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第四部 中世奥大道と沿道郷村 |
奥大道 古代の官道整備と平泉政権を支えた道 「東山道が多賀城から胆沢城に延長し、また多賀城から出羽雄勝城、さらに笹谷峠越えで内陸から庄内、秋田に通じる横断道も開かれた。これを舞台に東北の交流は展開するが、その主体性をもっとも体現するのが古代末期に登場した平泉政権である。 平泉の都市社会はもはや蝦夷論や俘囚論の国家論のみで問われるものでなく、京や東北各地との交流を通して練り上げられた地域権力であり地域文化である。 その交流の道として、白河から外が浜までの幹線整備、浜通りを北上し平泉に達する東海道(あずまかいどう)、秀衡街道、平泉から津軽十三湊への道、北上川舟運などがあった。 奥大道の開発整備 藤原清衡が奥州の覇権を掌握して最初に手掛けたのは、白河関から外が浜(陸奥湾)にいたる幹線である奥大道〔おくだいどう〕の開発整備である。徒歩20日の行程の一町(108メートル)ごとに金色の阿弥陀像を図絵した笠率都婆(卒塔婆)を建て、中心に関山中尊寺を配したという。奥大道は、笠率都婆により荘厳を施され、壮大で超越した広域的支配を支える聖性を備えていたと言えるだろうか。また、夥しい品目を調達し京に届け、政権をアピールする生命線でもあった。 ただし、陸路のみでなく、牡鹿湊(石巻港)に至る北上川の水運と、関東・東海の太平洋沿岸を経た海運のルートも忘れてはならない。 北方世界と奥大道 藤原氏の影響力は奥大道を通じて、糠部・久慈・閉伊から、鹿角・比内、そして津軽四郡(平賀、鼻和、田舎、山辺)、外が浜、西が浜、さらには夷が島、千島、サハリン、沿海州方面に広がる北方世界に及ぼされた。北方から豊かな物産がもたらされただけでなく、平泉の側からも渥美・常滑の壺、京都風の素焼土器、中国産白磁の壺などが搬送された。 北方世界のうち本州部分は中世から近世にかけて陸奥国の行政区画に組み込まれ、海峡を越えた夷が島さえ陸奥国の延長として認識されることがあった。このうち、鹿角・比内の両郡、津軽四郡や外が浜、西が浜が、太平洋側の陸奥国に含まれるというのは自然でない。本来なら出羽国に組み込まれるべきところだろう。奥大道を通じた陸奥国側からの政治的影響力が強大だったということだろうか。 事実、奥大道南北ルート貫通以前の古代には、これらの地域は出羽国の影響下にあった。秋田城から能代に出て、米代川を遡って比内・鹿角に達する東西の道筋が優位を占めていた。また、奥大道南北ルート貫通前は、鹿角・比内、津軽四郡、久慈・閉伊などの諸郡や糠部の一戸から九戸などは、建置されなかったのである。これらの地には、上津野、火内、幣伊、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利など、俘囚、夷人の村が散在するばかりであった。これら北方の住人は、空堀に囲まれた高台の住居群(北方性防御集落)に拠りながら、秋田城や胆沢城に朝貢に赴いて饗給(こうごう)に与ることはあっても、中央政府の直接統治に従うことなく自立した暮らしを維持していた。 奥大道の貫通は、北方世界に中央政府の直接統治を及ぶ〔ぼ〕し、諸郡の建置を進める一大変革を推し進めた。 奥大道の貫通時期 清衡の時代には貫通していたのは確実だが、それ以前の清原氏の時代にまで遡るのかどうかが問題である。延久2年(1070)に陸奥守源頼俊と清原真衡の連合軍が北方世界に進出して、『衣曾別島(夷が島)荒夷』、『閉伊七村山徒』を撃つという合戦が行われ、北方世界の全域が中央の直接統治下に置かれることとなった。その10年ほど後には、諸郡の建置を実現した。 従って、この合戦の直後が奥大道の貫通時期とするのが妥当であろう。いずれにしても、貫通時期が前九年合戦(1051-62)より以後であることは問題がない。奥六郡の安倍氏が滅亡させられる以前は、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利などの村が健在で北方の独自性が維持されているからである。 奥大道は、北方世界と奥南を結び、また京都など日本国の中央と連結したばかりではない。さらに博多を通じて東アジアに至る海上の道にまで連結していた。 12世紀の日本の三大都市は、京都、平泉、博多であった。京都は日本の富を集中した唯一の都市であったが、平泉と博多は民間交易ネットワークに立脚した新しいタイプの地方都市であった。13世紀に鎌倉が都市開発されるまでは、平泉が東日本唯一の都市であった。 このような民間交易のネットワークが形成され国際化の波が奥州にまで及ぶことがなかったならば、安倍、清原、藤原の政治権力の登場は不可能であった。さらには、頼朝の幕府樹立も不可能であった。」(「おだずまジャーナル」) |
