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InterBook紙背人の書斎(最終更新日時:14.4.8,1:24 PM
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1961年4月(14歳・中3)

 1961. 4.1 土曜日 晴れ
 
昨夜は、善〔喜〕雄が泊った。今朝は六時半ころ起床。それから洗面をすませ朝食、後トランプで遊んだ。それから今日は招集日なので学校に行った。加藤光〔孝〕一、千葉八郎、佐藤誠治三先生がそれぞれ、落合中、吉岡中、塩釜参中の学校に転任されるので、屋体で送別式を行った。それから実力テストの成績一らん表を渡された。ぼくは 736点で平均82点。勿論学年中一位だ。二位は石川、三位は一組の奴、四位薛だ。七位は川島。
 昼サイレンの音と共に帰〔下〕校、家で昼食。午後からは家で頼母子講が開かれるので、
母にくじ造りを頼まれた。当りくじには御芽出度う御座居ますと書き、外れくじには残念でした!〔、〕と書いた。そろそろみんなが集まりかけたので、じゃまにならぬ様、外に遊びに出た。美恵〔枝〕子さんの家に子供達がいたので、そこで遊び、長蔵さんの家に行ってまん画をよみ、それから前の広場でソフトボールをした。しばらくして家に帰って、6時風呂たき、馬屋そうじ、夕食。
 これから東京の修兄さんに手紙を書く。


 1961. 4.2 日曜日 晴れ
 
朝起きてすぐ、父にたのまれてすぐ、砂金沢にじゃがいもの種をとりに、小秋、小春と
自転車でいった。途中、県道で、日〔桧〕和田に行く途中の祖母と重信君に出会い、祖母はそこから妹達ともどって、ぼくと重信君は二人で日〔桧〕和田に向かった。日〔桧〕和田では何か石造りの建て物を建造中だった。おばさんの家の若いお嫁さんから 100円もらった。初めておカミさんを見た。ずい分年をとっているようだ。頭はつるつるである。日〔桧〕和田から帰った後巌叔父さんの店へいって、 100円使いはたした。それから「6回し」、ソフトボール等をつえ子、重則等としている内に、昼になって昼食。食後すぐ家に帰った。種いもは、重夫〔叔父〕さんが居ないのでだめ。家に帰ってからしばらくこたつに入った後、本家にブラリ遊びにいき、重信君はくるくる竹のさおを作った。家に帰ってラジオを聞いて、六時ころ風呂水取りかえをした。馬屋をそうじして夕食。食後〔元〕兄夫婦は節子さんが塩釜に就職に行くので〔、〕別れに行った。ぼく達はトランプ。
 小秋、小春は砂金沢にとまり。


 1961. 4.3 月曜日 晴れ
 
昨夜は重信君が泊まった。今日は大崎部落だけ出校日になっている。静江が自転車で吉
岡に行ったので。重信君に乗せてもらって学校に行ったが、誰も来ていなかったし、友達もいないので、一度町におりた。それから小学校の校庭でブラリしていると熊谷信一君が来たので、一緒にもう一度中学校にいった。が、女生徒ばかりだし、信一君もいこうというから逃げ帰って来た。ぼくは学校にいてもいいという気持もあったが……… それは川島節子のためだ。彼女も来ていた。
 ぼくはこのごろ、彼女の姿をみると照れくさくなる。それでも見ただけで満足感という
か安心感というか、そういうものがおこる。でもぼくは、決して下には出ない。いつも自分の名よをけがさぬ様にしている。
 それから昼までブラリして家に帰って昼食。後すぐ砂金沢に種いもを取りにいった。重
信君と、重則をつれて家に帰ってしばらく本を読み、それでも大〔退〕くつなので〔元〕兄や父のいる岩関の山に出かけた。もどってから馬にえさをやって、ひよこ小屋をリヤカーにつんで自転車で順にひっぱりながらいった。夜は、大人の人達が来たので、巌叔父さんの家で遊んだ。アイスモナカ一個ごちそうになった。八時半ころ帰って重則と一緒に入浴、就寝。
 私は川島節子が好きだ。これは片思いかもしれないが、それでもいい!


 1961. 4.4 火曜日 晴れ
  朝、砂金沢にて起床。いい気持ちになっていると祖母に、小便水のくみとりを重信君と一緒にさせられた。それが終えて朝食。後、出校日なので登校。そんなに来ていなかったので、その辺でブラリ。屋体にいったりキャッチボールをしたりしているとやっと時間になって、千葉八郎先生を送るために、坂道に整列した。間もなく八郎先生はバスにのっていってしまった。それから薛と一緒に学校にもどって、誠治先生の見送りに自転車でしびきまでいった。間もなく誠治先生もいってしまった。それから砂金沢に行ってリヤカーを持って来ようと思って、自転車をふんだ、が、リヤカーを使っていたので空身で帰ってきた。
 家に帰ってから昼食、後、外に散歩に出かけたが、兄に畑に手伝えといわれたので大原
の畑へ行った。ぼくは早く終って先に帰ってきて、鷹雄と遊んだ。後、家で机の前の壁を整理した。
 五時になって〔も〕まだまだ明るい昼間の内に風呂をたき終え、馬にもえさをやってしまい、
机に向って英語を勉強した。それから暗くなっても父が山から帰らず心配なので、電灯をもって迎えにいった。父は途中まで来ていた。兄は自転車屋にいっている。
 父も来たので〔、〕静枝と父、母の四人で夕食。食後静枝は、新宅の礼子とテレビを見に出か
けた。


 1961. 4.5 水曜日 曇り
 
朝、早めに起きて、朝食前に〔元〕兄と二人で二回、大原の麦畑に椎〔堆〕肥をリヤカーで運
んだ。それが終えて〔、〕朝食。朝食後、ブラリして、九時半に、加藤先生を送るために学校にいった。間もなく加藤先生は、ハイヤーで去った。それから校舎、校庭をそうじして〔、〕下校した。午後〔、〕くつを洗った。


 1961. 4.6 木曜日 曇り
 
朝食後修兄さんのGパンをはいて、軍服を着、さっそうと山に出かけようとしたが、〔元〕兄
に自転車屋さんに、自動車の空気入れを返してきてくれといわれたので、服そうを取りかえて、自転車で大崎に向かった。空気入れは、馬車の車輪に入れるのに夕べ兄貴が借りてきたのだそうだ。帰る途中、新聞屋にあって、別所の新聞をたのまれた。それを、音羽昭一さんの家にやって、家に帰り、服そうをとりかえて山に向〔か〕った。山といっても岩関の道路のすぐわきで、そんなにひどい所ではない。馬車で二回家との間を往復して、その積みおろしをした。全部で百はかついだ。やがて十時近くなったので、教頭を見送りに、学校に向った。一度何となく組合の方へいったら、菅原じゅん査が、落合に転勤に組合の自動車でいくところだった。菅原清子の姿もみる事はできない。一度屋体にいって、修学旅行に参加か不参加かのプリントが来た。それからしびきにいって、教頭を見おくり、ゆっくりと歩きながら学校にきた。小学校を通って、千坂公夫、藤倉靖君達と、屋体のわきの畑を登っていった。それからすぐ帰り、家に来て昼食。午後、ワラ打ち等をした。三時ころ、風呂の水を取りかえた。夕方、兄は割木割りをした。朝〔、〕馬の飼料を切った。(小春誕生日)


 1961. 4.7 金曜日 快晴
 
朝起きて、ワラを打ち。朝食後、まちがって学校にいこうとしたが〔、〕もどった。ぼくは7
日は学校だと信じこんでいた。徳治君の家に行かなかったら、そのまま登校してしまったろう。午後、母と二人〔、〕でワラを打ったりむしろなわをなったりした。明日から授業が始まるだろう。


 1961. 4.8 土曜日 曇り(風あり)
 
今日は静枝の入学式。静枝も晴れて中学一年生になった。
 朝〔、〕単身途中まで登校し、通りかけた寿男君(中2)に自転車にのっけられて登校。玄関
に36年度の組分け一らん表がはられていた。ぼくは3年一組だった。さてその次にぼくは誰の名を探しただろうか。ぼくはハラゝゝしながら、一生懸命になって、川島節子の名を探した。とたんにぼくは安心感におそわれた。彼女の名前は同じ3年1組の後から二番目に書かれていた。それから二年の時の分担でそうじ。後、屋体で、新職員の招〔紹〕介が
あった。新職員は、六名で、転任4、新任2である。先ず転任は、ほりごめ教頭、竹沢先生、伊藤太郎先生、山田旭先生の4名。新任は、丹治ゆみ先生、本田章子先生、どちらも女性。中でも本田章子先生の美しさはどきっとさせられるものがあった。ぼくばかりではなかったろう。
 それから、ただちに、始業式。受持、教科担当の先生が発表された。ぼくらの受持は、
去年転任してきた小林次郎先生。教科は、国語・伊藤太郎、数学・三田村、社会・瀬戸、理科・小林、英語・本田,丹治、職業・笹川、音楽・本田章子、保健・平品子、体育・山田旭、図工が丹治各先生。
 それから教室にもどり、先生とHRの時間で話し合い。後大そうじ。ぼくらは屋体で入
学式の準備をした。今日は午後一次から入学式。一時まで玄関で下足係をしていた。昼は10円パン二個。
 入学式が終えて、又下足係をつとめ、それも終わり、伊藤太郎先生の荷物を高橋一子さ
んの家にもっていった。それから斉藤屋で中華そば一個、薛と食べた。後、ステック5円を二本、計80円使った。
  静枝は一年三組、担任本田栄子。広志、富美江は一組。 入学式には母が行った。昨晩、昨々晩とも小秋本家に泊まる。喬もう腸炎


 1961. 4.9 日曜日 曇り(風あり)
 
朝、起床、昼食。午前中に馬のえさを切ってコタツにあたった。正午近く、辰雄〔夫〕叔父さ
んが来た。午後から〔元〕兄と二人で、具足沢にたい肥を馬車で運んだ。午前中に兄が、この〔馬車の〕箱を作った。又〔、〕朝食後風呂水を取りかえた。それから〔修〕兄に第六信を発信した。
 具足沢まで5往復した後、父に風呂をわかしてもらった。父は、本家に手伝いに行って
いた。夜、〔元〕兄の次に入浴、就寝。


 1961. 4.10 月曜日 晴れ
 
朝食後母にナイロンのくつを修理してもらって、それを持ち登校。朝そうじはしないで、
生徒会役員会に出席した。それから屋体で、竹沢先生の紹介、ならびに在校生と新入生の対面式があり、ぼくは書記として、生徒会長より招〔紹〕介された。又バスケット部を代表してあいさつした。
 それから、理科、数学、社会と授業。昼食をとって、校庭当番。それを終って屋体でク
ラブ活動のバスケットをした。バスケットを終って徳治君、靖君と共に下校、帰宅、風呂をたき、庭をはいた。馬屋そうじは父がした。兄は夕食後、ベルト等を買いに吉岡にいった。
 夜は勉強しようと思い、最初に風呂に入り、服を着ていたら、勝彦さんが父への用事で
来たので、しないで床の中でしようと思ったが、眠ってしまった。それでも夕食前、少し勉強した。四時間目の社会の時間に瀬戸先生の話を聞いた時、ぼくは本当に、どたん場に立たされた思いになった。
 父当〔宛〕てに〔、〕千葉八郎先生からはがきが来た。うらに直筆で〔、〕ぼくの事について書いて
あった。「諭君、井の中のかわずになるな」と。
 〔元〕兄に、修兄への手紙をたのんだ。


