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InterBook紙背人の書斎
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姓氏家系総索引



第四部 中世奥大道と沿道郷村




奥大道
古代の官道整備と平泉政権を支えた道 「東山道が多賀城から胆沢城に延長し、また多賀城から出羽雄勝城、さらに笹谷峠越えで内陸から庄内、秋田に通じる横断道も開かれた。これを舞台に東北の交流は展開するが、その主体性をもっとも体現するのが古代末期に登場した平泉政権である。 平泉の都市社会はもはや蝦夷論や俘囚論の国家論のみで問われるものでなく、京や東北各地との交流を通して練り上げられた地域権力であり地域文化である。 その交流の道として、白河から外が浜までの幹線整備、浜通りを北上し平泉に達する東海道(あずまかいどう)、秀衡街道、平泉から津軽十三湊への道、北上川舟運などがあった。
奥大道の開発整備 藤原清衡が奥州の覇権を掌握して最初に手掛けたのは、白河関から外が浜(陸奥湾)にいたる幹線である奥大道〔おくだいどう〕の開発整備である。徒歩20日の行程の一町(108メートル)ごとに金色の阿弥陀像を図絵した笠率都婆(卒塔婆)を建て、中心に関山中尊寺を配したという。奥大道は、笠率都婆により荘厳を施され、壮大で超越した広域的支配を支える聖性を備えていたと言えるだろうか。また、夥しい品目を調達し京に届け、政権をアピールする生命線でもあった。
 ただし、陸路のみでなく、牡鹿湊(石巻港)に至る北上川の水運と、関東・東海の太平洋沿岸を経た海運のルートも忘れてはならない。

北方世界と奥大道 藤原氏の影響力は奥大道を通じて、糠部・久慈・閉伊から、鹿角・比内、そして津軽四郡(平賀、鼻和、田舎、山辺)、外が浜、西が浜、さらには夷が島、千島、サハリン、沿海州方面に広がる北方世界に及ぼされた。北方から豊かな物産がもたらされただけでなく、平泉の側からも渥美・常滑の壺、京都風の素焼土器、中国産白磁の壺などが搬送された。
 北方世界のうち本州部分は中世から近世にかけて陸奥国の行政区画に組み込まれ、海峡を越えた夷が島さえ陸奥国の延長として認識されることがあった。このうち、鹿角・比内の両郡、津軽四郡や外が浜、西が浜が、太平洋側の陸奥国に含まれるというのは自然でない。本来なら出羽国に組み込まれるべきところだろう。奥大道を通じた陸奥国側からの政治的影響力が強大だったということだろうか。
 事実、奥大道南北ルート貫通以前の古代には、これらの地域は出羽国の影響下にあった。秋田城から能代に出て、米代川を遡って比内・鹿角に達する東西の道筋が優位を占めていた。また、奥大道南北ルート貫通前は、鹿角・比内、津軽四郡、久慈・閉伊などの諸郡や糠部の一戸から九戸などは、建置されなかったのである。これらの地には、上津野、火内、幣伊、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利など、俘囚、夷人の村が散在するばかりであった。これら北方の住人は、空堀に囲まれた高台の住居群(北方性防御集落)に拠りながら、秋田城や胆沢城に朝貢に赴いて饗給(こうごう)に与ることはあっても、中央政府の直接統治に従うことなく自立した暮らしを維持していた。
 奥大道の貫通は、北方世界に中央政府の直接統治を及ぶ〔ぼ〕し、諸郡の建置を進める一大変革を推し進めた。

奥大道の貫通時期 清衡の時代には貫通していたのは確実だが、それ以前の清原氏の時代にまで遡るのかどうかが問題である。延久2年(1070)に陸奥守源頼俊と清原真衡の連合軍が北方世界に進出して、『衣曾別島(夷が島)荒夷』、『閉伊七村山徒』を撃つという合戦が行われ、北方世界の全域が中央の直接統治下に置かれることとなった。その10年ほど後には、諸郡の建置を実現した。
 従って、この合戦の直後が奥大道の貫通時期とするのが妥当であろう。いずれにしても、貫通時期が前九年合戦(1051-62)より以後であることは問題がない。奥六郡の安倍氏が滅亡させられる以前は、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利などの村が健在で北方の独自性が維持されているからである。
 奥大道は、北方世界と奥南を結び、また京都など日本国の中央と連結したばかりではない。さらに博多を通じて東アジアに至る海上の道にまで連結していた。
 12世紀の日本の三大都市は、京都、平泉、博多であった。京都は日本の富を集中した唯一の都市であったが、平泉と博多は民間交易ネットワークに立脚した新しいタイプの地方都市であった。13世紀に鎌倉が都市開発されるまでは、平泉が東日本唯一の都市であった。
 このような民間交易のネットワークが形成され国際化の波が奥州にまで及ぶことがなかったならば、安倍、清原、藤原の政治権力の登場は不可能であった。さらには、頼朝の幕府樹立も不可能であった。」(「おだずまジャーナル」




