目次に戻る 前のページに戻る
InterBook紙背人の書斎
ページの最後へ進む
次のページへ進む
姓氏家系総索引



結の部 名古曽(勿来)関




  みやこには 君にあふさかちかけれは なこそのせきは とほきとをしれ 源 頼朝


第一章 名古曽(勿来)関


第一節 「幻の勿来関」論争

佐々久監修『利府町誌』
 なにはともあれ肝心要の地元利府ではと、手始めに「佐々久監修/利府町誌編纂委員会編纂『利府町誌』1986年利府町発行」(2014.6.10作並温泉同期会後利府一円をご案内いただいた、奇しくも利府町沢乙在住の同期掘越(旧姓大友)つめ子さん・幸一さんご夫妻から拝借した)を繙(ひもと)いてみると、豈(あに)図らんや、1032P.に及ぶ大部冊中「勿来関」についてただの一顧だにせず、完全に黙殺している(利府町ホームページもまた、みごとに前輪の悪轍を踏んでいる!)。僅かに「第十五章神社と寺院/第一節利府町内の神社/一、利府町内に奉祀する神社」に「6、勿来曽神社」の小項を設けてはいるものの、「左右に関があったというのは頷けない。
 かつ封内風土記には見えぬ神社で、もとは名古曽囲の伝右衛門の屋敷神にあらざるか。」と、にべもない。曰く、「もとここに『山神』の関があった。往時惣の関屋敷に住む郷民の伝右衛門という者が願主となり、村の肝入りが先に立って、今の『惣の関』というところに勧請したのである。『惣の関』という名は、もとは『左右之関』であって往古から関所のあったことが伝えられている。しかるに安永(1772-80)の頃の風土記書上げの折『惣の関』の字に書き換えるように申付けがあったので、今の『惣』の字に書かれるようになって現在に至っている。
 もとの『山の神』が『左右の関』のある所にあるので関の神として祭祀するようになったのである。
 これは約九百年代から、藤原秀衡の代まで『左右の関』があったので、この山際から北は津軽、南部方面への山街道が通じてあったので昔の往還道路であり、秀衡の四十八鐘の一つである一里毎の鐘の『鐘撞堂樓』のあったのは、上下水道旧浄水場のすぐ南の小丘である。
 そして西は『鳥(と)ヶ崎館』といい、高森に鎮守があった頃、この関の東が『秀衡の関』といわれてあったのだが、後『左右が惣』となり溜池の名にまで名付けられるようになった。
 この『名古曽』も関があって『勿来』という意義が分り、往時陸奥国には勿来の関が三カ所もあったという。
 一つは東北〔?〕常磐線の大平洋沿岸に面する有名な『勿来』(なこそ)であり、また常陸の国境にも山の中に遺跡があり、最後にわが町の『ナコソ』である。これから北方へは来るなという意味で関を設けたものと思われる。
 後世、前述のように惣の関屋敷の伝右衛門なる人が、昔を偲び『なこそ』名を忘れがたく、元和三(1617)年十月十二日(約400年以前)奈古曽神社を勧請建立したのである。」(『利府町誌』)
 文体が非論理的で、文旨もはなはだ不明確なのは割り引くとしても、何をか況んや。
 「利府町観光協会」もこれまた輪をかけて情ない限りで、「佐々迷説」にありがたく踏襲し、なんら恥じることなく無批判に追随するばかりで、臆面もなく天下に醜態をさらしている。
 「参考までに、陸奥国の勿来の関は、福島県いわき市南方の勿来の関が通説となっています。
 江戸時代の古文書によれば、(中略) それ以前の古文書の地名にも、「そうの関」「名古曽川」がありますので江戸時代の言い伝えも間違っているとはいえないのではないでしょうか。」(HP「利府の歴史探訪 史跡」
 いやはや、屋上屋を重ねるにも、程があろうに!