 1961. 4.11 火曜日 晴れ
 
あゝおれは馬鹿だった。馬鹿な奴だった。みっともなかった。少なくとも澤田諭という
人物に対して申し分け〔訳〕ない。あんな女一人のために、身も心も持ちくずしてしまった。奴は、ぼくと席を離れてから、靖君のそばになって不りんな遊び事をやっている。奴もやっぱり下劣な女だった。もうぼくは一人だ。
 そんな事よりもぼくには広い未来があるのだ。その未来に自分の力をフルに出し切って
体当たりしよう。その第一歩は仙台一高だ。それには多くの競争者をしのいで、優秀に入学しなければだめだ。今の実力では、とうていそれは無理だ。八郎先生もおっしゃってくれた。井の中のかわずになるなと……… ぼくは鶴巣のボンクラ奴達を相手にするんじゃない。昨夜少し復習した。
 朝登校後授業五時間。一時間目・理科なのに社会とまちがえて社会の教科書を出して失
敗した。三・四時間目は美術で先生は丹治ゆみ先生。案外いい先生だ。先生をモデルにしてクロッキーした。友達もモデルにした。二時間目英語は本田栄子先生。二年生の教科書の残った部分から始めた。放課後バスケットボール。
 家に帰ってから腹が減って減って仕方がないので、10円パンと飯を二ぜん食った。それ
から〔元〕兄と二人で種もみを川から上げた。
 今日でとうとう百一日続けた。これからも毎日やろう。五時間目体育の時間は山田旭先
生、女子は本田章子先生。男子は跳箱運動で、開脚とびこしをした。ぼくは下手な方だと思っていたが〔、〕なんのなんの最高のできだった。ぼくは、こういう事はむくのだろう。体の大きい人は特にできない。今日とんだのは八段。四段もとべない人がいる。


 1961. 4.12 水曜日 晴れ
 
ぼくは三年一組の委員長にならされてしまった。副委員長は藤倉靖君と石川八重子の二
人。それから、放送・保健・図書各委員を決めた。ぼくは最初の内は迷わくなと思ったが、今はしっかりやろうと思う。
  夕方家に来てからラジオのニュースを聞いてびっくりした。ソ連は、とうゝゝ、人間衛星の打ち上げに〔、〕そして回収に成功したのである。これこそ人間の、我々の科学の勝利だ。本当に末たのもしくなってきた。(ウォストーク一号:ガガーリン少佐)


 1961. 4.13 木曜日 晴れ
 
朝、教室そうじをしようとしたが〔、〕生徒会役員会があるのを思い出して、図書室に行った。が、それが元で〔、〕昼休みに先生におこられてしまった。
 授業終了後、班編成があり、ぼくは一班に属した。
 クラブ活動を六時まで行い、散髪をした。家に帰る時は真暗だった。
 小秋と小春は北目にいって、今晩泊まる。


 1961. 4.14 金曜日 曇り
 
一時間目の道徳の時間、小林先生から非常に今のぼくに関係のあることを聞かされた。
ぼくは三年一組のHR委員長だ。もし三年一組をより向上させるためには、まずぼくがみんなから好かれる事だ。委員長はみんなに好かれる様な態度を取らねばならない。
 放課後、生徒会予算委員会が開かれた。近い内に、生徒会の大手術をやるために、生徒
会役員会を開く事。ぼくは予算委員会に出席できず、屋体で六時半までバスケットボールに念を入れた。


 1961. 4.15 土曜日 晴れ
 
今日は何も特別目立ったことはなかった。放課後、クラブ活動。先ぱいの佐藤助雄君も来ていた。又、時間割が発表になった。7時間授業が2時間ある。とにかくしっかりやろう。このごろ又授業態度がくずれ初〔始〕めたぞ。家出〔で〕の学習も、昨日は眠ってしまってやらなかったし、今日もやらない。この日記は日曜日書いたもの。しっかりやらねば、だめだぞ、沢田。
 二時間目の選択、本田教諭が居ないので、二組と合同で新任の丹治教諭に指導された。


 1961. 4.16 日曜日 小雨
 
今日はバスケットクラブの練習があるので、みんなの床をたたんでから学校に向った。
もう先ぱいの助雄君や、相沢力君、遠藤信喜君達は来ていた。屋体にいってしばらく自由に練習している内に、定夫君、章君、郷右近君達も来たので練習を始めた。ぼくはメンバーに加わるかどうかわからない。やはりもう少し練習して〔、〕うでを上げなければならない。
 昼は本家からもらった草もち、というのは今朝牛乳かんを運んでくれたお礼にもらった
もの、を食った。5つ持ってきたが、力君と信喜君に知らない内に2つ食べられてしまい、郷右近君に1つやったので、2つになってしまった。バスケットが終ってから、大洋・巨人戦を観戦。4対1で巨人が勝った。午後三時ごろ家に帰った。が、静枝のそうじの事で母としょう突があった。今は後悔している。大崎に小秋のズロースと納豆を買いに行った。今日はもちである。父が風呂水を取りかえた。兄はもちつき。ぼくは何もしない。


 1961. 4.17 月曜日 晴れ
 
今日待ちに待っていた修兄からの手紙が届いた。東京はもう桜も終ったそうだ。全く早
いものだ。さて手紙によると兄は、〔修学旅行の時〕上野までぼくをむかえに来てくれるそうだ。そして三十日と一日ぼくと同行してくれるそうだ。帰りにも上野まで送ってくれるそうだ。
 本当に有難い兄だ。


 1961. 4.18 火曜日 晴れ
 
朝、早め、登校。靖君と会って二人で登校した。学校についてからそうじ、授業。二時
間目、選択の時間に、歯が検査があった。
 昼食は放課後に食べようと思って食べなかったが、放課後は力君に20円のパン半分とに
ぎり飯半分、八巻さんに草もちを食べさせられたので腹一ぱいになってしまった。


 1961. 4.19 水曜日 晴れ
  放課後、生徒大会開催についての生徒会役員会が開かれこれに出席した。その結果、日程は25日と決定した。


 1961. 4.20 木曜日 晴れ
 
今日は放課後、生徒代議員会に出席した朝、母に、〔修学〕族〔旅〕行の族〔旅〕費3820円也を
もらい、三田村先生に渡した。
 放課後、バスケットを六時過ぎまでやった。


 1961. 4.21 金曜日 晴れ
 
起床、洗面、朝食、登校、朝そうじ、そしてラジオ体操。一時間目の授業は、道徳。職
員会からの文句を先生に告げられた。
 昼休みの時間、掲示物の掲示、はがし方をした。放課後三年二組で、生徒代議員会。今
度の生徒会では、規約改正の事は見あわせる事にした。それが、終えてから、クラスルームで、小林先生や、友達と、修学旅行、その他の雑談をした。それから屋体でバスケットボール。暗くなって教室にもどり、机をしっかり整理した。本当にいい事だと思う。前にもこんな事をしてい事とがあった。これから続けよう。
 何だかぼくは本田(栄)先生の時間になると、不真面目になってしまう。唯〔誰〕が損
をするのでもない、自分の損だ。だから改めなければならない。


 1961. 4.22 土曜日 晴れ
 
放課後、クラブ活動で木こり橋までマラソンをした。ぼくは二番、1m先を力君が走って
1位。ぼくもよく走った。3位は重幸君。しばらくぶりで走ったので、さすがに体にこたえた。


 1961. 4.23 日曜日 曇り
 
朝七時五十分まで朝食を抜いて、小秋と静枝と一緒に寝ていた。のそのそ起きて朝食。
小秋と小春は、田に、父、兄、姉と共に出かけた。具足沢の改田の石拾いだそうだ。ぼくは、自転車で学校に行った。野球を昼過ぎまやって、卓球、バスケットをして家に帰った。三時ころおそい昼食をとって、大崎に行き、母の荷物を持って帰った。婦人会の購買部の商品なそうだ。
 夕方、注文の品を家々に配って歩き、夕食。



 1961. 4.24 月曜日 晴れ
  今日は学校でPTA総会並びに補講会総会が有るので、母が学校に来た。午前中は授業参観。母はしづゑの組に行って、ぼくの組には来なかった。朝礼の時に、三十六年度第一期役員の委任式が行われ、委員長、部落会長の二つで呼ばれ、代表となった。
 ぼくらの参観科目は、英語と音楽。英語の試験を返された。80点で案外悪かった。でも最高点。二位は六十八点だ。昼食後直ぐに帰った。おそらく、校内で一番早く帰ったろう。帰る途中、智、小春、清達と一緒になった。家では、ワラを打った。ワラ打ちといっても〔、〕今日はモーターである。明るい内に風呂をたき、家のまわりをそうじした。庭のチューリップも咲き始めた。関のコンクリートも固まり始めた。
 母が、ナイロンの学生服を買って来てくれた。2600円也だ。食後、それを着てみた。少し大き(い)かった、少し。


 1961. 4.25 火曜日 晴れ
 
明後日は待ちに待った修学旅行だ。今はその事だけで胸がいっぱいだ。兄にも早く会いたい。さかし叔母、勝志叔父にも早く会いたい。授業もよく々頭に入らない位、ぼくの心は浮きたっている。


 1961. 4.26 水曜日 晴れ
 
不思議な事に、明日は旅行だというのに、心も余りはずまず、落着きを取りもどした感じがする。授業を四時間して、明日の用意にとりかかった。夜遅くまで準備をして、どうやら用意はととのった。明日も晴れるといいなあ。(姉 300円, 北目 500円)


 1961. 4.27 木曜日 雨
 
今日は待望の旅行。朝起きたら残念、外は雨でした。それでも、コウモリをかざして、母と、妹達と学校に行った。弁当は寿司に、にぎり飯。まだそんなに来ていなかった。
 そうしている内にぼつぼつと集まり始め、出席を取ったら佐藤喜巳雄君が欠席だった。7:00、バス(1号車)に乗って元気に出発。新松島から7:55の汽車で仙台に行き、そのまま、途中の景色を楽しみながら、宇都宮に向〔か〕った。途中、松川事件で有名な松川も通った。宇都宮に15時43分に着き、16:00日光に向〔か〕い( バス) 、17:00に旅館についた。そして夕食を取り、外で買物をした。雪の陽明〔門〕の額、三猿、眠り猫、日光見学の友等を買った。夜、六人で50円づつ出し合って、飲物を買って、飲んだ。夜は、みんなうるさくて仲々眠れなかった。


 1961. 4.28 金曜日 晴れ
 
朝5:30ころ起きた。相沢一郎、辺見宏と三人で、東照宮に登って、寿司を食べた。後、写真をとったりした。
 7:00ころ朝食。後、バスで、イロハ坂を登って中禅寺湖に行き男体山をながめてから華厳の滝。華厳の滝は、水不足で見られなかった。又、いろは坂をおりて春茂登旅館の近くの東照宮を参拝した。後、近くの店で昼食。それからバスで宇都宮に行き、14:21分、宇都宮を団体・りん時列車で、発ち、17時11分上野駅に着いた。17時40分、旅館・富士館についてすぐ夕食。すぐ〔修〕兄が訪ねてきた。一度夕食を食べて兄を待っていると〔、〕仲々来ない。やっと来た。けれど、さかしさんと勝志さんはまだ来ない。ぼくらが行こうとしたら、やっとやってきた。それから〔重信と〕龍美も交えてTAXIで銀座をドライブし、デパートの食堂に入って何かを食べて、旅館にもどった。兄の同級生も沢山来ていたので、兄達もしばらく雑談にふけっていた様だ。それから入浴して、風呂を上がり、就寝した。


 1961. 4.29 土曜日 晴れ
  今日は、江ノ島・鎌倉方面。先ず東京タワーの下を通って、東京国際空港にいき、しばらくそれをながめた。おどろいた事に、そこに中米定子さんが働いていた。彼女は売り子であったが。それから、又バスにゆられて、横浜に行き海を眺めた。が〔、〕あいにく、デッカイ船は一つもなかった。それから鎌倉にいって、鶴ヶ岡八幡宮に参拝し、大仏を見学した。(大仏は、修理中で中に入れなかった)
 又バスで江ノ島海岸にいって昼食。又東京に帰る途中、日産自動車工場を見学。18 :30分旅館についた。
 夜、〔修〕兄がなかゝ来ないので〔、〕さびしくなったので電話した。そしたら来るといったが〔、〕とうとう来てくれなかった。
 東京タワーに登り、三越デパートでおみやげを買った。


 1961. 4.30 日曜日 晴れ
 
朝、〔修〕兄に電話したが、兄は出かけた後だった。朝食を取って、先ず徒歩で上野公園を散
歩して、上野動物園に行き、モノレールに乗った。それから国際劇場まで又歩き、三橋美智也ショー、映画〔「〕女舞〔」〕などを見ながら昼食。それから浅草観音に向〔か〕い、そこの店で夕食。すぐ上野駅に向かい、19:52分帰途についた。汽車の中では、大体先に眠って、夜中は起きていた。