第一章 松森道〜大亀道〜山田道/駒場道〜三本木道



さて、ここからはしばらく、中世奥大道を辿ることにしよう。
 同期・門間哲夫君等によると、後期東山道(奥大道)は、長根道、小鶴沢集落から今日の小西川沿いの町道とは異なり、東の尾根筋を北上して郷右近館を越え、山田北東部をかすめていた。
 一方中世奥大道は、国分氏の松森城(鶴ヶ城)下「宮城郡松森より発して富谷村大亀を経て本〔鶴巣〕村山田、太田」(『下草郷土誌』)に出た。古代後期・中世両官道(並びに今日の利府街道)は、山田の北端・太田境で重なる。


第一節 ◯宮城郡
松森
第二節 ◯石積
第三節 ◯大亀
鹿島天足別神社
 鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は「富谷村大亀字和合田に在り
 祭神 経津主命 武甕槌〔たけみかづち〕命
 由緒 延喜式内小座の神なり勧請年月を詳にすること能はず鶴巣の城主黒川氏の尊崇する所なり夫人某曾て詣す和歌あり
    はもしまやいての玉水手に結ひ
        子を祈るこそくるしかりけれ

 社殿の北方伊手玉水と稱する池あり往古此池を呼んで「ハモシマ」と稱したりしと云ふ 明治[1872]五年一月村社に列す 仝三十七[1904]年十一月十二日全部焼失す(中略)
 古老の説に又岩下明神と申伝へ侍る人王〔皇〕六十六代一条天皇御宇[986-1011]実方中将陸奥へ下向の時当社にて吟詠ありとなん 其歌に
    里中になくなる家鶏のこゑたちて
        いたくはなかぬ かくれつまかも(中略)

 文和[1352-55]年中京都みたれの時国司北畠顕家中納言奥州の軍兵を率えて後醍醐天皇の為に攻登らる砌報恩寺左近入道高遠国司にしたがひ伴ひ越前の府の戦に高遠ほまれをほとこす依之帰国に及んて賽とし〔こ?〕の為に当社を再興したてまつる 其棟札云
    亀国山明神    文亀三[1503]年
             奉造立
      九月十五日  丹羽遠江守正時
 又黒川藤原氏友甚に崇敬ふ安房守氏時北方当社参詣の時吟詠有となん其歌に
    はもしまやいての玉水手にむすひ
        子をいのるこそくるしかりけれ

 神山に出手の玉水といへる清水有となん ともない侍る大衡縫殿といへる女房返し
    祈りゑてみこを出なん玉手箱
        ほそつりかみのいてのむかしを

 となん 右は当社に言伝へることならし〔ん〕」(『黒川郡誌』)。

亀石 「富谷村大亀鹿島天足別神社境内に在り形亀に似て縦横各八尺厚さ三尺余なり右の他布引石、畳石、口石、箪笥石、たいまい石等の名石あり」(『黒川郡誌』)。
鹿島天足別神社のアカガシ 「県指定天然記念物 黒川郡富谷町(中略)
 本樹は同神社の神木で、神社社殿の東南側に生育しており、樹齢は『新訂 富谷町誌』によれば500~700年といわれている。樹高約20m、幹周5.8mで、枝張りは東西27.5m、南北22.5mである。根元から1.5mの高さで太い枝を分枝して巨大な樹形を形成し、旺盛な樹勢を保っている。
 アカガシは日本の代表的な暖帯性樹種であり、宮城県は天然分布の北限地である。実際の北限地は気仙沼市大島とされるが、県中部以北の分布は少ない。植物学的に貴重であり、その中で、本樹は県内第一のアカガシの巨木である。」(「宮城県HP」)