勿来関論争
 踵(きびす)を返して、片や「幻の勿来関論争」の当事者であるいわき・福島県の論者に聞くと、
 「現いわき市勿来町関田字関山に、最初に、勿来関の擬定地を求めたのは、江戸時代に入って、十七世紀後半、当地を治めていた磐城平藩主二代内藤忠興が、儒臣葛山為篤に命じて編纂させた『磐城風土記』の中であった。その後三代藩主内藤義概〔よしむね〕(号風虎、俳人)が、山桜の植林等を命じるなど、環境整備に努め、『勿来関は、磐城にあり』がしっかりと、定着することになる。
 これより遅れて、『名古曽関(勿来関)は、宮城利府にあり』と、『奥州名所図絵』や『塩松勝譜』が書き出し、本家争いが始まることになる。」(菅原文也『 菊多〓〔戔に刂〕と勿来関の検討』いわき地方史研究第45号)
 「この関は『曽の関』、『惣の関』とも呼ばれ、舟山万年著『塩松勝譜』巻十に、『昔は多賀城よりこの関を経て、奥地へ通ず、山上桜樹多く花時遠望すれば雪の如く雲の如し、八幡公東征の日、国風を賦して賞する処か、勿来関は奥州の界なり』と見える。
 また、『奥州名所図絵』巻之二『仙台之宮城郡二』に『奈古曾関陣蹟』についての説明を載せている。その周辺には名古曽関山(勿来山)・名古曽川(勿来川)・勿来関神社・山神社の所在が、知られている。正に、勿来関の条件は備わっている」(『 菊多〓〔戔に刂〕と勿来関の検討』)。
 時を経て、「国営飛鳥歴史公園発行の歴史公園情報誌『史(FUBITO)』(2006)の『歴史ものがたり 奥州三古関について』には
 平成元年(1989)以降、齋藤利男氏や平川南氏など東北大学出身の研究者のうち数人が、勿来関を宮城県の利府町に比定しています(中略)
 と記されています。」(『蝦夷と「なこその関」』)
 間もない「平成 4[1992] 年 6 月24 日河北新報の論壇に『勿来関論』(里見庫男氏)が掲載され、『いわきに おける勿来の関は、江戸時代中期平藩主内藤義概(俳号風虎)が文学の世界の関として、 仙台周辺の野田の玉川、緒絶の橋など名所旧蹟を磐城の地に擬定したもの』と述べていま す。宮城としては、文化財関係者等の対応が望まれるところです。なお故里見氏は、いわき湯本温泉老舗旅館・古滝の前社長で、福島県教育委員長等も務めた福島県の重鎮でした。」(花房宏行「みやぎ街道交流会勉強会『仙台北部の古道と史跡』要旨」みやぎ街道交流会ニュース第29号)

黒沢賢一『伝説のふるさとを訪ねて』
 そして2008年、冒頭でも触れた歴史伝説研究家黒沢賢一『伝説のふるさとを訪ねて』は、すこぶる明快に述べている。
 「宮城県利府町。そこは、奈良時代から平安時代にかけて「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた陸奥国府・多賀城が置かれた時には、まさに多賀城の北に位置していた。多賀城は、中央政府の支配に属さない地域、そしてそこに住む人々(「蝦夷」と呼ばれる)を取り込んでいく役割も担い、政治だけでなく軍事の中心(鎮守府)でもあり、そこから北へと攻め込んでいくための拠点でもあった。その多賀城の北を守り固め、蝦夷からの攻撃を阻止するために多賀城設置と同時に利府町森郷に置かれた関所が「名古曽(勿来)の関」である。
 当時、森郷は北へと通じる「山道」「海道」の二つの街道が通る要所となっていて、その峠道は、古代から続いていたとされる。関所があったと伝えられる場所のすぐそばには「勿来川」が流れていて、そこにある山は「勿来山」と呼ばれ、勿来桜が咲いていたと江戸時代の名勝旧蹟誌にある。「名古曽(勿来)」の地名は、江戸時代だけでなく、それ以前の古文書にも記述があり、その「来てくれるな」という意味にもとれる地名は、「北方にいる蝦夷よ、攻めて来ないでくれ」と願った守人たちとの思いとも重なった。また、付近には今も「惣の関」という地名が残っているが、それはもともとは、北へと続く山道と海道の左右に道が分かれるところにあった関所を意味する「左右の関」と書き、道の分岐点を表していた。
 しかし、中央政府の支配領域が拡大していくと、それにともない、軍事の拠点は北上。坂上田村麻呂がアイテル〔アテルイ)率いる蝦夷軍との戦いに勝利して、802年に鎮守府が胆沢城に移ると、蝦夷がここを攻めてくる心配はなくなり、それとともに関所は廃止された。
 こうしたことから、地元では、源義家が詠んだ「吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな」の歌も、後三年の役(1083-87)の際に、国府だけがそのまま残されていた多賀城から、かつて関所が置かれていたこの場所を通って北へ向う途中、あるいはその帰り道に詠んだものだと伝えられてきた。
 勿来の関は、そこを過ぎれば深い山へと入っていく、そのすぐ手前の山裾にある。今では後方に「惣の関ダム」ができ、また、周辺の道路も整備されて、勿来の関があったと伝えられる場所には、小さな祠が建てられ、その中に「山神の碑」と「勿来曽神社の碑」。そして古道の名残が、かすかに残っているだけで、地元の人に話を聞いても、「勿来の関は、福島のいわきにありますよ」と答えるばかり。かつてここに関所があったということを知る人は、ほとんどいない。
 調査のために、利府町郷土資料館、コミュニティーセンター、図書館などの公共施設を訪れ、職員に尋ねても、それぞれの施設から車でわずか5分ほどのところにある勿来の関があった場所さえ、だれ一人答えられなかったのには驚かされた。地元の資料には、様々な記述があるのだが、時の流れは、地域の歴史を人々からは完全に風化させてしまっていた。
 しかし勿来の関は宮城県利府町にあった。それが史実だろう。では、どうしてその関が、いわきにあることになってしまったのだろうか。」(平成20(2008)年5月23日金曜日「いわき民報」掲載)
 さすがに、2013年6月現在当地の認識もかなり改められているようで、「利府町郷土資料館(中略)内の史跡案内を見ると、福島県いわき市にある勿来の関跡が当地にもあることは意外だった。案内の方が『勿来とは“くるなかれ”という意味で、エミシが攻めてこないようにと願ったもの。利府の方が本命です』(中略)と教えてくれた」(「ナシの名産地・宮城県利府町」)ことを、利府町民の名誉のために付記しておく。
 頭書のごとく偶然の機会から「小鶴沢長根街道一里塚」の存在を知り、「勿来関」のことを調べ始めてから、決定的な確信を抱かせられたのが、この論稿との出会いであった。


