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別巻日本姓氏家系譜総索引へ進む




第二部 近代黒川澤田家








第一章 十一代金吾(金五郎)=まつゑ(1854-1921/1856-1926)


第一節 澤田家の戊辰戦争
二代一馬嫡男/奥羽戊辰戦争
 澤田本家三代金吾(戸籍名金五郎)は、1854 (安政1) 年8月10日、二代一馬22歳=まち19歳の長男として生まれた。私の曾祖父である。
 1863(文久3)年、9歳年少の弟佐賀治が生まれた。
 1868 (慶応4/明治1) 年、金吾14歳、父・二代当主一馬36歳、祖父・隠居源太70歳の時、澤田家は明治維新に遭遇し、維新の大波は、澤田家の運命および金吾の生涯に大きな変転をもたらすことになった。
 「明治元[1868]年十二月六日、伊達家は〔奥羽〕戊辰戦争の処分をうけて、二十八万石に減封された。(中略)
 藩は当面の窮境を打開すべく、とりあえず(中略)弁事局に対して事情を訴え〔、〕明治二[1869]年正月二十八日、郡村居住の〔主家猪狩氏等〕藩士・〔澤田氏等〕陪臣の土着帰農願を申請し、同日許可された。」(『宮城縣史』)
 「一方仙台藩家中の解体は急速に進められ、五月十五日までに、伊達家直属の一門より軽卒まで〔猪狩氏等〕一万六百五十家のうち約三割に相当する三千百九十七家が暇をとり、ほかに〔澤田氏等〕陪臣二万家はすべて永暇を与えられた。仙台藩は事実上ここに解体したとみられる。」(『宮城縣史』)
 磐城以来四百年間臣従してきた主家猪狩氏の北目大崎村在郷屋敷は閉鎖され、その旧知行地の大方は澤田本家(下
したの家)・沢田別家(上うえの家)・音羽家(下しもの家)の旧三家中に分与された。
 陪臣澤田氏は、いよいよ明治「平民」澤田氏となった。しかし、父・二代当主一馬“ダンポ”は、どうやら時代の急激な流れについていけなかったようで、既述の事情で帰農に足るだけの土地も確保できず、早々と引退を決めこんでいたものと思われる。金吾は若くして澤田家三代当主となり、その双肩に明治澤田家の運命を担うことになった。
 1873 (明治6) 年、金吾19歳の時、祖父・初代源太が76歳で大往生した。源太は、「猪狩氏家中澤田氏」四百年の歴史とともに、宮田旧墓地の幽冥に葬り去られた。
 翌1874 (明治7) 年12月24日、当年20歳の金吾は、はしなくも旧仙台藩参政(若年寄)大越文五郎の長女まつゑ (1856~1926) 18歳を娶ることになった。
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仙台藩参政大越文五郎長女まつゑ
 まつゑは、1856 (安政3)年12月8日、仙台大越家十代文五郎佑之24歳=母村田氏(名不詳)の長女として、仙台外記町大越家侍屋敷に生まれた。私の曾祖母である。
 1860(万延元)年、4歳年少の弟文平(1860~1922)が生まれた。
 まつゑは幼いころ、型通り行儀見習いを兼ねて、伊達家の奥向きに奉公していたと伝えられている。
 1865(慶応元)年、9歳のまつゑ一家は「川内中之坂通」の大越家侍屋敷に移転した。
 1868 (慶応4) 年、明治維新の荒波が仙台藩に押し寄せた時、まつゑはわずかに12歳であった。
 同年1月大番組頭の父文五郎は三好監物に従い上洛し、3月奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長として帰国し、4月奥羽鎮撫総督府仙台藩軍事参謀に任ぜられた。以後文五郎は、「余伊達氏の恩を受くる三百年、朝議に背くも寧ろ伊達氏と存亡を共にすべし」とて、既述のごとく奥羽戊辰戦争のただなかに獅子奮迅の活躍をし、7月ついに「仙台藩参政(若年寄)」に任ぜられ、まつゑは、「仙台藩参政のお姫様」となった。

縁の下に隠れて
 しかし、けっきょく同年9月仙台藩は降伏し、父文五郎は一夜にして「朝敵天地入るべからざる罪人」と変わり果てた。
 翌1869 (明治2)年4月文五郎は「脱走の罪により家跡没収」となり、13歳のまつゑは、おそらく9歳の弟文平らとともに、北目大崎村の旧大越家在郷家中早坂氏等の許に身を隠した。司直の目を逃れるため、桧和田の「第六天(デーログデン)」あるいは大崎の川島家(角の家)等々を転々とし、父文五郎同様の、文字通り「縁の下に隠れて」辛うじて一命を保った悲惨な逃避行の毎日であった。
 翌1870(明治3)年、ロシア正教信者となっていた父文五郎は東京藩邸に自首した。
 翌1871(明治4)年、文五郎は罪を許され、居を東京に移した。おそらくこのころには父との連絡もつくようになり、「朝敵の子」の烙印も免れたまつゑは、ようやく3年にわたった悲惨な逃亡生活に終止符を打つことができたろう。
 翌1872(明治5)年、おそらくそれまでは姉まつゑ等と苦難の逃避行をともにしていた弟文平は父の許に上京し、現東京外国語大学でロシア語を学んだ。この際、まつゑを筆頭とする大越子女は、事実上見捨てられざるを得なかったということであろう。

まつゑ金吾に嫁ぐ/仙台藩参政大越文五郎女婿
 おりから、まつゑは結婚適齢期に達していた。旧主君大越文五郎の「お姫様」を預かった旧家中早坂與惣治は、その身の振り方に苦慮することになった。ところで、早坂氏と澤田氏とは、谷津と照節沢の峠の腹背に位置する旧鶴巣村内の最有力在郷屋敷を預る、大越・猪狩両氏の旧家中・旧郷士同士の仲であった。そこで早坂は、ダンポ仲間澤田一馬に話をもちこみ鳩首協議の末、年恰好がちょうど似合いの一馬の一子金吾にまつゑをめあわすことに決した。
 なんといっても旧仙台藩参政(若年寄)の「お姫様」と一介の旧陪臣の小悴のいかにも不釣り合いな縁組である。世が世であればまことに恐れ多く、あり得ないことではあったろうが、すべては時の流れのなせる業、いたし方のない仕儀であった。
 1874 (明治7) 年12月24日、大越まつゑ18歳は澤田金吾20歳に嫁ぎ、華燭の典を挙げた。ここに初めて、戦国時代以来猪狩・澤田氏とは浅からぬ因縁にあり、長来流々説き来った大越氏の血脈が、まつゑによって澤田家に流れ込んだのである。
 維新当時大越家十代当主文五郎の食禄は五百八十石に加増され、再び猪狩家をも凌ぐ旧鶴巣村内随一の大給人となっていた。澤田家は、旧藩政時代の村内領主の双璧大越・猪狩両家と、血縁・旧主従関係を通じて固く結ばれたのである。
 むべなるかな、この時にして既に、曾孫である筆者もまた、今日生物学的文脈に於て本『澤田氏の歴た道 奥州黒川澤田家譜』を、社会的文脈に於て後の『奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌』を共にものするべく、早くも予定されていたのだと、強い運命的なものを感じずにはいられない!
 ところで、大越家の「家跡没収」によって、つまりはまつゑの戸籍は失われてしまっていた。それゆえまつゑは、家跡上は同村砂金源兵衛女、戸籍上は大越氏の旧在郷家中であったろう「北目大崎村47番地早坂與惣治・りき次女/惣治妹」となっている。早坂家は、もはや当地に現存しない。