大亀山森林公園
 「大亀山森林公園(おおがめやましんりんこうえん)は、富谷市東部の大亀山頂上周囲の丘陵地帯、仙台北部道路北側直近一帯に設置された総合公園。
 本園は、富谷市の東部、標高118mの大亀山の頂上一帯で、仙台北部道路の北側にあり、その周辺の自然林を残しつつ、地形を生かした多彩な施設を加えて設置された。1995年(平成7年)4月に全施設が開園された(一部施設は平成3年)。総面積は約32.7ha(東京ドーム7つ分)。仙台北部道路が完工する以前の開園であり、後に公園を横断しない形で直近を道路が開通した。周囲は市街化調整区域の丘陵地帯で森林が多く残されており、豊かな自然環境を心ゆくまで楽しめる。園内には、自然遊歩道、高さ20m以上で360゜周囲を見渡せる展望台、人工芝のちびっこゲレンデ、フィールドアスレチック、キャンプ場、休憩所を兼ねる管理棟・亀亀館(モシモシハウス)などがある。又、西暦800年代にはこの地に鎮座していたと推定される鹿島天足別神社や、その境内には樹齢は500~600年と推定される、アカガシの古木も生育している。」(Wikipedia「大亀山森林公園」
大亀山森林公園展望台 「展望広場の標高と高さ20mの展望フロアを合わせて138m、階段数138段という「トミヤ=138」にちなんで建てられたシンボルタワーです。晴れた日には七ツ森や船形連峰、蔵王連峰、そして仙台平野のかなたに広がる太平洋を望むことができます。」(WS「富谷集遊」)
 先年、岡崎在住の同期千葉東君と初めて訪れたが、実に実にすばらしい、奥羽山脈、船形・蔵王・栗駒連峰の大パノラマである。地元人には意外と知られていない穴場のようなので、是非是非一訪をお勧めしたい。


第四節 ◯山田
 集落の「中央を川原田川の小川に沿った開析谷が北方に走る(中略)文和元年(一三五二)十二月二十三日付足利尊氏御判御教書(留守文書)にみえる『黒河郡内南迫七ヵ村』の一とされる。鎌倉期は北条得宗領、戦国期には黒川氏の所領とみられる。」(『日本歴史地名大系』)
 「慶長九年(一六〇四)から寛永十一年(一六三四)まで伊達宗清の知行。のち片寄氏等の知行となる(伊達世臣家譜)。(中略)寛延二年(一七四九)六代藩主宗村が当村御鶴野にて肝入西沢屋敷十郎兵衛の案内で鶴の見物に来たという。村鎮守下小屋の羽黒権現宮のほか、同所には神明宮荒神宮が記される。」(『日本歴史地名大系』)
「山田城」
 「山田にも館があったのではないかと思われる。(中略)
 岩手県水沢市の留守氏家臣のもとには、江戸時代初期の寛永年間[1624-45]から元禄[1688-1704]年間にかけての『家中由緒書上』の類が多く残されている。そのなかに、江古市左衛門・勘五郎の名が見える。この二人は兄弟のようであるが、いずれも留守政景の時期に臣従したもので、黒川山田城主であったと記されているという。江古は郷古とも書き、郷右近と音もよく似ている。それに山田と太田は、すぐ隣同士でもある。郷右近一族がこの七北田丘陵上の山村を支配して、南方の留守氏に備えたことも十分考えられる。」(『大和町史』)

普門院
 「字水吸の臨済宗妙心寺派普門院は松島瑞巌寺六世覚満を開山とする。」(『日本歴史地名大系』)
 どういう訳か、普門院は『郡誌』の記載から漏れている。

明治山田村の変遷
 後述するように、明治維新後山田村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、複雑怪奇な有為転変を重ねた。
 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡山田村
 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡山田村
 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第二小区山田村
  第二小区 穀田 成田 明石 石積 大亀 山田 太田 幕柳 小鶴沢
   九ヶ村 二等戸長 内ヶ崎直治   副戸長 安藤亀吉 小島勇吉
 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小一区山田村
  小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童
     合十三ヶ村 戸長 細川平三郎  副 佐々木文四郎
 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區山田村
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる
 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村  戸長 今野栄八
 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕  戸長 佐々木久四郎
 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡今泉外十二ヶ村
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(『黒川郡誌』)
 ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし
  鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 
 なお、小鶴沢、山田、太田の3村は、上述のとおり、維新以来常に一体の変遷をたどり、鶴巣村立村に至った。鶴巣村になっても、下に述べるように、鶴巣小学校山田分校区として、同本校区とはやや異なった経緯を辿り、俗に「南三区」と呼ばれるようになった。

山田分教場(山田分校)
 後述するように、「明治六(1873)(中略)西成田(中略)村に(中略)小学校〔西成田小学校、穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢〕を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)た。
 仝十一(1878)年小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕を設け
 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け
 仝十九(1886)年今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす
 仝二十二[1889]年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ 今泉は富谷村に属せしを以て 鶴巣村太田に太田分教場山田・太田・小鶴沢〕を設けたりしが
 廿五[1892]年に至り仝仮校舎たる慈雲寺焼失の為山田区に移転したに依り山田分教場と稱す 同時に今泉分教場廃止となる(『黒川郡誌』)。
  ♪山田の乙女に道とわば 東は成田(なんだ)か川内か♪(「黒川願人節」)
  ♪俺の浮気は まだ山田♪(「鶴巣節」)
(次の太田~舞野は東山道に同じ)