1961年5月(14歳・中3)

 1961. 5.1 月曜日 晴れ
 
朝5時22分松島駅につき、6時にバスで鶴巣に向い、7時無事帰校。すぐ家に向かう。途中、妹達と出会う。
  家に帰っておみやげを開けて、外に出たが、唯〔誰〕も相手がいないので寝てしまった。午後、一時ごろ北目に行っていた姉が帰り〔、〕起〔こ〕された。それから妹達と外で〔、〕買いたてのバドミントン等をした。夜は眠くて、すぐ寝てしまった。力さんが来て、金太郎伯父さんの病状が悪くなったと言いにきたので、父が吉岡に向〔か〕った。


 1961. 5.2 火曜日 晴れ
 
朝はグッスリ眠った。授業中もさすがにつかれたという感が出てきた。それでも放課後
はクラブ活動をした。


 1961. 5.3 水曜日 曇り
 
今日は憲法記念日で休み。夕方バドミントン、野球ゲーム等をして遊んだ。夜、勉強し
ようとしたが、眠ってしまった。


 1961. 5.4 木曜日 晴れ
 
今日四時間授業。後どこかの部落に家庭訪問があった。放課後クラブ活動をした。明日
学校に来ることを約束した。明日は和弘君や助夫君も来るそうだ。


 1961. 5.5 金曜日 晴れ

 今日は子供の日。朝飯を食べてから風呂の水を取りかえた。それから昨日の約束に従い登校。公民館で何か神社の春際〔祭〕について話し合いがあるそうだったが、唯〔誰〕もいないので学校にいった。
 しばらくバスケットボールをしている内に、和弘君が来て教えられた。助雄くんも来た。正午、腹が減ったので、帰宅、昼食。後、北目の義姉実家に修学旅行のみやげ・野球盤と記念手ぬぐいを持っていった。喬は大変気に入ってくれた。
 夜、北目に泊った。


 1961. 5.6 土曜日 快晴
 
今日アメリカでシェパード中佐を乗せたロケットが打ち上げられ、カプセルに乗って無事回収された。これで、世界で二度目である。今後ますますこの方面は発達するだろう。
 放課後クラブ活動をした。今朝北目から帰った。


 1961. 5.7 日曜日 曇り
 
今日は日曜日。朝ゆっくり寝た。末〔未〕だ旅行のつかれがとれないらしい。起きてから、朝飯。それから父に〔を〕手伝って〔、〕たき物運びをした。
 それから机で勉強したが〔、〕寒いのでコタツを入れた。そして一年生の理科を九日の実力試験に備えて勉強した。昼食後も勉強を続けた。夕方、庭をそうじした。兄が草取りをした。風呂たき、夕食。砂金沢の従妹・ツエ〔つえ〕子が来た。さて今日はゴールデンウィークの最後の日曜日。各行楽地はそうとうのにぎわいらしい。部落も山は緑になりだし、八割緑に埋まった。大相もう夏場所が今日から始まった。
 さて、自分の青春について書いてみる。対象となる人物は川島節子。
 女性一人に澤田諭たる一人の男が、一生県〔懸〕命になって我を忘れているのは、情ない様に思われるという考えと、大いに青春を楽しめという考えがある。今は彼女に会うと何にか意地になって、わざと強気を見せる。ぼくがこんな事を考える時先だつものは、ぶ男という劣等感である。それでもぼくは彼女を愛している。好きだ。それなのに、何だか、自分の名挙〔誉〕にかけても、という気になる。だらしがないざまはしない、という感がある。それからバスケットクラブの、馬場隋〔郁〕子なる、一年生の女性、好感が持てる。


 1961. 5.8 月曜日 ?
 
授業を四時間で切り上げて、子供みこしをかついだ。今まで信じなかったが、やはり神通力というものはあるらしい。別所大崎の家々を回って北目の始めまで行って、もどった。終わりころ雷が鳴り雨がふりだした。大人の人達が四人でかついだが、とてもひどそうだった。
 つえ子と祖母、重信君が来た。祖母から 100円小づかいをもらった。
 明日は試験。が〔、〕つかれて動けない。明日はブッツケだ。


 1961. 5.9 火曜日 晴れ
 
試験はワケが解らなかった。クラブをして、帰り風呂たき。兄が風呂水をとりかえていてくれた。食後、義姉の母が来た。姉が産気付き、また流産してから大変だから、との事だった。


 1961. 5.10 水曜日 晴れ
 
昨日の試験の数学の答案を返された。77点、これがその点数だ。ぼくはこんなはずはないと思った程だ。見てみると、思わぬ、簡単に出来る所で失敗している。本当に残念。靖君は九十一点、二組の小嶋君は九十八点もとったのに。本当に期待外れだった。
 昼食を持参しなかったために、授業7時間終了後千葉隆君と、斉藤商店で中華ソバを一ぱい食べた。
 朝、大崎の宇兵衛さんのところに行って、みこしをかついだ礼金・ 200円×17人の3400円をもらって来た。ソバを食べてから、それを生徒に配った。それから、明日の生徒会総会のプリントを原紙切りから始めて、4ページの 350組、作った。終わったのは夜の九時半。最後まで残ったのは、ぼくと小嶋清夫、薛義興、佐藤龍美、石川八重子の五名。薛の弟が心配して迎えに来、石川の母も来た。龍美には家から電話がかかった。プリント作りが終えてから、又男性四人で中華そばその他を食った。
 帰りは薛に自転車を一台借りて〔、〕それに乗って来た。


 1961. 5.11 木曜日 晴れ
 
授業は五時間。六・七時間目は生徒会総会。先ず試験。理科72点。これは予想外だった、ぼくは30点位に見こんでいたんだが。アルキメデスの原理が当ったので増えたのだ。滑車は一つも当らなかった。社会84点。先ず先ず、地理で点数を引かれた。歴史は上々。国語78点、大体予想どおり。今度の試験は、勉強、全然しないので低めの点数を予想した。これで、主要四科目の総合は 311点、平均 77.75点
 六・七時間目、二時より三時半まで生徒総会。ぼくは進行係を努〔務〕めた。その他の部でトレーニングズボンと朝の体操で、本田章子先生とかなりこみいった討論をした。少しいいすぎだったかもしれない。それでも悪い事ではなかったと思う。
 今日の総会では規約改正を承認してもらい、学校新聞も作って発行する事になった。
 今日から席順が変わって、ぼくと川島節子なる女性、又一緒になった。最初はぼくの脇であったが、変えられてぼくの後になった。ぼくはあの女を何度も忘れようとした。捨てようとした。しかしそれはみな失敗した。あの女の謎の様なび笑を見ると、すぐ心がくづ〔ず〕れるのである。全く、女は魔物だ。ぼくは今までにこんな感をうけた事がない。唯〔誰〕かが歌った、おれは知ってる、恋の悲しさ、恋の苦しさ、と。これが恋の苦しさだろうか。悲しさだろうか。しかし〔、〕それはぶ男であってこその苦しさである。ぼくがぶ男でなかったならば、この恋は最〔もっと〕親しい楽しいものになっているに違いない。これがぶ男のあわれさだ。 だから出来るだけ〔、〕ぶ男だという事を外の面でカバーしなければならないのだ。それは頭と、態度と、気持だ。馬鹿な奴達は、何か下級生の女の子とろこつに関係している。しかし、ぼくはそんな事は出来ない。ぼくの精神の面目にかけても。
 この恋は、結ばれる恋ではない。それも片思いであるからだろう。彼女から見れば〔、〕ぼくなんかへのかっぱだろう。
 しかしもし、あの女が好意を示してくれるとすれば、この恋は結ばれるであろうが、その可能性は全くうすい。
 小さい時は、顔なんかどうでもよい〔、〕気持ちのいい人を嫁さんに等と考えていたが今は……… いずれにしても〔、〕美しいという事は徳〔得〕なことである。そして〔、〕みにくいという事ほどあわれなものはない。クラスの中には〔、〕男女ともぼく同様の者が何人かいる。その人達は頭もよくないし、ぼくより最〔もっと〕かわいそうだ。美しい人はそれらの人に希望を持たせるために〔、〕少しでもいいから親切にしてやればいいのだが、しかし、それは望めそうもない。第一、このみにくいぼくでさえ、顔のきれいでない女の子には少しも親切にしたおぼえがない。それが美しい人なればなおさらの事。あゝぼくも、歌の文句ではないが、もうすこしでも気〔器〕りょうがよく生まれたならば〔、〕とつくづく思う。


 1961. 5.12 金曜日 ?
 
選択と音楽の試験答案を返された。今度の試験六五〇満点だそうだ。選択は44点、音楽39点。五科目の合計は 394点、平均78.8になった。
 一時間目道徳。小林先生に非常に考えさせられる話を聞かされた。それは昨日の生徒会総会の成果についてだった。大多分の生徒は、昨日の会は無意見でうまくいかなかった、従って何の成課〔果〕も無かったといった。が先生は、私達それぞれが、昨日の会を反省して、何かを身につける事によって、学び取る事によって、大きな成課〔果〕が生まれる。だから、あゝいう大会は必ずりっぱにやらなければならないというのではない〔、〕とおっしゃった。最〔尤〕もだと思う。
 放課後、小西川橋までバスケットクラブでマラソンをした。PTAの会合があったので、練習は出来なかった。それから、図書館で天体と宇宙という本を一寸読み、相もうを見て帰宅。
 本家にサイロつめの手伝いに行けといわれていったが、時間がないので〔、〕しないですぐ帰って来た。風呂をたいて、夕食。食前、宿題等をした。辰雄〔夫〕叔父が、力さんにひどいめにあわされて家に逃げてきた。本当に可愛そう、今夜は家に泊まるらしい。話によると〔、〕なわでしばられたそうだ。いくらなんでも〔、〕叔父さんに対してあんまりだ。同じおいでも〔、〕こんなに違うものか。


 1961. 5.13 土曜日 晴れ
 
昼休みバスケットクラブ員は全員屋体に集合せしめられた。黒川高等学校と練習試合をするというのだ。ぼく等はえっと思ったが、返〔却〕って胸がワクワクして〔、〕とう志がわいて来た。先ず黒高の生徒達とあいさつを交わし、パスをした。みんなが見ていた。次にランニングシュート。もうパスだけでくたばってしまいそうだった。ランニングショットは、大体入った様だ。それから、三対三をやって、試合といっても、練習の分で、それをやった。やっぱり高校生だ。みんな〔、〕まるで自分の後はいのように親切に指導してくれた。六月に何か、黒高で中学校対抗の試合があるそうだ。七月には中体連大会がある。それに備えて本気になってやらなくてはと思った。それを終了して〔、〕床屋で散髪した。料金が六十円から七十円に値上がりした。
 昨夜辰雄叔父さんが泊って、今夜も泊まる。どういう事になっているのか?


