め文化的向上を図ることを目的とする。
第二 条 本組合は前条の目的を達するため次の事業を行う。
     一、組合員の農業生産に必要な共同利用施設と設置。
     二、農業の目的に供される土地の造成改良もしくは管理又は農業水利もしくは管理。
     三、組合員の生産する物資の運搬加工貯蔵又は販売。
     四、農業の指導奨励および品評会講習講話会の開催。
     五、その他組合の目的達成に必要な事項。
第三 条  この組合は下草協同組合と言う。
第四 条  この組合の地区は黒川郡鶴巣村下草地区の一円とする。
第五 条  この組合の事務所は下草地区八幡社内に置く。
第六 条  この組合の組合員は区域内の農業者にして加入希望者により組織する。
    第二章   加入および脱退
第七 条  組合員になろうとする者は加入申し込みを口頭で組合理事に申し込まなければならない。理事は申し込みを受けた時は組合員名簿に記載するものとする。
第八条  組合員を脱退するときは少なくとも三ケ月前に書面をもってその旨を理事に予告するものとする。
第九条  組合員死亡したるときはその経営相続人が組合員となれる。
第十条  組合員が左の一に該当するときは総会の議決を経て総会において弁明する機会  
を与えなければならない。
第十一条 一、組合の事業を妨げる行為をした時。
     二、経費の支払いその他組合に対する義務の履行を怠った時。
     三、犯罪その他不正により組合の信用を失墜した時。
    第三章   経費分担及び基本財産
第十二条 この組合は組合に必要な経費に充てるために組合員に経費を賦課することが出来る。賦課額および徴収方法につては総会でこれを定める。
第十三条 組合員について前条の賦課金額の算定基準となった事項に変更があっても既に徴収した賦課金はこれを返還しない。
第十四条 賦課金を納付期限までに完納しないときはその期限後一日につき滞納金百円につき四銭にあたる日歩を過怠金として徴収する。
第十五条 この組合は基本財産を設けることが出来る、基本財産の造成管理および処分に関しては総会においてこれを定める。
第十六条 この組合の財産についてはこの組合の解散の時でなければ各組合員に分配することが出来ないものとしその算定方法は総会でこれを定める。
    第四章   役 職 員
第十七条 この組合に理事十名、監事二名を置く。
第十八条 理事十名中左の事務を分担する。
      組合長 一名・副組合長 一名・庶務会計 一名・生産部 一名・       
      部長理事 六名
第十九条  理事の選挙は総会の席上において推薦された者においてこれを行う。但し部長理事は組合区域を六地区に分けその地区にて推薦決定し組合長がこれを認めるものとする。
第二十条  監事は公選による区長及び区長代理に委嘱するものとする。
第二十一条 組合長は組合の業務を統括し組合を代表し、副組合長は組合長事故あるときは職務を代行し組合長欠員のときはその職務を行い外部落土木業務を行う。庶務会計は庶務およびこれに付帯する現金の収支一切の業務を行う。生産部は農業経営生産技術の指導および農業生産物資別割当これに付随する報奨物資の配給肥料の配給、農業共済法による業務を担当する。部長理事は各地区の伝達その他地区内一切の事務。
      監事は少なくも毎予算年度二回以上組合の財産または業務執行状況を監査しなければならない。
      監事は前項の監査の結果を理事会に報告し意見を述べなければならない。
第二十二条 理事または監事はいつでも総会の決議を経てこれを解任することが出来る。
第二十三条 理事の任期は二年とする。但し部長理事は一年とする。理事及び監事は任期満了後においても後任者の就任まではその職務を遂行する。
第二十四条 理事および監事は総会の決議を経て報酬または手当を支給する。
第二十五条 理事は規約、総会の決議録および組合員名簿、会計簿を備えて置く。
     第五章   会   議
第二十六条 会議は通常総会、臨時総会および理事会とする。理事は毎事業年度一回、二月通常総会を招集する。臨時総会は左の場合に招集する。
      一、理事が必要と認めた時。
      二、組合員がその五分の一以上より会議の目的たる事項を示して招集を請求された時。
第二十七条 総会は組合員の二分の一以上が出席しなければ議事をを開いて議することはできないそして役員の選任・解任および規約の変更、組合の解散並びに組費に関する決議は出席者の四分の三以上の同意を必要とする。
第二十八条 理事は事業報告、収支の決算、剰余金の処分および財産の目録を通常総会提出してその承認を求める。監事はあらかじめ前項についてこれを調査して通常総会に報告する。
第二十九条 総会は組合長が招集しその招集は三日前に日時・場所・会議の目的たる事項を示して組合員に通知する。
第三十 条 組合員は代理人をもってその議決権を行使することが出来る。但し一人一枚とする。この場合これを出席とみなす。
     第六章   事業の執行および会計
第三十一条 この組合の事業年度は毎年二月一日から翌年一月三十一日までとする。
第三十二条 この組合の経費は左の収入をもってこれに充てる。
      一、 組合費
      二、 手数料または使用料
      三、 補助金又は寄付金
      四、 その他の収入
第三十三条 収入金の使用残金はこれを翌年事業費に繰り入れる。
第三十四条 この組合の事業の執行ならびに会計について必要な事項は総会の議決を経て 別にめる。
     第七章   存立および解散
第三十五条 この組合の規約は昭和二十三年九月十日これを作成。
第三十六条 この組合が解散した場合は理事が清算人となる。但し総会の決議により組合員の中より選任することが出来る。
第三十七条 組合設立当時の理事・監事・別冊役員名簿に記載一回創立総会においてこれを改選す。
    昭和二十三年度創立当時の役職員
組 合長 理事  高橋 長次郎     第二部長 理事  高橋 広志
副組合長 理事  高橋  武      第三部長 理事  菅原 喜四郎
庶 務係 理事  吉田 大三郎     第四部長 理事  高橋 正俊
生産部長 理事  若生 公一      第五部長 理事  相澤 養作 
第一部長 理事  須藤 久四郎     第六部長 理事  横田 清雄
区  長 監事  高橋 利一      区長代理 監事  横田 金治
 こうした陣容を整えて新しい世代の部落の機構が発足したのである。幾多の変遷がかくして部落の各種小団体が統合されたが依然として伝統を誇る契約講は光彩を放って部落の総元締めとして貫禄を示している。下草部落の存続する限り契約講は不滅であり部落の指針であろう。

下草協同組合創立当初の予算と決算額
  昭和二十三年度予算(案)  下草協同組合
 収入 合計 五万六千三百円
・会員割九千円(一人二百円*四五名)  ・田反別割三万二千五百円(反当五〇円*六五町歩)
・畑反別割四千八百円(反当四〇円*一二町歩)   ・各種補助金一万円
 支出 合計 五万六千三百円   
こうして伝統を誇る小団体は統合された。

(続く)


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