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InterBook紙背人の書斎(最終更新日時:14.4.10,10:40 PM
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'60年代『奥の中学生日記』



澤田 諭




1961年1月(14歳・中2)

 1961.1.1 日曜 晴れ
 〔十二月〕三十日に父と仙台の親類四けんにもちを持っていってから、三十日、三十一日の晩と、目黒紘一君の家に御世話に成った。昨日は時〔登喜〕子さんの家でテレビを見て、年越しソバを食べた。
 夕方、仙台から家に帰った。


 1961.1.2 月曜日 晴れ
 朝起きようとしたら、とても目がいたかったので、十時頃まで寝ていた。午後も、習字の宿題をしようと思ったが、あまり目がいたむので、又寝てしまった。


 1961.1.3 火曜日 曇り
 今日は、目の痛みも、すっかりなおったので、朝には、少し早く起きた。正さんの家の親類の勝一君が遊びにきたので、午後から遊びにいった。午前中は、兄にやかましく言われたので、自転車のそうじをした。夜、昨日の晩と同じく、富谷の親せきの若子、直子の姉妹が泊った。
 午前中に正午近くに、書初の「春海」を書いた。少し紙が足らず、うまくいかなかった。


 1961. 1. 4 水曜日 曇り
 今朝は、もうすっかり、目の痛みもとれたので、皆と一緒に起きた。みんなで食う朝飯は、本当にうまい、としみじみ思った。午前中遊び半分に、勉強した。午後、砂金沢の従姉栄子さんが来た。
 それから、子供達と、みんなで合唱した。暗くなってから、風呂たきと、馬屋のそうじをした。御飯を食べていると、本家の小さいおじさん・辰雄〔夫〕さんが訪れた。そして、父にひげをそってもらった。
 今日の仕事は、本当にスピーディーにパッパッとやってしまった。
 これからもあのようにやろう。


 1961.1.5 木曜日 吹雪
 今日は屋体で、宮城一郎劇団の演芸会が有ったが、ぼくは、金がいたましいので我まんして行かなかった。
 ぼくと妹達は、今、貯金する事に、熱心になっている。
 午前中、余り寒いので、こたつにあたっていたが、昼近く、妹達にそれぞれ、唐がらしの空かんを使って、貯金箱を作ってやった。
 又母は、静志おばさんが、黒川病院で手術するので、御見舞いにいった。
 父と兄は、今日も吹雪の中で、田の仕事をしている。〔義〕姉さんはむしろ打ち。
 夕方、風呂水を取りかえた。
 夕御飯を食べてから、正さんの家に、今日は、プロボクシング東洋ミドル級タイトルマッチが有るので、テレビを見にいった。
 明日からいよいよ、授業開始である。


 1961. 1.6 金曜日 晴れ
 朝おきて登校すると、もう当番が終っていた。
 屋体で始業式の後、三時間授業。弁当を食べてから、そうじ。放課後、伊藤校医の離任式。
 それからバスケットボールの練習。
 帰る時、しんりょう所のかん獲〔護〕婦から、借金一四七円を請求されそうになったので、みんなの前で恥ずかしいから、逃げる様に帰ってきた。この前十二月二十六日の時居〔行〕ったが居なくてはらわなかったのだ。
 明日払うつもりだ。
 徳治君と喜巳男君と一緒に帰った途中で、同級生の高橋一子さんから、ガンで黒川病院に入院していた、宮沢利之さんが死亡したと教えられた。
 利之さんは四十七・八歳で、徳治君の〔義〕叔父で有る。
 家に帰ってから、腹が減ったので、おにぎりをにぎって食べた。妹達も食べた。
 その後、光男君、静江、小秋、小春、智、豊彦達とトランプをした。
 暗くなってもふざけて仕事をしていなかったら、兄にしかられた。父と兄は、今日も土方だ。
 夕飯を食べてから、こたつにあたっていると、利之さんの死体が車で運ばれてきた。
 母は、今日も、病院に見舞いにいって帰って来ない。


 1961. 1.7 土曜日 晴れ
 朝は、おそ起き。父のさいふから、百四七円を持らって、八時十五分ごろ家を出た。
 藤倉君の家のところまで行くと、調〔丁〕度藤倉君に出会った。
 学校に着くと、もうとっくに授業が始まっていた。
 数学の時間であった。すぐ、遅刻理由を言えばよかったものを二人でだまっていたら、先生(三田村)に呼ばれた。
 そして理由を聞かれた。
 それから、先生が数学の問題を言うから、答えられたら許すと言われた。
 ぼくは、軽々合格した。
 放課後クラブ(郷土研究)。
 郷右近君達は先に帰ってしまったが、ぼくは残って最後まで、今日の資料を書いてしまった。
 土曜日なのでしんりょう所は午前中。ぼくはしんりょう所によらないで帰った。
 家に帰って、風呂たきをしていると、母が、病院から帰ってきた。叔母の様子は、良い結果な様だ。
 やがて、利之さんの子供である富士男(小六)と次郎(三)の兄弟が、家に父を呼びに来た。
 御飯を食べてからトランプ等をした。
 それから、今日針金を買ってきて、兎とりワナを作った。明日かけるつもりだ。


 1961. 1.8 日曜日 晴れ
 今日は日曜日だ。
 朝飯を食べてからトランプを少しして、本家で米つきをしている兄を迎えにいって、リヤカーを引っぱってきた。
 それから、ちょっと小川で、氷すべりをして、田んぼに父や兄と一緒に、田に仕事にいった。最初の三〇分位は、たき火をしてあたっていた。
 仕事をしていると、大つつみの氷のわれる音がまるで機関車の走っているような馬鹿でかい音で私達に聞こえた。
 昼食後、ちょっと遊んで、兎ワナをかけに行った。大原にかけにいったが、足跡がいっぱいあった。
 それが終わってから、テレビで相もうを見にいったが写して居なかったので本家に行ってコタツで子供達と遊んでいた。
 家に帰ってから、風呂をたいて馬屋をそうじしていると、父と兄が田んぼから帰ってきた。
 明日は、兎がかかっているといいなあ。


 1961. 1.9 月曜日 晴れ
 今朝は特別早起きて、大原に兎のワナの様子を見にいった。最初のワナは、何という事も無かった。次のもその次のも、とうとう、何もかかっていなかった。ぼくは失望して家に帰って来た。
 三時間目の保健の時間に、本田先生に癌の話をしてもらった。とてもために成った。
昼休みにしんりょう所に行ったが、休業だった。


 1961. 1.10 火曜日 曇り
 朝、ワナを見に行ったが残念ながらだ。
 やっぱり、かかっていない。ぼくはいささか、気を落した。しかし、朝、早く起きて走る事だけでもいい運動に成ると、都合のいい理くつをつけて、帰ってきた。
 放課後、診療所にいって、金を払って来た。
夜、妹達が、正さんの家へ、テレビを見にいったが、見せられないで帰ってきた。
 ぼくは、そんなにまでされるなら、これから見に行くなと言った。


 1961. 1.11 水曜日 晴れ
 今朝は、朝眠くて仕方が無かったので、どうせ何もかかってないだろうと思って、特に遅くまで寝ていた。六時半ごろ、起きて、朝御飯を食べて、八時ごろ学校にいった。
 学校についてみると、時間表をまちがっている事に気づいた。金曜日と、水曜日を取りかえたのだ。
 音楽の教科書は、一組の佐藤龍美君に借りた。又、英語は、千坂公夫君にみせてもらった。
 昼休みは皆で、ストーブにあたっていた。
 放課後、力君とバトミントンをした。
 帰ってくる途中、斉藤屋で、五円のまん中を十買って食べた。
 今日はもちだ。兄さんが今ついている。ぼくは、日記を書いている。父と妹達は、マンガを読んでいる。母と〔義〕姉は、もちのすいじだ。


 1961. 1.12 木曜日 晴れ
 今朝はとても寒い。とうとう兎のワナを見に行かなかった。七時十五・六分、起きて朝飯を食べて登校した。宿題を忘れていたので、休み時間を利用して書いた。靖君が、足の病気で休んでいるので靖君の机で勉強した。家に帰って来てからは、まんが本を読んでいた。暗くなったので、風呂をたいた。
 今日もワナを見にいかなかった。もう保〔飽〕きたのかな。
 明日は、必ず見にいこう。


 1961. 1.13 金曜日 晴れ
 今朝、二日ぶりに、ワナを見にいった。胸をときめかせながら、雪の凍った道を大原に行った。もう御飯は食べてしまった。
 やっぱり、かかっていなかった。口惜しい事に、ワナの前まで来ると、足跡は、よけて遠まわりして通っているのである。
 学校で職業の時間、坂道があまり滑り過ぎるので、その上に土をかぶせた。
 今日の夕食はカレーライス。肉は、母が吉岡にいって買って来たものだ。


 1961. 1.14 土曜日 晴れ
 朝は、普通に登校。放課後、郷土研究の特活。週番の引つぎ会に出席しなければ成らなかったが、これから学級の仕事をいろゝゝしなければならないので、一組の小島君に代わってもらった。
 それから、教室に行くと、学習班の人達が四・五人、ストーブにあたっていた。
 僕は、その人達に、新聞の切り取のはり方をたのんで、職員室に行った。
 ちょっとして、先生が、補習を終えて職員室にもどって来たので、紙や、のり、定規、等を借りていった。
 それから、屋体に居た、学習班の人たちにも手伝ってもらって、はり方をしてもらった。
 その間、ぼくと薛君は、紙に数学の公式表を書いた。四時、サイレンと同時に、ぼく達は、作業をやめた。
 仲々いい出来ばえだった。新聞の方は、とっくに終わって、学習班の人は、大半帰った後だった。
 先生は、英語の表を紙に書いていた。
 ただ一つおも白く無い事が有った。それは、ある人物である。その人物は、ぼくたちのクラスの〓〓〓である。頭も余り良く無いくせに、兄がちょっと頭がよくて、先生方に、もてる事をいい事にして、空いばりしている。
 ぼくと薛君がHR委員で、二人で先生に頼まれたのに、ぼくがぼくらの方はいいから、新聞はりの方を手伝ってくれといっても、外の人は皆新聞張に協力しているが、そんな仕事が嫌なのか、協力してくれなかった。いやな奴だ。ぼくは、途たんにそう思った。
 それかは薛君と千坂君と喜巳雄君とバトミントンをした。
 帰る時、テレビで、大相もう初場所七日目の様子を見ていたので、外はすっかり暗くなった。
 幸、光男君に、自転車に乗せてもらったので助かった。
 靖君は、足のけがで入院して、忠男君は風ぜ〔邪〕で休んでいる。


 1961. 1.15 日曜日 曇り
 今日は日曜日・成人の日と、休日と日曜日が重った。吉岡では成人式が行われる。午前中は郷土史の研究。十一時三十分、年賀状のちゅうせん会の模様をラジオで聞いた。ぼくに来た分は、重信君と、泉田一夫君から来た二枚が五等賞に成った。父に来たのの内でも、二枚、五等になった。
 
 午後、広(音羽)や、徳治君等が、年賀状を持ってぼくの家に来た。彼達の年賀状は、残念ながら、一枚も当らなかった。見ていて気の毒だ。
 それから、夜までマンガ等で遊んでいた。
 風呂たきを終えて、夕食。
 食後、妹達は、テレビを見にいった。
 圧〔充〕雄さんが来て、父達と話を、していた。
 明日は学校、又この一週間がん張っていこう。


 1961. 1.16 月曜日 曇りときどき雪
 朝は、普通に登校。
 昼の集会の時の指揮者としてのぼくのざまは何だろう。〔生徒〕会長に落選したものだから恥ずかしがって、本当に情け無いおれだ。
 ぼくは、週番長として、HR秀〔委〕員長として、ほこりを持って、何でもやっていこう。
 六時間目の英語の時間に、千葉八郎先生から説教された。
 最勉強しないといけない。みんなと同じ位の人が、二・三時までも勉強している人がどこかに居る。そういう人に負けてはならない、というのだ。
 全くそうだ。ぼくもしっかりやろう。いまから本気に成って、一高目指してがん張ろう。

 反省会の時、靖君にお見舞いをする事に成った。その時、ぼくが、御返しの様なものを絶めようといったら、みんな賛成してくれた。先生にもほめられた。
 休みそうじだが、窓そうじをした。
 放課後薛君と、徳治君と少しバドミントンをして、理科の公式のけい示物を書いたり、昨日書いたのをはったりした。
 家に帰ると、もう母が風呂をたいていた。
 夜、こたつで、昨日の夜に続いて〔修〕兄さん〔へ〕の手紙を書いた。
 今夜から、本気に成って勉強しよう


 1961. 1.17 火曜日 快晴
 今朝起きて見ると、外は、雪で真白だった。雪道を踏んで、登校。途中、郵便局に行って、兄え〔へ〕の手紙をたてた。第二信である。
 三時間目、理科の試験をした。大体解った。
 そうじは休みだったが、窓をそうじした。
 放課後、教室で英語の補習。
 それから喜巳男君と相もう、バドミントン。帰りに玄関テレビを見て、久子さん達と一緒に帰った。風呂は母がたいていてくれた。
 食後、妹達はテレビ。その間に、残間さんが米を買いに来た。
 妹達は、家に帰ってからすみすりをしている。
 ぼくは少し勉強をした。
 今日も先生に説教された。ぼくは昨日余りやらなかった。今日からしっかりやろう。


 1961. 1.18 水曜日 晴れ
 今朝はおそめに起床。
 そしていつものとおり登校した。
 今日は一つ嫌な事があった。それは五時間目の始めの事だった。いきなり薛君がぼくの頭をおもいきりはたいた。その途たん、ぼくは頭がグラッとした。非常に痛かった。ぼくと薛君は一年生来の親友である。その仲は、他の人がうらやむような程だった。
 だが、このごろは、余りうまくいっていない。それというのも、ぼくに郷右近君という友達ができたからだ。
 このごろでは、心から、解け合って遊んだ事は無い。二人の間にひびが入ったのだ。二人の関係は今や、最大の危機にある。そして、今日の事件と成ったのだ。
 ぼくが、ちょっとふざけて、薛君の背中を、ポンと軽くたたいた。が何を思ったか薛君は、ぼくの後について来て、ぼくが座った時力一っぱいぼくの頭をぶった。
 ぼくは、途たんにいかりがばく発しそうに成ったのを、ぐっとこらえて、ただ変な、造り笑いをしただけだった。
 しかし、こらえればこらえる程、ぼくのにぎりしめた手はふるえた。しかし、ここでとっ組みあい等したら、それこそ大変なのだ。
 薛君もひど過ぎる。ぼくも悪かったろうが、ぼくはふざけてちょっとたたいただけだ。
 いくらなんでも、ぼくも男だ。みんなの見ている前で、頭に手を上げられては、だまっていられない。あんな奴とは思わなかった。もう彼とは絶交だ。