第二節 佐々重

 明治維新の大波をかぶった父・二代一馬は禄を失い、既述のごとく新時代の波にも乗ることができず、早々に若隠居を決めこんでいたものと思われる。若くして明治の澤田家三代を継ぐことになった金五郎は、おそらくは旧主猪狩家、妻の実家大越家のつてをたよって、かつての澤田家の本拠地仙台に上り、当地の代表的味噌醤油醸造店「佐々重」に奉公し、のちにその大番頭となった。
 佐々重は仙台味噌の最古の老舗で、のちに述べるように、米騒動に際して群衆がその第一の攻撃目標にしたほどの、当時の仙台を代表する大店であった。


仙台味噌
 ところで「手前味噌という言葉があるほど、味噌の味はやかましいものだが、仙台味噌は長い伝統と優れた風味によって、斯界の横綱格といって過言ではない。たっぷり使った米麹、色はやや濃い目の冴えた赤味をおびている。品質は四季を通じて変わらない。」(『宮城県の歴史』)
 「仙台みその醸造業者は 100軒近く、年産は約1万t。赤みそで、大豆2に米こうじ1の割合で作られる。この原料成分から分解した各種アミノ酸や、有機塩基の含窒素化合物、それに極微量の各種有機酸やアルコールが混〔渾〕然一体となり、独特の風味を作り上げている。二夏の間の醸造醗酵過程での温度湿度操作が、その味に大きく影響している。
 1592年(文禄元)豊臣英秀吉の朝鮮出兵の際、仙台藩のみそは変質することがなく、仙台みその名が広く知られるようになった。1601年(慶長6)伊達政宗が仙台築城の際、塩味蔵を設け、真壁市兵衛を 100石で召し抱え、藩のみそ御用を務めさせた。市兵衛は1626年(寛永 3)国分町に「せんだいみそ」の看板を掲げて仙台みその元祖となった。また江戸にも塩味蔵を設け、勤番の武士に給していたものを、2代藩主忠宗の時代に一般に払い下げ〔八木合名会社仙台味噌醸造所〕、その名を広めた。現在、仙台市内で最も古い醸造業者は佐々重で、当主は8代目。」(『宮城県百科事典』河北新報社)

佐々木重兵衛
 金五郎が奉公し始めた当時の佐々重の主人は、その創業者・四代目佐々木重兵衛であったろう。
 「1823(文政6)-1895年(明治28) 。富商。仙台八幡町天江勘兵衛の三男にま生れる。幼名清十郎。大町の桶工佐々木重兵衛の養子(4代目)となり、襲名」(『宮城県百科事典』)。
 「養母死に臨みて曰く、吾家味噌醤油を醸造して業となすを得ば吾願足ると」(『仙台人名大辞書』)。
 「〔1854(安政元)年〕養母の遺言に従って、みそ・しょうゆ醸造を開業し、精励した結果巨富を築き、県下の多額納税者15人のなかに入るまでになった。」(『宮城県百科事典』)
 「人となり慈仁善を為すを好み、公共事業の為に数万金を投じて惜まず、仙台市会議員、仙台商業会議所議員に選ばれ、実業界の重鎮を以て稱せらるる、明治二十八[1895]年一月廿六日没す、享年七十三」(『仙台人名大辞書』)
 「6代佐々木重兵衛(1897年・明治7-1921年・大正10)は5代重兵衛の長子で、幼名重之助。東華中学校に学び、1901年(明治34)家業を継ぎ襲名した。早くから仙台商業会議所の常議員に選ばれ、また大町派実業家の組織である有恒会の評議員であった。1910年(明治43)東北実業銀行頭取に就任するととにも、同年県会議員に当選、地元政財界で活躍した。この年、多額納税者として税額4000円以上、藤崎三郎助と並んで県下5位になっている。」(『宮城県百科事典』)
 「大正十[1921]年十二月十五日没す(奇しくも金五郎と同年である)、享年四十八、共に仙台荒町皎林寺に葬る」(『仙台人名大辞書』)。
 おそらく七代目であろう若年の佐々木重兵衛一族と金五郎一行の出羽三山巡礼の際の記念写真などが、澤田本家に残っている。
 なお、この写真の裏面の名前書きも「澤田金吾」となっている。孫の亥兵衛らも「金吾ズンツァン」と記憶し、どうも通称は「金吾」で通していたようだ。しかし、戸籍上はすべて「澤田金五郎」となっている。