 1961. 5.14 日曜日 快晴
 
朝食後、風呂の水をくみかえた。それから弁当をつめてもらって、トレーパン、ランニングシャツ、タオルを用意して〔、〕自転車で屋体に向った。途中斉藤屋で、郷右近初雄、高橋重幸達と出会った。少しして、相沢力も来た。千葉文義と一緒に、先ぱいの千葉和弘君も来た。佐藤助雄君は〔、〕朝早くから来ていた。しばらくしてから、にへい善信君も来た。昼まで一生懸命練習。後〔、〕昼食。午後は遊び半分になってしまった。家に帰って風呂たき、馬屋そうじ。父は、吉岡の金太郎叔〔伯〕父さんが入院している所に行った。
 郷右近から50円借金、全部昼食代。


 1961. 5.15 月曜日 雨のち晴れ
 
朝小雨がちらつき、それでも、運動能力テストの準備を行い、登校した。が〔、〕だんだんと降り出して来たので、家にもどって授業の用意を持ってきた。授業を二時間やった時、空はすっかり晴れ上がり、やがて運動能力テストが始まった。午後二〜三時、終って、そうじ。それからクラブ活動。今日は気持ちをひきしめてみっちりやった。ぼくらのチームはチームワークがとれてない。定夫君はすぐ帰ってしまうし、力君もやめたいといっている。
 それから女の件。鏡を見れば見るほど、ぼくの顔は変な顔だ。こんなぼくに思われていた彼女はどんなだったろう。迷或〔惑〕、非常な迷わくだったろう。これからは、あきらめよう。もう、そんな気は二度と起すまい。
 父と〔元〕兄は、今日代かき。父はもう大分年(50いくつ)〔49〕なのによくがんばっている。それでも年には勝てない。ひどくつかれて風呂に入ったが、ぼくが風呂をいいかげんにたいたので、ぬるくて長くつかっていて、ひどくつかれた様だ。母はもちろん、義姉も入院している。明日はぼくがやってやろう。ぼくなら、つかれてもなんでもいない。
 勉強は〔、〕音羽君のノートを見せてもらって夜やろう。なに、それ位の苦労をしてみなくては。年老いた父や母に、余り仕事をさせてはいけない。


 1961. 5.16 火曜日 晴れ
 
今日は、学校に行った。父が行けといったからだ。学校では三・四時間目の美術の時間、試験答案を返された。それから、構成を書いた。それは、明後拾八日までの宿題となった。
 靖君と文義君と政次君とぼくの四人が〔、〕流行歌の事で先生と話をした。


 1961. 5.17 水曜日 晴れ
 
今日は、朝からいろいろな事があり、いろんな事を感じた。先ずは反省会の時昨日の流行歌のことについていったが、なんか訳の解らん事をいったらしい。それもそのはず、ぼくは外の事を考えていて、義理でその問題を出したのだから。外の事というのは、委員長という事だった。考え上げた末委員長を辞任しようと決意していたのである。そんな風だから話はまとまらづ〔ず〕、でも結局、歌わない事にしようという事になったらしい。
 反省会が〔を〕終えて当番に入る前に、先生によばれた。実はその時は委員長辞任の決意を先生に報告に行くところだったので、調〔丁〕度よいと思って、先ず先生の用見〔件〕を聞いた。それは、高校進学の事だった。一高か二高はもうすぐだ。だから勉強しろと〔、〕遠まわりに激励された。そんな事をいわれたので、委員長自〔辞〕退の気持はいつの間にかなくなっていた。
 さて、当番を終えてクラブ活動だが、ここで暗い気持ちになった。外の友達の技に比べて、ぼくのはなってない様に思える。最〔もっと〕練習しなければ、バスケットクラブ長の名に聴〔恥〕じる。がんばれ。
 クラブを終えて、旅行の写真が廊下にはられてあったので、それを見て、又、暗い気持になった。ぼくの顔のみにくさ、何ともいい様がない。自分がこんな面をしているのかと思うと〔、〕外も大手をふって歩けない様だ。こんなぼくに、つきまとわれた川島は〔、〕どんなにか嫌な思いがしただろう。本当にすまん、心から彼女にわびる。
 ぼくには、女等というものはえん遠いものなのだ。外の奴達がうらやましい。女の子と適当に遊べる奴達が〔、〕うらやましい。が、ぼくにはそんな資格はない。本当に〔、〕おれは不幸な人間だ。これからは〔、〕勉強だけを生きがいとしよう。何を、人相こそ唯〔誰〕にも劣るが、頭なら唯〔誰〕にも負けないぞ。
 昼休みに〔、〕補習の組み分けが発表された。ぼくはB組。農繁休業は明後日からだが、大部欠席者がある。ぼくも〔、〕明日は欠席しなければならないだろう。
 食事中力さんが、金太郎伯父さんの様態〔容体〕が悪化したと知らせに来た。父はすぐ病院に行った。すぐ直〔治〕るといいな………
 校庭のガケでハッパで爆破作業をしているが〔、〕今日は休みらしい。田植えがあちこちで始まった様だ。
 一高に入るために勉強せねばならない。一・二年の復習を又続けよう。農繁休業中も〔、〕夜は勉強しよう。
 女性関係については、一切を皆白紙に返して〔、〕唯〔誰〕にも差別つけることなく、低めに、しよう。


 1961. 5.18 木曜日 快晴
  父が夕べも帰って来ないので、家ではみんなで心配していたが、力さんが来て病気はよくならないといった。医者には〔、〕夕辺当り危ないと言われたそうだ。それで〔、〕母も心配して病院に行った。
 それでぼくは欠席して、代かきをする事になり、具足沢に出かけた。午前中と午後かかって、下通りをほゞ終わった。午後はタバコが無し。昼、来てから、湯をわかし、飯を食って、洗たくをした。後〔、〕風呂の水を〔、〕辰雄伯〔夫叔〕父さんに手伝ってもらって取りかえた。夕方、母がたいてくれた。
 音羽美恵子の家に行って、今日のノートを見せてもらった。夜、それを勉強しようと思ったが、眠くて眠くて、寝てしまった。先生との約束を破ってしまった。


 1961. 5.19 金曜日 雨
  朝起きてみたら〔、〕雨だった。百姓にとってはこの上もなく有り難い雨だった。昨日は、雲一つない天気だったから、まさか今日降るとは思わなかった。昨日までは田んぼに水が一つ〔も〕無なかった所が〔、〕今日は、アゼを乗り越えて流れている。堀も水があふれている。
 先ずタバコを持って出発、午前中で全部具足沢は終わった。
 家に帰ったら〔、〕義姉の弟喬が来ていた。午後は代かきはなしといわれたので、服を着がえて喬と遊んだ。
 ところが三時近く、兄が〔、〕水がかかったので勝負沢の代かきをするといって来た。ぼくは本当に嫌になってしまったが〔、〕仕方なく行った。喬は帰った。勝負沢の荒代を終えて来たら、喬がもう一度来ていた。節子さんのみやげを持ってきたのだ。静枝のたいた風呂が消えたので、又たきなおした。夜、日本短波放送で、プロ野球ナイター巨人─大洋の様子をきいた。喬は泊り。
 明日は田植えだ。


 1961. 5.20 土曜日 晴れ
 
今日は田植え。朝、喬を起こして、午後のタバコを買いにいった。二十円のパン20個、10円のジュース20個、味の素、けずりかす、コンニャク。みな御〔卸〕値でよこしてくれたので〔、〕少し金がかからなかった。
 家に帰って朝飯、すぐ具足沢の田に向った。昨日代かきをした所だ。たばこまでは、皆真面目にかせいだが、たばこが終わってからは、喬がたまらなくなってやめてしまった。小春も勿論、喬の前にやめた。
 昼間はそこで火をたいて〔、〕飯を食った。外の家の人達は〔、〕弁当を持って来た。昼休み大つつみに行って石投をしたり、山の岩肌をすべったりした。午後末〔未〕だ早い内に、大外〔概〕は苗代にもどり、残った5〜6人で苗を残らず植えた。それから風呂をたいて〔、〕夕食。野球のナイターを聞いて、眠くて仕方がなかったので、風呂に入らずに眠った。


 1961. 5.21 日曜日 曇りのち雨
 
昨日に引きつづき〔、〕田植え(具足沢)。外の家の人は〔、〕一人しか来ない。午前の朝、苗代でヒエ取りをし、田に向った。
 朝、喬は小秋、小春と共に帰り、小秋と小春はパン、ジュース等を買い〔、〕もどって来た。午後、最初、小秋と静枝三人丈で植え、大人達は、こちらで苗引きをしていた。間もなく音羽美恵〔枝〕子の家の人達も、そちらの田に来た。
 夕方、小秋、静枝と〔、〕走って帰った。服を着替えて、風呂水をとりかえようとしたが、たわしが無かったのでやめにした。
 赤飯が少しあったので〔、〕食前に少し食べた。それから夕食。少し勉強する気だが、どうなるか。明日は学校の田植だが〔、〕どうなる事か。今日は砂金沢の祖父の命日(一年)である。おじいさんは、去年・三十五年の五月二十一日に〔、〕無〔亡〕くなったのだ。おじいさんをしのんで、目とうをささげよう。


 1961. 5.22 月曜日 晴れ
 
今日は、父、静枝、小秋とぼくの四人丈で植えた。今日の内に具足沢のつつみの下全部決まるはずであったが、少し残ってしまった。それというのも、午後、父が苗取りをしていて、ぼく達だけで植えた時苗が足りなくなって、苗代まで迎えにきた事と、夕方も苗が足りなくなったためである。一生懸命植えたのだが。


 1961. 5.23 火曜日 晴れ
 
今日は〔、〕昨日のメンバーに兄を加えての5人で田植をした。
 真暗くなるまでやったおかげで、大体終わったが、一まいだけ残った。暗くて植えられなかったので、兄にリヤカーにのっけられて帰った。
 義姉が〔、〕11日以来12日ぶりで退院した。まだ家には帰らず、二・三日実家にいるらしい。


 1961. 5.24 水曜日 晴れ
 
今日は代かき、それも午前中で終わった。具足澤の苗代は、父と兄が代かきをした。昼食は2時ころ。妹達も10時ごろまで〔、〕昨日残った田を植えていた。
 昼食後、大崎の宇兵衛さんという人の家へ、俵を2俵持っていった。そこで10円使ってしまった。

 靖君は〔、〕代かきをしていた。外はみんなブラリのようだった。
 夜、風呂たき。夕食後、兄は北目の義姉実家に行った。
 風呂に入って寝る。


 1961. 5.25 水曜日 快晴
 
朝〔、〕今日だけ田植えをしてくれと起こされ、急いで飯を食い、勝負沢に行った。兄は先に行っており、後から、妹達も来た。11時近くまでかかって〔、〕全部植え終えた。家に帰ってキャハン等を洗い〔、〕昼食。
 夕方近く、風呂場で洗濯した。パンツ二枚、シャツ一枚、タオル二本。それから風呂をたいて、庭そうじ。
 夕食後、義姉が北目から帰って来た。静雄さんが送って来た。
 さて〔、〕今日で農繁休業7日間は終わってしまった。本当によく働いたと思う。仕事をしなかったのは、のべ一日だけ。それも何かの仕事をしていた。休みの前の日から数えて、代かき2日半日、田植え4日半日、計7日。これだけ。さて仕事の方は優等生だが、勉強はさっぱりできなかった。つかれてつかれて、何もできなかった。これからの授業をその分しっかり受けなくちゃあ。

 夕方智、豊彦と、クローバーの花であみものを、5〜6mも編んだ。
 明日から学校。一高への道へ通じているのだ。がんばれ。


 1961. 5.26 金曜日 晴れ
 
今日から補習授業が始まった。今日は理科(伊)、技術(笹)の二科目。ぼくは入試のための、下積みを全部補習にかける。この補習の態度によって、将来が決まる。それほど重要な事なのだから慎重に取り組まねばならない。中学校は二度とないんだ。がんばろう。
 これで全力を出せば、そうとう実力もつく。だが安心するのは、まだ早い。おれが勉強しているときは、外のどこかの奴達も勉強しているのだ。


 1961. 5.27 土曜日 晴れ
 
学校は、45分の短縮授業。それから補習を一時間(数学)。すぐ家に帰ると、まだ家では、御飯を食べていて、ぼくは、さっそく代かきにかり出された。それは本家の代かきだ。大衡の善〔喜〕雄(中1)と、ぼくと、〔元〕兄貴と力さんと、馬二頭でやった。
 昨夜、病院から父が帰って来た。まだ〔金太郎伯父の〕息はとぎれないそうだ。夕食は本家で御ちそうになった。
 夜、笹川先生達が大つつみの所でキャンプをしていると聞いたので、自転車で度胸だめしが〔て〕ら、行ってみた。しばらくつつみの土手に上って見ていたが、いた様な気配もないので帰って来た。
 それから風呂に入らず寝た。