 1961. 1.19 木曜日 晴れ
 今日、八郎先生不在のため、一・二時間目の国語・英語自習。ぼくは、少し、遊び過ぎたようだ。帰りは何を思ったか、サヨーナラをすると同時に、急いで家に帰った。すると〔修〕兄から手紙がきていた。が、その手紙は、末〔未〕だぼく達の手紙がとどかぬ内出したものらしい。
 それから夕方まで、遊び半分の勉強をやった。
 家中にある問題集の古いのをみんなみてみて、来年に成ってもあわてないように。目指すは仙台一高!
 母は、叔母の結果が悪いというので病院にいった。
 貯金二四〇円おろした。


 1961.1.20 金曜日 晴れ
 夕辺は、父と二人で、一緒の床に寝た。とても暖かくて汗が出る位だった。本当に父の体は暖かい。何年ぶりかで父と一緒に寝た。
 朝起きてみると、粉雪がチラホラふって少しばかり積もっていた。
 八時十分、例のとおり登校。学校についたころには当番が始まっていた。ぼくはみんなに悪いので、一生懸命ガラスを三枚ふいた。
 一時間目は国語。昨日の自習の時、遊んでいてよくやらなかったので、先生にしかられた。
 四時間目の理科は試験、まあまあだった。
 五・六時間は図画。暦(カレンダー)の図案を書いた。
 それから、屋体でみんなで相もうをした。校長が行司をやった。ぼくは勝ったり負けたり。それでもこの体でよくやった。一度も勝てなかったのは力君〔に〕だけ。それから一番口惜しいのは、一年生の佐藤睦郎に敗れた事。どうしても上手がつかめなかった。
 それから、玄関で初場所十三日目の様子をテレビで見た。
 家に帰る時は真っ暗に成った。
 御飯を食べてからは、残った図画を書いた。
 今十時十分前、そろそろ眠く成ってきた。これから風呂に入って寝ます。
 今日から年賀状のお年玉くじの商品がもらえるが、忘れて持っていかなかった。
 明日取り替えてこよう。(コタツの中で)


 1961. 1.21 土曜日 曇り、夜雨
 朝、七時二十分頃起床。八時十分、服のボタンをつけて登校。〔義〕姉に、八島家への手紙を頼まれた。それから、年賀状のお年玉くじの賞品をもらえる、はがきを、今朝も忘れてしまった。
 学校に着くと、もう当番が始まっていた。きのう数えたら、家の玄関から学校の教室の自分の机まで、二四四〇歩あった。
 三・四時間目の職業の時間、ぼくは本を無くしてしまっているので、本当に困った。
 放課後、理科の掲示物を薛君と一緒にちょっと書いて、週番の引きつぎ会に議長として出席した。その後、又掲示物を書き、薛君と、バトミントンを仕、下校。彼に回転焼三つ御ちそうに成った。ぼくは一度、彼と絶交しようとしたが、今はそんな気持ちは毛頭ない。明日彼と一緒に吉岡に映画に行く約束をした。せっかく貯まった貯金だが、約束してからは仕方がない。
 今ぼくの軍資金は、総額八百八十円。その内、七百五十円は早稲田式速記普及会に払わねばならないので、残高は一百三十円だけ。
 バス賃四十円、映画四〇円で、残高五〇円。昼食代五〇円で、かくして、ぼくは一文無しに成ってしまう訳である。
 何とも、約束してしまっては仕方が無い。
 帰宅後、風呂たき、そして夕食。
 夕食後、妹達は、正さん宅にテレビ見学。ぼくは、少し勉強してから眠るつもりだ。
 今は七時五分。
 明日は、九時まで大崎に行かねば成らない。


 1961. 1.22 日曜日 吹雪のち晴れ
 今日は、薛君との約束の日なので、八時四十分頃、大崎に向かった。薛君は末〔未〕未だ来ていなかった。
 しばらく、山田屋で、休んで、牛乳一本飲んだ。その内バスが来た、それでも薛君は来ない。もう十時、彼は吹雪で来れなかったのだろう、一人でいってもつまらないと思って、年賀はがきと、五等賞品切手を郵便局で取りかえて家に帰ってきた。
 本家の見えるところまで来ると、妹と本家の子供達がそりすべりをしていたので、それにまざって遊んだ。ジャンプ台等も作ったので、とても愉快だった。
 午後、風呂の水を取りかえた。そして、末〔未〕だ明るいうちに風呂をたいた。とってもいいお湯だった。
 これからも暗く成らない内にたこう。
 そして、水を取り帰〔替え〕る日は週に二回、日曜と、木曜にしよう。両日は早く帰宅する事だ。これから実行しよう。
 今日は母が病院から帰って来たので、奥の間に寝た。


 1961. 1.23 月曜日 雪
 今日は、伊藤良指導主事先生が来校して、私達の授業の様子を見にくる日だ。
 今日の登校時間は、八時まで、いつもより二〇分早い。
 学校に着くと、屋体便所のガラスふき、をした。
 数学、職業、道徳の順に三時間授業して下校。
 家に帰ってから、昼食。食後、豊彦と小春と本家に行き、そりすべり。その後こたつにあたって又、智を交えて、そりすべり。一番すべるのはぼくのそり。その次のは智。ビリは豊彦。その後コタツに入りながら、智の新しいスケッチブックの第一ページに、彼の像を書いてやった。その次に柏戸の面を書いた。
 それから最後の一滑りをして、小春を乗せて家に帰って来た。本当におもしろい。何しろ、あの畑のてっぺんから、正さんの家の境の辺まで、走るのだから、ざっと三十〜四十米はある。
 帰宅後すぐ風呂をたいた。
 今晩の夕食はカレーライス、ぼくの大好物だ。少し食い過ぎたかな、皿で五杯で。
 今日は停電だったが、六時半今電灯がついた。
 妹達は、歌を奥で歌っている。
 これから風呂に入って寝よう。


 1961. 1.24 火曜日 曇り
 今日は日直の当番に当たっているが、今朝はそれをすっかり忘れてしまって、八時十分例の通り登校したが、学校についてみて、日直だと解って大あわて。それでも、和夫君、力君に手伝ってもらって、当番までにどうにか、ストーブをたきつけた。そんな風だから、六時間目の授業の時は、すっかり気ぬけしてしまって、先生を迎えに行くのを忘れてしまって、先生(千葉八郎)にしかられた。
 授業を終えて、家に帰ると、「東京から荷物届いたぞ」と父がいって、ぼくに荷物をわたした。
 それは、早稲田式速記普及会からのものだった。明日には代金を送金せねばならない。速記をやってみて気がついた事は、思ったよりも簡単で面白い事だ。末〔未〕だこれからどうなるかわからないが、毎日コツコツやっていこう!
 さしあたり今日は、ア行、カ行、サ行を覚えた。


 1961. 1.25 水曜日 雪
 今日、郵便局に行って金を送ろうとしたが、いくら探しても振かえ用紙が見つからないので、送らなかった。
 家に帰ってから速記をした。


 1961. 1.26 木曜日 晴れのち吹雪
 今朝は、一寸早起きした。八時十分、例の通り登校。当番開始寸前教室にかけこんだ。五時間目の社会は、瀬戸勇先生出張で不在の由自習、割合静かだった。
 放課後、生徒会役員会に出席して、第二期冬期休業について話しあった。
 その後、職員室で、原紙切りをした。小島君が原紙を切ってぼくが原文を作った。
 暗く成るまでかかって、やっと終わった。印さつは明朝する事に成った。
 佐藤誠治先生から、「理科三百題」という問題集と、丸光プラネタリウムの優待券をもらった。
 今日は、計画に寄ると風呂水を取りかえる日だが、遅く成ったのでとりかえなかった。明日のうちに必ず取りかえよう。


 1961. 1.27 金曜日 晴れ
 ※朝は人並みに起床したが、コタツにあたったり、母に、一月分の諸会費を請求したり、しているうちに、八時二〇分になってしまった。又、千里さんから、光雄君の忘れ物を届けてくれと頼まれた。
 その内、金の都合がついたので、登校した。もう、とっくに、当番は始まっている。
 ぼくは急いで、家を出た、がその内に昨日の事を思い出して、心が暗くなった。
 昨日の反省会の時ぼくは、ちこくをしないようにしましょう、という意見を出した。
 その意見を発言した当人から、よく日、まっ先にちこくしたのだ。みんなに何といわれるかもしれない。ぼくの信用も薄く成るだろう。
 そんな事を考えて、だんだん心が重く成って来た。
 一時は学校を休もうかとも思った。
 足はだんゝゝおそく成り、時間もどんどん過ぎていったが、とうとう学校の下門まで来てしまった。
 どうせちこくしたんだ、と思って、郵便局で、振替で、早稲田式速記普及会に送金した。それから、暗い気持で、学校に向かった。授業は、国語だった。中が静まり返っているのがぼくの気をなおさら退け、何度か、気付かれない内ちに帰れという誘わくに誘われた。
 が、それを思い切って、振り切り、勢い良く、戸を開けた。級友達が皆一せいに、ぼくの方を見た。ぼくは、小声で御早ようと言った。
 どうして、ちこくしても、少しでも早く、学校に行こうと、急いで来なかったのだろう。もっと素直にならなければいけない。
 が、自分の失敗を苦にもしないで平気な様な顔をするのもどうかと思う。
 今の私には、どちらがいいかわからない。
 ただ解る事は、ちこくをするのはいけないという事。これからちこくは絶対さけよう。絶対に!

 ※三時間目、社会の時間瀬戸勇先生から大事な話を聞かされた。先生の話を聞いて、つくづく勉強せねば、と、思った。ぼくは何でもかんでも仙台一高に入らねば成らない。それには勉強そして勉強だ。
 六五〇点満点で、五〇〇点は取らなければならないという。市内の生徒よりも、郡部の生徒の条件はまったく不利だという。うんと勉強しよう。それには一年の複〔復〕習をしなければならない。明後日から、冬期休業だ。休み中に計画を立てて来年に備えよう。
 それから学年末考査、何としても八〇〇点のかべを敗らなければ。三年の鈴木純一君は、二年の時、八〇〇点を越した事があるそうだ。ぼくも負けては居ないぞ。それには今度の試験が最後の機会だ。
 ぼくは、鶴巣の奴達なんか相手にしないで、もっと、広く大きく目を明〔開〕けて、見えない知らない全ての人達を相手にするのだ。
 その人は、どこに居るかわからない。
 その人も、ぼく〔の〕事とを知らない。
 がいつかは対決せねばならない。
 目指すは仙台第一高等学校だ。町の奴達になんか負けてはいられないぞ。入学試験だって、全部習ったはん囲から出るんだ。町でもここでも、習う内容はそうとはちがわないだろう。がん張れ。

 ※昨日、生徒会の仕事で、おそく成って、計画をたてた事が守れなかったので、今日は早く帰って、四時二十五分、風呂の水を取り変〔替〕えた。それから、火をつけて、終ったのが、四時四十分頃。かかった時間は、たった十五分ていど。こんどは日曜日に取りかえよう。


 1961. 1.28 土曜日 晴れ、風あり
 朝は七時の時報と共に起床した。そして、七時半登校。本家の智(小学一年)と二人で行った。わざと田んぼの中を、氷を割ったり、雪を渡ったりしていった。
 学校に着くとあんまり来ていなかった。
 ストーブをたきつけたばかりで、室中にけむりがいっぱい貯まっていた。
 二時間目、国語の時間、授業が始まってから、国語の用意をしてこなかったのに気づいた。もうだいぶ時間がたったので、増々先生に、報告にいくのがつらく成った。
 そしてとうとう授業が終わるまで行かないでしまった。授業が終わってから先生に黙っていたことをあやまった。
 先生はこれから気をつけなさいと言っただけだった。しかしこの一時間ぼくは気持ち良く授業を受ける事が出来なかった。
 これからは、忘れたなら必ず授業前に先生に言おう。いや、それよりも忘れないようにする事だ。
 四時間目、職業の時、千葉隆君が、ぼくの紛失していた職業の教科書を返してくれた。隆君が間違って持っていったのだ。それでも返してもらってよかった。
 昼食前、屋体で集会があった際〔義〕姉、修兄、勝彦さんへの同窓会名簿を頼まれて来た。
 放課後バスケットボールをした後、力君と英語を勉強した。
 家では今日すす払いが行われたので、家の中がさっぱりとしている。
 それから、こたつにあたって妹達遊んだ。
 その後、父に手伝ってもらってといっても父が大部分一人でしたのだが、風呂たきをした。今八時ジャスト。これからちょっと、一時間程勉強して寝るつもりだ。妹達は、テレビを見に正さんの家に行っている。

 ※今日、ぼくは文字通り一文無しに成ってしまった。回転焼きを二つ食べて、終ってしまったのだ。妹達は、我まんして何も食べないで、貯金しているのに、兄としたものが、何とした事だ。が今はなぜかあんまり自分をせめる気になれない。なぜだろう。

 ※今晩父に、新聞を出されて読んでみろといわれた。そこには、私立大学の授業料や入学金等の金銭問題がとりあげられていた。最も高いところでは、入学金だけで六十一万もかかるそうだ。
 いくら勉強ばかりしても、必ず学校に入るという事は出来ない。今から、高校に入る時でも少しでも困らない様に無だ使いしないで貯金しておく事だ。
 修学旅行ももうじきだ。


 1961. 1.29 日曜日 晴れ
 今日から第二期冬期休業、いわゆる旧正休みだ。旧正といっても、本当の元旦は二月十五日だが、ここでは、それをせず、二月一日を元旦とする月おくれ正月をする事になった。この点では、町と部落の間で大分もめた様であるが、結局最後には、この二月正月をする事に成ったらしい。
 今は何でも新しい物ブームで、農村の正月も、町として、は都会並みに新暦にやりたい所なのであろうが。仕事の都合で農村はそれが出来ない。
 場合に寄〔依〕っては、新正・旧正・二月正と三度も続けて正月をしなければ成らない事もある。
 さて、今日は学校で、新・旧生徒会役員の分散会が行われる。私も、新生徒会の書記を頼まれたので、これに出席する事にして、金五〇円、米一.五合、ねぎ四本、卵一個を持参して学校に行った。
 最初のうちは何もするものが無いので、宿直室でテレビを見ていた。それから二度下の店に買物に出かけた。午後一時ジャスト時計の音と同時に、女生徒の作った、料理を食べながら、レコードを聞いたり歌を歌ったりした。それが終わってから、応接室の机に山積みされた菓子を食べた。それからちょっとテレビを見て、屋体で純一君、助夫君、千坂章君、小島君、龍美君とバトミントンをした。少し色々なものを食べたので、のどが非常にあつかった。
 帰宅後、元兄さんと、本家に行って、リヤカーに米を積んできた。風呂は母がたいてくれた。
 夕食時に成ってものどの痛みは変わらないので、夕食を抜きにした。
 みんなが御飯を食べてから、一郎君と千恵子が遊びにきた。トランプをして遊んだ。(高三、中一)
 一郎君達が帰ってから入浴して就寝。