第五節 ◯奥田
 中世及び近世奥州街道(奥州道中、奥道中)は、「吉岡の東端現在天理教布教所の東側を過ぎ て〔今日の国道4号からは東に大きく逸れ〕大衡村〔奥田(オグダ)〕昌源寺に至り、〔現今の第二仙台北部中核工業団地を縦断して〕 北に向かった様子が判然としている。」(『下草郷土誌』)
宝峰山昌源寺
 「天正九[1681]年十二月仙台輪王寺六世禅徹和尚を開山となす元漆〔棋〕田にありしを今の地に移したりと云ふ其跡今尚存す開山より当住全山に至るまで実に二十七世なり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音十七番
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十七番 同〔大衡〕昌源寺 結縁に今こそめくりあふひらや みのりをしたふ人のやさしさ♪
 下って「明治一七[1884]年吉岡から昌源寺坂へ越えていた奥州街道が、西方へ迂回する現国道四号に付替えとなる。」(『日本歴史地名大系』)

奥田一里塚
 昌源寺から奥田一里塚に至る。
腰館
 「大衡村奥田下屋敷にあり黒川氏の家臣細川弥次郎之に居る」(『黒川郡誌』)。
  ♪尚も奥田と訪ぬれば 心細くも蒜袋♪(「黒川願人節」)
   ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十九番 奥田の中里 ほんぶんのおくのでんちのうねゝゝに ぼたいのたねをおろせ中里♪


第六節 ◯駒場
戸口一里塚
 ここで再び元の奥田一里塚に戻ると、やがて駒場の「戸口一里塚」に至る。
須岐神社
 須岐神社は「大衡村駒場字宮前にあり
  祭神 素盞鳴尊
 由緒 当社は延喜式内神名帳黒川郡四社の一にして往古は西方宮高森にありしを後鳥羽天皇建久二[1191]年児玉弥太郎重高なるもの茲に還座し赤崎明神と稱へ椚〔くぬぎ〕一千本を植え以て神境となす里人稱して千本椚と云ふ而して往古此地源頼朝藤原泰衡追討に際し駒を駐めて軍を稿ふ故に号して駒場と呼ぶ延享三年六月藩主伊達宗村自ら之に賽す明治[1872]五年村社に列す」(『黒川郡誌』)。

神生山雲泉寺
 「大衡村駒場字寺田に在り
  曹洞宗 道曳派
 本尊 正観世音
 由緒 永正二[1505]年僧元用なる者之を創見すと伝ふ志田郡李埣富光寺の末寺なり曾て火炎〔災〕に遇ひ全焼し爾後之を再建したるものなり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音十八番
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十八番 駒場雲泉寺 みちしわにあたるこまやはおちこちの はかまてすくふ慈悲の正観♪

小屋城
 「小屋城は大衡村駒場に在り永禄年中[1558-70]福田太郎左衛門之に住す本丸東西四十四間南北廿四間曲輪幅四間長卅間二の丸東西二十間南北十八間あり福田氏は黒川氏の家臣にして天正の末に至り滅亡す」(『黒川郡誌』)。

第七節 ◯大森

第八節 ◯志田郡
三本木
 その先で黒川郡を出て志田郡(スダグン)に入り、伊賀を経て三本木に抜ける。
 三本木の桑折城は、既述のとおり、1588年の「大崎合戦」で鶴巣城主黒川晴氏が陣取り、女婿・利府城主留守政景率いる常勝伊達政宗軍を唯一、惨々に敗走させて天晴れ名将の誉れを高くした宿縁の堅塁である。

古川(フルガワ)
 三本木を出て、ようよう古川に至る。
 古川の名生(みょお)城は、言わずと知れた黒川氏の本宗家、共に政宗に滅ぼされた斯波・大崎氏の本城である。
 ♪寒いとて焚かれぬものは三本木 雪の古川荒谷冷たや♪(「奥道中歌」)




