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姓氏家系総索引



第九部 藩政由来の民俗・産業




黒川願人節
 ♪さてもみごとな 黒川の名所かや
  一町九か村ある中で 女のよいのは吉田村
  町で繁盛吉岡や 次には富谷の新町か
  熊谷小野か宮床か 七つの薬師に願かけて
  沖を遥かに眺むれば 一、二の関や三の関
  過ぐればすぐに四斗田村 日はまだ高田で舞野かや
  尚も奥田と訪ぬれば 心細くも蒜袋
  大森山に日は落ちて ここに一日大瓜村
  明くれば山越え大沢田 八合田町に一休み
  道を急げば入合の 天皇寺の暮れの鐘
  七つ森を右に見て 虚空蔵菩薩に願いかけ
  月の明かりも細々と 朝日は穀田で明石よ
  西は成田か今泉 石を積んだる大亀や
  大童よりて幕柳 そろそろ太田に小鶴沢
  山田の乙女に道とわば 東は成田か川内か
  大谷中村鶉崎 今は土橋大平
  砂金の沢を横に見て 北目大崎鳥屋とかや
  黒川神社の仁王さん お子さん悪魔祓えと拝みます
  城で名高い下草よ 鶴巣の館を見上ぐれば
  日は落合の相川よ 報恩寺の暮れの鐘
  諸行無常と檜和田村 姫宮神社に願いかけ
  明くればここは三ヶ内 誓いも固い石原よ
  大松沢の流れくる ここに粕川下り松
  丸山長崎通り抜け 羽生山崎味明とか
  二度と来るなよ さんさ不来内に♪(作者不詳、相澤 力記録)


宮城願人節
 ♪奥州ナ 仙台伊達様の城下ネ 名所道中で言うたなら 朝日に輝く 青葉城(ア ツイトー ツイトー)
  ふもとを流るる 広瀬川 榴ヶ岡へ 桜見に(ア ツイトー ツイトー)
  宮城野原の 萩の露 忠義は政岡 千松よ(ア ツイトー ツイトー)
  角界じゃ谷風 待乳山〔大砲万右エ門〕  一寸離れて 蒙古の碑(ア ツイトー ツイトー)
  鴻の館から 多賀城碑 野田の玉川 後にして (ア ツイトー ツイトー)
  末の松山 波こさじ 塩釜様は 一の宮(ア ツイトー ツイトー)
  昇るきざはし いや高く 日本三景 松島や (ア ツイトー ツイトー)
  五大堂やら 瑞巌寺 大島 小島や 仁王島 (ア ツイトー ツイ トー)
  千賀の浦風 はらませて 島がかくれ行く 真帆片帆(ア ツイトー ツイトー)
  かなたはるかに 金華山 千鳥ナ鴎がアレサ 舞い遊ぶネ(アリャ リャン リャンノ コレワノ セトコヤレ サンノセー♪」


 「『宮城願人節』は、江戸時代の中末期、願人坊主という門付けの物乞い坊主が鉦をたたきながら諸国を唄い歩いた音曲であると言われています。渡辺波光著『宮城県民謡誌』によれば、がんにん節は、がんにんとも呼ぶ、仙台市や宮城・黒川・登米など郡部に残っている珍しい唄である。がんにんは、漢字にすれば願人で、江戸時代に代参や代垢離(だいごり)を仕事とした乞食坊主を願人坊主といった。人に代わって社寺に参詣するのが代参、人に代わって冷水を浴び、体を清めるために、垢離(こり)をとるのが代垢離という。(「沖津省己の民謡ブログ」


第一章 民生


第一節 交通
 「維新前は人馬の交通物貨の運搬皆此国道によらざるものなく特に松前盛岡一ノ関等諸藩主の参勤交代幕吏の蝦夷地警護維新に至りては青森旅団の仙台旅団への往復等に至るまで此の国道により吉岡駅の雑踏甚しく仝駅角兵衛餅屋と稱ふるものは東京以北の番付にまで上れる程なりしに汽船の便開け次いで汽車の開通に至り人馬の交通此国道によるもの著しくその数を減じ吉岡駅の如きも寂として昔日の観を止めず仙台より東京まで八泊九昼の旅行も豈にその昔を偲ばしむるに至る而して維新前は勿論其後と雖も貨物の運送は悉く駄馬を使用したりしが明治十五六[1882-3]年頃より荷馬車の便開け漸次駄馬の用を省くに至る旅客も亦歩行若しくは馬に跨り又は駕籠に乗れるものなるが明治五六[1872-3]年頃より人力車の発明起り又十七[1884]年頃より定期乗合馬車の行はれて旅客の此便によるもの多かりしも汽車の開通と共に廃業の止むなきに至れり
 又往時の書状及貨物小包の運送は島屋飛脚といふものあり江戸島屋の営む所特に官許を受け道中継立の取扱をなせり明治三[1870]年更めて吉村甚兵衛陸羽街道月六回定期便を開くの允許を受け其営業を継続し陸運会社と稱せり其後組織を改めて内国通運会社と稱し当町にも亦其取扱所を設けたり 郵便局設置と共に書状の取扱は其手に帰し郵便為替の開始と共に貨幣の取扱も亦其手に帰し独り小荷物のみの取扱をなしたりしも汽車開通と共に定期往復を廃するに至りたり
 郵便事務の開始せらるゝや明治五[1872]年七月吉岡駅に(中略)郵便局を設け(中略)仝二十六[1893]年に吉岡電信の開通をなし(中略)大正元[1912]年電話の開通をなし次いで仝年市街特設電話の交換をなすに至る
 終に臨み一言すべきは交通の便開けたる現今に於て本県内鉄路の通せざるもの本郡の外果して幾何ぞ実に陸地の一孤島たるの観あり仙北軽便鉄道の請願も大正四[1915]年三月を以て不認可となりたるは一大恨事となせる所なりしが仝八[1919]年仙台軌道の敷設認可を受け工事既に其半に達し大正十二[1923]年には仙台より吉岡町内まで開通したりしは我郡一般住民の悦ぶべき所なり
 又近年に至り自転車大に流行し年々其数を増すに至れり(中略)