 1961. 1.30 月曜日 曇りときどき小雨
 冬期休業第二日目。今度の休みは、計画も何も立てないで、自分の好きな事をやりたい。それに存分に正月気分を味わいたい。
 そんな風な気持ちだから、朝は八時半に成ってやっと床を抜け出した。そして、九時前までこたつで納豆飯。理科の教科書を出してノートしていると、昼に成ってしまった。
 昼の飯はかぼちゃ御飯だ。
 昼食後コタツに入って新聞を読んだり、午前の続きをやったりして、半分遊び後の半分勉強。
 三時ごろ、外に出てみたく成ったので外に出た。妹達に、鎌倉を造ってくれとせがまれていたので、前の壕〔堀〕の所に、千恵子、容子、武夫、志美子、富美江、こあき、こはる達と、鎌倉造りを始めた。ぼくが形を作って、小さい子達は、雪を転がして雪の玉を作って、それを運んで来た。その雪を使って、鎌倉はどんどん出来上っていく。去年もここに同じような鎌倉を作った。いや最〔もっと〕、前だったかな?
 妹達は冷たくなって、みんなコタツに入りに行った。
 後はぼく一人で、仕上げ作業をした。とうとう出来上った。何にしても、自分で一つの物を作り上げた事がうれしい。この気持誰にも解るまい。
 妹達やその友達等が、はしゃぎながら中に入っていった。ぼくはそれを見てちょっと大人に成ったような気がした。その時ぼくにあったのは大きな満足感だけであった。
 今兄は納屋で、器械でモチつきをしている。一郎君の家のもついてあげた。
 みんなモチをつき終わって、夕飯。本当に楽しい時だ。
 夕食後、コタツで雑談。
 ※今日、修兄さんから手紙が届いた。元気だとの事。それから初めて月給をもらったそうだ(東京・玉川)。あちらでは冬が全然見られないとの事だ。ずい分あったかな様な処らしい。
 ※明日は大晦日(旧正)、新湯にしなければ成らないので、今日は取り変〔替〕えないでしまった。
 ※昨日靖君が足を傷めて入院していたが退院したそうだ。彼は余りぼくのなじめる人物では無い。
 ※早稲田式速記をやってから、今日で六日に成った。大分上達した。もどかしくて一日に二日分位やっている。


 1961. 1.31 火曜日 快晴
 第二期休業三日目、いわゆる、二月正月の大晦日が今日である。朝、朝食を抜きにして、あんまりいい気持ちなので床の中にもぐって週刊誌を読んでいた。
 八時半ごろであろうか、ようやく床を抜け出して、もちを五つ六つコタツの練〔煉〕炭で焼いて食った。
 その後今日は朝風呂を立てねば成らないので、その作業にかかった。
 これは昔からの風習で、この風呂に入って身を清めてから、しめなわや、門松を作るのである。
 最初、汚れた水を流して、桶をていねいに洗い、新しい水をくんだ。それからすぐ木を割ってたきつけた。
 十時ごろ、いや最昼近くかもしれない、ぼくは、鎌倉にアンカを運んだ。妹達がとても喜んだことはいうまでも無い。その中でアンカに当りながら、もちをかじったり本を読んだりトランプをしたりした。
 正午近く、本家に、同窓会から勝彦ちゃんにたのまれた名簿をもっていった。
 昼食後、鎌倉乃中で少休、後、本家の金太郎おじさんに用を頼まれて、鳥屋の辺見大工の家にいった。又母から頼まれて合成酒一本、きぬゑ〔ゐ〕おばさんから、しんせい二コを頼まれたのでそれらを買って来た。
 長蔵さんの家の作業場のところに合成酒を置いて、本家に頼まれたものを届けにいった。又大工さんから、四千円力ちゃんにやってくれとたのまれた。これは力ちゃんが金太郎伯父さんに内緒で売ったものだというのをぼくは知らないので、金太郎伯父さんにその金をやってしまった。それを知った力さんは大こぼしだった。智に自転車を買ってやろうと思っていたそうだ。ぼくはちょっと悪いような気がした。智にも、力さんにも。
 夕食後、圧〔充〕男さんが訪れて、みんなでトランプをして遊んだ。父と母はどこかに出かけている。後から力さん、富三郎さん、正〔昭〕二さんらも来た。


1961年2月(14歳・中2)

 1961. 2.1(二月正月元旦) 水曜日 曇り
 今日は元旦。朝父と妹達は、神社に元朝参り。ぼくは、もち焼き。
 午前中音羽光雄君と一緒に、たこを造ったがうまく上がらなかった。
 夜、お年玉を二百円もらった。生れて初めて。

 今、また日記の書き直しをする。さっきはなんだか気持ちがむしゃくしゃして書けなかった。今はそれも落ち着いて寝床に入っている。
 今日、夕食後、母から二百円御年玉をもらった。こんな風にして母からもらったのは勿論生れて初めての事だ。本家に御世話に成っていたころは、勿論そんなものはもらえなかった。しかし、ただ一度金太郎叔〔伯〕父さんから御年玉をもらった事がある。
 それは、分家してからだったかもしれない。
 あれから、私の家の家計も大分安定したようで、とうとう初の御年玉が下ることに相成ったのだ!
 こはる、こあき、しずゑは、一一〇円。ぼくは二百円。元兄さん夫婦へは、よく解らないが千円程度らしい。
 最初母は、ただ、直にぼくらに渡そうとしたが、ぼくはいくらかでも気分を出すために、紙に包んでめいめいに金額を内緒で渡してほしいといった。
 母は最初きかなかったが、最後には台所にいって紙に包んできた。
 ぼくらはめいめい、自分の袋をのぞいて、金額をかん定した。そしてひとのをのぞきみしあった。そんな情景はいかにも楽しくていいものであると思った。
 この二百円は当分使わないで貯金しておこう。


 1961. 2.2 木曜日 快晴
 第二期冬季休業乃五日目、残りの休業はわずか三日と相成った。全く早いものだ、時のたつのは。
 少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。朱喜の句が思い出される、しみじみと。

 今朝は正月二日、初売の日だ。ぼくが起きたころには、〔元〕兄はもう買い初めから帰っていた。壱万円乃値だけ買って、景品夜具一式、上野屋で。
 こあきと、元兄さんが焼いた餅を食べて、しばらくはコタツにあたっていた。
 昼近く辰雄〔夫〕叔父さんが訪ねてきた。家で、もちを食べていった。頭を刈ってもらいにきたそうだが、父が居ないので刈ってやらなかった。
 正午過ぎに叔父と二人で本家に行った。
 本家では、八巻自転車屋さんが智の子供用自転車を届けてきた。
 夕方、いやもっと前家に帰って自転車がパンクしているかを調べた。この頃空気が抜けて困っていたのだ。元兄さんにも手伝ってもらって、調べたがそれらしいところは見つけることができなかった。
 夕方五時末〔未だ〕明るい内に夕食、後雑談ちょっと勉強。ぼくが生れてから今日で調〔丁〕度五千参百〔弐〕拾日。


 1961. 2.3 金曜日 晴れ
 第二期冬季休業六日目。お正月気分に浸ってしまってい、いい気に成って今日まで遊んでしまった。
 今朝は食事前に起床して皆と一緒に食事した。
 コタツに入って遊んでから光雄君の家に行って、あたっていた。昼近く家に帰って勉強した。
 今までお正月ですっかり勉強も忘れてしまった。しかし休み前のような気迫は、もっとう出てこない。その内成るだろう、無理に成ろうとしてもどうしても成れない。
 午後も勉強を続けた。しかししんが入っていなかった。その内に圧〔充〕男さんそして光雄君が訪れた。圧〔充〕男君〔さん〕は直ぐ帰り、光雄君とコタツに入っていた。
 父は公民館に会議に出かけ、母と妹達は買物に出かけている。〔元〕兄は又大崎、〔義〕姉は吉岡にパーマをかけにいった。
 夕方いやまだ昼の内だが、夕食をとった。しばらくコタツに入って、光雄君の家に遊びにいった。
 風呂は兄がわかしてくれた。光雄君の家ではみんなそろってコタツに入り本を読んだりした。まだ三つか二つの鷹雄が、とっても面白かった。
 六時ごろ家に帰ってきてコタツに入り少し勉強した。今ごろ東京の〔修〕兄はどうしているだろうか。
 昨日夜コタツで、ぼくの生後の日数を数えて試〔み〕た。うるう年等も考えて詳しく厳密に計算した結果、昨日まで五千参百〔弐〕拾日と出た。これから毎日この日数を記していこう。今日は5311 [5321]日目だ。
 今日でこのノートは終り。明日から新しいノートだ。
しかしそれにしても一月元旦から、今日二月三日まで三四日間日記をつけ続けてきた。よくやったものだ。 夜吉岡で行われた民謡道場の録音をラジオで聞いた。


 1961. 2.4 土曜日 快晴
 今日は正月ももう四日だ。今までは毎朝もちを焼いて食べたが、今日から御飯を食べる。三日ぶりの朝の御飯だった。
 こんな事から、正月も終わったなあという感を受ける。
 さて、今日は正月の四日で兄貴夫婦が北目に年始に行った。今年は、結婚初の正月だから方々の親類からお呼ばれになったらしく、みやげの反物やお年玉を盛沢山持っていった。兄は、昨日上野屋から買ったばかりの背広を着て姉は、それと対照的な。〔、〕きれいな和服姿。
 彼達は十時ころ出かけた。
 それから自転車そうじを始めた。朝〔元〕兄が風呂水を取り変〔替〕えてくれた。こんな時は本当にいい兄なのだが………。
 自転車をそうじしていると、ぼくと従姉に当る、ひとしさんの子供である修一と圧〔厚〕子が訪ねてきた。修一は小学四年生、圧〔厚〕子はまだ四・五才。
 昼は母とぼく、妹三人の五人丈なのでコタツにあたって食べた。
 末〔未〕だ食べ終わらない内にひとしさんが訪ねてきた。修一と圧〔厚〕子も一緒。それから一時までコタツで雑談後母は、防犯協会主催の演芸会見物に行く。ひとしさんはしばらく写真や、雑誌を読んでからひきあげていった。
 その後夕方に成っても母帰らず、妹達夕飯の用意。ぼくは風呂たき。
 ああ眠い、しかし我まんしよう、がまんしろ。今は床に入っている〔。〕手がつかれた。夕飯は昼食と同じく、コタツで。後妹達はテレビを見に行った。ぼくは馬にえさをやって、家に帰ってきた。父は中米誠さんの家にタバコの選別の手伝いをしに行っている。ぼくはもうテレビは何ヶ月か見ていない、つまらないからだ。がぼくは行く気に成った。そして行ってみた。が、やっぱり前と変わらない。これからは見に行かない。

 速記はこのごろやって居〔い〕ないから、明日からやろう。もう眠くて………


 1961. 2.5 日曜日 晴れ
 今日は第二期冬季休業の最終日、朝寝も今日限りと思って、思い切り朝飯を抜きにして眠った。十時ごろ起きだして、コタツに入っていたが〔、〕腹が減ったので飯を食った。又コタツに入って十時半ごろ散髪のため大崎の瀬戸理容店に自転車で向かった。道は雪どけで非常に悪い、自転車もズボンもどろんこ。
 勝男さんが入るはずに成〔な〕っている家の前まで来ると、自転車の前車輪のチューブがはみ出てきたのでそこに行ってあわてて直した。昨日〔、〕いやおとといのチューブの入れ方がまずかった様だ。
 とにかく空気を抜いてチューブをへこましてから、床屋に入って、割合すいていた。すぐ順番が回ってきて見習の人にやってもらった。金は母から100円もらって来て、40円のおつりをもらったから料金は60円。
 床屋を出て、郵便局に行って200円貯金する気でいったら、あいにく今日は日曜日で貯金の方は休業ということだった。
 自転車が空気を抜いたままでペシャンコなので八巻自転車店に行って空気入れを借りて、空気を入れた。
 御金は一銭も無だ使いしなかった。家に帰ってみると一時だった。しづゑは吉岡に珠算の検定試験五級を受けに行った。こあきとこはるは砂金沢の母の実家に行った。
 理科を勉強していると、しづゑが先ず帰って来た。しばらくして、小秋、小春も帰って来た。しづゑは試験は上出来だったそうだ。私も合格することを望む。
 夕方、ぼくとしづゑが仕事の取り変〔替〕えっこをした。しづゑが風呂をたいて、ぼくが夜具を部屋に敷いた。でもしづゑが余りひどそうなので風呂たきを助けてやった。馬にえさをやって、又五人でコタツに入りながら夕食を取った。
 食後、音羽美恵〔枝〕子さんから、英語の宿題のパンフレットを借りてきたのを思い出し〔、〕あわてて英語の宿題を書いた。
 父は中米誠さんの家に手伝い。兄夫婦は年始回りから末〔未〕だ帰らぬ。今朝の河北新報に東北高校の入試合格者が発表され我校からは、門間幸治、大山秋夫君が普通部に、二へい〔瓶〕善信君が商業部に合格した。


 1961. 2.6 月曜日 曇り
 今日から授業開始、初日からちこくしたのでは大変だと思い勤〔努〕めて起きようとしたがどうも外が寒そうで起きられない。それで、やっと七時十分ごろ起き出した。急いで朝食をとって弁当をつめてもらい、七時五〇分ごろ登校した。登校後、十分〜十五分程ブラリして、当番が始まった。今日から一週間ずっと教室当番だ。それから今日から靖君が教室に元気な姿を見せた。
 それから授業開始。三時間目の保健の時間は外でサッカーをした。ぼくは一回ボールを入れることができた。
 放課後、下校舎の西端二年一組の教室で生徒会役員会が開かれ、ぼくも生徒会書記兼、二年二組HR委員長として出席した。議題は今月二十八日に行われる予定の予餞会についてだ。
 生徒会役員会を終えてから、職員室で、生徒会記録法〔簿〕に、今日の決定事項を記した。それから、階段脇の行事予定板にも今月の予定を書かなければ成〔な〕らなかったが、明日書く事にして教室に向かった。教室には靖君と徳治君が待っていたので一緒に帰宅の途についた。
 家に帰るともう一切の仕事は終えていて、ぼくはなにもしないで夕食。今晩は、カレーライスだ。ぼくの大好物なので大皿で3ばい食べた。
 食後この日記を書いて、これからちょっと速記をやるつもりだ。二時間目の社会の時間に試験をやったが〔、〕突然のことで復習もしなかったので〔、〕忘れてしまった処が少々あった。
 今日一日を振り返ってみると、何一つ家の仕事をしていない事に気がつく。でも学校の生徒会の仕事でおそく成ったのだから仕方が無いとも思う。これからは朝少し早く起きる週間〔習慣〕をつけて少しでも家の御手伝いをしよう。帰校時も又余りおそく成〔な〕らないようにして、父や母、小さい妹達に迷わくをかけない様にしようと思う。
 兄達夫婦は年始回りから末〔未〕だ帰ってこない。今少し、ほんとに少し小雨が降って来た。時間は八時JUST。