第二章 中世後期奥大道


第一節 ◯宮城郡

沢乙






第五部 近世奥州街道(奥州道中、奥道中)と沿道郷村




奥道中歌
 ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡
  寒いとて焚かれぬものは三本木 雪の古川荒谷冷たや
  思ひきり日は高清水宿取りの 杖築館て道急ぐとは
  あれ宮野沢辺の蛍草むらに 鳴く鈴虫の声は金成
  噂する人くせ有壁に耳 口の開け閉て一の関なり
  山の目で酒飲んだ故前沢を 遂水沢と通る旅先
  今日の日も早入相の金ヶ崎 旅の疲れを相去の関 (以上仙台藩領分)
  東路を国のつつみと鬼柳 緑つきせむ千代の齢を
  紅の色争ふや花巻の 石鳥谷よりも見ゆる山畑
  時鳥声はり上げて郡山 卯の花咲けるはなの盛岡
  抜柿の渋民あれど沼宮内 宿へ土産はこれが一戸
  梅が香に風の福岡打こえて 春の眺めはせん金田市
  三の戸をたち行く旅の麻水や 五の戸に過ぎて伝方寺宿
  七の戸やけふの細布細からぬ 広い野辺地に人の小湊
  旅先春の野内に一夜ねむ 薫に交る草の青森
  降る雨に流す桐油の油川 日和になるは飛島あさてか
  掬む酒の左関とて旅人の よい中沢に泊まる相宿
  咲き初むる花の蟹田も長閑さに 野田かと思ふ春の平舘
  昔より今別なれや三馬屋の 往来賑ふ人を松前♪
(作者不詳/1819文政2年国分町伊勢屋半右衛門記録)

江戸道中往来
 ♪長町や中田の馬を増田まで もの岩沼に槻の木の土手
  船迫こひしき人に大河原 かわらぬいろをちぎる金ヶ瀬
  宮たちはさも白石の鐙越 犀川なれど越河の席
  とをせ馬子貝田ときけど藤田まで 桑折もかろし瀬の上もよし
  福島は名どころなりけり根子町を 若宮なれどぢゞがたくやど
  濁さけ八丁の目は二本柳 油井立れども足はよろよろ
  二本松に杉田るものは本宮の 女の唄の声は高倉
  けふの日も日和田と聞ばふるゆきの かぜ福原に手も郡山
  小原田てふかす酒めし日出の山 その笹川を飲めば須賀川
  笠石くきなれしすねに久来石 すえは矢吹にはやひ大和久
  われかゝにませをふませて大田河 小田川やゝもだゐて根田とは
  白川をよぶねてゆけば白坂や 芦野もくらく越堀のしゅく
  鍋掛てかんするさけに大田原 のむやまき絵の花の作山
  おもひきややれ菅笠を喜連川 氏家よしある人のあとゝは
  白沢や御先は何所を宇津の宮 雀の宮もしとゝ立道
  石橋ではさみきられぬ小金井も くひゝゝ行ば芋辛のしゅく
  小山さり侭田そたちの野水やらう 古河しこそうな馬の追振
  けふの日も中田でひるを栗橋や 幸手杉戸ときけば御泊
  粕壁ときくもかゐなきかたくちに にごり酒とて笊で越谷
  草賀もし千住のちかひあさからぬ 浅草川のすえは深川♪
(作者不詳/1816文化13年記録)



第一章 熊谷道〜富谷道〜志戸田道/富谷宿・富谷代官所



第一節 ◯宮城郡
国分町
七北田

第二節 ◯熊谷
瑠璃山熊谷寺
 「富谷村富谷字大清水下にあり
  曹洞宗 明峰派
 本尊 観世音  本寺 吉岡天龍山中興寺
 由緒 天正六[1578]年本寺中興寺七世異巌文秀之を開く」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音二十九番札所

大清水
 「富谷村熊谷に大清水と稱する所あり伝へ曰ふ新妻豊前従者の渇を医せんとして持鎗の石突にて岩を撞きしに寒水茲に湧出たりと獅子〔山〕公吉村巡狩に際し用水となす享保二[1717]年新妻亀六といふ人石盥を作り之に銘文を刻せり国道往来の人必ず之を掬せり」(『黒川郡誌』)。「昭和62年、町の有形文化財に指定され、平成元年(1989年)に、国道改修のため従来地より南へ約100メートルの場所へ復元されました。」(「富谷町HP」)
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十九番 同〔富谷〕きよ水 かせなくはなみよるへしやたに川に わたれはすゝしきよ水の月♪


第三節 ◯富谷(新町)
 「往古当村熊谷字宮の沢に宮十社ありしを以て此の地方をトミヤと稱し文字にも十宮と書きたりしが後之を富谷と書き改めたりと云ふ十社の内日吉神社のみ残りしが明治四十一(1908)年熊野神社に合祀せり
 熊野神社も亦この十社の内にて熊谷にありしが富谷に遷したるものなりと云ふ 宮の沢には十宮建立の跡今尚存せり」(『黒川郡誌』)
 「当時の町場としては吉岡に上中下の三町富谷新町大松沢に上町下町ありしのみ」(『黒川郡誌』)。