 1961.5.28 日曜日 快晴
 
今はまだ午前八時前である。私は興ふんしている。おこっている。それというのも今朝、兄と口論したからだ。口論といっても〔、〕ぼくは一言も言わなかったが。
 さて〔、〕話は二・三日前にもどる。義姉を批判してみよう。義姉は25日に帰って来た。成程帰って来た時は、全くいい姉さんぶりだった。だがそれが、1日〜2日とたつ内に変わって来た。竜雄〔辰夫〕叔父に対する態度も、勿論、ぼくも辰雄叔父に対する態度は、前とずっと変わったが。
 その事だけではない。母や父のいる時居ない時の態度が非常に違う。それにつまらん事実であるが、昨夜、おかずに卵焼が出た。ところがぼくらは本家で食べたので、それは食べなかった。それが今朝の食事の時は、兄貴には卵焼がちゃんと昨日のまま出ていたが〔、〕ぼくのは出ていなかった。
 加えて、今朝食事前、妹達にしょう油を買わせにやって、兄が田から帰って来た時に、「静枝達がなんぼたのんでもしょう油買って来てくれんから〔、〕足りなくなった」といっているのを聞いた。
 そんなこんなで、ぼくは、食事が終ってしまうころは〔、〕いかりが爆発してしまった。それから今まで、何も〔、〕だれとも一言も話さない。本当は本家の代かきをしなければならないのだが、そんなこんなで、それに足も痛いので、最初から、する気がなかった。
 おれは不良だろうか。学生の本分は勉強だ。おれは自分の家の時は本当に一生懸命農繁休業中に働いてやったし、それにもう補習も始まったのだ。そんなのん気な事はしておられないのだ。今日のぼくの行動は〔、〕少し責任が無かったかもしれない。でも、この事が〔、〕僕の人生にとって大きなプラスになるかもしれない。
 そろそろ、今までの慣習を破らねばならないのだ。
 ただ、苦しいのは、父を怒らせた事だ。父には本当にすまない。母も同様。 今のぼくの気持を〔、〕東京の修兄さんに知らせよう。兄貴ならば〔、〕きっとぼくの気持をわかってくれるだろう。
 今から勉強だ。猛勉強だ。この上は、意地になって勉強しなければなるまい。


 1961. 5.29 月曜日 快晴(風あり)
 
今日、く虫薬を飲んだが〔、〕その代金40円は帰りの時に使〔遣〕ってしまった。本当に馬鹿だ。おかげで重幸君にまで使〔遣〕わせてしまった。本当に反省する。ぼくは、このごろ、大部買い食いが荒くなった。最〔もっと〕金を大切にしなければ、一円の金も無い人が、使〔遣〕う事が出来ない程苦しい生活をしている人が〔、〕何人か友達、広い目の友達の中にはいる。最後において、今の様なさまでは、その人達に負けてしまうのだ。負けない様に〔、〕がんばろう。
 まだ農繁期の疲れが残っているのか、それともクラブの疲れか、夜になるとすく〔ぐ〕眠くなる。最〔もっと〕一生懸命にならねは。今がんばれば、来年三月に楽になるのだ。
 放課後、補習。丹治先生の時間、うるさかった。
 遠藤屋さんがバスケット部のユニホームの色などに来て、相談に来た。


 1961. 5.30 火曜日 快晴
 
朝、登校途中に、力さんにオートバイに乗っけられて帰っていく〔、〕野村の叔〔伯〕母に出会った。
 今日は吉岡で職員身体検査があるので〔、〕授業は四時間。その後、補習1時間。補習はAが教頭(社会)、Bが小林(理科)。小林先生は、わざわざぼく達のために、午前中に身体検査を受け終えてきた。教頭先生は、補習が終ってから行ってくださる。本当に有り難い。
 補習終了後、クラブ活動。最初うまくいったのだが、けんかが始まった。定夫君達が、野球で遊んで来て〔、〕バスケットの試合をしていた時に来て、無理に入れろといったからだ。でも〔、〕それがきっかけとなって〔、〕その後練習をやりなおして、今度はうまくいった。
 今日で田植えは、改田をのぞいて全部終了した。
 夜、母が金太郎叔〔伯〕父のところに行ったらしい。


 1961. 5.31 水曜日 快晴
 
補習授業一時間(国語)の後、二年一組の教室で、部落対抗陸上競技大会についての生
徒代議員会があった。
 それからバスケットボール。途中、チームのことについて先生と話し合い。現在の所〔ところ〕チ
ームワークが全然取れていないという事になり、この、クラブ内の不和を一介〔掃〕するために、 333番(斉藤商店)で菓子を、食べながら、丸くなって、今後の事について談した。その結果、みんな心が打ちとけあった様な気がする。
 だが定夫君と信喜君は、ちょっとうしろめたい〔よう〕なものがある。
 終わりころ、本田章子先生に来てもらって、変こうになったルールを説明してもらった。
 今日集まったメンバーは澤田諭、高橋定夫、相沢力、高橋重幸、遠藤章、遠藤信喜、郷
右近初雄の7名に丹治、本田(章)の、9名。今日の会合は本当に有意義だった。
 これからのクラブ活動に〔、〕何か張合いが出てきた様だ。明日からでもクラブを、うすれな
い内にしたいのだが。
 今日の話では何か、ぼくに望むところが多かった様だ。もっとがんばらなくちゃあ。技
術的にも、部長という立場からも。
 野球部のユニホームが着いた。


1961年6月(14歳・中3)

 1961. 6.1 木曜日 快晴
 七時間目学級活動の時間、先生に説教された。ぼくは、その場でおおいに責任を感じた。ぼく達のクラスは、先生の話によると〔、〕全ての面において最低だそうだ。ぼくはそうは思っていなかったが、それは〔、〕ぼくが学級内について注意をしていないからなの(だ)かもしれない。とに角、ぼくは、委員長としておおいに責任を感じた。
 こうなった以上、どうしても、この風習を直さねばならない。今までのぼくは、あまりにも消極的だった。それはひとにうらまれるのが嫌だからだ。これからはひとにうらまれても、それが三年一組のためになるなら〔、〕進んでやろう。そのためには、いく人かのボス達と争いが起るだろう。でもおれは負けない。おれの後には三年一組のみんなが、先生方がついていると思えば。といっても進んで暴力を振ったのでは、おれの負けだ。暴力は最低である。
 とに角〔、〕ぼくはおおいに反省した。
 これからは、こんなふうにしよう。それは、唯〔誰〕にも差別をつけない事。悪に対しては、それが不可能なことであっても〔、〕対抗する事。影〔陰〕ひなた無く、自分のためにも、学級のためにもつくす事。何事も、よく考えて常に反省し、その反省をすぐに実行に移す事。
 以上の五〔四〕条を目標とする。
 話はまったく変って、今日、東京の〔修〕兄から手紙が来た。それには、兄から一身上の問題が、真面目な字で書かれていた。兄は、ある女の人と結婚の約束をしたのだそうだ。その人は兄よりも10ほど年上だという。でもぼくは、兄の言う事を、兄の選んだ人を信じる。手紙では、少なくとも義姉のような人ではない様だ。
 父は、おおいに不満があるらしいのだが〔、〕修兄にもそうとうな決心があるので〔、〕どうなる事か?


 1961. 6.2 金曜日 快晴
 今ぼくは、かんづめかんの底集めという〔、〕奇妙なコレクションにこっている。それが〔、〕今は10まいたまった。その底に紙をはって、昨日の反省事項を書いて、それに一つ加えて五ヵ条のちかいとした。
 それをここに拾ってみると、
 一.正義のために戦う事
 一.人を差別待遇しない事
 一.影〔陰〕ひなたなく、自分のためにつくす事
 一.常に反省し、その反省事項をすぐ実行に移す事
 一.何事も、未来に結び付けて考えそ〔、〕の場の感情にまかせた行動はとらない事
 以上の五つ。このカンを、いつも離〔放〕さず持っていて〔、〕何かあるごとに胸に手を当ててみる。自分がくじけそうになった時も悲しくなった時にも、この感触は、ぼくをはげましてくれるだろう。
 授業が終わってから、郷右近君と靖君と三人で家で数学を勉強した。その時、このカンの底の話をしたら、ぼくにもくれといって、二つ持っていった。
 ぼくはふと考えた。それは友達という事だった。ここ数ヵ月間、ぼくはある異性を思っていたために、同性との愛・友情はとぎれてしまっていた。それが今、ぼくは恋の馬鹿らしさが解ってきた。おかげで〔、〕ぼくはすっかり見下げられてしまった。女は、お高くとまっていやあがる。男として、ぼくは恥を感じた。それ以来、ぼくの初恋は終った形となった。でも、あいつを見ると、いまさらながら、少し心がさわぐ。普通の人と同じようにはつき合えない。それもいけない。過去は忘れて、みんなと同じに仲よくしなければならんのだ。ある特定の女と関係することは、委員長として、中学生として恥ずべき事だ。だが、男の友達は違う。女よりもやっぱり男の方がつきあい安〔易〕い。みんなと同じようにといっても、特にしっかりと心が結びあっている友達がほしいものだ。
 それで今、ぼくは、心の結びついていると思われる、本当の友達と思われる人物を上げてみる。相沢力、佐藤龍美、郷右近初雄、高橋重幸、これだけ。腹を割ってじょう談を話せるのはこれだけである。さてここで、私は、自分に疑問をいだく。5月31日にした、バスケットクラブの仲なおりは何だったであろうか。あの時は本当に仲良くなれたと思ったのに、でも中にはなにか冷いものが流れている。本当の親しい友達にはなれない。それから、薛義興。ぼくは彼と前は非常に仲がよかったのだが、組が別れてからは、あんまりつき合わなくなった。それは性格に違いが出てきたからかもしれない。
 それから絶対に仲良くなれそうにない人がいる。〓〓〓〓、この人である。これはもう永久的。又〓〓〓〓、〓〓〓〓、この人達とは仲よくなれそうもない。それはスローガンの正義感から出ている。彼らは〔、〕はっきりいって不良である。
 その外の人達とは、仲が悪いという事はない。むしろ仲がよいのである。だが、しっかりと心の中がとけ合っていると思われるのは、前の四人である。
 それで、この四人の中のある人とだけ特別仲良く交際するという事〔、〕はスローガンに反することになる。それはいけない事なのだ。人を差別する事なのだ。
 だが、これから、高校の入試を受けるに当って、勉学を共にする友達がほしい。そう考えると、それに適したのは郷右近だけだ。不思議なことに、龍美と力と郷右近を比べた場合、龍美と力が郷右近よりも親しい友達の様に、わずかに親しい友達の様な気がするのだが。
 勉学という面では、やはり郷右近だ。重ちゃんは、少し四人のうちでまだ和解されていない。
 でもこの四人は最高の友達だ。この友達をなくしてはいけない。
 それで話は、靖君が登場する。彼は善人だが、どか〔こ〕か性格が嫌な処がある。でも家は近くだし、彼と仲よくなろうと思いつき、今日、郷右近と二人語ったのだ。
 これから、靖君と、郷右近と、最心のとけ合った友達になりたい。


 1961. 6.3 土曜日 快晴
 今日は中間試験の初日。科目は国語、社会、選択。国語は80点、社会も80点、選択も80点位の予想で、計 240点。試験終了後、大崎の佐官屋さんに行って〔、〕佐かん用具(コンクリート)を一式借りて来た。北目にいって、鉄板をリヤカーに、つけてきた時、山にきじがいたので、東君、重信君、郷右近と捕えにいった。中学校まで下から登って追いかけていったら、逃げられてしまった。
 先生方は、ブロックをセメントでつなぐ作業をしていた。
 朝は、五時半過起床。それからあわてて、勉強した。