 1961. 2.7 火曜日 雨
 授業終了後の反省会の時、昨日の生徒会役員会についての報告をした。夜は眠くて、日記と英語の教科書をまくらもとにおいて眠ってしまった。
 この日記は翌日弐月八日夜記したものだ。今日はこれで終わる、後のことはどうも思い出せない。これからはどんなに眠くてもその日の内につける事にしよう。


 1961. 2.8 水曜日 雨のち曇り
 今朝もおそきにぞくする。例によって家族の最後に床を抜け出し、一足おくれて朝食。時間割を用意して登校。今朝音羽国雄さんが我家を訪れた。
 登校して、きりきりに当番のベルが鳴り、教室当番。二時間目の音楽、三時間目の理科、六時間目の社会が自習。四時間目の大半は例によって八郎先生の説教。耳にタコがよる位聞いているので〔、〕ぼくはだまってノートに英字を筆記していた。七時間目学級活動の時は、先生が用事で帰ったので、ぼくが議長になって、予餞会の劇について話し合った。そして、劇はもめにもめた末、「友達」という野口英世の少年時代の物語をすることに決定し、ぼくはその主役である清作少年に選ばれた。しかしその脚本は10人しか出られない、それでぼくは他HR委員とも相談して、もっと始めと後ろ〔に〕付け加える事にし、小学校に野口英世の本を借りにいった。春日先生からそれを借りて、ぼくがそれを脚色することに成った。最初はむずかしいと思ったが〔、〕学校で脚色されてあったのもこの本とそっくりに書いてあった。これならばぼくにも書けると思い、急いで家に帰って来た。家では、もう夕食をとっていた。それもそのはず外は真っ暗、星一つ出ていない。
 児童劇全集にのっていたのは、二幕と三幕、四幕、五幕だけ。一幕と、六幕、七幕、それに解説はぼくの脚色だ。10時ころまでかかってやっとできた。我ながら、始〔初〕めてにしては良くできたと思っている。きっといい劇に成〔な〕るだろうと思う。明日から早く帰れそうも無い。二十七日まではずっと忙しいだろう。


 1961. 2.9 木曜日 曇り夜雨
 朝おそく起床、みんなはもう御飯を食べていた。〔元〕兄夫婦は末〔未〕だ来ない。
 食事を終えてから、時間割を用意して、八時十分登校。学校についた時は、朝そうじの時間だった。
 一時間目国語だったが、予餞会のことについて昨日の続きの話し合いをやった。劇は男性全員、踊りは女性全員が出ることに成った。種類は、絵日傘、御江戸日本橋、宮城の〔野〕盆歌の三つに決まった。劇の脚本は先生が原紙を土曜日まで切ってくれる事に成った。
 四時間目理科の時、けんび鏡で色々なせん衣〔維〕類を見たが、ふざけて耳のかすを見て試〔み〕たらその美しいのに本当におどろいた。これからひまがあればけんび鏡を見たい。
 七時間目体育の時間、小林次郎先生に宿題を出された。それは、沼で冬、なぜ上の方から氷が張り始めるのか?という事。これから寝ながら考えていこう。放課後、図書館でずっと読書。今日は世界美術全集と言うのを見た。家についた時はもう真暗、みんな夕食はすんだ後だった。急いで食事をすましてコタツに入って遊び、妹の勉強を手伝ってやった。風呂に入って、寝て、床の中で社会を勉強。又あの気持が出て来たが、この日記を書いている内にどうやら治まった。ぼくはあの誘わくには勝てないのだろうか。それから、〔元〕兄が今日帰ってきた、義姉はまだ。
 このごろ、アメリカは、チンパンジーを乗せた衛星の回収に成功し、ソヴィエトは6t半の大衛星の打上げに成功している。も〔ぼ〕くはこういう新聞記事はできるだけ読む様にしよう。それから世界の大きな出来事ニュースも日記に書きつけておこう。学校の中学生新聞もおおいに利用しよう。ああそれからそろそろ、新聞の切り抜きをしなければ成らない。
 これから図書をなるだけ多く見る様にしよう。
 三年生の教室にはってある、入学試験問題を見てみよう。


 1961. 2.10 金曜日 吹雪
 五・六時間目の図画・加藤洸〔孝〕一先生の図画の時間に、ぼくは、家で課題の図画を書いてしまったので、二時間何もしなかった。
 帰る時外はひどい吹雪で靖君、徳治君と一緒に来た。今朝兄のジャンパーを借りてこなかったら、本当にこごえ死んだかもしれない。もうあんな時は二度と、来たくない。それほどひどい吹雪だった。家に帰ってみると、宮床の〔義〕伯父さんと、義姉の母が来ていて、〔元〕兄夫婦も六日ぶりで帰ってきて元気な顔をみせていた。小学校は、あまりひどい吹雪のため三時間で特別に下校させられたそうで、妹達はとっくに帰っていた。本家の一年の智も顔を見せていた。腹が減っていたのでもちを焼いて食べた。北目の〔義〕姉の母から御年玉100円づつ、宮床の〔義〕叔〔伯〕父さんから50円づつ、もらった。今日収入は150円で、母からもらった二百円を合わせると350円に成〔な〕る。夕方、〔義〕叔〔伯〕父も叔母〔義姉母〕も帰り、智も一緒に帰った。父が風呂をわかしてくれ、ぼくは何もしなかった。


 1961. 2.1(二月正月元旦) 水曜日 曇り
 今日は元旦。朝父と妹達は、神社に元朝参り。ぼくは、もち焼き。
 午前中音羽光雄君と一緒に、たこを造ったがうまく上がらなかった。
 夜、お年玉を二百円もらった。生れて初めて。

 今、また日記の書き直しをする。さっきはなんだか気持ちがむしゃくしゃして書けなかった。今はそれも落ち着いて寝床に入っている。
 今日、夕食後、母から二百円御年玉をもらった。こんな風にして母からもらったのは勿論生れて初めての事だ。本家に御世話に成っていたころは、勿論そんなものはもらえなかった。しかし、ただ一度金太郎叔〔伯〕父さんから御年玉をもらった事がある。
 それは、分家してからだったかもしれない。
 あれから、私の家の家計も大分安定したようで、とうとう初の御年玉が下ることに相成ったのだ!
 こはる、こあき、しずゑは、一一〇円。ぼくは二百円。元兄さん夫婦へは、よく解らないが千円程度らしい。
 最初母は、ただ、直にぼくらに渡そうとしたが、ぼくはいくらかでも気分を出すために、紙に包んでめいめいに金額を内緒で渡してほしいといった。
 母は最初きかなかったが、最後には台所にいって紙に包んできた。
 ぼくらはめいめい、自分の袋をのぞいて、金額をかん定した。そしてひとのをのぞきみしあった。そんな情景はいかにも楽しくていいものであると思った。
 この二百円は当分使わないで貯金しておこう。


 1961. 2.2 木曜日 快晴
 第二期冬季休業乃五日目、残りの休業はわずか三日と相成った。全く早いものだ、時のたつのは。
 少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。朱喜の句が思い出される、しみじみと。

 今朝は正月二日、初売の日だ。ぼくが起きたころには、〔元〕兄はもう買い初めから帰っていた。壱万円乃値だけ買って、景品夜具一式、上野屋で。
 こあきと、元兄さんが焼いた餅を食べて、しばらくはコタツにあたっていた。
 昼近く辰雄〔夫〕叔父さんが訪ねてきた。家で、もちを食べていった。頭を刈ってもらいにきたそうだが、父が居ないので刈ってやらなかった。
 正午過ぎに叔父と二人で本家に行った。
 本家では、八巻自転車屋さんが智の子供用自転車を届けてきた。
 夕方、いやもっと前家に帰って自転車がパンクしているかを調べた。この頃空気が抜けて困っていたのだ。元兄さんにも手伝ってもらって、調べたがそれらしいところは見つけることができなかった。
 夕方五時末〔未だ〕明るい内に夕食、後雑談ちょっと勉強。ぼくが生れてから今日で調〔丁〕度五千参百〔弐〕拾日。


 1961. 2.3 金曜日 晴れ
 第二期冬季休業六日目。お正月気分に浸ってしまってい、いい気に成って今日まで遊んでしまった。
 今朝は食事前に起床して皆と一緒に食事した。
 コタツに入って遊んでから光雄君の家に行って、あたっていた。昼近く家に帰って勉強した。
 今までお正月ですっかり勉強も忘れてしまった。しかし休み前のような気迫は、もっとう出てこない。その内成るだろう、無理に成ろうとしてもどうしても成れない。
 午後も勉強を続けた。しかししんが入っていなかった。その内に圧〔充〕男さんそして光雄君が訪れた。圧〔充〕男君〔さん〕は直ぐ帰り、光雄君とコタツに入っていた。
 父は公民館に会議に出かけ、母と妹達は買物に出かけている。〔元〕兄は又大崎、〔義〕姉は吉岡にパーマをかけにいった。
 夕方いやまだ昼の内だが、夕食をとった。しばらくコタツに入って、光雄君の家に遊びにいった。
 風呂は兄がわかしてくれた。光雄君の家ではみんなそろってコタツに入り本を読んだりした。まだ三つか二つの鷹雄が、とっても面白かった。
 六時ごろ家に帰ってきてコタツに入り少し勉強した。今ごろ東京の〔修〕兄はどうしているだろうか。
 昨日夜コタツで、ぼくの生後の日数を数えて試〔み〕た。うるう年等も考えて詳しく厳密に計算した結果、昨日まで五千参百〔弐〕拾日と出た。これから毎日この日数を記していこう。今日は5311 [5321]日目だ。
 今日でこのノートは終り。明日から新しいノートだ。
しかしそれにしても一月元旦から、今日二月三日まで三四日間日記をつけ続けてきた。よくやったものだ。 夜吉岡で行われた民謡道場の録音をラジオで聞いた。


 1961. 2.4 土曜日 快晴
 今日は正月ももう四日だ。今までは毎朝もちを焼いて食べたが、今日から御飯を食べる。三日ぶりの朝の御飯だった。
 こんな事から、正月も終わったなあという感を受ける。
 さて、今日は正月の四日で兄貴夫婦が北目に年始に行った。今年は、結婚初の正月だから方々の親類からお呼ばれになったらしく、みやげの反物やお年玉を盛沢山持っていった。兄は、昨日上野屋から買ったばかりの背広を着て姉は、それと対照的な。〔、〕きれいな和服姿。
 彼達は十時ころ出かけた。
 それから自転車そうじを始めた。朝〔元〕兄が風呂水を取り変〔替〕えてくれた。こんな時は本当にいい兄なのだが………。
 自転車をそうじしていると、ぼくと従姉に当る、ひとしさんの子供である修一と圧〔厚〕子が訪ねてきた。修一は小学四年生、圧〔厚〕子はまだ四・五才。
 昼は母とぼく、妹三人の五人丈なのでコタツにあたって食べた。
 末〔未〕だ食べ終わらない内にひとしさんが訪ねてきた。修一と圧〔厚〕子も一緒。それから一時までコタツで雑談後母は、防犯協会主催の演芸会見物に行く。ひとしさんはしばらく写真や、雑誌を読んでからひきあげていった。
 その後夕方に成っても母帰らず、妹達夕飯の用意。ぼくは風呂たき。
 ああ眠い、しかし我まんしよう、がまんしろ。今は床に入っている〔。〕手がつかれた。夕飯は昼食と同じく、コタツで。後妹達はテレビを見に行った。ぼくは馬にえさをやって、家に帰ってきた。父は中米誠さんの家にタバコの選別の手伝いをしに行っている。ぼくはもうテレビは何ヶ月か見ていない、つまらないからだ。がぼくは行く気に成った。そして行ってみた。が、やっぱり前と変わらない。これからは見に行かない。

 速記はこのごろやって居〔い〕ないから、明日からやろう。もう眠くて………


 1961. 2.5 日曜日 晴れ
 今日は第二期冬季休業の最終日、朝寝も今日限りと思って、思い切り朝飯を抜きにして眠った。十時ごろ起きだして、コタツに入っていたが〔、〕腹が減ったので飯を食った。又コタツに入って十時半ごろ散髪のため大崎の瀬戸理容店に自転車で向かった。道は雪どけで非常に悪い、自転車もズボンもどろんこ。
 勝男さんが入るはずに成〔な〕っている家の前まで来ると、自転車の前車輪のチューブがはみ出てきたのでそこに行ってあわてて直した。昨日〔、〕いやおとといのチューブの入れ方がまずかった様だ。
 とにかく空気を抜いてチューブをへこましてから、床屋に入って、割合すいていた。すぐ順番が回ってきて見習の人にやってもらった。金は母から100円もらって来て、40円のおつりをもらったから料金は60円。
 床屋を出て、郵便局に行って200円貯金する気でいったら、あいにく今日は日曜日で貯金の方は休業ということだった。
 自転車が空気を抜いたままでペシャンコなので八巻自転車店に行って空気入れを借りて、空気を入れた。
 御金は一銭も無だ使いしなかった。家に帰ってみると一時だった。しづゑは吉岡に珠算の検定試験五級を受けに行った。こあきとこはるは砂金沢の母の実家に行った。
 理科を勉強していると、しづゑが先ず帰って来た。しばらくして、小秋、小春も帰って来た。しづゑは試験は上出来だったそうだ。私も合格することを望む。
 夕方、ぼくとしづゑが仕事の取り変〔替〕えっこをした。しづゑが風呂をたいて、ぼくが夜具を部屋に敷いた。でもしづゑが余りひどそうなので風呂たきを助けてやった。馬にえさをやって、又五人でコタツに入りながら夕食を取った。
 食後、音羽美恵〔枝〕子さんから、英語の宿題のパンフレットを借りてきたのを思い出し〔、〕あわてて英語の宿題を書いた。
 父は中米誠さんの家に手伝い。兄夫婦は年始回りから末〔未〕だ帰らぬ。今朝の河北新報に東北高校の入試合格者が発表され我校からは、門間幸治、大山秋夫君が普通部に、二へい〔瓶〕善信君が商業部に合格した。


 1961. 2.6 月曜日 曇り
 今日から授業開始、初日からちこくしたのでは大変だと思い勤〔努〕めて起きようとしたがどうも外が寒そうで起きられない。それで、やっと七時十分ごろ起き出した。急いで朝食をとって弁当をつめてもらい、七時五〇分ごろ登校した。登校後、十分〜十五分程ブラリして、当番が始まった。今日から一週間ずっと教室当番だ。それから今日から靖君が教室に元気な姿を見せた。
 それから授業開始。三時間目の保健の時間は外でサッカーをした。ぼくは一回ボールを入れることができた。
 放課後、下校舎の西端二年一組の教室で生徒会役員会が開かれ、ぼくも生徒会書記兼、二年二組HR委員長として出席した。議題は今月二十八日に行われる予定の予餞会についてだ。
 生徒会役員会を終えてから、職員室で、生徒会記録法〔簿〕に、今日の決定事項を記した。それから、階段脇の行事予定板にも今月の予定を書かなければ成〔な〕らなかったが、明日書く事にして教室に向かった。教室には靖君と徳治君が待っていたので一緒に帰宅の途についた。
 家に帰るともう一切の仕事は終えていて、ぼくはなにもしないで夕食。今晩は、カレーライスだ。ぼくの大好物なので大皿で3ばい食べた。
 食後この日記を書いて、これからちょっと速記をやるつもりだ。二時間目の社会の時間に試験をやったが〔、〕突然のことで復習もしなかったので〔、〕忘れてしまった処が少々あった。
 今日一日を振り返ってみると、何一つ家の仕事をしていない事に気がつく。でも学校の生徒会の仕事でおそく成ったのだから仕方が無いとも思う。これからは朝少し早く起きる週間〔習慣〕をつけて少しでも家の御手伝いをしよう。帰校時も又余りおそく成〔な〕らないようにして、父や母、小さい妹達に迷わくをかけない様にしようと思う。
 兄達夫婦は年始回りから末〔未〕だ帰ってこない。今少し、ほんとに少し小雨が降って来た。時間は八時JUST。