松沢山湯船寺
 「富谷村富谷字根崎沢にあり
  曹洞宗 明峰派
 本尊 釈迦如来  本寺 吉岡天龍山中興寺
 由緒 天正四[1576]年八月三日吉岡中興寺七世異巌文秀和尚之を開基す元富谷字湯船沢にありしを八世心海覚舟に至て明和二[1765]年八月茲に移したりと云ふ
 明治二十七[1894]年七月十二日富谷山観蔵寺に合寺す観蔵寺も亦異巌文秀の開く所後世堂宇破滅に帰す」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音二十七番札所
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十七番 富谷湯船寺 くわくとふもふけはいつみとそのままに 唯はてしなきみちとしるへし♪
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十八番 同觀藏寺 くわんすれはうきよのほかになにもなし けそうせかいもみたの浄土も♪

熊野神社(富谷)
 「富谷村字町に在り
 祭神 熊野夫須美命 伊弉諾命 伊弉冊命
 由緒 勧請年月を詳にすること能はず往古現今の社地より西方に当れる所に鎮座ありたりしを伊達政宗当地開通に際し茲に遷座したるものなりと云ふ明治[1872]五年一月村社に列す(中略)
 合祀神社左の如し
  富谷村無格社日吉神社(中略)
 由緒 承久年中[1219-21]比叡山より勧請黒川三社の内にして往古は大社」(『黒川郡誌』)。

<富谷宿・富谷代官所>
本陣内ヶ崎氏
 「鶴巣城主黒川晴氏の老職〔黒川三家老〕内ヶ崎筑後といふものあり幕柳邑に住す天正年晴氏滅び筑後処士となる 元和四[1618]年伊達政宗富谷町を置く筑後を召して検断に任す 改名織部と稱す才幹あり父老を招き田宅を開き駅逓に利す〔1620(元和六)年開宿〕 官之を賞して丁役を免し印契を賜ふ 家又世々本陣を務む
 三代作右衛門に至り肝入に任じ超えて黒川郡大肝入となる後代々概ね此職に任ず二代作右衛門寛文元[1661]年酒造業を始む文化九[1812]年酒を藩主に献じ翌年春霞初霜等の銘を賜ふ家屡々金穀を献じて藩用を弁し私財を給して窮民を救ふ藩主巡狩に際すれば必ず謁を賜ひて之を賞す筑後より豊一郎に至る十三代酒造を業とす支族多く家富む氏志あり当時海外貿易に従事せり」(『黒川郡誌』)。

脇本陣気仙屋
  脇本陣跡 本陣に次ぐ格式が求められる脇本陣を務めたのは、名望家の気仙屋でした。1876年と1881年の東北北海道行幸で明治天皇が御小休なされたこともあり、その部屋は現在も保存されています。」(「富谷町WS」)
 実は、気仙氏は私の従姉の嫁ぎ先で、維新後は越中富山の置き薬屋などの商人宿として繁盛し、近年まで営業していた。

代官松
 「富谷中央公民館が建つ場所には、かつて藩政時代の〔明治三(1870)年~〕黒川一円を管轄する代官所がありました。その玄関先に当時から植えてあり、長年に渡って親しまれてきたクロマツの木が、この「代官松」です。推定樹齢200年の銘木で、郷土の象徴として町制施行の年である昭和38年(1963年)に町の天然記念物に指定されました。」(「富谷町WS」)
「富谷宿」
 「国の文化審議会は17日、富谷市富谷新町の地場産品販売所『富谷宿』を有形文化財として登録するよう萩生田光一文部科学相に答申した。明治時代後期に建てられたとみられ、宿場町の風情を現代に伝える貴重な建物として現在も親しまれている。近く官報に掲載され、正式に登録される。有形文化財の登録は黒川地域で初めて。」(2020.7.22「大崎タイムス」
<近代富谷村>
富谷公園
 「富谷村富谷市街地東部の丘陵に依り経営したるものにして土豪内ヶ崎所有の地面を充当したるもの多く植うるに花木緑樹を以てし四阿〔あずまや〕を構へ新道を開き頌徳記念碑等を建てゝ後昆〔こうこん、後世〕を導き施設甚備はれり梅桜海裳〔かいどう〕花の絶江ることなく秋陽紅葉の観特に美なり西方遥に七巍峰の聳ゆるあり一度杖を茲地に曳かば世塵忽ち脱却して心気自ら清爽転々仙境の想あり」(『黒川郡誌』)。
高森山殉職碑
 「富谷村富谷〔・鶴巣村別所の境〕なる高森山に殉職碑あり〔中学の富谷遠足の帰途、高森山中で迷いかけた思い出がある〕文に曰く
     殉職碑
 細川今朝吉君は慶応二(1866)年富谷に生る富谷郵便局集配人の職にある十数年精勤の誉れあり 本年一月寒威凛冽降雪連日交通殆と断絶す十四日西風加はる君午後一時職務の為鶴巣村に至る行路大に苦む薄暮帰局せんとて高森山を過ぐ時に吹雪起りて呎〔せき(フィート〕)尺を弁せず失脚して山腹に墜落す白雪腰を埋めて止む能はず樹枝を折り暖を取らんとするに容易に点火せず終に感覚を失ひて凍死す享年五十 悲い哉余東京に於て報に接し之を嘆き且つ殉職を壮とす早稲田大学東京帝国大学基督教青年会統一教会戸板女学校有志及び藤崎テフ子等に訴へて若干円を得たり仍〔よっ〕て君が永眠の地に建て記念とす
     よしや君吹雪の中に埋もれても
       名は高森と人に仰かる