第二節 『蝦夷と「なこその関」』
菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』
 時に氾蠡(はんれい)無きにしも非ず!
 ゆくりなくも本稿の仕上げにかかりつつあった2014年4月30日、「菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版」が刊行された(これもまた、相澤君が河北新報所載の記事を一報してくれた)。本書を一読、その緻密な構成と明解な論理には深い敬意を禁じざるを得ず(『利府町誌』とは雲泥の差である)、その古代東北軍事・交通史の基本的・体系的知見は、拙稿の基本的論旨の整理と一部変更を余儀なくさせた。
 利府町郷土史会会長・宮城県地名研究会理事・仙台郷土研究会会員である著者は、「あとがき」で率直に、「小稿を執筆中に私自身も『なこその関』はやはりいわき市にある『勿来関』ではないかと思われて、執筆を思いとどまったことが何回かありました。」と告白しながらも、「勿来関論争」に真正面から挑み、「律令国家は多賀城を蝦夷の攻撃から防御するために蝦夷の地(多賀城碑には蝦夷国とある)との境に関を設置したと思われ、その場所がアイヌ語で『ソウ(滝)』と呼ばれたところと見られます。現在は利府町で『惣の関北』と『惣の関南』と呼ばれていますが、関はこの二つの地名が接するところに置かれたと考えられます。」と、明解に断じている。
 長文の引用になることをお許しいただくと、曰く「多賀城がつくられた六年前の養老二(718)年五月に陸奥国を割いて岩城国石背国を分置していますが、(中略)私は二国を分置したのは官道の東山道と東海道を陸奥国内に延長させる工事のためで、陸奥国には多賀城の造営に専念させるためだったと考えるのです。(中略)
 岩城国と石背国は多賀城が完成した神亀元(724)年頃には再び陸奥国に戻されたとみられ、(中略)石背国司には白河関からの東山道を、岩城国司には菊多関からの東海道を、それぞれ延長する工事を担当させたと考えられます。(中略)
 それから岩城国がおかれた三年後の養老五(721)年十月十四日に、陸奥国が石背国に接した柴田郡(現宮城県柴田郡)の二郷を割いて苅田郡を新設しているのも、石背国からの東山道を苅田郡内に通して玉前〔たまさき〕駅に接続させる工事を担当させるためではなかったか、と思われるのです。(中略)
 さらに多賀城でもこれらの官道建設にあわせたかのように、政庁と官道を結ぶ支路(東西大路)の建設が始められたとみられます。(中略)
 この政庁前からの道(南北大路)は多賀城ができる三年も前に、官道と接続する工事が始められたとみられるので、陸奥国の官道建設はやはり二国が分置された養老二(718)年から養老五(721)年頃にかけて建設されたと考えられるのです。(中略)
 多賀城に通じる官道の建設は東山道よりも東(あずま)海道の方が早かったと考えられ、そのために多賀城以北に『あずま海道・海道』と言う地名がところどころに残されていると思われます。
 東(あずま)海道と呼ばれたのは東海道と区別するためで、岩城国がつくられたときに常陸国から延長された東海道が、東山道の行政区の陸奥国内を通るという矛盾を解決するために、字は同じでも東(あずま)海道と呼んだことが考えられます。(中略)
 『後三年の合戦』(1083-87)で奥州の覇者となった奥州藤原氏初代の清衡が、最初に手がけた事業は合戦で荒廃した白河関から外ヶ浜までの陸奥縦貫道を再整備することでした。『吾妻鏡』文治五(1189)年の『関山中尊寺事』には、『清衡六郡を管領の最初これを草創す。まず白河関より外浜に至る廿余ケ日の行程なり。其の路一丁ごとに傘卒塔婆を立て、其の面に金色の阿弥陀像を図絵す。』とあります。(中略)
 その道が奥大道と呼ばれたのは奥州縦貫の大道だからか、あるいは奥郡まで通じていたからと思われます。(中略)
 文治五(1189)年八月(中略)十二日夕に多賀国府で海道軍と合流した頼朝は、十四日に泰衡が玉造郡にいるとか、あるいは国府中山上(なかやまのうえの)物見ケ岡に陣取っているという情報があったために、配下の小山朝政、下河辺行平を多賀城から黒川に駆けつけさせました。