 1961. 2.7 火曜日 雨
 授業終了後の反省会の時、昨日の生徒会役員会についての報告をした。夜は眠くて、日記と英語の教科書をまくらもとにおいて眠ってしまった。
 この日記は翌日弐月八日夜記したものだ。今日はこれで終わる、後のことはどうも思い出せない。これからはどんなに眠くてもその日の内につける事にしよう。


 1961. 2.8 水曜日 雨のち曇り
 今朝もおそきにぞくする。例によって家族の最後に床を抜け出し、一足おくれて朝食。時間割を用意して登校。今朝音羽国雄さんが我家を訪れた。
 登校して、きりきりに当番のベルが鳴り、教室当番。二時間目の音楽、三時間目の理科、六時間目の社会が自習。四時間目の大半は例によって八郎先生の説教。耳にタコがよる位聞いているので〔、〕ぼくはだまってノートに英字を筆記していた。七時間目学級活動の時は、先生が用事で帰ったので、ぼくが議長になって、予餞会の劇について話し合った。そして、劇はもめにもめた末、「友達」という野口英世の少年時代の物語をすることに決定し、ぼくはその主役である清作少年に選ばれた。しかしその脚本は10人しか出られない、それでぼくは他HR委員とも相談して、もっと始めと後ろ〔に〕付け加える事にし、小学校に野口英世の本を借りにいった。春日先生からそれを借りて、ぼくがそれを脚色することに成った。最初はむずかしいと思ったが〔、〕学校で脚色されてあったのもこの本とそっくりに書いてあった。これならばぼくにも書けると思い、急いで家に帰って来た。家では、もう夕食をとっていた。それもそのはず外は真っ暗、星一つ出ていない。
 児童劇全集にのっていたのは、二幕と三幕、四幕、五幕だけ。一幕と、六幕、七幕、それに解説はぼくの脚色だ。10時ころまでかかってやっとできた。我ながら、始〔初〕めてにしては良くできたと思っている。きっといい劇に成〔な〕るだろうと思う。明日から早く帰れそうも無い。二十七日まではずっと忙しいだろう。


 1961. 2.9 木曜日 曇り夜雨
 朝おそく起床、みんなはもう御飯を食べていた。〔元〕兄夫婦は末〔未〕だ来ない。
 食事を終えてから、時間割を用意して、八時十分登校。学校についた時は、朝そうじの時間だった。
 一時間目国語だったが、予餞会のことについて昨日の続きの話し合いをやった。劇は男性全員、踊りは女性全員が出ることに成った。種類は、絵日傘、御江戸日本橋、宮城の〔野〕盆歌の三つに決まった。劇の脚本は先生が原紙を土曜日まで切ってくれる事に成った。
 四時間目理科の時、けんび鏡で色々なせん衣〔維〕類を見たが、ふざけて耳のかすを見て試〔み〕たらその美しいのに本当におどろいた。これからひまがあればけんび鏡を見たい。
 七時間目体育の時間、小林次郎先生に宿題を出された。それは、沼で冬、なぜ上の方から氷が張り始めるのか?という事。これから寝ながら考えていこう。放課後、図書館でずっと読書。今日は世界美術全集と言うのを見た。家についた時はもう真暗、みんな夕食はすんだ後だった。急いで食事をすましてコタツに入って遊び、妹の勉強を手伝ってやった。風呂に入って、寝て、床の中で社会を勉強。又あの気持が出て来たが、この日記を書いている内にどうやら治まった。ぼくはあの誘わくには勝てないのだろうか。それから、〔元〕兄が今日帰ってきた、義姉はまだ。
 このごろ、アメリカは、チンパンジーを乗せた衛星の回収に成功し、ソヴィエトは6t半の大衛星の打上げに成功している。も〔ぼ〕くはこういう新聞記事はできるだけ読む様にしよう。それから世界の大きな出来事ニュースも日記に書きつけておこう。学校の中学生新聞もおおいに利用しよう。ああそれからそろそろ、新聞の切り抜きをしなければ成らない。
 これから図書をなるだけ多く見る様にしよう。
 三年生の教室にはってある、入学試験問題を見てみよう。


 1961. 2.10 金曜日 吹雪
 五・六時間目の図画・加藤洸〔孝〕一先生の図画の時間に、ぼくは、家で課題の図画を書いてしまったので、二時間何もしなかった。
 帰る時外はひどい吹雪で靖君、徳治君と一緒に来た。今朝兄のジャンパーを借りてこなかったら、本当にこごえ死んだかもしれない。もうあんな時は二度と、来たくない。それほどひどい吹雪だった。家に帰ってみると、宮床の〔義〕伯父さんと、義姉の母が来ていて、〔元〕兄夫婦も六日ぶりで帰ってきて元気な顔をみせていた。小学校は、あまりひどい吹雪のため三時間で特別に下校させられたそうで、妹達はとっくに帰っていた。本家の一年の智も顔を見せていた。腹が減っていたのでもちを焼いて食べた。北目の〔義〕姉の母から御年玉100円づつ、宮床の〔義〕叔〔伯〕父さんから50円づつ、もらった。今日収入は150円で、母からもらった二百円を合わせると350円に成〔な〕る。夕方、〔義〕叔〔伯〕父も叔母〔義姉母〕も帰り、智も一緒に帰った。父が風呂をわかしてくれ、ぼくは何もしなかった。


 1961. 2.11 土曜日 晴れのち小雪
 朝、八時五分登校した。もう当番は終っていた。無事四時間授業を終えて当番。他の奴等は、口ではうまい事をいっているが本当に当番となるとだらしが無い。今日ぼくがこんなことを書くのは、一つ不愉快な事が有ったからだ。それは、HR副委員長〓〓〓君だ。彼は今日のそうじは常に無い程真面目だった。そして一心にろう下ばかりふいていた。そしてぼくに言った。ぼくはろう下を一人で全部ふいたからもう当番をしなくてもいいだろう。ぼくは急に、不愉快な気持に龍〔襲〕われた。ぼくなんか一人でろう下をふいたことなんか何度でもある。彼よりはずっと働いているつもりだ。それなのに、ぼくは前から彼を余り好かなかったが、本当に情ない奴らだ。外の奴等もみな同様だ。自まんしているわけでは無いが、みんなぼくよりまともな奴は居ない。でもぼくは自まんしてはいけない。こつこつとやっていこう。
 そうじ終了後、予餞会劇の野口清作を、靖君、薛君と一緒に先生の切ってくださった原紙をとう写板ですった。合計参拾弐枚。その時は前の方半分だけすって、屋体でバスケットボールをしていると、再度先生から呼出しがあって後の半分を、八男君と一緒にすった。これで全部できあがったわけだ。それを〔に〕ジョイントをかけておいた。その後、教室で雑談語〔後〕バスケット、そして下校。


 1961. 2.12 日曜日 晴れ、夜小雨
 待ちに待った日曜日、朝はぐっすり、朝食を儀制〔犠牲〕にして眠った。九時半起きておにぎりを3つにぎって、塩をつけて食べた。ちょっと本を広げているうちに、もう昼に成〔な〕ってしまった。小秋と小春は義姉の実家にいっている。〔元〕兄と義姉は宮床に年始回りに行った。静枝は砂金沢から帰らぬ。夜小秋と小春が暗く成ってももどらないので夜道を一人で迎えにいった。


 1961. 2.13 月曜日 雪
 今日午後から、屋体で映画の鑑償〔賞〕をした。題目は、「晴れのユニホーム」、「三等賞の子山羊」、「日本のあけぼの」等々。画面が小さく、小さな、映写器〔機〕だったのであまりはっきりしなかった。小林次郎先生が写してくれた。


 1961. 2.14 火曜日 雪
 一時間目道徳の時間に劇の練習をした。そうじ終了後又劇の練習。一・二・三幕の読み合わせをした。朝は、小正月でもちだった。べん当には、もち米の御飯を入れていった。とてもおいしかった。


 1961. 2.15 水曜日 大雪
 夜来の雪で、40cmぐらい積もった。妹〔たち〕や〔元〕兄、父が雪はきをしていたが、ぼくはずる気を起して起きず、一番後から起きた。もちを食って、登校した。授業は七時間だが6時間で授業を切り上げて、直ぐ下校した。〔元〕兄夫婦は、砂金沢に初礼に行って〔、〕いない。


 1961. 2.16 木曜日 大雪
 昨日の大雪に続いて、今日も朝より大雪。積雪は、ももの辺にまで上昇した。
 今朝はめずらしく、本当にめずらしく、我家で母に次いで二番目に起きた。〔元〕兄夫婦は、とうとう夕辺帰ってこなかった。起きてすぐ、洗面もせず雪かきをした。ひたいからタラゝゝ汗が流れた。終了してしまう頃、父も来て、手伝ってくれた。それにしてもずい分と降ったもので、これでは学校に行けそうもない。家の回り雪をかき終って、もちを食い、光雄君と一緒に登校した。大崎の道でさえ、車の後〔跡〕は無かった。登校者数は、約七割にまで及んだが、職員は、校長、事務官、本田・平先生を除いてだれも登校しなかった。ぼくの二の二では、51人中35〜 6人出席した。生徒の数は重〔十〕分なのだが、先生の出席が悪いので、りん時休校と相成った次第。小学校は、勿論途中で帰ってしまった。玄関での集会が終わってから教室にもどり、ストーブをたいて、暖たまってから、屋体でバスケットをした。屋体では、14・15・16日の三日間、学校で合宿する青年団の人達がみんなで卓球をしていた。卓球を仕終ってから、教室にもどり、ストーブを囲んで、皆と雑談した。後、みなはまだ帰らなかったが、ぼくだけ帰ってきた。帰る時、中米新吾と一緒になったので、一緒に語り合いながら帰って来た。家についたのが10時半。それから、昼近くまで、小秋と小春と雪の中をかけ回った。後正月は、昼飯は食べないので、こたつにあたっておぼえたての計算尺やハーモニカをいたずらした。風呂は父が沸かしてくれた。四時半夕食後、コタツに暖って皆と雑談していると、〔元〕兄が雪にまみれて帰ってきた。〔義〕姉は、かぜをひいたとかで帰って来なかった。兄のためにもちを焼いてやり、トランプをちょっとした。皆風呂に入り終わってから最後にぼくが入った。※今日東京の修兄さんから便りが届いた。元気だとの事だ。四月一日から、正式に社員に採用されるそうである。本当に良かった。このごろは、校長先生の話によると、50年毎に周期的にやってくる寒さであって、これからは年々寒さが増し、雪も多く成るだろうという事である。


 1961. 2.17 金曜日 曇り
 今朝は最後に起き出して、一足おくれて朝食を取り登校した。今日は雪もふらず道もよい。登校者は割合多く、ぼくのクラスでは全員出席した。授業は五時間で打ちきり、そうじをして(便所)、屋体に行った。屋体では、薛、章、隆、信喜、曽根、中米達と相もうをした。教室では女性が遊ぎをしていたのでそれを見るともなく教室に帰って、ブラリをしていた後帰宅した。義姉が帰っていた。まだかぜは治らないらしい。母は砂金沢の実家に年始か何かの祝儀に行く支度をしていた。その後こたつを囲んで雑談。夕方は、〔元〕兄が風呂を沸してくれたのでぼくはなにもせず小春とこたつで話し合っていた。夕食は、六人でこたつで食べた。食後入浴して、眠った。父は、兄の自動車事故の件で仙台の警察者〔署〕から呼び出しを受け〔、〕朝出かけていった。今晩は母と一緒に砂金沢に泊まるはずだ。今日は劇の練習をしなかった。ぼくは大体は言える様になった。あと10日ある、その内に身ぶりを入れよう。今日練習しなかったのは、学校で練習しても今のところはどうにも何の効果も無さそうだからだ。かえって家で自由にセリフの研究をした方がよいと思ったからだ。明日は土曜日、そして又日曜が来る。二年生もあとわずか。本当に、時の立〔経〕つのは早い。


 1961. 2.18 土曜日 晴れ
 今日にいさんからもらったナイロンのくつを持っていき、学校での上靴にした。放課後、そうじの際、徳治君と泉田八男君との間につまらないことからけんかが始まった。ぼくも止めたが、なかなか止めなかった。本当にけんかはつまらないと思う。そうじ終了後、劇の練習をしようと思ったが、生徒会役員会、週番引きつぎ会に主役のぼくが出席しなければならなかったので、練習は取り絶めにした。先ず週番引きつぎ会。来週の目標は、室内での乱ぼうな遊びをさける、始業の準備をするの二つ。次いで生徒会役員会に出席、予餞会の準備について話し合った。プログラムも作製した。
 ぼくらは、劇だけでは一番終わりだ。


 1961. 2.19 日曜日 晴れたり曇ったり
 今日は、ぼくが日記を書き初〔始〕めてから50日目の記念すべき日だ。
 今朝は、義姉に起こされてしぶしぶ、七時拾五分ころ床を出て、朝食。その後、こたつで、〔元〕兄、義姉、しづゑ、こあき、こはる、中米富美江とトランプをした。これは賞品付で、一番に成ったものには森永キャラメル一個のほうびだ。ぼくは、四個取れて最高だった。昼は、もちと飯と半々。それから、午前中に、竜男〔辰夫〕叔父さんが、頭を刈りにきた。ぼくと〔元〕兄が二人がかりでやったが、いも刈りになってしまった。それでも今までは、坊主にしていたが、今度は、すそ刈りをしてやったら喜んでいた。
 そして、昼食を食べ終わってから、又、来た。上野屋から下ズボンとパンツを買ってきたが〔、〕下ズボンがまちがわれて女物を持って来てしまったので、ぼくが自転車でいって取りかえて来てやった。その後、又トランプ。圧〔充〕雄さんも来た。夕方風呂をたき、庭をはき終えたころ、父母が帰って来た。
 夕食の時、砂金沢から、母がもらってきたすしを食べた。これから七時半ころまで勉強して、テレビ・ほろ馬車隊「逃げろ地のはての巻」を見に行こう。