古街道(フルケド)
 〔既述のとおり、〕本郡の往古に於ける国道〔中世後期奥州街道〕は国府即ち宮城郡利府の地より沢乙を経て山田、太田、幕柳、鳥屋、北目大崎〔(別所)、下草〕等の各村を過ぎり舞野村に出で今村大衡を経駒場より志田郡伊賀に出でしものならん是源頼朝東征に際し今の幕柳村社八幡社のありし所に於て軍を留めたる伝説及駒場なる須岐神社に軍営を駐めたりし事蹟あるに徴しても亦明かなり亦舞野に宿と稱ふる所あり是古の駅場たりしならん是等の地方を往昔は駅郷〔駅家〕と稱したりしといふ
 現今の富谷村富谷新町を通過する道路〔近世奥州街道〕は藩祖政宗元和九[1623]年仙台への通路として新設せられたるものなり新町の愛宕山にある一小祠は新町街道とその駅場とを新設せられたる貞山公の恩沢を記念せんがため建立せられたるものなりと云ふ
 又加美郡方面に通するものは今村より大瓜字四反田一里塚辺より北方なる旧街道を通じたるものにして伊達政宗朝鮮征伐に際し岩手〔出〕山城を出発せし時も亦此道路によりしこと明なり
 吉岡より高城本郷に通ずるものは舞野より〔下草、別所、〕北目大崎〔、鳥屋〕に出て大平菖蒲沼の辺にかゝり鶉崎関清水を経中村に出で盗人長嶺を越江川内を経たるものなり」(『黒川郡誌』)。
 「郡内の宿駅は富谷と吉岡で、いずれも奥州街道に位置する。慶長六[1601]年正月一〇日の伊達政宗伝馬黒印状(伊達家文書)には『登米・佐沼・高清水・宮沢・岩出山・中新田・黒川・松森・国分』とあり、このうち黒川が下草で、のちに吉岡宿に移った。
 奥州街道を吉岡宿の北端で分岐し、中新田・岩出山を経る中山(なかやま)越の出羽道がある。また大沓掛(現大衡村)に『大くつかけ 右なかにゐた 左ゆとの山道 吉岡下町』の道標が立ち、左湯殿山道を進むと小野田本郷・原町宿・門沢宿・漆沢宿を経て、軽井沢番所(現加美郡小野田町)に至る軽井沢越出羽道である。」(『日本歴史地名大系』)

明治国道/県道
 「明治年間に至り陸羽街道は一等道路に属し (中略)羽後街道は二等道路に属し」(『黒川郡誌』)、
 「明治一七[1884]年吉岡から昌源寺坂へ超えていた奥州街道が、西方へ迂回する現国道四号に付替えとなる。」(『日本歴史地名大系』)
 「明治十八[1885]年道路改修陸羽街道(中略)之を國道となす
 羽後街道もまた改修して(中略)之を縣道となす
 黒川郡各村聯合組合會の決議を以て明治二十[1887]年吉岡より宮城郡松島に至る道路を改修せり即ち吉岡より舞野北目大崎なる砂子〔金〕沢を経土橋鶉崎を経中村を過ぎ川内なる田府瀬にかゝり松島村初原に出づ(中略)之を稱して吉岡街道〔松島街道〕と云ふ(『黒川郡誌』)。
 「又吉田村吉田升澤より奥羽山脈を横ぎり山形縣村山郡観音寺に至る道路あり維新前には彼我の交通ありたれども道路荒癈に属せしを以て十一[1878]年吉田村本木榮八七百余圓を投じ是を開通したりしが其後又再び荒癈に帰せり」(『黒川郡誌』)。

本木榮八
 「本木榮八は黒川郡吉田村の人性剛毅夙に公益に志す常に思へらく我が吉田村升沢の地より羽前国に通ずる道路の荒廃すること久し之を開鑿せば交通運輸の弁を得ること大ならんと
 明治五[1872]年七月同村小野軍吾等と共に宮城県庁に上書し自費を以て本村升沢より羽州村上〔山〕郡観音〔寺〕村〔山形県東根市観音寺町〕に至る道路を再興開鑿せんことを請ふ官之を許す栄八大に喜び拮据奮励山を越へ谷を渡り荒榛を披き蒙茸を刈り開鑿道程三里余人馬の往来物資の運搬に益する所誠に大なりその費用実に七百三十三円余独力を以て之を支弁せり
 明治十一[1878]年県令松平正直銀盃一個を賜ひ之を賞す義を好むの士といふべきなり没す年六拾」(『黒川郡誌』)。

大正郡道
 「大正二[1913]年郡会の決議を經(中略)大正三[1914]年より仝七[1918]年まで(中略)郡道の改修成る(中略)
 左に此郡道の主なるものを挙げん(中略)
  中村街道(中略) 大家村中村より粕川村南粕川に至る(中略)
  木ノ崎街道(中略)大谷村中村より粕川村鶴田崎を経て大松沢村下町に至る(中略)
  山崎街道(中略) 粕川村南粕川より大谷村羽生を経て仝山崎に至る(中略)
  味明街道(中略) 大谷村山崎より仝味明田布施に至る(中略)
  大松沢街道(中略)落合村相川より松坂を経て大松沢村宮下下町に至る(中略)
  相川街道(中略) 落合村舞野相川三ヶ内を経て粕川村石原に至る(中略)
  大森街道(中略) 吉岡町より大衡村奥田を経て大森に至る(中略)
  大瓜街道(中略) 大衡村大瓜地内(中略)
  沢渡街道(中略) 吉岡町より吉田村八志田を経て沢渡に至る(中略)
  難波街道 富谷村富谷より宮床村小野を経同村難波に至る一部終了
  利府街道 鶴巣村、砂金沢、大崎、鳥屋、太田、山田を経て利府村沢乙に出づ(中略)
  幕柳街道 富谷村富谷より大童今泉を経て鶴巣村幕柳に出づ(中略)
 其他富谷村西成田明石を経て宮城郡七北田に通ずるもの大松沢を経て志田郡大迫に通ずるもの又仝村より志田郡下伊場野村に通ずるもの
 宮床村宮床より荻ヶ蔵を経て宮城郡大経村百目木に出て根ノ白石に出づるもの(中略)