 しかし、朝政らが着いた時にはすでに泰衡は逃げ去った後で、四、五十人残っていた郎従が応戦したものの首をとられたり生け捕りにされています。国府中山上物見ケ岡というのは、宮城郡の利府町から黒川郡の〔大和町・〕大郷町に通じていた東山道(板谷道)にあった丘陵と思われますが、その場所は今でも不明です〔小生案ずるに、吉田・鳴瀬川合流点とJR品井沼駅のほぼ中間、東北本線鉄橋東の松島丘陵最北端の要害の地(すでに宮城郡松島町に入っているが)に「物見山(45.35m)」がある。悲しいかなご多聞に漏れぬ山砂採取で、ここもまた消滅寸前の無惨なありさまではあるが〕。
 郎従を討伐した後の小山朝政と下河辺行平は『吾妻鏡』によると『朝政が行平に、『大道(奥大道)を経て先の道で本隊と合流すべきか』と問うと、行平は『(頼朝が行った道を)早く追ってかの所(玉造郡の合戦のことか)に参るべし』と答え、頼朝の後を追う道のことで話し合っているので、利府から黒川郡に出る道が奥大道のほかに、頼朝の行った道があったことがわかります。
 そして朝政が『奥大道を経て先の道で合流』といっていることから、奥大道が頼朝の進んだ道と合流しているのがわかります。その道というのは、利府の沢乙〔さわうと、サウド〕から大和町小鶴沢に行く尾根道のことと思われます。
 長根街道 長根街道が奥大道に接続していたことをうかがわせる記事がほかにもあります。それは前に紹介した留守家文書の留守(余目)家政が、孫の家明に土地を譲渡したときの『浄明の経界状』で、そこには『栖屋内ノ目の北の嶺筋を西へ、奥大道に至す。これは往古の境なり』と書かれています。
 栖屋〔すみや〕は利府町菅谷のこと、内ノ目は菅谷の東北にある森郷〔もりごう〕内ノ目のことで、その北にある嶺筋というのが長根街道のことと思われます。長根街道を西へというのは現地を歩くとわかりますが、長根街道は黒川郡大和町の松島丘陵南端の一部が利府町に長く突き出た尾根にある道です。その道は利府町の沢乙深山(しんざん)から深山坂を登るものでしたが、その坂道は万歳したくなるぐらいの急な坂が続くので万歳坂とも呼ばれたのでしょう。
 深山坂は宅地造成で現在はなくなりましたが、深山坂からの尾根道を北に進むと郡境にでて、そこを越えるとまもなく道は西に向かうので『嶺筋を西へ』というのはこのことと思われます。
 西に向かった道はほどなく北上して現在は小鶴沢集落があるところを通り、さらに北進した先で奥大道に合流したと思われます。
 一方、板谷道を通って黒川郡に入った奥大道は大郷町東成田と大和町小鶴沢の村境にそって西に進み、遠仙道(東山道の転化した字か)という地名が残る太田あたりで長根街道と合流したと考えられます。
 多賀城から利府の深山坂に向かう道が伊豆佐比売〔いずさひめ〕神社の脇を過ぎるとすぐに沢乙地区になりますが、そこに「大道」と呼ばれる地名〔お世話になった同期旧姓大友つめ子さん宅も〕があるので、かつては東山道や奥大道が通っていたことをあらわしているようです。(中略)
 この長根街道は奥州街道ができるまで南部(岩手県)に行く南部道(南部海道)として使われたとみられます。(中略)
 『なこその関』は白河関や菊多関と同じように蝦夷侵入防御の関として蝦夷地との境に設置されたと見られ、その設置年代は伊治君砦麻呂の反乱(780)のあとと考えられます。反乱のときに蝦夷が容易に多賀城に侵入できたのは関がなかったからで、そのため蝦夷防御の関が造られるようになったと思われるのです。
 乱後の延暦元(782)年に万葉歌人で有名な大伴家持が鎮守将軍兼陸奥按察使として多賀城に着任、多賀城防衛強化のために多賀階上(はしかみ)の二郡を設置しました。この二郡は蝦夷地境の『そう』に関を設置し、そこの関守をさせるために置かれたと考えられます。
 この『そうの関』そばには倭人が『なこそ』と呼ぶ地域があったので、『そうの関』が『なこその関』と呼ばれるようになり、平安時代になって『なこそ』が『来る勿れ(来ないでください)』という意味で使われると、その言葉のおもしろさから『そうの関』は『なこその関』として歌人に詠まれるようになったと考えられます。(中略)