 1961. 2.20 月曜日 曇り
 昨夜正さんの家でテレビを見て九時に帰ってきたので、今朝は、ぐっすり眠ってしまった。登校は光雄君と一緒。彼はもう一ヵ月で卒業であるが、相変わらず幼稚である。登校してから、向上を先生に書いてあげた。今日から席が又変って、ぼくは、一番南端の例〔列〕の五番目。となりに川島節子が座った。彼女は、美人だ。気持ちもそんな悪いという事はない。ぼくのとるべき態度はどんな事だろうか。ぼくは頭は少しはいいが、人並外れた、人相のよくない男である。ぼくの好きな女性は外にもいる。千葉裕子(二の二)、それに一年の名も知らぬ南三区の女性、ぼくのクラスの出井富子。出井は美人だが気持ちもよく頭も案外よい。それからぼくの後ろの席の遠藤照美。今五人の女性を上〔挙〕げたが、ぼくは彼女達とどんな交際をすればいいのだろうか。
 さてぼくはどうして、今こんな事を考えたのだろう。ぼくは今までそんなことを考えた事はなかった。いや少しは考えたが表面には表さなかった。それは自分をけん尊〔遜〕していたからである。ぶ男だったからである。だから、女の子とあまり面と向かって話をしなかった。いわゆる〔、〕いつも女性に対してはれっとう感が働いていたのである。
 ぼくは彼女達に一人前のつもりで恋してはいけない。彼女達だってこんなぼくを好きなはずはないのだ。ぼくは、彼女達を高嶺の花として見ているだけで満足なのだ。どんな女性だって、こんな男に恋されたらいやな顔をするだろう。だからそんな事はしないでひたすらまじめに地味にやって、自分の性格を良くして行こう。そしたら、ぼくに好意を持ってくれる女性が出てくるかもしれない。もしそんな人がいたら、ぼくはその人を、命をかけて愛し、幸福にしてやるだろう。
 話はあんまり大人になってしまったが、実際のぼくの気持は大げさなものではない。
      川島節子、千葉裕子、出井富子、遠藤照美・XY (南三区)
 放課後劇の練習、初めて身振りを付けてやった。
 ぼくは今日、ぼくの女性関係の文を記した。最初はこんな事は書くまいかと思ったが、本当にそう思っているのだから仕方がない。自分の成長していく気持をありのまま書くのが日記だと思う。朝起きて何して寝たことを書くのが日記ではない。これでこの日記はだれにも見せられないものになった。


 1961. 2.21 火曜日 ?
 朝起床後、洗面等をすませて皆より一足おくれて朝食をとっていると音羽光雄くんが誘いにきたので、あわてて朝食をすませ〔、〕時間割を用意して一緒に登校の途についた。学校到着後、ちょっとして朝そうじ。今週は応接室そうじだ。一時間目は道徳だが、先生が時間を予餞会の練習のためにやるというので〔、〕女子は踊り、男子は劇をそれぞれ練習に入った。劇は先生がついてくださって〔、〕指導して下さった。
 放課後劇の練習をしようと思ったが集まりも悪いしぼくも少しいやだったので、今朝やったからという事にして練習しなかった。大丈夫二十七日までは、しっかりできる。
 屋体でバスケットをして後一人で帰宅。父は風呂をたいていた。母は夕食の用意。〔元〕兄夫婦は、加美群色麻村四釜の叔母宅に初礼に行っていて〔、〕九時ころ帰ってきた。それまでこたつで勉強のまねごとをしたり、こあきが羽根を買ってきたので〔、〕父まで交えて羽根つきをした。とても面白かった。
 放課後バスケットをしていた時、ふくのポケットが破けたので〔、〕義姉と母にぬってもらった。昨日、集会の時えり章をつけてくるようにいわれたが、今日になってもぼくはつけていなかったので〔、〕ちょっとしぼられた。一郎君に10円借りて千坂商店によったが、なかった。それでその時はうんと腹が減っていたので〔、〕10円の油パンを食べてしまった。
 今日英語の試験で初めて9点をとった。冬休みが終わってからずっと10点とってきたのに本当に残念だ。


 1961. 2.22 水曜日 曇り
 放課後劇の練習をしようと思ってみんなを呼びに屋体に行ったが〔、〕みんなは仲々〔なかなか〕バスケット、卓球をやめなかった。まったくこういう時にまとめる側はひどい。それに〔、〕うかつにも最後にはぼくもあきらめて〔、〕バスケットをやりだしてしまった。


 1961. 2.23 木曜日 晴れ
 朝単身登校。朝当番、ラジオ体操をおえて授業。六時間目・社会の時間に、瀬戸先生に広島の原ばく記念館の写真を見せてもらった。
 放課後劇の服そうのことについて相談をしようと思ったら、佐藤誠治先生に、生徒会の役員だから、生徒会の仕事に今日は力をカシテくれといわれたので〔、〕そちらはふいになってしまった。ぼくが居ないと学級の方はまとまらないのである。本当に情ない奴達だ。ぼくも心配なので〔、〕誠治先生にちょっと時間をくださいといったら、生徒会の仕事が嫌なのかといってぼくにつめよった。
 仕方なく〔、〕ぼくは応接室で予餞会のプリントの原紙切りをしていた。ぼくはそんな悪いつもりで言ったのではなかったのに、だんぜんふんがいだ。
 暗くなりかけるまで仕事をして、6時5分家に着いた。それから食事、学習。夜、少し停電があった。
 ぼくのとなりに座っている女性、川島節子。このごろ、こんなぼくに好意的な態度を示している様である。おかげで〔、〕ぼくは学校生活が大変おもしろく愉快だ。授業中にもなにかとぼくに質問したり〔、〕たずねたりする。時々話もかけるし〔、〕体にもさわる。それでもぼくは嫌な気はしない。ぼくはそれでも〔、〕それにこたえる様な事はしない。それがぼくをいっそうみにくくする様に思えるからだ。ぼくは彼女を高嶺の花と胸の内にしまいこんでおこう。決して、乱れた姿を見せてはならない。
 理科の時間、鈴木純一君の話を聞いて感心した。そしてぼくの心になにくそ、ぼくだってという〔、〕負けず嫌いの気持ちがおこってくるのをおぼえた。
 その話とは、純一君が一人で屋体の便所のところのプラスチックの屋根の雪おろしをしていたということである。


 1961. 2.24 金曜日 晴れ
 朝登校後、屋体で少々バスケットボール。後応接室で朝そうじ。五・六時間目図画の加藤先生の授業、うっかりして筆記用具を忘れてしまった。最初の30分程はこの前書いた図画をみた。ぼくのが最高だとほめられた。その後鉛筆画を、自分の手を書いた。当番終了後、教室で劇の練習をし、バッグを書いた。会津ばんだい山と教室の窓をはさみで切り抜いた。後職員室で予餞会のプリントをすった。
 暗くなってから帰った。仙台の秋葉金蔵叔〔伯〕父さんが来たという。父は本家に行っている。夕食後学習、入浴、学習。母は本家に行っている。
 これから母が来るまで待って、明日の服そうについて願う。


 1961. 2.25 土曜日 快晴
 二時間目教室で、国語であったが、予餞会の演劇の練習をした。
 三時間目、畑谷商店で来年3年の教科書を販売にきたので、買った。
 それから〔、〕学年末の考査は来月八・九・拾の三日間だそうだ。又20日前後に学力テストをやるそうだ。
 四時間目は、明後日の予餞兼映画会の会場の用意をした。放課後笹川先生に用事を頼まれて、斉藤屋で買ってきた。斉藤〔屋〕は〔、〕昨日そば屋を開店した。腹が減ったのでそばを食べようとしたが〔、〕やめた。その後、週番引きつぎ会に出席後、生徒会の仕事をした。今日からオープン戦が始まる。仕事というのは、明後日の予餞会のプリントのとじ方だ。


 1961. 2.26 日曜日 曇り
 朝九時ごろ義姉の父が訪ねてきたということだが〔、〕朝寝をおもいきりしていたのでわからなかった。さて九時ごろ起きてみると〔、〕どうも今の様子が変だ。だれかいる様だ。見ると思いがけない人が居た。それは仙台の目黒照〔てる〕子叔母とその子のぼくの従姉〔妹〕にあたる目黒寿美子君がこたつに座っていた。ぼくはそれから洗面して急いでおそい朝食、歯みがき後こたつで叔母達と語らった。昼食後三時前、彼達は帰った。母と小春、小秋が砂金沢までおくっていった。
 後風呂をたいて夕食。こたつで話していると、光雄君がやってきてテレビを見に一緒に正さんの家へ、7時前に行った。今日は、ホロ馬車隊「リンカーン暗殺余聞の巻」だった。とても面白かった。母と妹達は泊まった様だ。


 1961. 2.27 月曜日 快晴
 今日は昭和参五拾年度予餞会の実施される日だ。起床後洗面をすませ、朝食後義姉からほう帯を借りた。これは今日の予餞会で使うものだ。田を雪を踏みながら登校、会場の準備をした。午前九時ごろ開さいした。
 プログラムは進み、5・6番に来た時からぼくはアナウンス(司会進行)に変〔代〕わった。今までは計時係をやっていました。ぼく等の劇は終わりから二番目、プロの17番だ。やっぱり、ぼく達の劇が演技中最高だと思う。18番まで終わってから、三年生がお礼の合唱をやった。それから昼食は教室でとった。先に菓子が分配された。その後屋体で名画観償〔鑑賞〕会という映画会、一時から。題名は「娘・妻・母」、「暴れん坊大将」、「ニュース」の三つ。映画終了後屋体の整理。帰宅途中、開店早々の斉藤屋でかけそば一杯、東君と一緒に食った。


 1961. 2.28 火曜日 晴れ
 四時間目の後の昼休みの時からどうやらかぜをひいたらしく、寒気がしてならなかったので早退した。どうやら悪質な流行性の感冒らしく、クラスの大多分がこれにかかっている。


1961年3月(14歳・中2)

 1961. 3.1 水曜日 晴れ
 昨日は一日寝て〔、〕今朝になってもまだなおらない。それでも学校に行った。病状は最悪だ。こんなにひどいかぜは生まれて初めてだ。そうとうひどいらしい。川島もかかっている。


 1961. 3.2 木曜日 晴れ
 今日もまだ調子は完全ではなかった。登校してから日直であることを教えられた。ストーブはたかなかった。帰りまでに日記を書き上げてしまって、遊んでいた。放課後屋体で遊ぼうとしたがやめた。


 1961. 3.3 金曜日 晴れ
 今日はひな際〔祭〕りといっても〔、〕ぼくらには関係ない。かぜもだいたいよくなってきた。が〔、〕クラスの友達は〔、〕今日も拾壱人も休んだ。
 夜、とても楽しい事があった。ぼくの家には、もちろん、ひななんていうしゃれたものはない。それでも、今日はひなまつりをする事ができた。台はふみつき〔け〕。一番上にはボール紙のびょうぶに、大仏の代理〔内裏〕様に、平泉で買ってきた人形の女びな。その次の段には、3つ、その次は五つの人形をかざって、一番下には、皿に、供え物をして、水をあげたりした。ぼくは一心になってかざっている妹達を見ていたら、何だか、かわいそうなような変な気持になって来た。女の子に生まれながら、ひなまつりがよくわからないのだから。それでもこんな、世にも変なひなまつりでも、面白かった。本当のひなを持っている人よりも楽しかったかもしれない。


 1961. 3.4 土曜日 曇り
 朝、〔雨と〕雪とがまざり合って降っていた。七時半ごろ朝食、八時五分前登校したが、途中算盤を忘れた事を思い出してもどった。学校に着くとすぐ当番の時間になった。今日も大部休んでいる。学校ではこのごろずっとストーブをたかなかったが、今日はたいた。授業は40分で5分休みなので早く終った。試験のはん囲は大体教えられた。それから、職員室で行事板を書き、電話などいたずらして下校。勉強、風呂わかし、夕食。妹達はテレビ。
 今月の8・9・10日は学年末試験だ。あと四日だ、がんばろう。それには明日の日曜日が絶好の機会だ。宿願は800点の突破だ。
 ぼくの作文「ある日曜日」が〔、〕作文黒川にのった。郡内の二年生では6人だけだ。修兄さんに参月の便りをやろう。


 1961. 3.5 日曜日 ?
 朝六時ごろ起きて一足おくれて洗面をすませ朝食、後すぐに試験勉強にとりかかった。先ず歴史、次に、国語、数学、理科。四時まで書いたらとうとうノートがあます所3〜4枚となった。
 それが終わってから、風呂を取り変〔替〕えて新しい水を組〔汲〕んだ。それから風呂たき、それから夕食。夕食をすませてから、東京の修兄さんに第4の手紙を書いた。雪のことや、照〔てる〕子叔母のこと、流感のこと、作文のこと、〔元〕兄夫婦の初礼のこと、予餞会のこと等、を書いた。後、音羽光雄君と、テレビを見に行った。
 彼は、時計を買ってもらったのでいい気持だ。正さんの家まで行くと、洸一さんがしきりにどなったが〔、〕ぼくは気にかけず家の戸口の所まで来たら、正さんがぼくたちを見てテレビのスイッチを切り、杉戸を閉めてしまった。そして、知らんふりをしていた。ぼくはいかにも、その時きたならしいと思った。そして、おこって、帰ってきてしまった。もうテレビは見ない事にしよう。
 それから、コタツで雑談して、風呂に入って就寝。


 1961. 3.6 月曜日 快晴
 朝、普通起床。朝食後長ぐつをみがいて洗って登校。今日から席が変わったが、隣の席には彼女の姿は見えない。流感らしい。
 授業は40分授業で4時間で弁当を食べて帰った。家には砂金沢の祖母が来ていた。祖母から100円小使〔遣〕いをもらった。道具を取り替えて、試験勉強。保健体育、英語。終了後、外に運動に出かけた。唐竹を切って枝〔杖〕にして、桃乃木沢の原っぱのところに行ってみた。そして、剣げきのまねを一人でやった。それから、川端を歩いて帰ってきた。川の水は美しく澄み、所々メダカやふなの泳いでいるのが見うけられる。それから家で自転車のそうじをした。祖母と母は本家に行った。父は寝ていたが、今は起きて畑に居る。〔元〕兄は田らしい。ぼくの自転車を油をつけて、ピッカリとした後〔、〕光雄君の家に行って空気を入れて来た。明日から、自転車で行くかもしれない。それから風呂たき、庭はき、夕食。後、みんなで茶のみ。それから入浴、就寝。