 1961. 6.4 日曜日 快晴
 辰夫叔父が今日帰った。五月拾弐日以来、今日を含めて二十三日間というもの〔、〕辰夫叔父と一緒に生活して、感じた事を書いてみよう。まず、辰夫叔父程あわれな人と〔、〕私は今まで会った事がない。本当に可愛〔哀〕そうだ。
 叔父がもう少し健康で若かったなら、こんな事にはなっていなかったろう。そして、若い時真面目だったならば。
 かといって、自分の叔父であるべき辰夫叔父をなぐる〔、〕力さんの気持が解らない。法律的に言えば、辰夫叔父にだって、辰五郎祖父の財産を受けつぐ権利があるのだ。という事は、いくらかでもあの家で扶養される権利があるという事だ。
 原因は、力さんが気ままだという事にあるらしい。その外のことはいゝのだが、辰夫叔父に対しては、義理も人情もない様である。清〔きよし〕さんも、辰雄叔父からみれば、めいという事になる。しかも嫁である以上、もう少しつつしまなければならないのだが。きぬゑ〔ゐ義〕伯母も、〔義〕息子のたてまえ、辰夫伯〔叔〕父に味方する事が出来ない事になってしまった。
 さて、これで本家の人達の悪口を言ってしまったが、辰夫叔父も悪い。でも、あんな不自由な体の人を一人前に思っているからだ。
 でも〔、〕家でだって、辰夫伯〔叔〕父は余りいゝ日は送らなかったろう。父は先ず々として母は、辰夫さんを人間としてあつかっていない。まるでもの同様だ。前にはあんなに本家のことをひはんしていたのに。それに義姉にも、辰夫叔父は叔父としてあつかわれなかった。清〔きよし〕さんの事を、あんなに批判していたのに、やっぱり心がせまい。反省の色等、少しもない。
 元兄は言う事がない。妹達もない。次は、ぼくだが、ぼくも、辰夫伯〔叔〕父を叔父として扱わなかった。時にはどなったりした事もあった。今になってみて〔、〕すまないと思っている。
 辰夫叔父は、家に居る時は、本家と違って、よく働いた。それでも、ぼく達は、叔父に冷たく当〔た〕ってしまった。増してや、何もしないで寝ていて、夜歩いて歩く等となった時の本家の人達の気持も〔、〕解るような気がする。
 辰夫伯〔叔〕父が家を出る時、母は、追い出すような口調で、辰夫伯〔叔〕父を出させてしまった。本当ならば、励ましの言葉の一つもかけてやるべきではないだろうか。
 辰夫叔父が家を出る時残していった、「ごっつぉうさんですた」といった言葉が、ぼくを何ともいえない、感情の中に引き入れた。思わず涙がでそうになった。そして、最〔もっと〕置いてやればよかった、最〔もっと〕親切にしてやればよかった、と思った。そして、これ程あわれな人がいるだろうかと思った。
 母は〔、〕それで茶わんを洗って平気でいる。
 一体伯〔叔〕父の兄弟達は何をしているのだろうか?同じ屋根の下で、同じ親から生れ、同じ釜の飯を食った、兄弟とはそんなものなのだろうか。今のぼくらの兄弟の間では〔、〕そんな事は考えられない。やがて、ぼく達も大人になれば、名ばかりの兄弟になってしまうのだろうか。いや、決して、ぼくらは、そんなにはなるまい。
 叔〔伯〕父たちは、〔伯〕叔母たちは、一体何をしているのだろうか?彼達の力で何とかならないのだろうか。ならないはずがない。
 暖かい血のつながった弟であれば、可愛〔哀〕そうな弟であれば、みんなで幸福にしてやらねばならないのではないか。自分だけは幸福になって、このあわれな弟の事を忘れているのではないか。いくら、えらい事をいっても、それが出来なければぼくは、叔〔伯〕父〔伯〕叔母を、見下げてしまうより外ない。
 父、母がこのことを、先に立って進め、不幸な辰夫叔父を、暖かい、兄弟愛でつつんでやる様希望する。
 二十一日以来、今日まで14日間、一てきの雨も降らず、干上って割れてしまった田んぼもある。
 午前中、ブラ・ブラしたり、家で遊び半分にハーモニカで音楽をした。庭のイチゴは、大部赤くなった。
 明日も試験だ、がんばれ。


 1961. 6.5 月曜日 曇り
 朝、母のあわてふためいた声に目をさめた。母の言うに、辰夫伯〔叔〕父がヌカ小屋に寝ているというのだ。ぼくも、意外な事にびっくりして跳び起きた。夕辺、折角、父が送って行ってやったのに、増々始末の悪い事になったと思った。それでも、ぼくは、あまりゆっくりしてはいられない。あわてて、試験勉強を始めた。
 伯〔叔〕父は、又家で朝食を食べ、ぼくが登校した後、家に帰ったらしい。今日は音楽の試験があるので、ハーモニカを吹きながら、学校に行った。それから、自習、間もなく、当番が始まった。今日から、D班は教室当番である。
 今日の試験の成績は、理科75点、職業80点、音楽は90点位だろう。予想では、今日の合計点は 245点。昨日の 240点と併せて 485点。平均は 485÷6=80で約80点。今度の試験では、やはり 800点は越したい。
 800点取れるだろうか。大丈夫だと思うが、とにかく、明日の試験に全力を上げよう。
 “仁事を尽くし、天命を待つ”だ。
 朝少し雨が降っていた。五月弐拾壱日以来15日ぶりの雨だった。これで田んぼにもいく分うるおいが出、川も、チョロチョロ動き始めた。でも雨はすぐ晴れてしまった。兄は、今日から、除草を始めた。


 1961. 6.6 火曜日 晴れ
 今日は試験の最終日。数学、美術、保体。数学は、案外簡単だった。でもいつか、ぼくは、数学が苦手になってしまった様である。80点とみておこう。
 保体は70点、美術85点。
 それであわせて 235点。三日の合計は 720点。
 720 点とみておこう。 800点は無理かもしれない。
 平均は、80点の予想。
 放課後、部落陸上について、生徒代議員会があった。


 1961. 6.7 水曜日 快晴
 夕方7時過ぎまでクラブ活動をやった。それから、帰ろうとしたが、みんなが幅跳場で練習していたので、そこでとんでみた。やっぱり、ぼくは、とべなかった。靖君と同じ位だ。妹の自転車を借りて、一まず家に帰って飯を食い、八時過ぎ又、学校に向〔か〕った。だが小学校の校庭は貸してもらえなかった。仕方なく、中学校にいった。北目や大平の下の生徒が来ていた。九時近くまで練習して帰った。


 1961. 6.8 木曜日 快晴
 今日は、朝から運がよかった。でも、悪い事もあった。
 朝、大崎から別所に入るところの三斜〔叉〕路で10円、次いで学校の下門前で10円と二十円拾った。本当によくみつけたものだ。斉藤屋でノリを一つ(5円) 買った。
 試験の結果が全部解った。総点は 794点。内容は社会97、職業93、理科92、英語90、音楽・美術共に89、数学88、国語86、保体70。平均点は 88.22。
 やっぱり 800点になる事は出来なかった。あと、たったの六点なのだが、苦〔口〕惜しい。この点数ではたして、何位になれるか。話では、二年生の門間惣一はよほどいゝらしいとの事だが、と不安はつきない。やはり勉強が足りなかった。
 四時間目、日本脳炎の予防注射があった。皆はころげ回って痛がっていたが、ぼくは、ほとんど何ともなかった。今でも〔、〕何でもない。外の人達は、熱が出たり、寒気を起こしたりして、色々のしょう状を起こしている様だが。
 授業7時間目終了後、補習二時間。その補習も、なんのために受けているのか解らない奴がいる。小林先生のいう様に、一度話した事は、もう二度と習わんのだから、一つ一つを聞き逃さない様にやらなければならない。
 それから、教室の当番に入ったが、ここでも全然うまくなかった。佐々木工君は帰ってしまったし、重信君はしないし、郷右近までもがしない。ぼくと津田君だけ、それに、女。当然のことで女の方から文句が出た。それでも女はあんまり働かない。今日は、おれが一番働いたと思う。
 今日はクラブは注射のため中止という事なので、すぐ帰った。校庭の前のガケの工事は、もう少しで終る。今日も盛んにハッパが爆破していた。さて、又金を30円使〔遣〕ってしまった。どうしても金を使〔遣〕うてしまう。これは、うまくない。やめよう、やめよう。それから、別な事ではあるが、下た箱の戸を必ず閉めよう。
 このごろ全然、勉強しない。これではだめだ。今から、もう学期末試験が始まるものと思って勉強しよう。
 こうしてみると、二年の時に比べて、ぼくの成績は上昇した。二年の時は、 750点の辺をうろうろしていたが、今度は大して勉強しないでも 800点付近に近づく事ができる様になった。これは大きな進歩であり、今盛んにのびているという証である。だから今のうちに、実力をつけておこう。一・二年の復習をやらねば。


 1961. 6.9 金曜日 雨
 朝、十箇条のちかいというのを、例によって、かんづめかんの底に書いた。その内容は次の通り。
 一.正義の味方に。悪に負けるなかれ。
 一.冷静に。感情的になるなかれ。
 一.誰とも親しく。けんかをするなかれ。
 一.念入りに。あわてるなかれ。
 一.確実に。ごまかすなかれ。
 一.客観的に。でしゃばるなかれ。
 一.忍耐強く。あきらめるなかれ。
 一.勤勉に。なまけるなかれ。
 一.献身的に。いやがるなかれ。
 一.合理的に。無だな事はするなかれ。
 以上の十項目、これらを守ってみたい。なにかあった時、胸に手を当てて考えてみよう。きっとこのお守りは、ぼくの心を力づけてくれるだろう。
 そうじ当番は大そうじで、補習終了後職員室の窓をふいた。その時に玄関に、今度の中間テストの試験総点がはり出された。はたしてぼくは、 797点で一位だった。ぼくの計算では 794点と思ったが、どこかで3点足されたらしい。科目毎のは〔、〕明日はられる。
 二位小嶋君 751点、三位靖君 746点、四位石川、五位?
 もう3点で 800点とれたのに、とまたしても思った。今度の試験にはがんばろう。問題は模擬試験だ。
 それから、屋体に行ってバスケット。帰る途中、目標に定めた通り一銭も無だ使〔遣〕いしなかった。これからは、どうしても腹が減るからにぎり飯を持っていこう。
 家に帰って、すぐ夜食。それから、補習の復習。
 これから雑巾をぬわねば。
 ようやく雨らしい雨が降り、田や、ほりにもうるおいが出て来た様だ。これで、一まず安心だ。校庭では、今日は雨が降ってか、仕事を中断していた。午前中やっていたのだが。音楽の時間にコンクールの選手を決めるための発声があったがぼくは、目標に反して、何度言われても歌わなかった。悪かった。


 1961. 6.10 土曜日 雨
 驚いた、 852点。二年の門間惣一が 852点取ったのだ。やっぱり前に思ったとおり彼は素晴しい奴だ。
 三年で一番で797 点という点数で少し小気味よくなっていたら、出鼻〔端〕をくじかれた様な気持だ。
 だが〔、〕ぼくも負けてはいないぞ。 852点というのは学校始まって以来の点数だろう。おれだってその位なら取れるぞ。あと55点、一科目6点ずつよけいに取れば成ることが出来る。がんばれ。後はいに負けるな。もう相手にするのは、門間惣一一人だ。話によると、彼はそうとうの勉強家だそうだ。やはり勉強するものには負ける。だが、ぼくだって勉強するぞ。
 夜、父と〔元〕兄が改田(大原)の代かきをした。2・3時ごろまでかかったらしい。


 1961. 6.11 日曜日 快晴
 朝、砂金沢に、今日の改田の田植えを手伝ってくれる様にたのみにいった。朝食を取っていると、重雄〔夫叔父〕さんがモーターバイクでやってきた。間もなく、ぼくは代かきにかり出された。それでも、30分ぐらいで代かきは終った。この代かきが、ぼくの最後の代かきになるかもしれない。午後からは〔、〕田植えをさせられた。夜遅くまでかかって〔、〕やっと終った。それというのも、栄〔さかゑ義〕叔母が来てくれたからだ。
 夜、部落陸上の練習に出かけた。


 1961. 6.12 月曜日 雨
 今日、待望の雨が降った。改田にとっては本当にいゝ雨だった。それから、バスケットシューズが屈〔届〕いた。 800円也という高価なもの。一寸みると〔、〕そんなに高いものとは思えない。ユニフォームは来なかった。
 夜、部落陸上の練習には行かなかった。自転車が無かったので。


 1961. 6.13 火曜日 曇り
 補習のときガマの解倍〔剖〕をして、ぼくは初めて、ガマを目のあたりに見る事ができた。
 クラブが終わってから、重幸君と、サクランボを食った。たまにはふざけなくては。