佐々重
 佐々重は仙台味噌の最古の老舗で、上述のとおり、米騒動に際して群衆がその第一の攻撃目標にしたほどの、当時の仙台を代表する大店であった。
  「本場仙台みその本舗。資本金 600万円。本社は仙台市一番町3-6-1。従業員は25人。1854年(安政元)4代佐々木重兵衛が母の遺命を受けてみそ醸造業を始める。1937年(昭和12)法人に組織変更し塩・酒類・食料品などを併売する。1945年(昭和20)戦災により店舗を焼失。1973年(昭和48)店舗、駐車場、貸事務所を含む多目的ビル〔佐々重ビル〕を建築し事業の多角化をはかり、現在に至る。年商5億円。社長は8代佐々木重兵衛。」(『宮城県百科事典』)
 「佐々重(ささじゅう)は、日本の宮城県仙台市青葉区本町2丁目にある味噌・醤油の醸造販売会社である。味噌屋として1854年創業になる仙台味噌の老舗である。
 佐々重の屋号は、代々の当主が名乗った佐々木重兵衛の名による。2008年現在の社長は、2006年(平成18年)10月に就任した9代目の佐々木淳一郎である。仙台では老舗の味噌屋として知られる。「本場仙台味噌」などの自店の味噌と醤油、「仙台みそ味かりんとう」など味噌を素材にした菓子類と、日本各地で作られた伝統を生かした「良い食品」を売る。自社製品は通信販売もしている。
 佐々重が味噌の販売をはじめたのは安政元年(1854年)10月2日、ささき屋4代目重兵衛のとき、仕込みは3年前の嘉永4年(1851年)のことであった。仙台味噌は伊達政宗の時代にはじまり、最も由緒があったのは藩の御用をつとめた真壁屋で、幕末創業の佐々重は江戸時代・明治時代には新興勢力と言えた。長い熟成期間を要する味噌屋は資本力を必要としたが、当時の大きな家は麹屋から麹を買って自家で味噌を仕込んでいたので、江戸時代の購買者はどちらかというと貧しい層である。重兵衛は自ら路地裏の家々に足を運んで味噌を売り、成功したという。
 佐々木重兵衛は、廃藩置県直前の1871年(明治4年)に、仙台藩が市長・副市長の下に任命した28名の町人代の1人とされた。この市長以下は一時的・過渡的な制度で、町人町にだけ置かれたものである。重兵衛は三・四丁目の人と記されているが、江戸時代の町人町の行政を引き継いで、大町三・四・五丁目を担当としたと思われる。
 明治に入ると仙台は十数年間におよぶ経済沈滞に陥り、特に城や上級家臣の需要に頼っていた商家が軒並み没落した。かわって一般消費者向けの商人が台頭し、味噌製造業では自家生産の衰退が需要拡大につながった。佐々重はこの波に乗って拡大し、明治末に佐々木重兵衛は仙台市第3位の高額納税者であり、店舗のほか大町5丁目を含む仙台市内に宅地畑地、県内各地に田畑山林宅地を所有するまでになった。1924年(大正13年)に佐々木重兵衛は田173町1反、畑35町9反、計164町6反の耕地を小作人276戸に耕作させていた。
 また、県の業界で指導的立場につき、5代目の重兵衛は重要輸出品同業組合法にもとづく1898年(明治31年)の宮城県味噌醤油醸造同業組合の設立の際に初代組長になった。佐々木重兵衛は、工業組合法を受けて1936年(昭和11年)に仙台味噌醤油工業組合が設立されたとき、初代理事長になった。1939年(昭和14年)に宮城県味噌醤油工業組合連合会が設立されたときも佐々木重兵衛が初代理事長になり、一貫して県の業界の要職にある。
 佐々重を筆頭とする仙台の味噌醤油業者は、1919年(大正8年)に共同出資により仙台味噌醤油株式会社を設立し、郊外に工場を建てた。現在の仙台味噌の最大手である「ジョウセン」はこの会社のブランドである。大町にある佐々重の店舗・工場はそのままで、1937年(昭和12年)に株式会社に組織替えした。
 1927年(昭和2年)に、大町五丁目共同会の会長だった7代目の重兵衛が、三原本店の三原庄太とともに七夕大売出しを提唱し、後に全国的に有名になる仙台七夕の始まりを開いた。
 1945年(昭和20年)の仙台空襲で、佐々重の店と工場は焼失した。これを機に製販を分離し、仙台味噌醤油株式会社に自社の製造部門の人員を移して販売に特化した。こうした経緯により、仙台味噌醤油株式会社は「同系」「系列」とも言われる。佐々重の社長佐々木淳一郎は、2008年(平成20年)5月まで仙台味噌醤油株式会社の社長で、その後は会長である。
 戦後復興の際に東二番丁は50メートルに拡幅したので、佐々重はそれに従って店の位置をずらした。江戸時代の店の位置は現在の東二番丁通りの車道である。1973年(昭和48年)に8階建ての佐々重ビルを建て、その1階を店舗にした。仙台の中心街である中央通りのマーブルロードおおまちと、仙台市街を南北を〔に〕走る道の中で最大幅を持つ東二番丁通りの交差点という目立つ位置である。1975年(昭和50年)に良い食品作りの会の販売協力店第1号となり、社長の八代目佐々木重兵衛が「良い食品を作る会販売協力店会」の初代会長になった。味を損なうような量産技術や食品添加物を極力用いずに安全・良質な食品を製造・販売しようとする業者の集まりである。この会は1993年(平成5年)に分裂解散したため、後継団体の一つである「良い食品づくりの会」に加盟した。
 2007年(平成19年)10月に、建て替えの必要がでてきた自社ビルを平和不動産に売却し、長年営業を続けた大町を離れることになった。佐々重ビルは一番町平和ビルと改称され、再開発の対象となり、跡地に「新・一番町平和ビル(仮称)」が建築される予定になった。解体・基礎工事が進まなかったこともあり、当初予定から遅れることとなり、2011年8月竣工を予定していたが、東日本大震災の影響により2012年1月竣工・2月プレオープン・3月ショッピングエリアフルオープンとなった。佐々重は平和不動産からの賃借で2009年(平成21年)1月31日まで旧店舗で営業を続け、その後本町に店舗を移して2月20日に営業を再開した。その後、2009年6月に佐々重はサンシティから広瀬通りに面した更地を購入した。用途は未定だが、売却はいわゆる「仙台ミニバブル」の頂点で、購入はその下落後である。
 現在所在地 仙台市若林区古城1-5-1 TEL 022-222-6506 FAX 022-781-1034 E-mail info@sasaju.co.jp 」(Whikipedia「佐々重」
 「(株)佐々重 SASAJYU CO., LTD. 〒980 仙台市青葉区一番町3-6-1 Tel022-222-6506 【目的】食料品販売、貸ビル、駐車場 【設立】昭和12[1937]年10月 【資本金】 600万円 (50円) 【役員】 (代長) 佐々木重兵衛 (代専) 佐々木令子 (常) 佐々木淳一郎 (締) 佐々木重夫 (監) 佐々木重一 【株主】9名 佐々木重兵衛 【従業員】27名 【仕入先】明治屋、仙台味噌醤油、仙台酒類販売 【得意先】油又、店頭顧客、通信販売 (決算)63.9.860百万円」(『帝国銀行会社年鑑』)
 佐々重の系列会社に「仙台味噌醤油(株)」がある。
 「仙台味噌醤油(株) みそ、しょうゆ製造販売業。本社は仙台市古城1-5-1 。従業員 137人。資本金8000万円。東京に営業所がある。1919年(大正8)創〔操〕業開始。品質第一を掲げ、明朗、愛和、喜働を社是として全国各地に進出、1969年(昭和44)には、宮城県知事と仙台市長から「仙台みそ」の県外販路拡張の功績によって感謝状を受けた。昭和55年度の生産額、みそ4500t 、しょうゆ4300Kl。社長は、8代目佐々木重兵衛。」(『宮城県百科事典』)
 「仙台味噌醤油(株)SENDAI MISO SHOYU CO., LTD. 〒982 仙台市若林区古城1-5-1 Tel022-286-3151 【目的】味噌、醤油製造 【設立】大正8[1919]年11月 【資本金】 8,000万円 (50円) 【役員】 (代長) 佐々木重兵衛 (専) 佐々木米次郎 (締) 佐々木淳一郎 【株主】 405名佐々木重兵衛 【従業員】 119名 【仕入先】宮城県味噌醤油工業協会 【得意先】佐々重、大場商店 【系列】佐々重 (決算)1.3. 2,100百万円」(『帝国銀行会社年鑑』)


第三節 仙台常宅・黒川留守本宅/澤田家の二重経営
大越文五郎の四人の外孫たち
 金五郎・まつゑの結婚の翌1875(明治8)年、21歳年少の末弟松吉が生まれた。また、この間に2人の妹しん・きみが生まれていた。
 翌1876 (明治9) 年5月7日、金五郎22歳=まつゑ20歳の長女ゆゑが誕生した。私の祖母である。
 金五郎は、まつゑとの間に、ゆゑを筆頭に二男二女、すなわち「大越文五郎の4人の外孫たち」をもうけた。
 1879 (明治12) 年2月7日、次女むめのが誕生した。
 同明治「十二[1879]年〔、さきに父文五郎の許に上京していた次男文平は、〕東京外國語學校〔現東京外国語大学〕露語科を卒業す、同年七月東京駐箚さつ露國公使館の通譯とな」(『大正人名辞典』)った。