大正県道
 「大正九[1920]年四月一日道路法實施に付資格を變更し縣路に編入せられたるもの其路線左の如し
 一、落合相川より大角を經て大松澤村下ノ町に至るもの
 二、鶴巣村砂金澤より宮城郡利府村に至るもの即ち吉岡松島線
 三、富谷村志戸田より宮床村を經て宮城郡根ノ白石村に至るもの
  但し右は縣路産業道路に属するものなり
 次に郡道に編入せられたる其路線を擧ぐれば左の如し
  大瓜吉岡線 大森吉岡線 澤渡吉岡線 難波富谷線 富谷利府驛線 吉岡中村線 中村山崎線 山崎松島線 大松澤村下ノ町より松島驛線 吉岡粕川線
 大正十二[1923]年四月一日郡制癈止と共に各町村管理となれり

橋梁
 本郡橋梁の大なるものは吉田川流系に架するものにして高田橋落合橋粕川大橋等なり(中略)
 県道なる吉岡街道には落合橋の東に当りて西川の下流に西川橋あり(中略)
 郡道なる幕柳街道には鶴巣村鳥居〔屋〕に車橋あり其支道には太田に寺前橋天神橋ありて共に里道に属せり仝村幕柳には田中橋ありて砂子田川〔小西川〕に架す同村北目大崎より大平に至る西川には樵橋及び鳥屋より向鳥屋〔清水谷〕に至る松田橋あり」(『黒川郡誌』)。
 もちろんのこと、けっして忘れてならないのは、黒川にかかる「黒川橋」である。


第二節 治安
兵事
 「鎌倉時代以前に於ては城郭として伝はれるものは甚だ少く坂上田村麿の東夷征伐源義家父子の前九年後三年の役に於けるや本郡は軍兵の通路となり源頼朝の泰衡追討に際しては亦其軍を率ゐ本郡を通過せし事実ありたれども尚其城郭として伝はれるものは伝説によれば三ヶ内に八幡館と稱するものあり天喜年間[1053-58]義家東征に際し居城を構へたる所なりと云ふ
 北条氏軍政を執るに及んで稍々武人の割拠せるを見る即ち吉田村の麓館の如きは文永年間[1264-75]に滅亡したるものなり
 文明年間[1469-87]に至り黒川氏鶴の巣城に於ける当時の城主館主たるものは各武士を養成し一方の雄鎮たりしが特に黒川氏は本郡一円を所領せるを以権も全く同氏の手中に帰せしや明なり本郡各所に存在する館址は大抵黒川氏の近親若しくは重臣たりしものの拠れるものなり
 而して応永年間[1394-1428]は已に本郡は伊達氏九代の祖政宗の所領に帰せるを以て天文年間[1532-55]は伊達晴宗特に葛西大崎の軍勢を北隣たる志田郡の境に支へしめんと公族宮崎時実を大松沢村大窪城を築かしむ
 天正十八[1590]年政宗の鶴巣城を陥れ黒川氏滅亡するに及地を分ちて家臣に与え各士卒を養ひ馬匹を蓄え以て有事の時に備へしむ
 安永年間[1772-81]における黒川郡地頭武士の家族口数を挙ぐれば左の如し
  宮床村  伊達村頼  男女合計一千百五十九口  馬二十一匹 (中略)
  今 村  但木長行  男女合計三百三十六口   馬十匹
   付属歩卒 二十四戸   男女合計百六十口     馬四十三匹(中略)
 是等の武家は其大なるものにありては常に其家従を調練し武芸を講じ軍備を斉〔ととの〕へ一旦事あるに方りては一令の下に之を招集し以て藩事に従ふ
 特に幕末外艦の渡来ありてより宮床館主の如きは主として洋式軍法の調練をなし大砲を鋳造し盛に砲術を演習したるが如き当時見るべきもの尠からず政宗藩内の統一せしより太平久しきに亘り兵戈を動かさざるも幕末に至り戊辰の役起るや黒川郡内各領主等各其部卒を発して戦闘に従事せり
 明治維新に至り廃藩と共に此制廃止せられ明治五[1872]年徴兵令の発布せらるゝや全国皆兵の制となる然れども明治十[1877]年西南の役あるや特に召集兵として従軍するものあり仝二十七八[1894-05]年〔日清〕戦役には軍人動員の他軍夫として従軍せしもの尠からず仝三十七八[1904-05]年日露戦役興るや軍人の他は従軍することを得ざるに至れり
 戊辰の役及西南の役に従軍せし其員数は遺憾ながら之を詳知すること能はざるも明治二十八[1905]年以後の戦役に員数は之を知ることを得たる

在郷軍人分会
 在郷軍人統一の必要を認め黒川郡在郷軍人団を組織し明治三十二[1899]年発団式を挙げ団長には黒川郡長但木良次副団長には三等軍医予備役吉井虎之助を推せり又各町村には支部長を置く左の如し(中略)
   鶴巣村  門馬栄八(中略)
 爾後活動を継続しけるが明治卅七八[1904-05]年の戦役にて在郷軍人の多くは出征したるを以て自其の活動を中止するの止むを得ざるに至れり
 明治四十二[1909]年十一月三日東京に帝国在郷軍人会発会式を挙げられ全国在郷軍人分会を設立せらるゝや従来の郡内在郷軍人団の組織を継承し各町村分会の事務所を各町村役場を〔に〕置き全国統一せられたる規約に順じ各町村に組織を完了したり(中略)