 〔『そうの関』の〕文献史料上の初見は室町時代の『留守家旧記』(『余目文書』)にあるもので、応永年間(1394-1428年)の記事に『朔(さく)の上(私注:大崎氏六代目持詮)様、宮城へ駆賜ふ。府中山、板谷とをりて、大木をきりふさぐといえども事ともせず。そうの関へ御出張候間、留守殿おそれたてまつり陣を引退賜う』とあり、(中略)
 この記事から辺郡の黒川郡大崎地方から宮城郡に来るのに国府中山の板谷を通り『そうの関』に至ったことがわかりますが、このルートは古代の東山道で平安時代には奥大道と呼ばれた道と考えられます。(中略)
 アイヌ語地名が宮城県北部から北東北地方にあることは知られていますが、利府町にもアイヌ語地名がいくつか存在していて、『惣の関ダム』の『ソウ』をはじめダム周辺に〔板谷〕『イタヤ(アイヌ語でもイタ・ヤ)。板のような丘』、〔鷹戸屋山〕タカトウヤ(タク・トク・ヤ)。丸く盛り上がった陸』、(中略)〔加瀬〕『カセ(ワッカッセ)。水が豊富に湧き出るような土地』、〔利府〕『リフ(リッフル)。高い岡』などがあります。(中略)
 それでは『そう』は何を意味するアイヌ語なのかと言うと、『菅野茂のアイヌ語辞典』には『滝』とあります。(中略)
 滝があったと言う文献上の記録はありませんが、子供の頃(戦前)に滝で水遊びしたと地元の老人が話していたので、場所によっては名古曾川に滝が残っていたのです。(中略)
 律令国家は多賀城を蝦夷の攻撃から防御するために蝦夷の地(多賀城碑には蝦夷国とある)との境に関所を設置したとみられ、その場所がアイヌ語で『ソウ(滝)』と呼ばれたところと見られます。現在は利府町で『惣の関北』『惣の関南』と呼ばれていますが、関はこの二つの地名が接するところに置かれたと考えられます。
 現在そこには関の痕跡などが見当たりませんが、その辺りに未発掘の古墳・古代の『薮下遺跡』(森郷字関北)や北西方角の丘陵斜面に古代の『円福寺遺跡』もあるので、関に関係した人達が居住していたのかもしれません。
 そして関は黒川郡以北の奥地に通じる東山道上に設置されていたので、実質的な蝦夷地との境はこの関があったところではないかと考えられます。(中略)
 黒川郡以北の奥地に行くには『奥州名所図絵』にあったように、『関より奥の山道は数十町ほど、険しい嶺の間を通る山の切り立つ険しい難所で、道は折れ曲り、馬に頼るような道』でしたが、『大郷の文化財』(大郷町教育委員会)第八号にも『(なこその関跡から)道は険しくなる。胸突きの急斜面や崖ぶち、馬の背のような細道が曲がりくねって休み松少し手前までが登り路できつい。
 休み松に至って北方の谷間が開け、三~四百m先からは板谷の渓流に沿って比較的平坦な道となり、鶉崎(黒川郡最初の郡衙が置かれたところ)の関屋の清水に至る』と険阻な道だったことが書かれています。(中略)
 この県道の板谷道は昭和四十四(1969)年頃に小型自動車が擦れ違いできるよう道の一部が拡幅されたり舗装されたりしましたが、それでも古代の道の雰囲気を残しているような場所が今でもところどころにあります。平成三(1991)年に『惣の関ダム』の建設が始まり、それに付随して板谷道に代わる新県道が造られたことで名古曾川沿いの板谷道は途中から分断されました。(中略)
 歌人で陸奥守の源信明(さねあきら)が応和年間(961~964 年)に『関はあっても往来する人を咎める人もなく名だけの存在になっている』という意味の和歌を詠んでいるので、十世紀中頃はまだ関の構造物が残っていたのではないかと思われます。(中略)
 義家は帰京に際し赴任のときと同じように東山道を通ったと考えられることから、〔岩城〕『勿来関』のある東(あずま)海道は通っていないので、山桜の歌はそこで詠まれたものでないことがわかります。その東(あずま)海道は伝馬や駅家が二百年以上前の弘仁二(811)年以前に廃止になっているので、そのような道を陸奥守などは通らなかったでしょう。(中略)