「狩長作様御知禄田反別」「猪狩長作様入地分」
 この間に、金五郎は北目大崎村に、佐々重で得た俸給等を元手として、旧猪狩家知行地をはじめとする土地を着々と買い増していた。
 「        記  澤田金吾〔金五郎〕分
一田反別壱反九ト〔歩〕
   此地價金廿壱圓六拾四戔〔銭〕四り〔厘〕
   此百分ノ三六拾四戔八り
   此二と〔分〕五り五拾四戔壱り
   此地税割税八戔六り
   此共繰費七戔
 一三口合七拾九戔七り
 明治十五[1882]年旧十月九日改メ(中略)
一猪狩長作様御知禄田反別
 右の通り御座候や〔也〕 澤田金吾     」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 「字勝負沢澤田二十八番 猪狩長作様入地分
一田壱世〔畝〕拾八ト〔歩〕 澤田金吾〔金五郎〕植字
   此代價参円卅六戔〔銭〕壱り〔厘〕
   此百分ノ三金拾戔一り
 同囲二十七番
一田廿八歩      澤田金吾
   (中略)
 同囲三拾八番
一田廿七歩      澤田金吾
   (中略)
 同囲三拾九番
一田三畝七歩     澤田金吾(後略)」(黒川澤田本家六代力所蔵)

仙台常宅/澤田家の二重経営
 1884(明治17)年3月5日、まつゑは長男養太郎を生んだ。
 同年、熱烈なロシア正教信者となっていたアレクセイ大越文五郎は、「東京駿河台に聖堂〔ニコライ堂〕を建築するに当たり、推されて其の会計を督し、爾後引き続き同〔ロシア正〕教会の会計監督」(『仙台人名大辞書』)を務めた。
 「越ヘテ〔明治〕二十[1887]年〔、文五郎は〕赦シヲ受ケテ家ヲ興」(墓碑銘)し、大越氏は「東京大越おおこし氏」となった。
 1888(明治21) 年には、金五郎の弟・佐賀治が、25歳で「戦死?」した。
 1891(明治24)年、ニコライ堂が起工以来七年の歳月をかけて竣工した。
 この間、金五郎が仙台に常住したのはもちろんのこと、もとより生っ粋の仙台城下人であるまつゑもまた仙台を本拠として、隠居父一馬の守る北目大崎村の留守本宅にはたまにしか
帰ることがなかったのだろう。事実上澤田氏の本拠となった仙台常宅なる金五郎・まつゑ夫婦は、もはや「仙台の人」であり、ここに仙台常宅/黒川留守本宅二つに分かれての、澤田家の二重経営が始まることになった

養嗣子辰五郎/黒川留守本宅
 1893 (明治26) 年2月28日、金五郎39歳・まつゑ37歳で、末子・次男俊郎が生まれた。ときに長女ゆゑはすでに17歳で結婚適齢期に達していたが、長男養太郎はいまだ9歳であった。加えて、当時は「姉家督」といって、性別不問の長子相続の慣行があった。
 同年9月、金五郎夫婦は、金五郎よりわずかに14歳年少の落合村松坂・早坂辰五郎を養子として長女ゆゑにめあわせ、のちには嗣子として北目大崎村の澤田家留守本宅を委ねた。こうして澤田家は、佐々重に奉職する当主金五郎夫婦及び養太郎・俊郎の息子達の「仙台常宅」と、帰農して留守を守る父隠居一馬夫婦、末弟松吉、ゆゑ=辰五郎一家および次女むめの「黒川留守本宅」との二重経営に入っていった。
 しかしながら、仙台常宅なる当主金五郎と黒川留守宅はそれぞれ独立採算で、新郎新婦は仙台組をたのむことなく、わずかばかりの耕地で細々自活せざるをえなかったようだ。つまりは、貧乏くじを引かされたという訳である。養嗣子辰五郎は、あいかわらず松坂なる実家早坂家に連日「出稼ぎ」し、その血と汗を代償に、すこしずつ自家の所有地をあがなうというのが実り態だった。
 やがて、黒川組の松吉が長じて自立し、上仙して仙台組に加わった。後年私が松吉の四男勝雄に面会した際、祝事にはしばしば伯父金五郎の佐々重に招待され大いにご馳走になったものだと、楽しそうに話してくれた。
 さらには、長男養太郎・次男俊郎もまた、長ずるに従い、父に倣って佐々重に奉公し、修行を積んだ。こうして、澤田家の重心は、ますます仙台へと傾いていったのである。

 1895 (明治28) 年7月、金五郎41歳にして嫡孫金太郎が生まれた。
 同年12月、父・二代一馬が64歳で死亡した。
 翌々1897(明治30)年、次女むめのが相川・文屋家に嫁いだ。

第四節 大越家との絆
大越一家の肖像
 「〔明治〕三十五[1902]年十月〔、大越文平は〕旅順に航し同軍港御用達を營む、三十六[1903]年二月(中略)旅順居留日本人會長となる、三十七[1904]年二月日露開戰せらるゝや、(中略)三十八[1905]年三月遼東守備軍司令部附として旅順の軍政事務に參加」(『大正人名辞典』)した。
 「明治四拾二[1909]年四月上旬 柴田阿沙 御姉上様」とその裏面に墨書されている、おそらくまつゑの妹のものと思われる肖像写真(神戸市山下通り七丁目〔税務署半丁西〕織田写真館)が、澤田本家に残されている。
 翌1910(明治43)年2月に撮影された、文五郎・文平・茂文ら大越家三代の記念写真(東京
神田・江〓)が、澤田本家に残っている。その裏面には、たぶん文平のものと思われる筆跡で、
 「大越文五郎 七拾九才  同 菊 代 六拾三才
  同 文 平       同 すゝ子
  同 茂 文       同 文 二      明治四拾参[1910]年二月撮影」
と記されている。
 これから逆算すれば、菊代はまつゑのわずかに8歳年長に過ぎず、もちろんまつゑや文平の生母ではない。文五郎夫妻の墓碑銘にもあるように、まつゑおよび文平の生母は村田氏出自・名不詳の先妻であり、菊代は佐藤氏出自の後妻であることがわかる。