 1961. 3.7 火曜日 晴れ
 今日は、流感被害者多数のため授業は四時間で切り上げ、当番は休みなのですぐ帰った。帰宅途中、我が家を訪問中の日和田の叔母〔叔祖母〕に会った。詳しくは、砂金沢の祖母の妹である。
 家に着くと〔、〕祖母が帰らずにいた。まもなく叔母〔叔祖母〕も来て、二人一緒になった。夕方、風呂たき、馬屋仕事、庭仕事。終ってから、大崎に、買物に行った(自転車)が〔、〕大失敗をしてしまった。まず、水谷魚店に寄ったが〔、〕さしみは無かった。それから富田屋でブドー酒205円也を買った。母からは100円しかよこされなかったが、さしみの分100円とポケットマネーではらった。家に帰ってから、そのことを話した。どうやら、ぼくはブドー酒とブドー液をまちがえたらしい。ぼくは同じ物でブドー液とはブドー酒の昔ぶった言い方だと思っていた。おかげで〔、〕ぼくは母にこごとをいわれた。
 今夜も祖母は泊まって、叔母〔叔祖母〕も泊まり〔、〕明日、北目の叔母〔伯祖母〕(詳しくは、死んだ砂金沢の祖父の姉)の家へ行くらしい。
 明日は学年末考査なので昼少々勉強したが、今日は眠くてならぬ。これで寝る事にする。


 1961. 3.8 水曜日 曇り
 今日は学年末考査の初日。時間割は国語、保健体育、社会の参科目。予想は国語85〜90点、社会95〜100点、保健体育80〜90点、計約260点也。今日の試験は案外簡単だった。試験終了後ただちに弁当。ぼくは持参せずして食べなかった。
 当番は休み。帰りは靖君と一緒。郵便局で祖母にもらったのと本代の余り分217円貯金した。今日は、久しぶりに川島節子も隣の席に姿を見せた。ぼくは何だか照れくさかった。 家に帰ると祖母と叔母〔叔祖母〕は帰っていた。夕方風呂たきをして夕食。
 食前(の)午後、明日の勉強をしようと思ったがせず〔、〕徳治君の家に遊びに行った。夜もしなかった。


 1961.3.9 木曜日 晴れ
 
早朝六時半〔、〕小秋と共に起床。静枝、小春は起きなかった。洗面をすませ朝食。
 今日は宮床の伯母の家で、盛夫〔雄〕さんの結婚式がある。本家の金太郎叔〔伯〕父さんも出席する予定だったが、心臓の調子が悪いのを理由に出席出来ないから、父に本家の分も持っていってくれるように頼みに、食事前きぬゑ〔ゐ義〕伯母さんが来た。ぼくと、小春と小秋、父は連れ立って家を出た。静江はのんびりだ。
 さて〔、〕今日は試験の二日目。数学、職業、音楽の3個目だ。数学が悪かった。70点とればいい方だろう。職業90点、音楽95点が今日の予想だ。合計255点。昨日と併せて515点。明日は285点とらねばならない、ちょっと苦しい。試験終了後弁当、今日も食べなかった。その後帰宅。新聞等を見て昼食、また新聞、それから雑誌。そのうち智と豊彦が来たので、彼らとふざけた。それから〔、〕又中米徳治君の家に行ってマンガ読み。後風呂たき。それから夕食、入浴。そして今床の中。これから勉強。父はまだ帰らぬ。


 1961. 3.10 金曜日 ?
 今日の試験科目は、理科、図画工作、英語選択の3科目。終わった時はさすがに気がゆるんだ。
 理科は、75点とればいいと思っている、案外悪かった。その他、英語90点、図工70点の予想。そうするとこんどの試験は、予想では、理科75、図工70、英語90、数学70、職業90、音楽95、国語85、社会95、保体80で計750点の見積りだ。問題はこれをいくら越えるかだ。あるいは下まわるかもしれない。
 今度の試験は800点取るつもりだったが………やっぱりぼくの実力では無理かな。いや〔、〕そんな事はない。勉強さえやれば900点だって取れるはずだ。よし〔、〕やるぞ。骨の髄まで勉強しよう〔。〕750点か、でもちょっとがっかりだな。


 1961. 3.11 土曜日 晴れ
 ※今日、国語と数学の試験を渡された。国語は予想より+5点で90点。数学は+15点で85点だ。数学はまさかと思ったが、せめて85点とれたのを喜びたい。これで予想に20点+になったわけで、その通りにいくと770点は可能である事が解った。
 ※それから、今日は三年生を激れいするための謝恩会があった。ぼくは、この一つの事で色々な事、本当に色々な事を感じた。それを今から書いてみよう。
 ぼくが後にこのページを読む時、どんな気持で読むだろうか?
 ※まず第1に感じた事、それは、奴らが余りに大人の真ねをし過ぎている事。男も女もだ。本当に情ない奴達だ。たとえば、〓〓、これは、本当にそのもはんだ。それに〓〓
、彼らが張本人だ。女性のかたに手をやったり、変な話をしたり。女は女で、〓〓や〓〓〓〓〓達が又すごい。彼達の話を聞いていたら、「許すとか〔、〕許さないとか」言っていた。それが何を意味する物〔もの〕か、あるいはぼくの誤解かもしれない。
 本当を言うと〔、〕このことは川島から聞いたものだ。本当にまともなのは川島と高橋一子位な物だ。石川八重子と菅原清子達は参加しなかった。
 高橋一子達は〓はそれ程でもないが、気持ちはいいらしい。それから、その席に三田村先生を招待した。それでビールを四本買ったが、一本は富田てい子が寄付してくれた。それが、〓〓、〓〓までビールを飲んでいる。本当に馬鹿な奴達だ。自分達の悪い事はたなに上げて、人の欠点を見いだしては喜んでいる。本当に下れつな奴達だ。
 ※ぼくは今度の試験の数学科の点数は八拾五点だった。本当に情ないと思うている。薛と山田は95点をとったのに。ぼくは数学はやっぱりだめなのかなと思って先生に聞き、色々なことをたずねた。今まで先生が教えた生徒で特に優秀だと思った生徒は、いつも90点台とっていたそうだ。そして、ぼくは、どこの高校に入れるかと聞いたら、宮農もしくは仙商といった。ぼくの期待した一高は出なかった。ぼくは何くそと思った。その時そこ、何としても一高に入ってやると思った。そうだ、ぼくは何としても、石にかじりついても、一高に入らねばならない。それには努力だ、努力が大切だ。そうだやろう、一年からの復習をやろう。本当に、やろう。仕事もしよう。そうだ、もはん中学生になろう。小さなこせこせした事にはこだわらず一高目指して進もう。明日から、今日から、いや今からの生活を、がらりと変らせてみせるぞ。
 ※今日の会計は次の通り。
収入の部
 高橋一枝〔衛〕殿  200円也      会費 50円×26名=1300円也
 高橋 東殿     200円也              合計1900円也
 三田村先生     200円也      校長先生〜キャラメル
支出の部
 富田商店     1095円       山田商店 270円
 斉藤商店      360円        千坂商店 175円
                         合計 1900円也
                            残高   0円
 それから、部落生徒会の貯金通帳と、賞状等を三年生から受けついだ。それは〔、〕ぼくが保管する事となった。
 それから、三年生からキャラメル一箱づつ、富田屋からバラキャラメル一箱もらった、のを記しておく。
 ※今晩〔、〕作業場に泊まる連中もある。


 1961. 3.12 日曜日 快晴
 朝皆と一緒に朝食後、真面目な中学生となるための勉強をした。科目は、数学と英語。
 十時ごろ、小学生達が集まって〔〕我家で六年生を送る会を始めた。
 ぼくはその間〔、〕昼まで勉強していた。その前に〔、〕小学生が来る前、自転車のチェーンを直そうとしたがなおらなかった。かくして昼食は小学生に一株まぜてもらって〔、〕一緒にごもく飯を食べた。会費は10円だそうだ。本当に10円でよくこれまでやったと思って〔、〕感心する。ぼく達は50円も出して、これよりも価内〔値打ち〕がなかったと思う。午後からは、まじめな中学生の文字通り、先ず風呂に新しい水をくみ入れ〔、〕風呂場をそうじし、次に釜屋、台所、玄関の内庭をはき、それから、外を残らずはいた。本当によくやった。昼は馬にも食べさせた。それ達〔等〕をすませてから〔、〕コタツに入ったり新聞を読んだり、さては机に向かったり、この辺は〔、〕中学生のもはんとはちょっといいがたいところだった。かくて〔、〕計画より30分おくれた、5時夜の作業にとりかかった。仕事をしながら、今日から始まった春場所の実況をラジオで聞いた。
 それから又コタツに入ったりして夕食。後、コタツ。妹に少々教えてやった。
 やがて入浴して〔、〕今床の中。計画では就寝は10時。今9時過ぎで1時間ほど早い。
 今日から、本当の最良の中学生、日本一の中学生に成〔る〕可く、スタートしたのだが、第一日は十の点もあり一の点もあり、それ達〔等〕を合わせると〔、〕まあまあと言うところだ。これから毎日少ししずつ向上していけば、いつか日本一の中学生になれるはずだ。
 今日から、生後の日数の次に日記を書き始めてからの日数を書く事にした。
 父と兄は、具足沢の共同の山の刈り払いとかに行っている。
 明日の起床は6:30だぞ!


 1961. 3.13 月曜日 曇り
 朝は計画に反して7時に起床、急いで諸用意をすませ、八時二十分前ころ登校。今日は四時間いや五時間だった。
 二時間目社会の時間に答案を返された。九拾八点、これがその点数だ。学年では一番の様だ。三時間目保健の時間も〔、〕答案を返された。48点だった。保健は半分で授業を終わり〔、〕屋体でバスケットボールをした。バスケットは大分上達した。一年生で何もしらなかったのが〔、〕よくこれまでになったと感心する。
 四時間目体育の時間は〔、〕校庭でソフトボール。ぼくは〔、〕ソフトボールは余り得手でない。最初の内はさっぱり1回もいい当りが出ず、守っても二回ホ〔ボ〕ールが飛んできたが、2回ともとれなかった。が3回目に飛んできた時は〔、〕しっかりと受ける事ができた。打っても〔、〕みなと比べてもはずかしくない快心〔会心〕の当りが一つ出た。それでいくらか自身〔自信〕を持った。昼食後、習字の時間は自習。反省会の時意見が出て、今度いつか二年二組の分散会を開くことになった。それから教室を当番した。今日からストーブは姿を見せていない。
 放課後、英語と図画の答案を返された。英語は91点、図画は46点だ。これで五科目返されたわけだ。五科目の合計は458点、平均91.6点だ。予想点と比較してみると、先ず前の社会が+3点、保健が+8点、英語は+1点、図画が+11点で、計+23点。770点に23点を+すると793点になる。ただし外〔他〕の科目が予定通り行ってくれゝばだ。だんだん点数が800点に近ず〔づ〕いてくる。後の4科目で予想点に6点+になってくれば〔、〕ついに念願の800点に到達する事が出来るのだ。幸〔い〕、今までは−(マイナス)になった点数はないので〔、〕残った四科目もいくらかずつ+になってくれると思うんだが。何とか、800点に届きたいものだ。英語はもう少しいい点数がとれる様な気がする。郷右近君は96点、泉田は、94点だ。どう考えてもぼくが彼達より実力がないという訳はない。最いい点が取れるはずだ。だがあわてる事はないぞ、彼達のは一時的なつめこみであって、けっして永久的なものではない。だがぼくの英語は本物だ。
 それともぼくはうぬぼれているのだろうか。いや、そうではないと思う。でもやっぱり結論は最努力しなければならないという事だと思う。
 それから相沢力君、高橋洋一君と一緒に瀬戸理容店にいって、散髪をして来た。家に帰ってから〔、〕もちをやいて食べた。計画より少しおくれた五時、晩の作業を開始した。本当によく働いたと思う。夕食後、学習。科目は保健、英語。それから入浴、そして今は床の中である。今朝フトンを乾していったので〔、〕フワフワして暖かい。〔元〕兄は〔、〕〔義〕姉をどこかの湯場に迎えに行った。姉は明日帰るらしい、ずい分長くいた。


 1961. 3.14 火曜日 曇り
 朝はビリから二番目に起床。それでも、計画通り6:30分だった。それから、床もたたんで計画通り登校。学校に着いてか〔、〕らまだ当番の時間は早過ぎたが一足先に教室の当番を決めてしまった。それから体操、授業。三時間目の理科の時間試験答案を返された。点数は78点とついていたが、2点点数が少なく、それに一つまちがった採点をしていたので、82点にくり上がった。この時は平均が 0.6下がって90点きっかりになってしまった。これ以上下がる訳にはいかなかった。
 昼食後に音楽の答案を返された、100点だった。それでも100点は随ぶんといた様だ。だがうれしかった。音楽は一番簡単だとはいうものの、久しぶりの本試験の100点である。やはり感じが違う。これで7科目返されて、合計640点。平均は14点上がって≒91.4点になった。音楽+5点、理科は+7点だった。これで予想点と合わせて考えてみると、805点は可能となった。ついに800点の壁を突破出来るか。その望みもだんだん濃厚となってきた。
 授業は四時間で切り上げて、午後からは屋体で、卒業式の予行演習をした。その後そうじ。このごろは我班も落ちつきを取りもどし〔、〕みんなよく働く様になったので、早くきれいに仕上げる事ができた。そうじが終えてから〔、〕明日のための屋体の会場整備を行った。みんなが帰ってからも〔、〕ぼくは仕事をした。川島も手伝っていた。
 仕事中、千坂が、大事なあいさつ用の上等のテーブルの端を、こわしてしまったので〔、〕ニカワでくっつけておいた。それから図書〔室〕で瀬戸勇先生の祝〔い〕のことばを書くのを見たりして、教室に行くと、川島が一人で教室にいた。一緒に帰らないかと言われたが、ぼくははずかしかったので断った。彼女は本当にぼくに好意を持っていてくれるのであろうか?それともぼくを馬鹿にしているのかもしれない。本当のことを言うと〔、〕ぼくは彼女が好きになって来たらしい。でもぼくは彼女と相対してもれっとう感が働いて、他の奴のようなまねは出来ない。これが、ぶ男のあわれさであろうか?
 夜〔、〕父と将来の子〔事〕について語らった。ぼくは今将来の事についてどう思っているのだろうか。小学校の3年生あたりの時は、医者になろうと思っていた。だが、それが6年ごろになるとがらりと変わって弁護師〔士〕になる事を考える様になって、それが最進んで裁判官になりたいと思う様になった。そして今では、天文学者になる事を夢に持っている。でも〔、〕それは本当に夢だけで終ってしまうかもしれない。それを除くとすると、まず第一は一高に進学する事。その後は考えていない。次は会社経営の学校に入ることだ。どちらがいいかはわからない。将来の事については後からゆっくり書くとして、又その他〔の〕事で書きたい事が沢山あるが〔、〕今日はこれで終り。


 1961. 3.15 水曜日 快晴
 朝〔、〕光雄君と一緒に登校した。彼ももう卒業だ。卒業式も最初の内は何も感じなかったが、だんだん進〔む〕につれてしんみりさせられた。最後の退場の時は、女子などはみんなハンカチを目にあて〔、〕声をあげて泣いていた。男子でも目を赤くさせていた。ぼくまで変チクリンな気持になった。これから調〔丁〕度一年たてば、ぼく等もこんな姿になるだろう。
 式が終ってからせめて学校にいようと思ったが、帰って来た。しばらくして〔義〕姉が13日ぶりに帰って来た。叔母〔義姉母〕も送って来た。みやげに家族のはき物一そろい、もらった。私のはズックぐつであった。
 何か〔、〕今度は義姉ととてもうまく行きそうな気がする。