維新前の警察
 維新前にありては藩に目付職あり又徒目付あり小人と稱する卒組ありて之に属す小人の下には同心と稱するものありて一般の非違を検し警察事務に任ぜり又小人目付と稱する職あり 町方には特に町同心と稱するものありて町役人に属し町方一般の警察事務に従ふ又横目と稱する職ありて各方に属し取締をなす仮令郡方には郡方横目山林には山林横目塩方には塩方横目等と稱せり以上諸職の総督としては大目付を置きて是等一般の統括をなせり
 又非人と稱する最下級の賎民ありて小人同心の指揮を受け罪人の検挙逮捕等に当れり非人は平素勧進と稱し又は時節によりてせきざうまめざう等と稱する演芸をなし毎戸を巡りて米銭の寄与を受け其間常に動静を窺い一旦非法のものあれば直に逮捕し之を己の邸宅に引致し同心小人等に報するなり是等非人は各方面互に気脈を通し居れるを以て罪人の逮捕も又容易に行はれたりしなり而して非人は素より最下級の賎民なるが故に士人は若し怒に乗じ之を斬殺することあらんか直に其食禄を褫〔うば〕はる一般人民と雖ども此非人と是非曲直を論ずること能はざりしなり
 又地頭領主ある地方に於ては別に相当の制度を設けて自治の責に任せり即ち本郡内に主なる領主としては宮床の伊達氏吉岡の但木氏にして各目付職小人横目等の職を置く特に吉岡の如き町場に於ては町同心を設け町役人の配下に属し常に坊間を巡視し米穀始め買品の不正価格の不当等をも検せしなり(中略)此の如くして明治維新の改正に及びしなり

警察署
 明治八[1875]年三月太政官通達を以て行政監察規則を発布せらるゝや本郡にも吉岡今村に屯所を置き十八[1885]年一月仙台警察署吉岡分署を設置せらるる(中略)仝二十[1887]年一月吉岡分署廃止吉岡警察署を設置せらる
 創立の際は字中町なる通稱北宿なる民家を借入れ以て庁舎に充てたりしを(中略)仝十三[1880]年の大火に際し類焼せしを以て再び建築せり(中略)仝廿十二[1889]年地を字上町に下し新築以て之に遷れり即ち現今の庁舎是れなり
 明治廿[1887]年より各村に巡査駐在所を設け巡査を派して駐在せしめ以て部内の治安に任ぜしむ(中略)

消防
 古来本郡において消防組の組織ありたりしは独吉岡町のみ然れども其創立年代を審にすること能はず文化二[1805]年の大火当時已に消防組の組織あり亦仝十三[1816]年に八幡社の祭典に火笊持夫二人の回番を附せられたる記事あるに徴すれば少なくとも百二十年以前に在りしこと明なり当時は火消組と稱し組員は二三十人に過ぎず其用ひし器具は鳶指又火笊大団扇梯馬簾〔ばれん〕等にして平時は検断役所前に備置き地頭の町役は火消道具改と稱し一年に二回出張検閲するを常となせり盂蘭盆の夜又は八幡宮祭典に際しては町内の警戒に任したるものなり爾後継続して明治五六[1872-3]年の頃に至りしが一旦廃絶したりしを後再興して町費よりは明治十二[1879]年には火難予防費として五十四円五十銭を予算に計上したるなり又明治の初年遠藤鉄之助は独力を以て私設消防組を設置せるあり組員二十名当時初めて雲龍水と稱する簡易なる喞筒〔そくとう〕を設備せり明治十三[1880]年の大火に際し両組の諸器具一切焼失したりしを以て再ひ廃絶するの止むなきに至りしなり
 明治二十五[1892]年に至り之を再興して其編制を新にし消防組設置条例を設け内務大臣の認可を受け之を施行せり総人員六十名消防総長之を統ぶ仝二十七年[1894](中略)現今の組織に改められたり(中略)抜群の功労あるを認められ(中略)纏の馬簾に金線一条を附することを允許せらる時に大正六[1917]年二月六日なり仝十一[1922]年三月金線二条を允許せらる組頭の歴代左の如し
  山田道四郎  阿部忠蔵  山野川養治  児玉金兵衛(中略)
 鶴巣消防組設置は
     明治二十八[1895]年五月にして   組員二拾数名なり(中略)
     大正十一[1922]年四月七日        二十五名増員 現在百廿五名なり
     大正十[1921]年十二月十日纏に金線一条の使用を允許せらる
 組頭歴代左の如し
  大場清六  犬飼養右衛門  佐藤養吉  高橋久右衛門」(『黒川郡誌』)


第三節 金融
 「本郡における維新前の金融機関は別に記すべきものなけれども一般に頼母子講無尽講等と稱するもの各所に存在したるを見る」(『黒川郡誌』)
信用組合
 「郡内一般の希望と当局の奨励とにより本郡においても信用組合の組織各所に起り其数二十二〔に〕達す其目的及方法に於ては多少の特徴なきにあらざれども多くは購買信用組合にして其土地特有の生産物の販売を主とし肥料其他の購買を共同にし資本を流用し貯金を励行する等地方産業の発展上漸次向上の機運を呈せり(中略)
 大正十[1921]年に於ける其概要を摘録すること左の如し(中略)
 町村 組合名稱                 設立年月          組合員数  出資口数  組合長氏名(中略)
 鶴巣 仝〔無限責任〕鳥羽〔屋〕信用購買販売組合 仝〔明治〕五[1872]年五月  五五    一〇〇   郷古善四郎
    仝〔無限責任〕大平信用購買組合      仝〔明治〕七[1874]年十月  九八    一八三   鶴田癸巳
       有限責任北目大崎信用購買組合    仝〔明治〕四[1871]年五月  四三    二〇七   熊谷常治」(『黒川郡誌』)