鶴巣村お姉ゆゑより切り餅及生栗
 翌「〔明治〕四十四[1911]年四月〔、文平は旅順市役所の前身旅順協會の〕會長に推擧せら」(『大正人名辞典』)れた。
 同年9月、長男養太郎が、佐々重での修行を終えて、仙台肴町笹川旅館に婿養子に入った。
 同年10月30日には、六孫亥兵衛が生まれた。私の父である。
 このころ次男俊郎にもまた、富谷村の酒造業内ヶ崎家さらには澤田家の旧主家猪狩家等から養子縁組の話があった。しかし、俊郎はこれらをすべて断り、佐々重の修行を卒業して、東京なる祖父大越文五郎一家を頼み、母まつゑとともに上京した。
 おそらく「大正二(1913)年、十二月一日」(1914〔大正3〕年5月13日付澤田金太郎書翰)、次男俊郎18歳は近衛連隊に入隊した。
 翌1914(大正3)年「二月三日午後四時」、「〔東京府〕小石川区原町〔現東京都文京
区白山三~五丁目〕十三番地 大越文五郎」は、「〔東京〕府下竹橋内 近衛歩兵第一聯隊第一中隊第三班 澤田俊郎殿」宛てつぎの書翰をしたため、同「二月三日午後投函」した(「〔東京府〕九段 323〔大正3[1914]年2月3日〕 后8-9」の消印がある)。しかしそのあまりの達筆に、我々はいかんせんその内容の大半を解せない。
 「郵便ニ而す もて〓ん〔二月〕一日ニハ〔俊郎が文五郎宅に〕来り呉田くれた ナルモ〓子〓ころ面会を〓得様急〓〓〓本日養太郎兄より金二円小〓てして来り候而 本便ニ〓呉〓〓出し而来ん 〔二月〕八日ハ日曜日ニ〓〓〓〓来んニ〓〓〓〓〓来り〓〓〓次ニ鶴巣お姉ゆゑより切り餅及生栗〓〓来り候ニ付 本便〓〓〓〓〓〓〓〓出し而 右品〓〓〓〓〓〓ニ付都合〓〓〓来り〓〓〓叶追〓通〓〓 余ハ面会の上とす 謹曰
  二月三日午後四時
                                  文五郎
    俊郎殿                  」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 祖父から外孫に宛てた、心あたたまる書面のようではある。
 同「大正三[1914]年五月十三日」付けの、甥金太郎から叔父俊郎に宛てられた書翰も現存している。金太郎はいまだ19歳であったが、46歳の父辰五郎に代わり、澤田家留守宅を代表してこの書翰をしたためており、当時すでに金太郎が、父に代わって澤田家留守宅を采配し始めていた事情が読みとれる。
 これらの書翰は、のちに俊郎が満州に渡る時にでも、澤田本家に残したものであろう。

文五郎・まつゑ父娘の肖像
 ところで、まつゑ本人の写真は、今日澤田本家にはただ一枚しか残っていない。それも、金五郎・長男養太郎・次男俊郎の澤田一家の、これもおそらく俊郎の渡満の時の記念写真の上部に楕円枠で焼きこまれたもので、元の写真はすでに失われている。
 ところが、幸いなことに、1990(平成2)年4月29日私と亡妻信子が大越家嫡流十三代茂隆氏宅を初めて訪れた際、我々は同家のアルバムのなかに、その元の(まつゑと養太郎との)写真を発見することができ、我々は、あたかもまつゑ本人と再会したかのような感慨にうたれた。
 しかも、それだけではなかった。文五郎夫妻と文平、養太郎、それにおそらくその義母の5人の記念写真が同家に保存されていた。その肖像から推して、前記の1910(明治43)年の大越一家の写真よりはかなり後のものであり、おそらく文五郎の最晩年のものであろう。まつゑ本人が東京大越家を訪れていたろうことはもとよりのこと、俊郎のみならず、養太郎もまた大越家と交渉のあったことが明らかになった。
 当主茂隆氏はじめ大越家の人々には、まつゑおよび澤田家のことは全く伝わっていなかった。まつゑらの写真も、我々の訪問の前までは、大越家所蔵の他の多くの写真と同様正体不明のまま保存されていたのである。

大越文五郎の大往生
 翌「大正四[1915]年十月一日〔、文平は旅順〕市會議員に選ばれ、尋ついで〔旅順〕市長に推選せらる〔、〕實に第一次市長として創始の業に服し〔、〕名聲隆然たるものあり」(『大正人名辞典』)。
 翌1916(大正5)年 1月、文五郎の長男弘毅が、故あって父に先立ち獄死した。
 9ヶ月後の同年10月12日、まつゑの父・仙台大越家最後の十代当主・旧仙台藩参政(若年寄)大越文五郎佑之は、「壽八十五」で大往生を遂げた。ときにまつゑは60歳、長女ゆゑ40歳、次男俊郎23歳、嫡孫金太郎21歳、私の父・六孫亥兵衛は5歳であった。文五郎のなきがらは「東京〔巣鴨〕染井共同墓地」に葬られた。
 文五郎は、先後両妻との間にじつに「男女子十六人」をもうけた。
 まつゑはその長女であり、既述の運命をたどっていた。
 長男弘毅は、上述のごとく、故あって父に9ヶ月先立ち獄死した。
 次男が、旅順市長文平である。
 文平の弟文蔵は現在の東京大学を卒業したが、南方某地で死去した。
 文五郎の「男女子十六人」のうち現在判明しているのは、まつゑを含めて以上の四人のみである。前述の「柴田阿沙はまつゑたちの妹と思われるが、その消息は不明である。

第五節 仙台米騒動
最初の攻撃目標佐々重
 1918 (大正7) 年8月15日、仙台にも米騒動が波及した。
 「西公園にかけつた警官隊が、なんにもできないでおろおろしているのを、横目に見ながら、三百を越す市民たちは、いよいよがっちりかたまって、あるきだします。公園を出るとすぐ〔長男養太郎の養子先笹川旅館のあった〕肴町です。国分町を横切って東一番丁は右に折れ、勧工場〔(藤崎)デパート〕がある大町四丁目の角を左にすすむと、東二番丁の手前に佐々重商店。ここがこの夜の最初の攻撃目標でした。
 仙台でも代表的な味噌醤油醸造店です。米を値下げさせるだけが目的ではなかったのです。味噌一貫メ五八銭、醤油一升四〇銭と、米と一緒に高くなるばかりだったのを値下げさせなければ、なにしろ米とならんでの重要食糧ですから、毎日のくらしがらくにはなりません。」(浜田隼雄『物語宮城県民のたたかい』ひかり書房)

番頭も小僧もびっくり仰天
 「佐々重商店では、店の戸をまだ閉めていませんでした。かたまった人声と足音が一番丁の方からひびいてくるのを、なんだろうと思う間もなく、店の前いっぱいにあふれた群衆がまるで敵陣におしよせる武者のように、目をぎらぎらさせていっせいに店の中をにらんでいるのです。番頭も小僧もびっくり仰天です。」(『物語宮城県民のたたかい』)
 この番頭とは、けだし、金五郎その人に違いなかろう。
 「仙台でも米騒動が始まったんだ、と番頭がやっと気づいた時です。群衆の前にいた五人ばかりが、ずかずかと店に入ってきて、『旦那を出せ』と、大声ではありませんでしたが、底力のある声で番頭をにらみつけました。『は、は、はい』とあわてた番頭が奥にひっこんで、間もなく旦那の〔六代目〕佐々木重兵衛が観念してしまったのか、わりとおちついてあらわれました。」(『物語宮城県民のたたかい』)