 1961. 6.14 水曜日 晴れ
 朝、音羽栄吉さんと、兄宛の二通の手紙を父からたのまれ、ポストに入れた。結局は、どんな考えを書いてやったか解らん。
 四時間目が終わったとき、補習の用意を忘れてきた事を思い出し、郷右近君の自転車を貸〔借〕りて家にもどった。英語の時間に4〜5分食いこんだらしかった。
 授業並びに補習終了後、散髪をするためクラブ活動を休み、瀬戸理容店に立ち寄った。一部〔分〕刈りで短く切ってもらって、金70円也。すぐ家に帰って〔、〕飯。馬小屋にワラを入れて、大崎に張来〔り切〕って陸上の練習にいったがみごとに、そのぼくの気持はつぶされた。ひとり落中の生徒が来ていて、〓〓〓〓と話していた。話は、余り良き話ではないらしかった。
 もう〓〓〓〓は完全に不良化してしまっている。なぜだろう?成績が下がったという事も、大きな理由かもしれない。彼達は、愚連隊の、チンピラのまね事をして、満足しているのだろうか。
 彼達は、すぐ暴力を振う。理性というものが保たれないのだ。ぼく達は黙っているけれど、いざというときなら腕力だって、多少の自信がある。ただ、理性を保っているだけだ。最悪の場合は、彼らと対決しなければならないだろう。
 それでもやがて、練習を始めようとしたら、外の部落の生徒達がみな校庭に集まって来たので、練習もできなくなった。それでも、中米君と一緒に約1500m、校庭10周をした。6分、約6分。中米より、 3m位遅れてゴールに入った。そして、何もするものがなく、大人達も来たので、ぼくはそんな空気に合わんから帰って来た。途中、長蔵さんの作業場に、辰夫叔父が腰かけていたので、説教して、強制的に、家に送っていった。美〔義〕彦君もいた。


 1961. 6.15 木曜日 快晴
 一時間目・理科のとき、吉岡中学校から、試合を申し込まれた事を聞いた。やがて、授業が終わってから丹治先生が相談に来た。ぼくは、勇ぎよ〔潔〕くこれを受けいれますと先生にいった。
 7時間目・学級活動の時間、明日の入場行進の練習をした。それが終わってから屋体でバスケットボールをしていたら、マイクで呼び出されて図書室にいった。図書室では、会長達が明日のプリントの原子〔紙〕切り等をしていた。
 ぼくと、力氏は、そんな事は嫌なので、腕章にアイロンをかける役を選んだ。汗だくになりながらアイロンをかけてから、保健の補習を受けにいった。
 それから〔、〕屋体でバスケットボール。三年生は文義君が帰ったので、9人になった。女子はサッサッと帰ってしまった。
 あれでは、とても、明後日の試合には勝てそうがない。
 男の方はまじめになってやったが、定夫君があまり嫌な事をしたので、ぼくは、つい、おこってしまった。皆にすまなかったと思っている。一時は、部長・キャプテンをやめようとも思った。でも今は無い。
 ところで、ぼくはキャップテンとして「ゴーッ」の、音頭をとらねばならないのだが、どうもそれがはずかしくてできない。明日はりっぱに言ってみせるぞ。
 とにかく、今の実力では吉岡には負けるだろう。いや実力はあるのだが、試合法が悪いのだ。
 ぼくは、キャプテンとして、みんなをひっぱっていかねばならないのだ。がんばれ!
 夕食後、明日の練習しに学校にいった。ぼくは、自信は無いが走り巾とびに出る。少ししかとばなくて、皆に笑われるかもしれない。それでも、とべるだけがんばろう。


 1961. 6.16 金曜日 快晴
 朝、とびきり早く登校。そしていったん家にもどって〔紙〕大崎部落のゼッケンを取って来た
 やがて入場式が始まり、先頭に生徒会長(小嶋)、次に副会長(八重子)、その次に書記(自分、裕子)・会計(靖、みよ子)の持つ日章期〔旗〕、次に副会長(龍美)・運動部長(薛)・同じく生活(千坂)・文化(力)の持つ生徒会期〔旗〕と10名の生徒会中央委員がならび、その後に、前年度の優勝チーム・大平下チームを先頭に、10の部落が入場行進をした。選手宣誓は、大平下生徒会長の薛がやった。
 午後の部に、ぼくのでる巾跳があった。3m91しかとべなかった。惜しくも9位、点数はとれなかった。でも力いっぱいやった。一位は千葉哲司。やがて閉会式が行われ、成績が発表された。優勝大平上生徒会、準優勝北目生徒会、第三位下草・大平中生徒会、第五位大崎生徒会。第九位は南三区生徒会、ラストは砂金沢生徒会。3番との差はわずかに 0.5、口惜しかった。本当になみだが出て来そうだった。本当に。
 高橋一子は 100m・ 200mに優勝した。その内 200mは大会新記録だった。
 それから、バスケットボールの練習をした。公民館では、外の人達が料理をつくっている。練習を終って、家に帰らないで残念会をした。三田村・山田・本田章3先生が来た(ライスカレー)。今晩も泊った奴がいる。


 1961. 6.17 土曜日 雨のち晴れ
 放課後、岡中と練習試合をした。女子の方は軽く負け、男子も自信を持ってプレーしたのだが10点ほどの差で敗れた。ぼくは一回もシュートが成功しなかった。まだゝゝ未じゅくだ。
 試合が終った時は〔、〕みんな口惜しなみだにぬれていた。そして、気持をまぎらわすために、もう一度練習しようとしたら、先生に岡中の人達と会食をしなさいといわれ、3の1にかけこんだ。
 それから〔、〕又練習。今の内なら、吉岡も大した事は無い。条件もこっちの方がずっといいのだから、この機会に、みんなが闘志を燃やしている内に追いこそう。こういう時にみんなをうまく引っぱっていくのが〔、〕キャプテンの役目だ。


 1961. 6.18 日曜日 快晴
 朝、小学校の運動会実施を告げる花火の音に目をさました。六時三十五分だった。けれども、今日は模擬テストがあるので、小学校には行けない。試験はそうとうむずかしかった。これで 450点取るのはとても〔、〕と思われる位だ。
 試験後、クラブ。先ぱいの千葉和弘・佐藤助雄も来た。それに、待望のユニホームが倒〔到〕着した。ぼくは、背番号4番を取った。家に帰ったら、金太郎伯父の様態〔容体〕が又悪くなったとかで〔、〕父が出かける処だった。それから、夕食を一人で取って、一寸いねむりして、入浴。それから机を整理して、16・17・18日分の日誌をつける。これから補習の復習をする。
 明日、貯金( 部落生徒会) をおろさなければならない。
 今日で〔日記の〕ノートも3冊終わり、今度は4冊目だ。
 これからも続けよう。


 1961. 6.19 月曜日 晴れ
 朝〔、〕遅刻して登校。着いた時は〔、〕教室には四〜五人の人達しか居なかった。そこで屋体で職業適性検査があることを知らされ〔、〕残った友達と一緒に、屋体に行って試験を受けた。ところが、昼食を食べたら、又クレペリング検査のため、机・腰掛を屋体に運んだ。ぼくは、ずい分できなかった。最高で53だかである。
 放課後クラブ活動をした。
 辰夫叔父が来た。あれから本家にいたのではなく、宮床に行っていたそうだ。15日からだから、4日間である。宮床に行って事情を話したら、手紙をもらって来いといわれて来たそうだ。ぼくはどうしようもないので、父や母、兄が帰るまで、夜まで仕方が無いから家に居ろといって〔、〕学校にいった。夜、本家までおくっていってやった。
 東京の〔修〕兄の事について、音羽栄吉氏から父当〔宛〕に手紙が届いた。栄吉氏は、修兄を強く批判していた。その事で、ぼくと母の意見が対立して小ぜり合いを演じてしまった。でも〔、〕ぼくはやっぱり兄貴を信じる。兄弟はあくまで兄弟。たとえ兄がまちがっていたにしても、ぼくには兄の気持が解る。今度の事は、修兄の手紙には、非常によい女性の様に書かれていたが、栄吉氏には、品行の不良な女であると書いてあった。母は年上だというに反対しているらしいが、ぼくは、年上だって構わんと思う。でも、その女の人が、すでに〓〓持ちで〓〓まで居るという事には感心できない。でもぼくは決して兄を軽べつしない。兄貴は、やっぱり兄貴である。


 1961. 6.20 火曜日 晴れ
 三・四時間目の美術の時間に、写生をした。ぼくは、北目口の防火用水池の側にある枯木、一m位の枯木を書〔描〕いた。半分で授業は終ってしまった。クラブを終ってから、斉藤屋で買い食いをして、その図画をスッポリ忘れていってしまった。明日の朝取っていけばいいだろう。
 学校新聞を発刊するに当たって新聞名の募集があったが〔、〕ぼくは入れなかった。大多分はふざけて書いたものが多かった様だ。ぼくの考えている名は、「七峰新聞」「鶴中タイムス」「The four leaf clovers 」等である。(静枝誕生日)


 1961. 6.21 水曜日 雨のち曇り
 朝、雨が降っていたので、コウモリ傘をさして、学校に行った。ところが、このコウモリ傘のおかげで、今日は色々なことを学び、経験し、反省する事が出来た。それというのは、クラブ活動が終って、すっかりいゝ天気になったので〔、元〕兄の新しいコウモリがさを学校に忘れて来た事から始まる。母に持ってきなさいと言われて、自転車で急いで学校にもどった。黙って持って帰っては、先生方もびっくりするだろうし、うまくないので職員室にことわりにいった。教頭と、瀬戸・笹川の三先生が、愉快によろしくやっていた。瀬戸先生と笹川先生は大丈夫だったが、教頭はいゝ気分だった。
 ぼくの姿をみると、知っているらしく沢田ここに来いと、いわれた。先生でもあるし、ただの酢〔酔〕っぱらいとも違うので、仕方なく入っていった。お茶を飲めといわ(さ)れて〔、〕茶を飲んだ。教頭先生が、よっていながら言ったことばの中で、耳にこびりついて離れないものがある。「君は我校の、黒川郡の目標になっているんだ。郡部の者が市部の者にどれだけ接近するかは〔、〕君の脳隋〔髄〕にかかっているのだ」ということばである。本当にそうかもしれない。これは大変な事になったぞ〔、〕という気がする。
 それから、学校新聞の事についても話し合った。瀬戸先生は、この新聞に、そうとうな野心を抱いている様だ。将来は活版にといっている。ぼくも改めて、新聞の作製に協力しよう。


 1961. 6.22 木曜日 晴れ
 二時間目に知能試験があった。中で、一つしか書かないのがあった。本当に、いくら考えても解らなかった。それは同じ調子のリズムにするために、符号を空いている所に入れるもので、この知能は最低である。全体的に見て、ぼくの知能は低いのかもしれない。五校時目、腸チフス・パラチフス予防注射。六校時目・保健は変更して、学校園にいって甘蔗を植えた。一年生も一緒に行った。学校園に甘蔗を植えるのもこれが最後だ。七校時目、席を交代した。先ず、今まで八列にして、二つづつ合わせていたのを、七列にして一行づつ離した。
 ここでぼくは、又悩んだ。それは、川島節子である。ぼくはもう、アイツを何とも思っていないと思っていたのに、彼女の席が、ぼくの後ろから変えられると、何か、大変だと胸の内で、さわいでいるかの様に変な気持ちになった。やっぱり、ぼくは愛していたんだ。でも意地になって、表面に出さなかった。それを〔、〕ぼくは本当に忘れたと思っていたのだ。でも〔、〕それはちがっていた。心の底では、やっぱり思っていたのだ。
 やがてぼくも席を離され、一班の4番目、川島は6班の4番目から5番目と遠く離されてしまった。その時、ぼくは、これでいゝんだ、これでいゝんだと自分の脳〔胸〕に聞かせていた。ところが、ここに奇跡が起った。川島が自ら進んで、ぼくの隣の列の6番目に、来たのである。又もや、席が近くなった。ぼくは〔、〕どうしたものかと迷い〔わ〕ざるを得なかった。彼女の気持ちが解らぬ。
 あるいは、それは、ぼくにはなんの関係もなく、外〔他〕のことでぼくを無意識の内に〔、〕移って来たのかもしれない。でもその様には思えない。
 彼女の心に?を抱ざるを得ない。〔修〕兄から〔、〕母当〔宛〕てに手紙が来た。