 平安時代になると「なこその関」は数多くの和歌に詠まれるようになりますが、実際に多くの歌人が「なこその関」を訪れて詠んだのかというとそうではなく、遠方から訪れることができたのは限られた歌人だけだったと思われます。(中略)
 次にあげる「なこその関」の歌は実際に「なこその関」やその跡を通ったり見たりして詠んだと思われるのですが、そのなかに陸奥守として多賀城に赴任した歌人がいるのは、職掌上も関の所在地を十分に知っていたとみられるので、「なこその関」がどこにあったのかわかっていたのでしょう。(中略)
1.「みるめかる あまのゆききのみなとぢに なこそのせきも われはすゑぬに」小野小町(中略)
2.「をしめども とまりもあへずゆくはるを なこそのやまのせきもとめなん」紀 貫之(中略)
3.「なこそよに なこそのせきはゆきかふと 人もとがめず なのみなりけり」源 信明(さねあきら)(中略)
4.「みちのくの なこそのせきに きにけりと きくきくなおも こえぬべきかな」中務(なかつかさ)(中略)
5.みちのくの任に侍りける頃五月まで時鳥聞かざりければ都なる人にたよりにつけて申し遣はしける
 「みやこにはききふりぬなんほとときす せきのこなたの身にこそつらけれ」藤原実方(さねかた)朝臣
   かへし
 「ほとときす なこそのせきのなかりせは きみかねさめに まつそきかまし」読人不知〔清少納言〕(中略)
6.みちのくにまかりける時なこその関にてはなのちりければよめる
 「ふくかぜを なこそのせきとおもへども みちもせにちる山ざくらかな」源 義家(中略)
 『そうの関』があるところの丘陵部には今でも山桜が自生していることを前に記しましたが、それではいわき市の『勿来関』に山桜が自生していたかというと、そうではなかったようです。(中略)
7.「あづまじや しのぶのさとにやすらひて なこそのせきを こえぞわづらふ」西行法師(中略)
8.前右近衛大将頼朝朝臣都にのぼりて侍りけるが東へ下りなんと申しけるころつかはしける
 「あつまちの かたになこそのせきのなは 君をみやこにすめとなりけり」慈円
    返し
 「みやこには 君にあふさかちかけれは なこそのせきは とほきとをしれ」源 頼朝 (中略)
 〔既述のとおり〕仙台大崎八幡宮神官大場雄淵が著した『奥州名所図絵』の中に名古曾関の鳥瞰図がありますが、同書の『奈古曾関陣蹟』の項に、
 利府駅〔駅家〕の北に山道がある。これは昔の奥道である。郷の民は惣関と呼ぶ。山の上に勿来関明神祠がある。この地は奥州三関の一つで、胆沢の鎮守府より多賀国府に通じる重要な路であり、源義家が落花を歌に詠んだところ(中略)
 と記されています。(中略)
 名古曾山は惣の関ダムの東側にあり、その一帯は現在も『名古曾』と呼ばれていますが、『なこそ』と呼ばれたのは前にも記したように〔アイヌ語で〕『険しい嶺を越すところ』の道が通っていたからですが、名古曾山のほかに名古曾川も流れていました。(中略)
 名古曾山は板谷道に代わる利府松山線(県道40号線)の建設で崩されてしまい、頂上にあった碑はどのようなものだったのか今ではわからなくなりましたが、以前に山に登ったことがあるという地元の人は山頂に石碑のようなものがあったが勿来関明神祠かどうかはわからないと話していました。(中略)
 なお、明治十四(1881)年に建立された勿来曾神社碑『勿来』の文字が使われているのは、いわき市にあるJR東日本常磐線の勿来駅が誕生する十六年前、勿来と付く町ができる四十四年前のことです。(中略)
 このように、伊治君砦〔あざ〕麻呂の乱(780)を契機に設置されたとみられる蝦夷防御のための『そうの関』は、都の歌人に『なこその関』と呼ばれて陸奥国の歌枕となりましたが、和歌に縁のない地元民は都の歌人が『そうの関』を『なこその関』と呼んで歌にしていたなどと知る由もなく、長い間『そうの関』と呼ばれてきたのです。
 そのため『なこその関』は史料に記されることもなく歌枕としてだけ使われたので、『なこその関』が実際はどこにあった関なのか、わからないまま現在に至ったのです。」(『蝦夷と「なこその関」』)