佐々重が値下げすれば
 「と、店の前の群衆のざわめきにつづいて、
『あんまり儲けんなこの野郎』
『味噌蔵ぶっこわすぞう』
などと怒りの声が上がります。
それでもおちついて帳場格子の前に座る旦那に、五人の中の一人が、
『味噌と醤油をなんぼに下げてくれるのか、この場で返事してくれ』というと、旦那はうなづきました。市民たちの圧力にはかなわない、と自分に言ってきかせてもいるような顔です。そして『味噌は四〇銭に、醤油は三〇銭に、でよござんすか』と、五人の顔を見回します。五人はそろって合点しあい、

『その値段を店の前に張り出してもらうべ』というのに、旦那は大きくうなづきました。そして帳場の机の上に紙をひろげるのを、店の外からのぞいていた市民たちは、わぁっと歓声をあげ、それがいつか、バンザイ、バンザイの叫びになります。佐々重が値下げすれば、市内の味噌醤油はみな下げざるをえないのですから、バンザイもむりありません。同時にそれは、次の攻撃に向かう雄叫びでもあります。」(『物語宮城県民のたたかい』)

第六節 澤田家中興の祖
次男俊郎の渡満と末弟松吉の分家
 おそらく同1918(大正8)年末、5年の兵役を終えて近衛連隊を除隊した次男俊郎は、旅順市長なる叔父文平をたよって単身渡満し、叔父の斡旋で満鉄に入社した。
 翌1919(大正8)年、金五郎の嫡孫金太郎が結婚した。
 翌1920(大正9)年8月、俊郎はいったん満州から帰国し、叔父松吉の媒酌で仙台で結婚式を挙げた。新郎新婦は再び満州に渡り、翌年には長男を生んだ。
 その余白に、同「大正九[1920]年十二月十五日撮影 澤田姉さま 大越文平」と記され
た肖像写真(長崎・為政)が、澤田本家に残っている。このほかに、生前の文平からは、姉まつゑのもとに欠かさず時節の便りが送られてきたという。維新の苦難を共に育ったまつゑ・文平の姉弟は、特に親密だったようである。
 同1920 (大正9) 年、金五郎は45歳の末弟松吉を、澤田一族としては初めて、仙台半子町に分家独立させた。当時松吉は逓信省郵便外務員になっていて、仙台・黒川間を頻繁に往来していた。こうして松吉は「仙台澤田分家」の始祖となり、仙台に澤田家の一大分流を形成すると共に、一族の郵便就業への道を開いた。

中興宗篤居士
 このころ、金五郎は佐々重でかまどに倒れて片足を大火傷し、北目大崎なる黒川澤田家留守本宅に戸板でかつぎこまれた。孫金太郎が馬で宮床村の渡辺医師を送迎して加療したが重傷で、命取りの重態であった。しばらくは沢乙さわうとの湯につかり、孫金蔵等がその連絡にあたって養生に努めたが、容態はいっこうに好転しなかった。
 伊達陪臣から帰農して隠居事実上した父一馬の跡を襲い、明治維新後の澤田家をその一身に担った金五郎には、金五郎なりの澤田家の経営方針があったのだろうが、不慮の事故で頓挫して所期の目的を貫徹できないこととなり、不本意な、失意の帰郷であったろう。こうして「仙台組」の大黒柱はもろくも崩れ去り、ここに澤田家の二重経営・生活は、ついにその終止符を打ち、社禝は四代ゆゑ・辰五郎夫婦の手に委ねられることになったのである。
 1921 (大正10) 年2月15日午後6時50分、澤田家三代金五郎(金吾)は、北目大崎4番
地の自宅で亡くなった。行年68歳。ときに嫡女ゆゑは45歳、嫡孫金太郎26歳、私の父六孫亥兵衛は10歳であった。
 法名は『中興宗篤居士』。まさしく、澤田家中興の祖であった。
 翌1922(大正11)年、大越文平が満州旅順の任地で61歳で亡くなり、遺骸は「旅順市共
同墓地」に葬られた。
 4年後の1926 (大正15) 年6月16日午前10時、まつゑは71歳でみまかった。法名「寛室妙安大姉」。ときにゆゑは52歳、金太郎31歳、私の父亥兵衛は15歳になっていた。
 まつゑはさすがに「武士の娘」、鄙には稀な上品・優雅な人で、声を荒げたり身だしなみの乱れるようなことは決してなかったという。孫たちへの愛情もこまやかで、幼いうちはもちろんのこと、かなり成長した後までも添い寝をしていたという。自らは親の肌身の愛を受けることが少なかったろうまつゑの思いやりが偲ばれる。なかでも私の父亥兵衛は特にかわいがられて、昔風に肌と着物の間にすっぽり入れられ、風呂に入れられたり、おりふし昔語りを聞かされたということである。

第七節 庶流
佐賀治 (1863~1888)
 一馬の次男佐賀治は、1863(文久3)年に生まれた。私の曾祖叔父である。
 佐賀治は、いまに「兵隊叔父さん」と言い伝えられている。しかし、除籍謄本に佐賀治の記載はなく、一馬の次男は欠番となっている。
 1888 (明治21) 年6月7日、佐賀治は25歳で死亡した。私の父亥兵衛によれば、どこかで「戦死」したとのことであるが、当時大きな戦争があったわけでもなく、詳しいことはわからない。現在本家に残っている戦友といっしょに撮影した写真に、わずかにその面影を留めるのみである。

しん (18〓~19〓) /桜井家・小澤家
 一馬の長女しんは、砂金沢・桜井家に嫁いだ。私の曾祖叔母である。
 しんの長男周蔵の妻わくりは、1894(明治27)年12月5日生まれで、大和町鶴巣地区の最高齢者であったが、惜しくも100歳を目前にしてなくなった。
 なお、周蔵の曾孫和彦は、1990(平成2)年、奇しくも私の妹しづゑ担当の大和町保健婦〓〓と結婚した。
 しんの娘すゑのは山崎村小澤常雄に嫁ぎ、さらに常雄の妹つねよは、廻り廻ってしんの姪孫・澤田本家五代金太郎に嫁いだ。

きみ (18〓~19〓) /佐々木家・大平氏
 一馬の次女きみは大平村の佐々木家に嫁いだ。私の曾祖叔母である。
 きみの長男で私の従祖叔父にあたる長六が同家を継いだが、その後同家は大平村を去り、現在同地には所在しない。
 なお、しん・きみの両名は除籍謄本に記載がない。

大平氏
 きみの次男敬長
けいちょうは大平村・大平おおだいら家の養子となり、同家を継いだ。
 大平氏は、戦後まで「大平様」と呼ばれていた中世以来の名族・大平領主の末裔である。
 「大平孫左衛門 黒川郡大和町大平の『越路城』城主。『古書書上』『風土記』ともに、大平孫左衛門天正まで住む、と伝える。黒川家臣。」(山本大・小和田哲男『戦国大名家臣団辞典』新人物往来社)
 大平「郷ノ目には天正年中に黒川家臣の大平孫右〔左〕衛門の居城という(安永風土記)越路こしじ館とも泉館ともよぶ館跡がある。」(『宮城県の地名』)
 1588(天正16)年大崎合戦において、「黒川氏家臣団の去就も又注目に値する点であったろう。おそらく黒川氏親族の大衡、細川、二ノ関、相川、八谷氏らは無条件でこれに従ったものであろうし、吉田村の入生田、鶴巣の大平氏らもこれに従った気配がある。何故なればこれらは共にのちに伊達家の報復にあい一族ともども全滅をとげているからである。」(紫桃正隆『政宗に睨まれた二人の老将』宝文堂)