第一章 松森道〜大亀道〜山田道/駒場道〜三本木道 |
さて、ここからはしばらく、中世奥大道を辿ることにしよう。 同期・門間哲夫君等によると、後期東山道(奥大道)は、長根道、小鶴沢集落から今日の小西川沿いの町道とは異なり、東の尾根筋を北上して郷右近館を越え、山田北東部をかすめていた。 一方中世奥大道は、国分氏の松森城(鶴ヶ城)下「宮城郡松森より発して富谷村大亀を経て本〔鶴巣〕村山田、太田」(『下草郷土誌』)に出た。古代後期・中世両官道(並びに今日の利府街道)は、山田の北端・太田境で重なる。 第一節 ◯宮城郡 松森 第二節 ◯石積 第三節 ◯大亀 鹿島天足別神社 鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は「富谷村大亀字和合田に在り 祭神 経津主命 武甕槌〔たけみかづち〕命 由緒 延喜式内小座の神なり勧請年月を詳にすること能はず鶴巣の城主黒川氏の尊崇する所なり夫人某曾て詣す和歌あり はもしまやいての玉水手に結ひ 子を祈るこそくるしかりけれ 社殿の北方伊手玉水と稱する池あり往古此池を呼んで「ハモシマ」と稱したりしと云ふ 明治[1872]五年一月村社に列す 仝三十七[1904]年十一月十二日全部焼失す(中略) 古老の説に又岩下明神と申伝へ侍る人王〔皇〕六十六代一条天皇御宇[986-1011]実方中将陸奥へ下向の時当社にて吟詠ありとなん 其歌に 里中になくなる家鶏のこゑたちて いたくはなかぬ かくれつまかも(中略) 文和[1352-55]年中京都みたれの時国司北畠顕家中納言奥州の軍兵を率えて後醍醐天皇の為に攻登らる砌報恩寺左近入道高遠国司にしたがひ伴ひ越前の府の戦に高遠ほまれをほとこす依之帰国に及んて賽とし〔こ?〕の為に当社を再興したてまつる 其棟札云 亀国山明神 文亀三[1503]年 奉造立 九月十五日 丹羽遠江守正時 又黒川藤原氏友甚に崇敬ふ安房守氏時北方当社参詣の時吟詠有となん其歌に はもしまやいての玉水手にむすひ 子をいのるこそくるしかりけれ 神山に出手の玉水といへる清水有となん ともない侍る大衡縫殿といへる女房返し 祈りゑてみこを出なん玉手箱 ほそつりかみのいてのむかしを となん 右は当社に言伝へることならし〔ん〕」(『黒川郡誌』)。 亀石 「富谷村大亀鹿島天足別神社境内に在り形亀に似て縦横各八尺厚さ三尺余なり右の他布引石、畳石、口石、箪笥石、たいまい石等の名石あり」(『黒川郡誌』)。 鹿島天足別神社のアカガシ 「県指定天然記念物 黒川郡富谷町(中略) 本樹は同神社の神木で、神社社殿の東南側に生育しており、樹齢は『新訂 富谷町誌』によれば500~700年といわれている。樹高約20m、幹周5.8mで、枝張りは東西27.5m、南北22.5mである。根元から1.5mの高さで太い枝を分枝して巨大な樹形を形成し、旺盛な樹勢を保っている。 アカガシは日本の代表的な暖帯性樹種であり、宮城県は天然分布の北限地である。実際の北限地は気仙沼市大島とされるが、県中部以北の分布は少ない。植物学的に貴重であり、その中で、本樹は県内第一のアカガシの巨木である。」(「宮城県HP」) 大亀山森林公園 「大亀山森林公園(おおがめやましんりんこうえん)は、富谷市東部の大亀山頂上周囲の丘陵地帯、仙台北部道路北側直近一帯に設置された総合公園。 本園は、富谷市の東部、標高118mの大亀山の頂上一帯で、仙台北部道路の北側にあり、その周辺の自然林を残しつつ、地形を生かした多彩な施設を加えて設置された。1995年(平成7年)4月に全施設が開園された(一部施設は平成3年)。総面積は約32.7ha(東京ドーム7つ分)。仙台北部道路が完工する以前の開園であり、後に公園を横断しない形で直近を道路が開通した。周囲は市街化調整区域の丘陵地帯で森林が多く残されており、豊かな自然環境を心ゆくまで楽しめる。