 1961. 6.23 金曜日 晴れ
 朝、又しても遅刻をしてしまった。一時間目、道徳だったが、特別変更になって、屋体で遅れている音楽の授業を受けた。二時間目は数学。三時間目、職業講話があった。塩釜職業安定所、吉岡分室の、早坂先生が職業について説教して下さった。それが4時間目までかかって、昼食。五時間目・国語・竹沢先生のときに、前となりの、千葉養二君に五十音を教えた。これから少しでも、彼が中学校を卒業してからのためを思って、字や計算を教えてやろう。六時間目・選択。ここで又、疑問が起きた。川島が、ぼくの後ろの席に来て授業を受けたのだ。二校時目あたりまでも後ろの席にいたのだが、誰かにいわれて、自分の席にもどっていった。ぼくは完全にあの女のとりこになってしまった。ぼくの心は、切り離せなくなってしまった。帰りの、そうじ当番のときも、一人ぼくの班に手伝っていたし、何だか彼女の気持が、増々ます解らなくなった。当番が終ってから、クラブをしないで、十六日の残念会の日に御飯をたいてもらった家に、九十円づつ、4件〔軒〕・ 360円を、お礼に、菓子を買ってやった。その時、名前はしらないが知っている男の人に「父ちゃんが早く帰って来いっていっていたから、早く帰った方がいゝぞ。」といわれたので、金太郎伯父がひどくなったのではあるまいかとあわて急いで帰ってきたら、何でもなかった。とんだ騒動だった。
 風呂をたいてから、「ド」をかけた。これから〔、〕修兄に手紙を書こう。


 1961. 6.24 土曜日 曇りときどき雨
 朝、昨日かけた「ド」を見にいった。小ぶなが一匹と、キクバチの小さいのが一匹入っていた。それから、用便して登校。一校時目・数学、なんだか早張解らなかった。今夜、頭の中を整理しなくては。又朝、兄に手紙を出すのを忘れてしまった。
 昼食後、補習は休んで、当番をして、卓球部の岡中との親善練習試合を観戦した。女子は勝ったらしいが、男子は負けたらしい。
 卓球が終わってから、屋体でバスケットをした。又、追加のユニフォームが届いた。定夫君と英男〔雄〕君のだ。今日残ったのは、ぼく、相沢力、高橋定夫、高橋重幸、3年生は4人だけ。あと2年の千坂豊、清水信市が残った。クラブを終ってから、すぐ家に帰った。途中斉藤屋の所で、義姉の母に会い、パンとアイスクリームをごちうになった。徳治君と一緒に帰ってきた。
 川島節子。彼女に対して、このごろ、増々親近感を感ずる様になった。今では、愛情を告白しようかとさえ思う様になった。これは、かつては見られなかった事である。ぼくは川島を好きだ。でも、ぼくにはそれを告白する事は出来ない。それは、ぼくは、いつでも面ぼうに関する劣等感を持っているからだ。
 でも今のぼくには、彼女がぼくを愛してくれていると確信することはできない。一度彼女をためして見ようか。
 (二時間目、レントゲン検査があった)
 今の彼女の態度からは、ぼくを愛してくれているかもしれないという可能性はある。明日、いやあさって試してみよう。


 1961. 6.25 日曜日 曇りときどき雨
 今日は黒川高校に仙台市立第二中学校が来るので、郡内各中学の籠球部が黒川高に集まった。先ずは学校に集合した。女性はバスで、男性は自転車で行った。
 黒川高の屋内体操場に入って、二階席でユニフォームに着替えた。女子は、試合をするとは思わないで来たので、そのままである。実は男子も、試合があるとは誰も思っていなかった。やがて、二中チームが現れ練習を始めた。
 先ず二中と、黒川高が試合をした。ところが、黒川高はあっさりと負けてしまった。本当に二中は強い。それから郡中学校と二中の対抗試合が始まった。まず、吉岡、そして、大衡。鶴中は二中とは対戦しないで、富谷中学校と対戦したが、おそまつなものだった。九対七で勝ちこそはしたけれども、あんまりいゝ試合ではなかった。
 富谷中は、全く下手くそである。その富谷中に対して、九点しか入れられないのだから、情ない。それでもぼくは、ジャンプシュートで二点入れる事が出来た。キャプテンとして当然のことではあるが、あゝいう試合で、得点したのは初めてだから、うれしかった。それから、ぼくは、キャリングが、非常に多かった。ファウルは一回、シュートは、四回位。鶴中は、個々のメンバーを見ると、一人一人はうまいのだが、チーム全体として見る時はうまくいかない。こゝに弱さの欠点がある。試合が終ってから、自転車又はバスで帰校。学校で本日の反省会を催した。御菓子も少々出た。


 1961. 6.26 月曜日 雨のち曇り
 昨日の疲れで朝、眠い眼をこすって起き出したら、今日は試験のあった事を思い出した。今度の試験はブッツケ本番。どれだけ点数が取れる事か。
 三時間目を終えて、すぐ当番。それから、映画鑑賞、クラブ活動。


 1961. 6.27 月曜日 雨
 台風本年第六号が、四国の沖合にあって、日本全度〔土〕は雨に打たれ、特に近畿・中部は被害が大きいらしい。東北地方も朝から雨が降り続き帰宅のころには、道路に水があふれていた。
 雨の止むのを待って、嫌降り続いている中を、七時四十五・六分過ぎ登校した。
 一時間目、二時間目と学力テスト。三校時・保健、四校時・体育。
 午後、職業と私達のスライド。次いで、熊谷市雄氏の東南アジア訪問報告会に出席、スライドと説明にくつろいだ。
 しかし、熊谷氏には、誠にすまぬ事だが、ぼくには、ちっとも、頭に入らなかった。それは、重幸君と力君と三人で外の話をしていたのである。外の話というのはいわゆる男女関係のことである。
 スライドが終ってから、クラブ活動。六時半、いや七時、クラブ終了。雨がはげしいので、一寸教室で雨宿り後、斉藤屋で20円の食事。
 帰宅後、すぐ、夕食。
 食後澤田正さんの家に、世界フライ級ボクスィング・タイトルマッチ、チャンピオン・キングピッチ対関光徳の試合を〔、〕テレビで観戦に出かけた。大人や子供が大ぜい集まっていた。試合は、キングピッチが判定で関をくだし、二度目のタイトル防衛に成功した。観戦後、すぐ帰宅。………
 さて、六時間目の男女関係の話というのは、話の始まりは、力君が好きな女の子にレターを書いたのを、千葉ふみ子が、皆に宣伝して歩いたというのである。力君はおこっていた。それから、始まって話は深刻になっていった。
 そして、ぼくは、生まれて初めて、ぼくの、それに関する心を他人に表明した。そして、意中の人をほのめかせた。でも誰も、川島節子だとは知らないだろう。力君は大体解るといっているが、それも誤解だろう。
 なんだかこのごろ、ぼくまでノイローゼにかかったみたいだ。早く何とかしなければ。そうだ、早く二人の間にけりをつけなくては。好きなら好き、嫌いなら嫌いとはっきり言ってもらわなくては、ぼくの精神に影響する所が非常に大きくなる。どうせ生まれて来たんだ、楽しくやって行こうじゃないか。一人で悩んでいたってどうにもならない事さ。もし彼女が嫌いだといえば、男らしくきっぱりとあきらめよう。


 1961. 6.28 水曜日 晴れ
 ときに昭和三十六年、西暦壱千九百六拾壱年六月弐拾八日水曜日午後7時21分、偉大なる我伯父・澤田金太郎は死んだ。時に六十七才であった。
 思えば本当に偉大な伯父だった。長年、鶴巣農協の理事長をつとめてい、その実績は、永遠に残るであろう。しかし、彼も又永遠に返〔帰〕らぬ人となったのだ。
 考えてみるに人間の一生とはあっけない、誠にあっけないものの様である。やっぱり、何よりも生命が、自分が大切である。死んでも人間の形はしているが、その辺に転がっている石コロとなんら変わりなくなってしまったのである。
 何も解らない。つい先程まで考える力を持っていた人間は、今はもう何もない。あるのは、なきがらだけである。
 思えば、伯父は偉人であった。前代の辰五郎のひどい貧乏を脱出したのも、伯父であった。ぼくの家を建てて下さったのも、伯父。本家の家を改良したのも、酪農を始めたのもみんな伯父のした事である。
 改めて、ここに、偉大なる澤田金太郎伯父に最高の敬意を表する。
 どうか、安らかにお眠り下さい。
 金太郎伯父永眠の報をを我家にもたらしたのは、力さんであった。その時は、もう飯も食い終り、新聞等を見ていた。父は勿論病院に泊っている。〔元〕兄も又、伯父死すの知らせを受けない内に、8:00ころ吉岡に向〔か〕っていった。ぼくは、報せを受けるとすぐ、本家にかけこんだ。一番最初だった。それから澤田正さんも来た。九時ころ、ハイヤーにのせられて、伯父のなきがらが倒〔到〕着した。父と、金蔵伯父、きぬい〔ゐ義〕伯母、千代子(従姉)も乗っていた。
 やがて、遺体は車から下〔ろ〕され、奥座敷・伯父の居間へ運ばれた。
 フトンをしいて、線番〔香〕をあげ、目折〔黙祷〕をささげた。
 義姉が北目で静養していたが、今晩帰った。母、父、〔元〕兄、私は本家に行き、義姉、しづゑ、こあき、こはるは家に残った。
 学校では、補習の教科書が配当された。今日は、クラブ活動を七時ごろまでやった。外は真暗だった。昼間の分の弁当をがまんして、クラブが終わってから食べたので、無だ使〔遣〕いせずにすんだ。明日はにぎり飯を持っていこう。


 1961. 6.29 木曜日 晴れ
 朝、にぎり飯をにぎって、登校。授業終了後、クラブ活動を六時で切り上げて〔、〕帰宅。途
中、岩関の所で、四ツ葉あるいは五枚葉の群衆〔群落〕を見つけ、しばらくそれをとっていた。夜、夕食後、音羽美恵〔枝〕子・千恵子が宅に泊まった。父、母、〔元〕兄は本家。夜、家でいろんな話をした。音羽の語るところによると、川島の好きなのはぼくだという。ぼくは、はっと思った。同時に胸がさわぎ、落ちつかない気分と落ちついた様な気分が〔、〕変に現れてきた。でも今は、何か自信を持った様な気がする。千坂公夫君や遠藤章君も〔、〕川島を好きならしい。ぼくは〔、〕彼達と競争せねばならんのだ。困った。
 七時間目・学級活動の時間に〔、〕自分の悩み事を書かされた。ぼくは、男女関係の事を少し
書いてやった。


 1961. 6.30 金曜日 小雨
 今日は、金太郎伯父の埋葬式があった。ぼくも式に参加すればそれに越した事はなかったのだろうが、ぼくは、学校で授業、補習を受けてクラブ活動もして来た。返〔却〕ってその方が、一生懸命勉強した方が、伯父は喜んで来〔く〕れると思う。
 クラブ活動を早めに切り上げて、帰宅。修兄が、伯父の葬儀に参加しに来ていた。午前中来たのだそうだ。こはるとこあきは、午前中に式に参列して、法事をごちそうになったので、ぼくとしづゑ、修兄が本家によばれて行った。
 本家で夕食をした後、葬儀の会計のことで食い違いがおこってしばらく、みんなで考えた。そして、金の数え方が違っていた事が解った。
 やがて、父と母、兄と共に帰った。ぼくら兄弟が親についで並んで帰ろうとしたら、みんなが、「好ましい事。静香さんや、亥兵衛さんは、幸福ですねえ」といった。外の人からみれば、ぼくらは頼もしく見えるらしい。


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InterBook紙背人の書斎(最終更新日時:14.4.8,1:24 PM
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