 敬長の長孫たか子は私の同期生で、小学校低学年時に、おそらくその祖母とともに澤田本家を訪ねてきたので、当時奇異に感じたものである。





第二章 仙台(半子町)澤田分家松吉


第一節 初代松吉(1875~1960)
二代一馬三男
 仙台(半子町)澤田分家初代松吉は、1875(明治8)年2月7日、澤田家二代一馬43歳=まち40歳の三男に生まれた。私の曾祖叔父である。
 前年12月まつゑと結婚していた長兄金五郎はすでに21歳で、次兄佐賀治も12歳に達していた。金五郎は一馬22歳の子であるから、松吉とはほゞ親子ほども年が離れていた。
 翌1876(明治9)年5月、早くも姪ゆゑ (1876~1956) が生まれ、松吉はわずか1歳年長の叔父となった。
 1879(明治12)年には姪むめの、つづいて1884(明治17)年には甥養太郎が生まれた。
 1888(明治21)年13歳の時、次兄佐賀治が25歳で「戦死」した。
 1893(明治26)年2月、甥俊郎が生まれた。松吉は、年の離れた兄たちよりは、むしろゆゑ以下の甥姪達と近しく、事実上の兄弟姉妹同様に育ったものと想像される。
 同年9月、長兄・澤田家四代金五郎は、姪ゆゑに養子辰五郎を配して嗣子とした。

七男五女
 
逓信省郵便外務員松吉は長兄金五郎同様仙台に上り、当初は半子町在某家の山番をしていた由であるが、やがて仙台郵便局に勤務して仙台~黒川間の逓送に従事した。のちに嫡子榮松さらには姪てっそん金蔵・金之助等の澤田一族が、逓信省に勤務する先鞭をつけたといえよう。
 1894 (明治27) 年12月24日、松吉は鳥屋とやの郷古家(宮下)から妻せん (1877~1938)を迎えた。せんは1877(明治10)年の生まれで、当時17歳であった。
 翌1895 (明治28) 年2月15日、長女ゆきが生まれたが、四日後の同月19日夭折した。松
吉夫妻は多産で、じつに十二子・七男五女をもうけたが、うちゆきを含む五子・三男二女は早世した。
 同年7月には、早くも嫡姪孫金太郎が生まれた。
 翌1896 (明治29) 年1月5日、父・澤田家二代一馬が64歳で没した。
 同年7月22日、嫡男榮松が誕生した。松吉21歳=せん19歳の子であった。
 つづいて誕生した次男榮次郎(1898~99)・次女たけよ(1900)・三男榮七(1901~02)は、不幸にも相ついで夭折した。
 1904(明治37)年3月1日、三女まつよが生まれ、ようやくにして無事成長を遂げた。
 1906(明治39)年4月3日、四女かつよが誕生した。
 1908(明治41)年5月31日、母まちが74歳で没した。
 翌1909(明治42)年2月7日、四男勝男が誕生した。
 1911(明治44)年2月15日、五男勝三郎が生まれた。私の父・姪孫亥兵衛と同年である
 1914(大正3)年2月10日に生まれた五女きよは、不幸またしても、翌年2月夭折し
た。
 1916(大正5)年3月25日、六男千代治が誕生した。
 1920 (大正9) 年2月1日、末子・七男末治が生まれた。時に松吉45歳・妻せんは43歳で、長男榮松よりはじつに24歳の年少であった。

仙台(半子町)澤田分家の創始
 同1920 (大正9) 年、45歳の松吉は、澤田一族としては初めて、仙台市半子町44番地に
分家独立し、「仙台(半子町)澤田分家」を創建してその始祖となった。仙台に、黒川澤田氏の一大分流が形成されたのである。
 同年松吉は、自宅門前に所在する寿徳寺の僧徳温・伊藤林大夫の次女ときを、これより先満州に渡っていた甥俊郎に媒酌した。同年8月俊郎はいったん帰国して結婚式を挙げ、新郎新婦はそろって再び満州に渡った。
 翌1921(大正10)年、長兄・澤田本家四代金五郎が68歳で亡くなった。
 19□(□□□)年□月□日嫡孫が誕生し、父・澤田本家三代の名を襲って「一馬はしめ 」
と命名した。
 1938(昭和13)年3月29日、妻せんが62歳で先立った。
 19□(昭和□)年□月□日嫡曾孫隆が誕生し、仙台澤田分家は四世同堂の春を迎えた。
 この間松吉は、長年の労苦で得た資本をもとでに、北目沖に約2反歩の水田を購入して長兄金五郎の澤田本家留守宅に小作に出していた。これらの土地は、第二次大戦中の人手不足から他家に小作に出され、戦後の農地解放によってすべて失われてしまった。
 1952(昭和27)年12月13日、姪孫・実家五代当主金太郎の嫡男力20歳の結婚式の翌日、澤田本家の前庭で撮影した記念写真に、幼い筆者6歳等と共に収まった。
 1955(昭和30)年姪孫亥兵衛の分家に際して、松吉は一族の長老として、紛争の源とも
なりかねない「代代家督」に反対し、甥俊郎・姪孫金蔵らとともに、亥兵衛の澤田本家からの分家独立に力を尽くした。
 翌1956(昭和31)年4月3日、嫡子榮松の妻きよしが55歳で早世した。
 18日後の同月21日、こんどは五男勝三郎が46歳で父に先立った。
 1960 (昭和35) 年4月4日、松吉は85歳の長寿をまっとうして大往生を遂げた。

第二節 二代榮松(1896~1979)

二代榮松
 仙台(半子町)澤田分家二代榮松は、1896(明治29)年7月22日、初代松吉21歳=せん19歳の長男
に生まれた。私の従祖叔父である。
 1908(明治41)年、祖母まちが74歳で没した。
 榮松は仙台鉄道船舶郵便局に勤務し、のちにはその人事の任にもあたった。従姪金蔵・金之助の同局就職の機縁にもなったと思われ、三人は一時仙台鉄道船舶郵便局の同輩となった。
 榮松は、従姪・澤田本家六代金太郎の媒酌で大衡村・高橋きよしと結婚し、六男二女をもうけた。
 19□(□□□)年□月□日嫡男が誕生し、曾祖父・澤田本家三代の名を襲って「一馬はしめ 」と名づけられた。
 19□(昭和□)年□月□日、長女栄子が生まれた。
 1928(昭和3)年3月16日、次男栄が誕生した。
 19□(昭和□)年□月□日、三男栄三郎が生まれた。
 19□(昭和□)年□月□日、四男栄四郎が生まれた。
 19□(昭和□)年□月□日、次女静子が誕生した。
 19□(昭和□)年□月□日、五男静男が誕生した。
 19□(昭和□)年□月□日、末子・六男勝が誕生した。
 1938(昭和13)年3月29日、母せんが62歳で亡くなった。
 1956(昭和31)年4月3日、妻きよしが55歳で先立った。
 同年同月21日、こんどは弟勝三郎が、46歳で父・長兄に先立って亡くなった。
 1960 (昭和35) 年4月4日、父・初代松吉が85歳で大往生を遂げた。
 1979(昭和54)年9月16日、仙台澤田分家二代榮松は84歳の高齢で亡くなった。