頼母子講
 「頼母子〔タノモス〕講とは元来親戚知友等の互に醵〔拠〕金をなし災厄を救はんが為薄利を以て融通を計り或る期間〔に〕於て償却し得る様組織したるものにして農政上有益なるものなり金穀両類ありたれども多くは穀を以て普通となし金を以て組織したるものは僅少なりしなり〔幼時、母の代までは存在していた〕此方法種々に変化して無尽講となり又富籤となり其他の名稱を異にするに至る而して契約講と連絡して是を組織したるものもあり
 金穀の貸借はいわゆる信用上の取引にして別に抵当を付することなく又保証人をも付せざることあり証書には『期日内に御返済仕兼候場合には御笑下候とも不苦候』と認めたる亦以て当時人情の敦厚なりしを窺ふに足る納税の場合貧困にして上納し能はざるものは肝煎にて立替置き収穫期に至りて是を償却せしむるを常とす
 藩政時代には一般に田地を書入質入となすことを得ず又永代売買することを禁ぜられしは勿論なれど其止むを得〔ざ〕る場合土地の書入質入をなさんとする時は村肝煎五人組頭の署名調印をなしたる証書を交換せざるべからず是れ他日の紛争を防がん為にして其質入期間は大抵十ケ年となしたり又館主等が一時融通金をなさんとする時は家老等連署を以て借入をなしたるなり
 明治六[1873]年に至り田畑宅地売買の禁が解き質入に関する規則を定められ証書に奥書をなさしめ仝十八[1885]年に至り登記所を設け不動産の公証をなさしめたり
 利子は維新前にありても亦金高により種々あれども現今に比すれば一般に高歩なりしが如し(中略)

銀行
 明治初年吉岡駅に七十七銀行吉岡支銀行を設けらる其後吉岡支店と改稱す明治四十二[1909]年七月一日吉岡町に株式会社東北実業銀行支店を設けらる後ち株式会社東北実業貯金銀行代理店を設け(中略)
 当時行はるゝ銭は寛永通宝にして銭何文といふは即ち是なり右の外天保銭即当白文の天保通宝文久年間[1861-64]の文久永宝等あり又鉄銭としては元文年間に鋳造せしものありしなり此鉄銭一文を以て銭一文に換えたり(中略)
 文久[1861-64]慶應[1865-68]の頃は旅行に際して天保銭二枚を投すれば一泊の料に充分にして一枚を以て昼食を弁じたりしものなりといふ


第四節 契約講
 旧仙台藩の当時にありては封内の農村を通して<契約講>なるものあり 蓋し農民をして郷閭〔りょ(さと)〕慶弔を共にし隣保相済〔すく〕はしむるの目的に出てたるもにして 一村を数区に分ち組中に事あれば即はち随時米銭を醵出し又は労役に当りて之を助け且つ春秋二季総会を開きて規約を議し交誼を温め特に組中非常の事ありて公租を上納し能はざる者に対してはこれを代納する等共済互助の方法整然として観るべきものあり 藩政の時簡易の法制を以てして百般の行政敢て停滞なかりしもの蓋し其因一にして足らずと雖此契約講の如きは有力なる一素因たるを失はず 全部各村此設あらざるなく又相当の歴史を有せり就中旧記書類の現存し今尚継続歴然あるものあり(中略)而して当時契約講員は勿論戸主たるものに限れるなり(中略)
若者契約講
 維新前より本郡各所に若者契約講と稱する一種青年輩の契約講ありて相互の救済を目的とし多くは春秋二回総会を開き和親を計れり 特に又馬指講と〔て〕馬匹所有の若者相集会して伯楽と稱す獣医を聘し馬匹の局部を針にて刺し悪血を取るものあり 斯場合は勿論其他普通の若者契約にて一升餅等稱する習慣ありて動もすれば暴飲暴食をなすの弊風ありしが壮年輩相互に救済をなすの美風は之を維持発達せしめざるべからざるは論を待たざる所なりしに
青年会
 時勢の新運は是等の契約講を青年会と改稱せる〔し〕むるに至り組織にも亦多少の改良をなし此美風をして益々発揚せしむる方法を講ぜり而して其事業としては元より地勢の状態にも関係あることなれども試作田の設置農業の改良荒地の開墾造林地の植立下刈道路の改修普通教育の向上風紀の改善等に従事し其功績尠からず
 大正二年[1912] に至り是等青年会統一の必要を感じ郡事業として特に総会を開きたり
 仝四[1915]年内務文部両省の訓示に基き青年団の設立と共に両々分立の必要上特殊の歴史を有せざるものに在りては興農会と改稱し郡内各興農会を統一し黒川郡興農会と稱し郡長を以て会長となし専ら事業発展の一大源泉となさんことを期せり(中略)
鶴巣村山田青年会 大正参[1914]年壱月四日の創立にして爾来農事の改良道路の修繕智徳の修養基本金の造成等会員常に共同一致向上発展に努め其成績見るべきものあり大正七[1919]年三月左記の通表彰せらる(中略)

青年団
 大正四[1915]年九月十五日内務文部両省は青年団体の設置に就き訓示あり本県又訓示する所あり仝年十二月七日黒川郡長は各町村長及小学校長を招集し郡内各町村に青年団組織の件に就き協議あり是に於て本年十二月本郡各町村は悉く青年団を組織するに至れり其目的とする所は教育勅語及戊申詔書の御趣旨を遵奉し知徳の修養身体の鍛錬に努め健全なる国民を養成するにあり
 翌五[1916]年十月五日を以て黒川郡青年団発会式を挙げ郡内青年団を統括指導し其発達を図るを以て目的となす団長には郡長副団長には郡視学を推戴す爾後秋季には総会を開き或は運動会を催し或は中堅青年団の講習会を開き又県青年団の総会及運動会に出席す各町村青年団に於ては亦夜学会講習会を開き或は剣術に相撲に心身の修練を怠らず(中略)
 各町村青年団長には各町村の小学校長を推戴せり(中略)左に大正十一[1922]年四月に於ける各町村青年団員数を挙ぐ(中略)
   鶴巣村  九三〔名〕」(『黒川郡誌』)。