園内には、自然遊歩道、高さ20m以上で360゜周囲を見渡せる展望台、人工芝のちびっこゲレンデ、フィールドアスレチック、キャンプ場、休憩所を兼ねる管理棟・亀亀館(モシモシハウス)などがある。又、西暦800年代にはこの地に鎮座していたと推定される鹿島天足別神社や、その境内には樹齢は500~600年と推定される、アカガシの古木も生育している。」(Wikipedia「大亀山森林公園」) 大亀山森林公園展望台 「展望広場の標高と高さ20mの展望フロアを合わせて138m、階段数138段という「トミヤ=138」にちなんで建てられたシンボルタワーです。晴れた日には七ツ森や船形連峰、蔵王連峰、そして仙台平野のかなたに広がる太平洋を望むことができます。」(WS「富谷集遊」) 先年、岡崎在住の同期千葉東君と初めて訪れたが、実に実にすばらしい、奥羽山脈、船形・蔵王・栗駒連峰の大パノラマである。地元人には意外と知られていない穴場のようなので、是非是非一訪をお勧めしたい。 第四節 ◯山田 集落の「中央を川原田川の小川に沿った開析谷が北方に走る(中略)文和元年(一三五二)十二月二十三日付足利尊氏御判御教書(留守文書)にみえる『黒河郡内南迫七ヵ村』の一とされる。鎌倉期は北条得宗領、戦国期には黒川氏の所領とみられる。」(『日本歴史地名大系』) 「慶長九年(一六〇四)から寛永十一年(一六三四)まで伊達宗清の知行。のち片寄氏等の知行となる(伊達世臣家譜)。(中略)寛延二年(一七四九)六代藩主宗村が当村御鶴野にて肝入西沢屋敷十郎兵衛の案内で鶴の見物に来たという。村鎮守下小屋の羽黒権現宮のほか、同所には神明宮・荒神宮が記される。」(『日本歴史地名大系』) 「山田城」 「山田にも館があったのではないかと思われる。(中略) 岩手県水沢市の留守氏家臣のもとには、江戸時代初期の寛永年間[1624-45]から元禄[1688-1704]年間にかけての『家中由緒書上』の類が多く残されている。そのなかに、江古市左衛門・勘五郎の名が見える。この二人は兄弟のようであるが、いずれも留守政景の時期に臣従したもので、黒川山田城主であったと記されているという。江古は郷古とも書き、郷右近と音もよく似ている。それに山田と太田は、すぐ隣同士でもある。郷右近一族がこの七北田丘陵上の山村を支配して、南方の留守氏に備えたことも十分考えられる。」(『大和町史』) 普門院 「字水吸の臨済宗妙心寺派普門院は松島瑞巌寺六世覚満を開山とする。」(『日本歴史地名大系』) どういう訳か、普門院は『郡誌』の記載から漏れている。 明治山田村の変遷 後述するように、明治維新後山田村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、複雑怪奇な有為転変を重ねた。 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡山田村 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡山田村 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第二小区山田村 第二小区 穀田 成田 明石 石積 大亀 山田 太田 幕柳 小鶴沢 九ヶ村 二等戸長 内ヶ崎直治 副戸長 安藤亀吉 小島勇吉 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小一区山田村 小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童 合十三ヶ村 戸長 細川平三郎 副 佐々木文四郎 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區山田村 小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平 戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務 千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村 戸長 今野栄八 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕 戸長 佐々木久四郎 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡今泉外十二ヶ村 今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村 戸長 青砥七之助(『黒川郡誌』) ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし 鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 なお、小鶴沢、山田、太田の3村は、上述のとおり、維新以来常に一体の変遷をたどり、鶴巣村立村に至った。