庶流
 松吉の三女まつよは、宮崎家に嫁いだ。
 松吉の四女かつよは加藤賢作と結婚したが子がなく、末弟末治を養嗣子とした。
 松吉の七男末治は松吉45歳=せん43歳の末子で、私の従祖叔父である。長兄榮松よりじつに24歳の年少で、榮松は父松吉21歳の子であったから、兄弟は親子以上に年が離れていたわけである。
 末治は、上述のごとく、四姉加藤かつよの養嗣子となり、加藤家を継いだ。

第三節 仙台(半子町)澤田分家庶家
澤田勝雄家
初代勝雄(1909~□□)
 勝雄は、1909(明治42)年2月7日、仙台澤田分家初代松吉34歳=せん32歳の四男に生まれた。私の従祖叔父である。長兄榮松より13歳の年少であった。
 勝雄は少年時代、その兄弟姉妹とともにしばしば佐々重なる伯父・澤田本家四代金五郎を訪れ、盆正月の時節にはお膳の接待にもあずかったという。また、従兄養太郎もしばしば仙台澤田分家を訪れていたという。
 勝雄は父同様鳥屋の郷古家(宮下)から妻つる子を迎え、二男二女をもうけた。
 1933(昭和8)年3月25日、長男弘が誕生した。
 1938(昭和13)年6月15日、長女陽子誕生。
 1941(昭和16)年6月10日、次男仁ひとし 誕生。
 1946(昭和21)年2月11日、末子・次女紀美子が誕生した(私と同年である)。
二代弘
(1933~)
 勝雄の嫡男弘は、妻夏生
なつみとの間に一男一女をもうけ、澤田勝男家二代を継いだ。
 1961(昭和36)年12月14日、嫡男雅弘が誕生した。
 1967(昭和42)年7月10日、長女紀子が誕生。紀子は斉藤家に嫁いだ。
 勝男の長女陽子は、安田家に嫁いだ。
 勝男の二女紀美子は、糸永家に嫁いだ。
澤田仁家
 勝雄の次男仁は□□知子と結婚して一子をもうけ、別に一家をなした。
 1974(昭和49)年12月29日、長男圭史けいじ が誕生。

澤田勝三郎家
初代勝三郎
(1911~19□)
 勝三郎は、1911(明治44)年2月15日、松吉36歳=せん34歳の五男に生まれた(私の父
亥兵衛と同年である)。私の従祖叔父である。
 勝三郎は妻しづ子との間に一子をもうけ、別に一家をなした。
 19□(昭和□)年□月□、長男勝弘が誕生した。
 勝三郎は建具師となり、その最初の仕事に四兄勝雄宅の新築をてがけた。
 1955(昭和30)年、同年の従姪亥兵衛の分家独立に際し、同家の新築をもてがけた。
 翌1956(昭和31)年4月21日、勝三郎は46歳で父に先立ち亡くなった。
二代勝弘
(19□~)
 勝三郎の長男勝弘は、勝三郎家二代を継いだ。

澤田千代治家
初代千代治
(1916~19□)
 千代治は、1916(大正5)年3月25日、松吉41歳=せん39歳の六男に生まれた。私の従祖叔父である。長兄榮松より20歳の年少で、既述のごとく、榮松は父松吉21歳の子であったから、兄弟は親子ほどに年が離れていた。
 千代治はいったん結婚して別に一家をなしたが、子を残さず離婚した。
 19□(昭和□)年□月□、千代治は□歳でなくなり、同家は絶えた。

第四節 三代一馬(19□~)
仙台(半子町)澤田分家三代当主一馬
 仙台(半子町)澤田分家三代一馬はしめ は、19□(昭和□)年□月□日、二代榮松□歳=きよし□歳の長男に生まれた。仙台澤田分家の当主である。
 1938(昭和13)年3月29日、祖母せんが62歳で亡くなった。
 一馬は□□弘子と結婚し、二男をもうけた。
 19□(昭和□)年□月□日、嫡男隆が誕生した。
 19□(昭和□)年□月□日、次男修誕生。修は□□□□と結婚し、別に一家をなした。
 1956(昭和31)年4月3日、母きよしが55歳で亡くなった。
 1960 (昭和35) 年4月4日、祖父・初代松吉が85歳で大往生した。
 1979(昭和54)年9月16日、父・二代榮松が84歳の高齢で亡くなった。
 1990(平成2)年陽春、 黒川澤田分家初代亥兵衛三男諭・筆者が、父 の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田氏家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 
2010(平成22)年3月26日、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。

 2013(平成25)年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。

庶流
 榮松の長女栄子は、古積家に嫁いだ。
 榮松の次女静子は、菅野家に嫁いだ。

庶家
澤田栄家
 栄は、1928(昭和3)年3月16日、仙台澤田分家二代榮松33歳=きよし□歳の次男に生まれた。
 栄は祖母せんの縁戚にあたる鶴巣村鳥屋・大友久雄の次女とも子と結婚し、仙台半子
町の仙台澤田分家敷地内に別に一家をなした。とも子の長姉ひさゑは私の学童時代の鶴巣小学校教師で、末妹豊子は私の一年年長の才女であった。
 1955(昭和30)年10月13日、長女敏子が誕生。敏子は加藤家に嫁いだ。
 1958(昭和33)年6月4日、長男忠が誕生した。
澤田栄三郎家
 栄三郎は、19□(昭和□)年□月□日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の三男
に生まれた。
 栄三郎は□□とよ子と結婚して一男一女をもうけ、別に一家をなした。
 19□(昭和□)年□月□、長女玲子が誕生。
 19□(昭和□)年□月□、長男淳じゅんが誕生した。
澤田栄四郎家
 栄四郎は、19□(昭和□)年□月□日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の四男に生まれた。
 栄四郎は□□しづのと結婚して二男をもうけ、別に一家をなした。
 19□(昭和□)年□月□、長男貢子誕生。
 19□(昭和□)年□月□、次男渉わたる が誕生した。
澤田静男家
 静雄は19□(昭和□)年□月□日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の五男に生まれた。
 静男は□□範子と結婚して□男□女をもうけ、別に一家をなした。
 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生。
 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生した。
澤田勝家
 勝は19□(昭和□)年□月□生日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の六男に生まれた。
 勝は□□房子と結婚して□男□女をもうけ、別に一家をなした。
 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生。
 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生した。


(続く)



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