第二章 宗教


第一節 維新前に於ける仏教の勢力
 「本郡民の従来信仰したる所の宗教は独り仏教ありしのみにして各村大抵牌寺を有せり 而して其宗教たるや多くは曹洞臨済にして曹洞宗大源明峰の二派臨済宗開山派〔妙心寺派〕概して勢力ありしなり 浄土宗真宗日蓮宗の如きは極めて稀なり
 地頭の所換及び豪族の転居等ありし時は必ず其牌寺を移して更に一寺を建立し以て其一族家臣の牌所とせり
 又〔下に述べるように〕真言宗は維新の当時まで神社を司掌し仏閣を別当し加持祈祷を以て専務となせり故に牌寺としては他の宗教たる寺院に帰依するも独り此真言宗のみは広く一般人民の帰向する所となり其勢力極めて隆盛なり之を稱して修験山伏〔修験道〕といふ大抵当山本山羽黒の三派に分る
 維新後に至り是等真言宗は全部復職して神官となり専ら神社に奉仕することゝなりたれども何となく従来遵奉し来れる真言の宗味を脱却すること能はざるの観あり
 然して本郡従来の古き寺院を調査すれば大抵天台宗なりしも五六百年以前の頃改宗せるものゝ如し当時仏教の隆盛にして人民一般の帰向するのみならず幕府の政策として仏教を保護し以て社会の安寧を保ち来りたるは歴史上重大なる関係を有せる事実なり
 徳川幕府の耶蘇教を厳禁するや寺院をして檀徒の戸籍を検し人数牒を製し各家長をして耶蘇教信徒にあらざることを誓約せしめ住持は更に其檀徒中に耶蘇教信者あらざることを証明し組頭検断肝煎大肝煎等連署を以て代官に差出したるものなり 加之盆中は棚経と稱し僧侶をして毎戸巡回読経し以て本尊を検し其果して耶蘇教にあらざるや否やを検察せしめたり耶蘇教は当時吉利支丹宗といふ(中略)
 当時僧侶寺院の待遇は伊達家に於ては格式を定め采田を寄進したるものにして本郡において宮床村の覚照寺は一門格吉岡の天皇寺は返杯着座にして其他の寺院は別に格式として定められざるも地頭或は地方に於て相当山林田地を寄附し其維持法を確立し安定を計れり
 而して人民は一般に僧侶を尊崇して御師様と稱し唯々其命に服従したるなり農家等にありては僧侶の来ることあれば主人其席を去りて之を座せしめ尊敬甚だ至れり 偶々悪事をた〔な〕したるものも入寺謹慎を表すれば地頭も郷党も其罪を問はざることゝなせり紛乱断し難き事情の生じたる時も僧侶其間に入りて仲裁すれば相方互に譲歩して平和に復するを常とす 而して僧侶は一般に読み書きの道にも通じ子弟をも教育せるを以て自ら一郷の宗師と目せらるゝも又謂なきにあらざるなり


第一節 神仏習合
 当時は本地垂迹の説全国を風靡し独り本郡のみに限れるにあらざるも神道を以て一種の宗教の如く考ふるは一般人民の其軌を同うしたる所又慨〔うれた(嘆かわし)〕くに堪たるなり
 神道は所謂両部神道にして真言山伏は神社に奉仕〔別当〕したるものなり」(『黒川郡誌』)。
 「神仏習合とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上『神仏習合』の時代が続いた。
 神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な『神』観念に大きな影響を与えた。仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。(中略)

神仏混淆
 日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神道の神を迷える衆生の一種と位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされている。これを神身離脱という。(中略)
 9世紀には神体が菩薩形をとる僧形八幡神も現れた。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。また、神の存在は元々不可視であり依り代によって知ることのできるものであったが、神像の造形によって神の存在を表現するようになった。
 律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。
 こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神鎮守〔社〕とするようになった。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とした。これが現在の手向山八幡宮である。他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は護法善神といわれる。
 この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在と見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫するものではなく、神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となっている。

大乗密教
 これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて基盤を強化しつつあったが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来するとされる租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院と認識されることを望むようになってきた。
 朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁円珍による密教受容が進んだ。
 また、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を強く受け、独自の発達を遂げることとなった。

熊野信仰
 本地垂迹説により、普遍性を獲得する契機の先頭に立ったのが、八幡神や日吉神、熊野神など早くから仏教と深い関係を取り結んでいた神々であった。とりわけ熊野の神々は、修験道と結びつくと共に、院の帰依を受け、院政期以降に『熊野信仰』を全国に広げていった。熊野は本宮・新宮・那智の三社(熊野三所権現)で構成され、熊野本宮の本地・阿弥陀如来は、平安末以降の阿弥陀仏による救済願望に応える神として衆庶の信仰を集め、一大霊場として繁栄を極めた(蟻の熊野詣)。この時、浄土信仰を奉じる一遍も参詣し、託宣を受けて時宗開教へ踏み出している。熊野信仰の隆盛は、古代的な価値観の解体も示しており、熊野信仰の特質の一つの苦行が霊験を高め、現世的なもの、身体的なものを超えた、高次元の精神的なものを志向することとなった。その霊験をテコに『日本第一大霊験所』と称して、比類なき神格の尊貴性を主張し、伊勢・熊野同体論が登場するなどし、神々が互いの霊験を競い合うようになった。(中略)
怨霊信仰
 平安時代の怨霊信仰の、特に最大の存在が菅原道真の怨霊である。道真の霊は、初めは恐ろしい怨霊とみられていたが、道真は文人として知られていた人でもあり、後には学問・詩歌の神として信仰されていき、慈悲に満ちる神として天神信仰へと変化していった。
 御霊信仰は疫神信仰と融合していき、そこから出たのが牛頭〔ごず〕天王の信仰である。京都では御霊会を受け継ぎ、祇園御霊会が恒例となり、その拠点として祇王天神堂が創建され、これが現在の八坂神社となり、祇園御霊会が祇園祭となった。(中略)