鶴巣村になっても、下に述べるように、鶴巣小学校山田分校区として、同本校区とはやや異なった経緯を辿り、俗に「南三区」と呼ばれるようになった。 山田分教場(山田分校) 後述するように、「明治六(1873)(中略)西成田(中略)村に(中略)小学校〔西成田小学校、穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢〕を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)た。 仝十一(1878)年小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕を設け 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け 仝十九(1886)年今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす 仝二十二[1889]年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ 今泉は富谷村に属せしを以て 鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕を設けたりしが 廿五[1892]年に至り仝仮校舎たる慈雲寺焼失の為山田区に移転したに依り山田分教場と稱す 同時に今泉分教場廃止となる(『黒川郡誌』)。 ♪山田の乙女に道とわば 東は成田(なんだ)か川内か♪(「黒川願人節」) ♪俺の浮気は まだ山田♪(「鶴巣節」) (次の太田~舞野は東山道に同じ) 第五節 ◯奥田 中世及び近世奥州街道(奥州道中、奥道中)は、「吉岡の東端現在天理教布教所の東側を過ぎ て〔今日の国道4号からは東に大きく逸れ〕大衡村〔奥田(オグダ)〕昌源寺に至り、〔現今の第二仙台北部中核工業団地を縦断して〕 北に向かった様子が判然としている。」(『下草郷土誌』) 宝峰山昌源寺 「天正九[1681]年十二月仙台輪王寺六世禅徹和尚を開山となす元漆〔棋〕田にありしを今の地に移したりと云ふ其跡今尚存す開山より当住全山に至るまで実に二十七世なり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音十七番 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十七番 同〔大衡〕昌源寺 結縁に今こそめくりあふひらや みのりをしたふ人のやさしさ♪ 下って「明治一七[1884]年吉岡から昌源寺坂へ越えていた奥州街道が、西方へ迂回する現国道四号に付替えとなる。」(『日本歴史地名大系』) 奥田一里塚 昌源寺から「奥田一里塚」に至る。 腰館 「大衡村奥田下屋敷にあり黒川氏の家臣細川弥次郎之に居る」(『黒川郡誌』)。 ♪尚も奥田と訪ぬれば 心細くも蒜袋♪(「黒川願人節」) ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十九番 奥田の中里 ほんぶんのおくのでんちのうねゝゝに ぼたいのたねをおろせ中里♪ 第六節 ◯駒場 戸口一里塚 ここで再び元の奥田一里塚に戻ると、やがて駒場の「戸口一里塚」に至る。 須岐神社 須岐神社は「大衡村駒場字宮前にあり 祭神 素盞鳴尊 由緒 当社は延喜式内神名帳黒川郡四社の一にして往古は西方宮高森にありしを後鳥羽天皇建久二[1191]年児玉弥太郎重高なるもの茲に還座し赤崎明神と稱へ椚〔くぬぎ〕一千本を植え以て神境となす里人稱して千本椚と云ふ而して往古此地源頼朝藤原泰衡追討に際し駒を駐めて軍を稿ふ故に号して駒場と呼ぶ延享三年六月藩主伊達宗村自ら之に賽す明治[1872]五年村社に列す」(『黒川郡誌』)。 