  大正四[1915]年九月  内ヶ崎作三郎撰并書」(『黒川郡誌』)

富谷隕石
 「富谷隕石は1984年8月22日、宮城県富谷市(当時は富谷町)に落下した隕石である。 民家の濡れ縁に干してあった女児の衣類の上にパシッという鋭い音とともに25mm程度の1個の黒い石が落下したとされる。近所を探すと隣家の物置の屋根の上にもう1個の黒い石が発見された。それぞれ19.2g、8.3gで、2個を合わせて重量は27.5gであった。衝撃音や光は目撃されておらず、落下直後は生臭いにおいがしたという証言がある。 H4、H5に分類される普通コンドライトである。2000年までに日本で発見された隕石としては、1849年に長崎県福江市に落下した鉄隕石である福江隕石の8gについで最も小規模な隕石である。国立科学博物館に保管されている。」(Wikipedia「富谷隕石」)
「富谷隕石」を特別展示 「富谷市は〔2018.6.〕27日、まちづくり産業交流プラザ「TOMI+(とみぷら)」(同市富谷新町)に7月1日に移転オープンする富谷市民俗ギャラリーで34年前に富ケ丘地区に落下した『富谷隕石』を特別展示すると発表した。県内唯一の隕石で、同市に戻ってくるのは今回が初めて。展示は9月2日までで、7月1日はだれでも無料で入場できる。富谷隕石は1984年8月22日午後1時35分に落下。当時の報道などによると、1個は民家の物置のトタン屋根、もう1個は隣家の縁側のパジャマの上で見つかった。翌日に国立科学博物館(東京・上野)が鑑定し、同博物館で保管、展示されている。隕石はこれまで国内51カ所でしか見つかっておらず、特に富谷隕石は約1日後には専門家の手に渡り、大気に触れていた時間が短かったため宇宙にあったときと同じ状態を保っていて貴重とされる。4年前[2014.7]に仙台市天文台で展示されたことはあったが、富谷市では初めて。」(2018.6.29「大崎タイムス」
  ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡♪(「奥道中歌」)


第四節 ◯三ノ関
ぼうふり田
 馬場沢「ぼうふり田伝説」つについては、既に下草の節で述べたので割愛する。
独尊山威徳寺
 「富谷村三ノ関字馬場沢
  曹洞宗 明峰派
 本尊 釈迦如来  本寺 吉岡町天龍山中興寺
 由緒 慶長十七[1612]年七月二十四日吉岡中興寺七世異巌文秀和尚之ヲ開創すと云ふ」(『黒川郡誌』)。
 独尊山威徳寺は、1616年伊達宗清の下草退居にわずかに先立つ1612年、当時志戸田にあった天龍山中興寺住職によって開かれた(鶴小時代は児玉泰雄先生が住職)。
 既述のとおり、下草は宗清の吉岡転退により無寺社の村になり、今日に至るまで、この隣村三ノ関威徳寺を菩提寺としている。また、同年当の本山中興寺も、志戸田から吉岡の現在地に移転した。

 
第五節 ◯志戸田
 既述のとおり、「四斗田より出でたり仝地字森下に三坪程の小き田あり昔此の田より米四斗を得たればとて此の田を四斗田と稱し来り今となりても此田には肥料を入れず極めて清浄に作り毎年田植の節は白弊を供へ又神社神輿の下りて此所を通る時は塩を撒き浄め此田より得たる米は他に用ひずして神社に供ふるものとす志戸田と改稱したるは何年頃よりなるかを知る由なけれども四斗田屋敷と稱する所は今尚存せりとぞ以上安永風土記にみえたり」(『黒川郡誌』)。
行神社
 行神社(ゆきじんじゃ)は「富谷村志戸田字塩釜に在り
 祭神 猿田彦命
 由緒 延喜式内小座の神なり然れども其勧請年月を知るに由なし明治[1872]五年一月村社に列す郡の大領鞆大伴連〔むらじ〕の祖廟なるべしとの説あるも其真否を知らず」(『黒川郡誌』)。