 我が意を得たり!


第三節 利府名古曽(勿来)関
 いわき市関田の「勿来関跡」は単なる「記念碑所在地」/観光地『勿来の関』であり、奥羽三関で唯一国・市指定「史跡」ではない。たしかに関はあったろうが、それは「菊多関(きくたのせき)」であり、「勿来関」ではない。「勿来関跡」は未だ確認されておらず、「勿来関」の史実も定まっていない。
 「白河関(1966年国指定史跡)」(福島県白河市旗宿)、「鼠(念珠)ヶ関(ねずがせき、1968年鶴岡市指定史跡)」(山形県鶴岡市鼠ヶ関)と共に奥羽三関の一に数えられる名高い「勿来関」は、「宮城県宮城郡利府町森郷名古曽の惣の関」にあった
 遠くは征夷大将軍坂上田村麿や八幡太郎義家、さらには「鎌倉殿」頼朝らが、「遠の朝廷」多賀城を進発して「東山道(奥大道)」を進軍し、利府森郷一里塚を経て「勿来関」で「勿来桜」を愛で、山桜の名歌を遺して「勿来川」を渡り、「名古曽山」を越えて宮城郡から黒川郡に入り、
 小鶴沢長根街道一里塚、小鶴沢集落を抜けて北上し、山田、
 太田の郷右近館”八幡太郎蹄石”を遺し、
 幕柳は「伝へ云ふ此地源頼朝〔藤原〕泰衡征伐に際し柳二〔に〕幕を張りたりし〔幕営〕により村名〔幕柳〕の起因となれりと」(『黒川郡誌』)、 鳥屋、
 別所の[885]智証大師円珍北目山別所寺黒川薬師を「永承年間(1046-1052)源義家東征に際し尊崇して袖振薬師と稱せり」(『黒川郡誌』)、北目、下草駅家郷
 舞野の舞野観音堂「観世音菩薩は[808]滋覚大師〔円仁〕の御作にて坂上田村丸〔麿〕の御建立の霊場なり」(『黒川郡誌』)、吉岡(上の原/今村)、
 大衡駒場の須岐神社は「往古此地源頼朝藤原泰衡追討に際し駒を駐めて軍を稿ふ故に号して駒場と呼ぶ」(『黒川郡誌』)、
 王城寺原丘陵を北上し、黒川郡を出でて加美郡に入り、色麻柵・玉造柵等々の伝説の地を通って、勇躍「蝦夷征討」の長途についたのである。
 利府の「勿来(名古曽)関(惣の関)」跡は未だに発掘調査されていないやに仄聞するが、一門外漢からしても、「小鶴沢長根街道一里塚」なども併せて、学術的な調査が待たれる。これは当の利府はもちろんのこと、小鶴沢、鶴巣、大和町、黒川郡、ひいては宮城県にとっても、まさに「幻の邪馬台国論争」にも匹敵する重要事案だからである。
 分けても近年発展著しい地元利府町民及び当局は、もちろん開発もまた結構ではあるが、古人の「温故知新」の教訓に学び、永年に亘る先人の真摯な営為、故事・事蹟、記録・記憶を踏襲・伝承し、おりから地元歴史家菅原伸一氏のせっかくの好著出版を奇貨として、自らの誇るべきアイデンティティであり、且つやりようによってはあるいは太宰府・都府楼跡、多賀城に優るとも劣らず、白河関に並び、少なくとも”岩城勿来関”は確実に凌駕する、絶好の国民的歴史・文化・観光資源になり得る可能性を秘める「勿来関」に、応分に注目・注力し、大切に、大事に、啓蒙・啓発、調査・研究、保存・再興に努めて欲しい。
 私も微力ながら、ここ、ささやかな我がウェブサイト(ホームページ)「InterBook紙背人の書斎」に拙い一文を掲げて、啓蒙の一助に資せんと志すものである。願わくは、多くの諸兄姉の賛同を賜らんことを!