神生山雲泉寺 「大衡村駒場字寺田に在り 曹洞宗 道曳派 本尊 正観世音 由緒 永正二[1505]年僧元用なる者之を創見すと伝ふ志田郡李埣富光寺の末寺なり曾て火炎〔災〕に遇ひ全焼し爾後之を再建したるものなり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音十八番 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十八番 駒場雲泉寺 みちしわにあたるこまやはおちこちの はかまてすくふ慈悲の正観♪ 小屋城 「小屋城は大衡村駒場に在り永禄年中[1558-70]福田太郎左衛門之に住す本丸東西四十四間南北廿四間曲輪幅四間長卅間二の丸東西二十間南北十八間あり福田氏は黒川氏の家臣にして天正の末に至り滅亡す」(『黒川郡誌』)。 第七節 ◯大森 第八節 ◯志田郡 三本木 その先で黒川郡を出て志田郡(スダグン)に入り、伊賀を経て三本木に抜ける。 三本木の桑折城は、既述のとおり、1588年の「大崎合戦」で鶴巣城主黒川晴氏が陣取り、女婿・利府城主留守政景率いる常勝伊達政宗軍を唯一、惨々に敗走させて天晴れ名将の誉れを高くした宿縁の堅塁である。 古川(フルガワ) 三本木を出て、ようよう古川に至る。 古川の名生(みょお)城は、言わずと知れた黒川氏の本宗家、共に政宗に滅ぼされた斯波・大崎氏の本城である。 ♪寒いとて焚かれぬものは三本木 雪の古川荒谷冷たや♪(「奥道中歌」) |
第二章 中世後期奥大道 |
第一節 ◯宮城郡 沢乙 |
奥道中歌 ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡 寒いとて焚かれぬものは三本木 雪の古川荒谷冷たや 思ひきり日は高清水宿取りの 杖築館て道急ぐとは あれ宮野沢辺の蛍草むらに 鳴く鈴虫の声は金成 噂する人くせ有壁に耳 口の開け閉て一の関なり 山の目で酒飲んだ故前沢を 遂水沢と通る旅先 今日の日も早入相の金ヶ崎 旅の疲れを相去の関 (以上仙台藩領分) 東路を国のつつみと鬼柳 緑つきせむ千代の齢を 紅の色争ふや花巻の 石鳥谷よりも見ゆる山畑 時鳥声はり上げて郡山 卯の花咲けるはなの盛岡 抜柿の渋民あれど沼宮内 宿へ土産はこれが一戸 梅が香に風の福岡打こえて 春の眺めはせん金田市 三の戸をたち行く旅の麻水や 五の戸に過ぎて伝方寺宿 七の戸やけふの細布細からぬ 広い野辺地に人の小湊 旅先春の野内に一夜ねむ 薫に交る草の青森 降る雨に流す桐油の油川 日和になるは飛島あさてか 掬む酒の左関とて旅人の よい中沢に泊まる相宿 咲き初むる花の蟹田も長閑さに 野田かと思ふ春の平舘 昔より今別なれや三馬屋の 往来賑ふ人を松前♪(作者不詳/1819文政2年国分町伊勢屋半右衛門記録) 江戸道中往来 ♪長町や中田の馬を増田まで もの岩沼に槻の木の土手 船迫こひしき人に大河原 かわらぬいろをちぎる金ヶ瀬 宮たちはさも白石の鐙越 犀川なれど越河の席 とをせ馬子貝田ときけど藤田まで 桑折もかろし瀬の上もよし 福島は名どころなりけり根子町を 若宮なれどぢゞがたくやど 濁さけ八丁の目は二本柳 油井立れども足はよろよろ 二本松に杉田るものは本宮の 女の唄の声は高倉 けふの日も日和田と聞ばふるゆきの かぜ福原に手も郡山 小原田てふかす酒めし日出の山 その笹川を飲めば須賀川 笠石くきなれしすねに久来石 すえは矢吹にはやひ大和久 われかゝにませをふませて大田河 小田川やゝもだゐて根田とは 白川をよぶねてゆけば白坂や 芦野もくらく越堀のしゅく 鍋掛てかんするさけに大田原 のむやまき絵の花の作山 おもひきややれ菅笠を喜連川 氏家よしある人のあとゝは 白沢や御先は何所を宇津の宮 雀の宮もしとゝ立道 石橋ではさみきられぬ小金井も くひゝゝ行ば芋辛のしゅく 小山さり侭田そたちの野水やらう 古河しこそうな馬の追振 けふの日も中田でひるを栗橋や 幸手杉戸ときけば御泊 粕壁ときくもかゐなきかたくちに にごり酒とて笊で越谷 草賀もし千住のちかひあさからぬ 浅草川のすえは深川♪(作者不詳/1816文化13年記録) |
第一章 熊谷道〜富谷道〜志戸田道/富谷宿・富谷代官所 |
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