本地垂迹説
 神宮寺の創建を経て、神仏の習合は進んでいき、十世紀頃には本地垂迹説が成立した。本地垂迹とは、仏菩薩が衆生を救済するために、仮に神の姿として現れたものとする説である。
 神と仏の歴史をみる際に、重要な役割を担ってきたのが八幡神である。歴史上では九州豊前国宇佐地方より奈良時代に登場し、平安京遷都には京都に石清水八幡宮が勧請された。応神天皇と同体ともみなされ、天照大神とともに天皇家の始祖神とされた。747年の東大寺大仏造営事業の際には、神々を代表してこの造営に参画するために上京したとされ、あるいは一部の神々が「菩薩」と名乗るようになったのも八幡神が最初であり、明治維新まで「八幡大菩薩」と号していた。
 更に鎌倉時代になると本地垂迹説による両部神道〔真言〕や山王神道〔天台〕による大祓詞(中臣祓詞訓解)の仏教的解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の仏教的説明の試みが活発化し、『中世日本紀』といわれる現象が見られるようになった。
 仏教の天部の神々も元来はヒンドゥー教の神であったように、インドに起こった仏教は他国への伝播の過程において、日本だけでなく中国においても、その地域社会の土着の神々や歴史上の重要人物を仏菩薩の化身として包摂することで根付いていった歴史がある。仏教にはそのような性質が本来あったことが神仏習合を生んだ要因でもあった。

神本仏迹説
 鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道〔度会神道〕唯一神道〔吉田神道〕が現れ、江戸時代には儒学の理論により両派を統合した〔儒家神道/吉川神道、〕垂加神道が誕生した。これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献した。
 しかし、神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく続いている。現在、仏教の寺院の墓地における墓石と板塔婆がそれぞれ石と木で作られることを、神社における磐座と神籬〔ひもろぎ〕の影響とする説があるように、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている。」(Wikipedia「神仏習合」

天道思想
 「日本では、太陽を天道様(おてんとさま)とも言う。世界各地で太陽は神として祀られ、太陽神の存在はよく知られる。日本の場合は、天照大神(アマテラスオオカミ)が太陽の神格化とされている。(中略)
 平安時代末期以降の本地垂迹思想の展開によって、神仏習合の考えが深まると、本地は大日如来、垂迹は天照大神となった。中世には神仏習合が天照大神を中心に展開し、『日本書紀』を読み替えて「中世日本紀」が生み出された。民間では、てんとうむし(天道虫と書く)を太陽に見立てた。」(Wikipedia「天道」
 「戦国時代には、『天道思想』として仏教・儒教に日本の神道が結合した統一思想になり、戦国武将に広がり、『天運』『天命』を司るものと認識された。歴史家神田千里はそれを進め、戦国時代後半に、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を構成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透したとする。個人の内面の倫理の良し悪しが超自然的な天道の摂理に運命的に左右されるという一神教的な発想があり、日本人に一般的に広がっていた。キリスト教の宣教師からも、キリスト教に似たものだと受け止められ、布教のため神を『天道』と意訳同一化して仏教僧や武士、庶民と論議することで宣教しようとした。キリシタン大名もキリスト教の神を天道と表現した。」(Wikipedia「天道」

第二節 修験道
修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。
 だが、実際には神道としての側面は希薄で、神仏習合といっても、仏教としての側面が極めて強い宗派である認識が強い。(中略)
 修験とは『修行得験』または『実修実験』の略語。(中略)
 修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派〔両部神道と、天台宗系の本山派〔山王神道に分類される。当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺増誉聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていった。真言宗や天台宗は皇族・貴族との結びつきが強いが、修験道は一般民衆との関わりを持つものであり、その意味において、修験者(山伏)の役割は重要であった。
 現代では、奈良県吉野山の金峯山寺金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院本山修験宗)、同伏見区の醍醐寺三宝院真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。また、日光修験羽黒修験のように各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れもある。」(Wikipedia「修験道」
修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。
 だが、実際には神道としての側面は希薄で、神仏習合といっても、仏教としての側面が極めて強い宗派である認識が強い。(中略)
 修験とは『修行得験』または『実修実験』の略語。(中略)
 修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派〔両部神道と、天台宗系の本山派〔山王神道に分類される。当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺増誉聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていった。真言宗や天台宗は皇族・貴族との結びつきが強いが、修験道は一般民衆との関わりを持つものであり、その意味において、修験者(山伏)の役割は重要であった。
 現代では、奈良県吉野山の金峯山寺金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院本山修験宗)、同伏見区の醍醐寺三宝院真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。また、日光修験羽黒修験のように各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れもある。」(Wikipedia「修験道」

本山派
 「園城寺では古くから熊野三山などで山岳修行を行う者が多かったが、寛治4年(1090年)に白河上皇が熊野詣を行った際にその先達を務めた園城寺の増誉が熊野三山検校に任ぜられた。鎌倉時代末期に増誉ゆかりの聖護院の門跡であった覚助法親王は、園城寺長吏と熊野三山検校を兼任すると、熊野三山・大峯山への天台宗系の修験者を統制するようになり、更に室町時代後期に近衛家出身の門跡・道興が組織化を進めた。本山派は国あるいは郡単位で『霞』と呼ばれる修験者統制の地域組織を結成させ、その掌握に努めたことから勢力の拡大が進展し、これに圧迫された真言宗系の当山派との対立が深まっていった。
 慶長年間に袈裟を巡って本山派と当山派が対立を起こすと、慶長18年(1613年)に江戸幕府から聖護院と当山派が本寺と仰ぐ三宝院に対して修験道法度が出され、一派による独占は否定され、両派間のルールが定められた。これは『霞』に対する規制をかけたもので、本山派には不利であったが、それでも江戸時代を通じて本山派の方が優勢の状態が続き、法頭とされた聖護院の下に院家-先達-年行事-直末院-准年行事-同行といった序列が整備された。」(Whikipedia「本山派」