馳取城
 「馳取城(又作端取)は富谷村志戸田に在り黒川安岐守の長子長三郎春氏之に居る東西五十四間南北四十二間」(『黒川郡誌』)。
片葉草 「富谷村志戸田塩釜殿下なる池に生ずる片葉なり
 又此池に産する鮒は片目なりと云ふ」(『黒川郡誌』)。
志戸田用水隧道
 「志戸田用水隧道は、宮城県富谷市志戸田にあった農業用水用隧道(トンネル)で、主に富谷市志戸田地区、大和町舞野地区に水を供給していた。現在は使われていない。
 全長約2750mの用水路のうち、合計約600mの3つの隧道があり各々、縦横120㎝ほどの四角い構造となっている。隧道内部の地肌はむき出しとなっているものの、水によって浸食されることが少なくなるよう、又、浮遊物が隧道内に滞って詰まり、水の流れの妨げとなることがないような工夫が随所になされていて、長年の使用に耐えうる構造となっていた。
 1号隧道 約120m  2号隧道 約130m  3号隧道地図 約350m
 1736年(享保21年)仙台藩志戸田村(現:富谷市志戸田)などの肝入だった、千坂半左衛門の主導で吉田川の綱木堰から志戸田村や舞野村の水田の水不足解消の為に千坂家個人の私財を投入し、用水堀の掘削に着手した。地盤の弱い個所の水路は度々の吉田川の氾濫で、堀自体が土砂で埋まったり、川自体の浸食作用で削られるなどして使用に耐えなくなる為に、全工程、約2750mのところ、3箇所に於いては、隧道を掘って、川の氾濫時にも耐えうる構造とせざるをえなかった。工事は困難を極め、千坂半左衛門の子、孫が工事を引き継いだ。
 1786年(天明6年)頃 およそ50年の歳月をかけ完成し、通水が開始された。
 1987年(昭和63年) 新らしいコンクリート製の新用水路に置き換えられ、当時の用水路は使用を終え埋め立てられ、トンネル(隧道)は閉鎖された。閉鎖後は一部を地元、富谷市が管理している。
参考文献 浅野昭一『水利を開いた千坂一族』 創栄出版」(Wikipedia「志戸田用水隧道」)

千坂半左衛門
 千坂半左衛門(元禄15年(1702年) - 安永5年(1776年))は、江戸時代の陸奥国仙台藩領黒川郡志戸田村(現:宮城県富谷市)、舞野村、蒜袋村、高田村(いずれも現:大和町)4ヶ村の肝入(庄屋)、後に黒川郡の大肝煎。今村(現大和町吉岡)に一家を創設した黒川郡の大肝煎千坂仲内の実父。
 1702年(元禄15年) 黒川郡志戸田村(現:富谷市)に生まれる。
 1735年(享保20年) 父の跡を継ぎ、志戸田、舞野、蒜袋3ヶ村の肝煎となる。
 1736年(享保21年) から、志戸田用水隧道を掘るなどして志戸田、舞野、蒜袋、高田4ヶ村の水田耕作用の水利を開く土木工事に着工、それを指揮した。
 1743年(寛保3年) 高田村の肝煎を兼帯する。
 1754年(宝暦4年) 藩庁より表彰される。
 1755年(宝暦5年) 肝煎を辞す。黒川郡の大肝煎となる。
 1760年(宝暦10年) 黒川郡の大肝煎を辞す。
 1763年(宝暦13年) 仙台藩から表彰される。
 1776年(安永5年) 8月、志戸田用水隧道通水を見届けることなく死去。
 1786年(天明6年)頃 志戸田用水隧道に通水が開始される。これでおよそ160町歩(160ha)の水田が良田になった。
 1988年(昭和63年) 志戸田、舞野地区の用水受益者一同が、志戸田地内三ヶ森の千坂家の墓前に集まり厚恩に感謝した。
 1994年(平成4年) 富谷町教育委員会(当時)により顕彰の標柱が建てられる。」(Wikipedia「千坂半左衛門」)
  ♪七つの薬師に願かけて 沖を遥かに眺むれば
  一、二の関や三の関 過ぐればすぐに四斗田村♪(「黒川願人節」)



(続く)


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