 いったい、我々の世代は後の世に何を遺すのだろう?

  ふくかぜを なこそのせきとおもへども みちもせにちる山ざくらかな 源 義家



(終わり)


引用文献
磯田道史『無私の日本人』文芸春秋,2012
大塚徳郎・竹内利美監修『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』平凡社
小野勝美『原阿佐緒の生涯』古川書房,1975
鹿又勘太郎『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』2006
鹿又勘太郎『ふるさと綺談』2012
菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会,1933
黒川郡教育会編纂『(復刻)黒川郡誌』名著出版,(1924,)1972
黒崎茗斗(幹男)『緑の故里七つ森を語る』七つ森観光協会,1973
佐々久『仙台藩家臣録』歴史図書社
佐々久監修/利府町誌編纂委員会編纂『利府町誌』利府町,1986
紫桃正隆『仙台領内古城・館 第三巻』宝文堂
紫桃正隆『政宗に睨まれた二人の老将』宝文堂,1980
菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版,2014
大和町立鶴巣小学校創立百二十周年記念事業実行委員会「創立百二十周年記念誌『飛鶴』」1993
高橋富雄監修『大和町史』宮城県大和町,1975
鶴巣中学校・鶴巣中学校同窓会編集発行「創立50周年記念誌『つるす』」1997
鶴巣中学校編集発行「閉校記念誌『鶴中』」2007
富谷町誌編さん委員会『新訂富谷町誌』富谷町
藤原相之助『復刻 仙台戊辰史』柏書房,(1910,)1968
藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩』柏書房
まほろばまちづくり協議会企画編集発行『大和町まほろば百選 〜未来への伝言〜 第1刊《史跡・名跡編》』2002,2005
まほろばまちづくり協議会企画編集発行『大和町まほろば百選 〜未来への伝言〜 第二刊《人物編》』2004
まほろばまちづくり協議会企画編集発行『大和町まほろば百選 〜未来への伝言〜 第三刊《七ツ森編》』2007
宮城縣『宮城縣史』宮城縣史刊行会,1961
吉田東伍『大日本地名辞書』富山房
若生毅編纂『下草郷土誌』下草契約講発行,1951
若生毅編纂/相澤力新訂『下草郷土誌(新訂版)』下草契約講発行,2013
「大越家系勤功巻」大越茂隆氏所蔵
『角川日本地名大辞典 4宮城県』角川書店
『全国遺跡地図宮城県』文化庁文化財保護部,1978
『仙台郷土研究5-4』仙台郷土研究会
「仙臺郷土研究復刊第16巻第1号(通巻242号) 〔特集〕仙台藩歴史用語辞典」仙台郷土研究会
『伊達世臣家譜』宝文堂





奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌 「幻の勿来関」と黒川郡の古街道(フルケド)・郷村
2013.2.14 『「幻の勿来関」と古代黒川郡東山道(奥大道)「小鶴沢一里塚」”鶴巣・黒川讃歌”─勿来関は利府にあった─』Web執筆開始/Web初版発行
2013.3.27 Web第二版発行
2013.12.23 Web改訂初版発行
2014.6.6 稿本初版/Web改訂第二版発行
2014.12.15 稿本新訂版/Web新訂版発行
2016.9.10 改題『奥州黒川賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌 「幻の勿来関」と黒川郡の古街道(フルケド)・郷村』発行
2019.8.11 Web2版発行
2020.3.27 Web3版発行
編著者 澤田 諭
発行者 澤田 諭
発行所 InterBook紙背人の書斎
所在地 150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614
電 話 080-5465-1048
Website:「InterBook紙背人の書斎」http://www2.odn.ne.jp/cij80530/#shosai
e-mail:sirworder@world.odn.ne.jp
Copyright (C) 2013澤田 諭 All Rights Reserved.

目次に戻る 前のページに戻る ページのトップに戻る
InterBook紙背人の書斎
次のページへ進む
姓氏家系総索引
150207独立開設、150312改訂、150316改訂、150328改訂、151121改訂、151221改訂、160504改訂、160910改訂、170708改訂、190727改訂、190811改訂、200327改訂
Copyright (C) 2013 澤田 諭 All Rights Reserved.