 1961. 3.16 木曜日 晴れ
 それは六時間目が終った時だった。ぼくは体操の時間でソフトボールをしていたがその時、桃色の紙を一枚拾いました。がそれを見てぼくは驚きました。それには、彼女の名と3人の先ぱいの名が書かれてあったのです。何かある、ぼくは思いました。教室に行って誰かがそれを川島に渡しました。彼女はちょっとびっくりしていた様だった。でも、それをビリゝゝと引きさいてしまった。そしてすっと廊下に消えていった。ぼくは、彼女だけはと信じていたのに、口惜しかった。もう絶交だと思った。しばらくして彼女はもどって来た。ぼくはわざと、ニヤリと笑っていた。彼女はすまなさそうにおろおろというか、とまどったらしい。それでもぼくは前を見て、皮肉な笑い方をしていた。彼女がこちらをじっと見ているのがわかった。
 反省会が終って当番も終った所へ〔、〕彼女も当番を終えて帰って来た。ぼくを見て笑った。だがぼくは又ニヤリといわくありげに笑ってそこを去った。彼女はとうとうたまりかねたのか、「沢田さんおごってんのが?ごめんな」といった。ぼくは、それを聞いてはっと思った。今までのきびしい心が動ようし始めるのを覚えた。が、それを振り切って、「何をいってるんだい」といって「あハハ」とつくり笑いをして教室に走り込んだ。そして倉庫のがけの上に来てちょっとの間何かを考えた。
 一体ぼく達は、今どういう関係にあるのだろう。ぼくはぶ男だし彼女は美しい。それだけに彼女の言ったことばが気にかかる。あのことばは一体どういう所から出たのだろう。もしかしたらぼくに好意を持っていてくれるのかもしれない。彼女は本当に困りきった顔をしていた。もしぼくを何とも感じていなかったならば、あんな事はいわないだろう。一体ぼくはこうなったらどうすればいいんだろう。
 ぼくが彼女にしっとを感じたのは、個人の事ではなく、愛情関係ではなく、あんな事を、中学生でありながらも書いたという事だ。
 彼女に続けて軽別〔蔑〕の感をしめすか。それともその反対か。又は、そんな事はかまわず、友達でいるかの3つの中のどれかだ。いまの私にははっきりこれだと言いきる事は出来ない。


 1961. 3.17 金曜日 晴れ
 ぼくは第3の道を取った。彼女は予想外に冷たかった。ぼくも何だかいやで最初は口を利かなかった。授業になっても彼女は何も話しかけてはくれなかった。ぼくもやけくそになって知らんふりをして、友達と話をしていた。彼女は東君等と話をしている、絶望だ、ぼくは思った。たった一つのみ〔の〕ぞみが〔、〕ついに消えうせてしまった。初恋は吸〔破〕れるもの也と誰かが言ったが、これがはたしてぼくの初恋であろうか。いずれにしても、ぶ男のあわれさを深く感じた。
 今日の試験は数学、音楽、保健体育、社会の4科目だった。


 1961. 3.18 土曜日 曇り
 試験も今日で終わり。今日の日程、国語、理科、職家、図工、英語を終えてしまった。今度の試験は確かに悪い。その理由として上げられる事は、準備不十分という事だ。年末考査を終えて一息ついているところへの試験だからだ。それに〔、〕その間には卒業式という大きな行事もあったからだ。良く見積もって 700点を越すかどうか解らないという所だ。
 今日も先生は、試験(入試)のため出張していない。昼食を食べてから、分散会についての相談会が開かれた。そして、世話役6名と日時、料理について決定しただけで終った。世話役は、ぼくに、薛、藤倉靖、石川八重子、出井富子、川島節子の6名、日時は今月の26日日曜に決まり、料理はちらしずしという事になったが、このちらしずしには大部不満の声があるので、どうなるかわからない。放課後バスケットボールをした。シュートは入るが、ドリブルしてにげるのがまだ不十分。
 義姉が風呂水を取りかえてくれた。


 1961. 3.19 日曜日 小雨
 朝、七時起床、みなは朝食を食べてしまった。ぼくも、あんまり腹もすいていないので、食べず、理科の勉強をした。が腹がへって来たので、こあきと一緒に食べた。それから又理科の勉強。しづゑとこはるはもちぐさを取りに行っていたが、すぐ帰って来た。ぼくは、こあきとしづゑに計画表を書くようにいった。妹達は、ぼくの真似をして書きめた。それが終ると〔、〕台所にあった机をぼくの机のそばに移動しはじめた。そしてそうじをした。

 昼食がすんでからぼくは図画板作りをした。これは、たしか六年生の時作った奴だが、こわれてしまったので別に改良した。それが終ると宮城県立高校の入試問題をやってみた。簡単なことは至極簡単。だがわからん所が多かった。又理科を初〔始〕めた。間もなく落合相川の笹川先生の母さんが来た。


 1961. 3.20 月曜日 晴れ
 ぼくはやはり彼女を忘れることは出来ない。大体すぐとなりの席だし。だが、ここで注意しておきたい事は、ぼくは内心をそのまま表面には決っして表わさなかった。それが本当の理性だと思う。それから帰宅の途中、十一日作業場に泊まった奴達について、意外な事を聞いた。ぼくは最初から何かあると思っていたが、そんな事とは知らなかった。奴達は、男女で一緒にとまり一緒に寝たのだ。徳治君とひさ雄君に聞いた事だが、〓〓と〓〓は女性とキッスをしたそうだ。そして女性が寝てしまってから体をいたずらしたそうだ。本当に馬鹿な奴達だ。放課後、今日からクラブ活動を開始した。ランニングシュートやドリブルシュートはさっぱり入らなかった。それから、テレビで大相もうを見て家に帰って風呂をたき、すぐねてしまった。


 1961. 3.21 火曜日 快晴
 今日は春分の日で学校は休み。妹達と母、〔義〕姉は、墓参りに行った。光雄君が遊びに来て、全国大会素人のど自まんコンクールを実況をラジオで聞いた。民謡の部で東北代表の人が優勝した。父はこの模様〔、〕を正さんのテレビで拝見させてもらっている。


 1961. 3.22 水曜日 晴れ
 学校から帰ってくると大衡の、金太郎叔〔伯〕父さんの一番大きい子供で、いわゆるぼくの従姉にあたる利枝〔トシエ〕さんが訪ねて来た。


 1961. 3.23 木曜日 曇り
 今日で授業は終わり、明日は終了式。授業は五時間。それから大そうじ、ぼくは便所のそうじ。
 夜勝彦さんが来た。明日長野に用事あっていくそうだ。


 1961. 3.24 金曜日 晴れ
 今日は終業式が、小・中ともあった。そして通信表と学年末考査の点数一らん表を渡された。ぼくは806点、勿論最高だった。とうとう800点の壁を破れた。750点以上はぼくだけだ。2位は藤倉靖、3位石川八重子、4位薛義興、5位音羽美恵子、6位相沢力の順。しかし通信表にどうしても納得のゆかぬ点があった。それは保健体育。試験も94点で最高だし、技能だった〔て〕無い方ではないのに。ぼくはこのために全5になる事は出来なかった。本当にくやしい。当然5になるはずなのに、まったくおかしい。えこひいきの点に関連するかもしれない。


 1961. 3.25 土曜日 晴れ
 今日退くつしのぎに学校に登校した。今日から春休みなのである。学校では野球部が練習していた。川島らが、理科の実験用具をかたづけていた。ぼくも手伝わせられた。
 そしてぼくは完全に失望してしまった。川島も普通の女に変わりはなかった。それよりも大人びた態度を見せつけられた。もう知らんふりをしていよう。ぼくの恋人などとはとんでもない。
 昼家に帰った。家では、山の神講が開かれて、みんなの家のお母さん方が集まっていた。夜光雄君の家に銭〔餞〕別を持っ〔ていっ〕た。


 1961. 3.26 日曜日 曇り
 今日は学校で〔、〕我なつかしき2年2組の分散を惜しんで分散会を開く日だ。8時30分自転車で登校。ぼくの自転車は空まわりがしてだめなので、新車でいった。学校につくと〔、〕みんな大体来ていたのですぐ集めてそれぞれの分担を決めて、仕事を開始した。12時ごろ高橋一衛さんの家でもちは出来あがり〔、〕学校に運んだ。やがて会食が始まり、よきょうもぼくが司会になって始まった。そして3時ころ閉会した。本当に楽しい一日だった。昼ころ光雄君が清光さんと一緒に東京に就職にいったそうだ。彼は本当にかわいそうな様な気がする。


 1961. 3.27 月曜日 雪
 朝起きたら、珍らしくとんでもない事に外は雪だった。急いで起きて洗面をすませ、朝食といってもみなはとっくに朝食が終って〔、〕仕事にかかっていた。それから〔、〕小春と2人で3年生に供えて机の準備をした。それがかれこれ12時までかかって〔、〕昼食。父と〔元〕兄は〔、〕今日は雪降りなので山には行かない。
 午後から又小春と風呂のそうじをした。そしてこたつに入って、4時半ジャスト、風呂たき、馬屋そうじ、庭はき、雪かきにかかった。それも6時までに終えて、夕食。義姉は実家に用事で行った。〔元〕兄も夕食後間もなく出かけた。ぼくは夕食前に小春と一緒に入浴してしまった。


 1961. 3.28 火曜日 曇り
 朝少々雪が降っていたので〔、〕父と〔元〕兄達は山には出かけなかった。午前中退屈しのぎ〔、〕に久しぶりに絵を書いた。後から静枝、小秋、小春も書いた。昼近く母は婦人会の総会に出かけた。〔義〕姉は今朝実家より帰っている。
 そして昼、昼食の用意は〔元〕兄がした。昼食を終ってこたつで雑誌を読んでいると〔、〕辰雄〔夫〕叔父さんがやって来た。父は、午後から山に出かけた。〔元〕兄とぼくは〔、〕本家に米をつきに行った。ぼくはすぐ帰って来た。その時本家で新しく買った犬に初対面した。ぼくはあまりその犬をすかなかった。むしろ今まで前からいた「富士」の方がいい。家に帰ってから〔、〕古い週間〔刊〕誌をひっぱり出して読んだ。4時半風呂たきにかかり、馬屋そうじを終えてもう一度風呂に行ってみた。そしたらすっかり消えてしまっていた。それから10回位たきなおしをやり、とうとうぼくもかんにん袋の尾〔緒〕が切れて、風呂たきをおっぽり出してこたつに入った。後から〔元〕兄がしかりつける様にしてたいていた。夕食後、こたつでいねむりをしかけたの〔、〕であわてて風呂に入って寝てしまう。


 1961. 3.29 水曜日 快晴
 最後に起床して洗面。朝食後、静枝と小春は学校に器楽演そうの練習に出かけた。ぼくも後から農協に貯金をおろしにいった。〔昭和〕34〔1959〕年10月2日から〔、〕2453円の元金に75円の利子がくっついて〔、〕全部で2528円になっていた。それにぼくが前から持っていた40円をたして〔、〕2568円の現金を持って斉藤屋に行って、買い物をした。内容は次のとおり。帳面20円×10= 200円, 鉛筆10円× 3=30円, 西洋紙1〔円〕×20=20円, わらばん紙0.5円×20=10円, 図画鉛筆 5円× 1= 5円で〔、〕計265 円。2568円− 265円=2303円の残金。それから郵便局に行って3円残して2300円を貯金。貯金は全部で2877円となった。3円は後で静枝、小秋、小春に1円づつやった。それから薛と一緒に学校にいって、小島君、3年の文屋源一君とソフトボールをした。十一時半家に帰って昼食。それから少しコタツに暖まって〔、〕外に散歩に出た。神社の所で家の妹達や小学校・中学校の生徒達が「6まわし?」をして遊んでいた。小春は本家で遊んでいる。
 散歩をやめて理科と英語を少しばかり勉強してから〔、〕ラジオを聞いた。黄金孔雀城だった。その時黄金孔雀城の歌詞を覚えた。
 「秋風寒し、孔雀城。いらかに宿る小鳥さえ、優しい母の子守歌、聞いて静かに、寝る物を」
 黄金孔雀城をきいてから風呂をたいて、馬屋そうじ。それから亦ラジオを聞いた。今日でユーモア教室と、何でも先生は終りである。夕食をしながらこれを聞いて〔、〕入浴して就寝。 今、ぼくの聞いているラジオ番組は、「黄金孔雀城」「子供ニュース」「ほえろアンデス」「ユーモア教室」「紅はこべ」「一丁〔目〕一番地」「なんだろ坊や」等である。それから「何でも先生」も。


 1961. 3.30 水曜日 雨のち曇り
 午後、昼食後、部落共同で行う野鼠駆除に参加した。外の人はみんな大人だけだが、ぼくだけ子供なので少しつまらなかった。野鼠駆除というのは、じゃがいもに毒物をまぜたものを鼠の穴につめこんで歩くのである。礼に菓子を40円袋づつもらった。それを終えたのが3時ごろ。そこに大衡の従姉利江〔トシエ〕さんの子供善〔喜〕雄が来た。それで、6回しというのをやったりした。夕方彼も帰り、風呂たきを始め、馬屋そうじ。勉強は一つもせず。今日から、新聞(河北新報)が12ページに増大された。昼北目の義姉の妹である八島節子さんが来た(高3)。小学校でPTAの総会があったが〔、〕母は行かない。
 朝、母、姉に次いで3番目に起きて、御飯までに風呂水の取りかえを終ってしまった。


 1961. 3.31 金曜日 晴れ
 朝、朝食を終わってから、おもい切ってすぐ遊びに出かけた。圧〔充〕男さんの子供の仲よしのター坊こと鷹男ちゃんと手をつないで本家まで遊びにいった。しばらく遊んで、善〔喜〕雄、智、豊彦をつれて家に帰って来た。それから魚つりが始まった。ぼくは一匹もつらなかった、が、善〔喜〕雄がふなを一匹つった。それからつりをやめて、子供達のソフトボールにまぜてもらって〔、〕それを楽しんだ。そして昼食。昼食後徳治君が山で見つけたといって、土器、古い土器を持ってきた。底の台が少しこわれているだけで、大部古いらしい。それから智を自転来にのせ、善〔喜〕雄と大崎に、学校に遊びにいった。1時間も居て帰って、家でテニスボールで3歩野球をした。それから6まわしをやった。
 父はこのごろ連日の山仕事に疲れがでたか〔、〕神経痛の様なのをおこしたりしている。昨日の薬が利〔効〕いたか、河にねづみが死んでいるのをみた。今日で中学二年も終りである。思えば二年という学年には、今年は今までの内で一番色々なことがあったと思う。そしてこの学年はぼくの人間の変こう期だった。ぼくの考え方、気持は、前と非常に変わったものになった。(従姉秋葉幸子さん(中3)から静枝にはがきくる。夕方七北田のもりを〔よ〕叔〔伯〕母さんが来た。


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