総触頭良覚院
 「陸奥国の大先達は三家があり、仙台の東光院良覚院、それと会津の南岳院である。(中略)良覚院は、古く伊達郡にあって伊達氏代々の祈祷師として重用され、伊達政宗が仙台へ移るに及んでこれに従い、東光院と並んで奥州にその威を張った。良覚院は伊達家の祖朝宗が常陸国から伊達郡へ下向の時から従った家柄で、後世極楽院といったのが良覚院の後身であろう。(中略)良覚院は後に仰台〔仙台〕に移り奥州大先達となった。」(『福島県史』)
 「現在の〔仙台〕良覚院丁公園内にあった〔、北目大崎に領地と在郷屋敷を持つ本山派〕良覚院が総触頭となって仙台藩の山伏は統率されて」(Wikipedia「花京院」)いた。
 既述のとおり、船形山の「仙台市青葉区と山形県尾花沢市との境には「仙台カゴ」、山形県尾花沢市と東根市との境には「最上カゴ」と呼ばれる1200m級の峯が存在する。カゴとは加護を意味し、修験道の道場であった。」(Whikipedia「船形山」
 「本山派は、明治維新後の神仏分離令および明治5年(1872年)の修験宗廃止令によって、天台宗に強制的に統合されることになった。だが、この措置に対する聖護院側の反発は残り、第二次世界大戦後に本山修験宗として再び独立することになる。」(Whikipedia「本山派」

当山派
 「平安時代、9世紀に聖宝〔理源大師〕金峯山を山岳修行の拠点として以降、金峯山及び大峯山での山岳修行は真言宗の修験者によって行われるようになった。鎌倉時代に入ると、畿内周辺にいた、金剛峯寺や興福寺・法隆寺などの真言宗系の修験者が大峯山中の小笹(おざさ、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)地区)を拠点に結衆し、『当山方大峯正大先達衆(とうざんがたおおみねしょうだいせんだつしゅう)』と称し、毎年日本各地から集まる修験者たちの先達を務め、様々な行事を行った。室町時代には36の寺院がこの組織に属していたことから、『当山三十六正大先達衆』とも称されたが、中世後期になると天台宗系の本山派との確執が深刻化し、聖宝ゆかりの三宝院との関係を強めることになる。
 慶長年間に袈裟を巡って当山派と本山派が対立を起こすと、当山派は政界にも大きな影響力があった三宝院の義演を頭領に擁して争った。義演から徳川家康への働きかけもあり、慶長18年(1613年)に江戸幕府から三宝院と本山派が本寺と仰ぐ聖護院に対して修験道法度が出され、一派による独占は否定され、両派間のルールが定められた。これは劣勢にあった当山派には有利なものであり、以後同派は三宝院を法頭として擁することになるとともに、組織としての整備を図り、以後、結衆集団であった当山派は宗派として確立されることとなった。江戸時代には12の寺院が当山派に属し、更に元禄12年(1699年)、三宝院の意向で大和国鳳閣寺の住職を『諸国総袈裟頭』に任じるとともに、江戸の戒定院を鳳閣寺の別院(青山鳳閣寺)に改めてそこで当山派統制の実務にあたらせた。」(Whikipedia「当山派」

大先達古川寺
 「当山派は藩政初期良覚院の支配を脱し、古川の古川寺を大先達とし各郡に袈裟頭を置いた。(中略)
 当山派はその全貌をつかみ得ないが、仙南にはほとんどなく仙台以北に数十ヶ院あつたものと見られる。当山数十、良覚院七百、東光院百十二、宗吽〔うん〕院六十一、その他仙南の本山直末及び末寺を合して九百余ヶ院が仙台領内に存在したと考えられ、領内一千ヶ村に〔各〕約一ヶ院の割合に近いといい得る。(中略)
 本山派に属する良覚院が政宗の庇護を受けて仙北の霞〔修験道特に本山派の地域ごとの支配・管轄地域〕を与えられた。仙南には伊具郡に早くから東光〔藤尾〕・宗吽〔うん、木沼〕の二院の本山あり、かくて本山三院が領内霞を三分した形勢となつた。
 良覚院が与えられたのは宮城郡以北の霞であつた。この良覚院の霞には前述の通り羽黒派の勢力が強く、また古川の古川寺支配の当山派があった。(中略)
 当山派末院は入峰の際は良覚院の支配を受け、修験の位階免許に際しては古川寺を通して〔当山派本山〕醍醐三宝院の支配を受けるという二重支配下に置かれた。」(宮城縣『宮城縣史』宮城縣史刊行会,1961)
「当山派は、明治維新後の神仏分離令および明治5年(1872年)の修験宗廃止令によって、真言宗に強制的に統合されることになった。」(Whikipedia「当山派」

羽黒派
 羽黒派の垂迹神「羽黒権現は出羽国羽黒山の山岳信仰と修験道に基づく神仏習合の神である。本地垂迹説に基づき聖観音菩薩を本地仏として『権』(かり)の姿で現れた垂迹神とされた。羽黒大権現羽黒山大権現とも呼ばれた。出羽三所大権現の一つである。羽黒山大権現・月山大権現・湯殿山大権現は古くは羽黒三山(あるいは羽州三山)と総称され、大峯山や彦山と並ぶ修験道の道場として栄えた。羽黒山頂の羽黒山寂光寺大堂(金堂)には三山の本地仏(聖観音菩薩・阿弥陀如来・大日如来)が安置されていた。(中略)
 崇峻天皇の第三王子である能除太子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山の阿古谷で聖観音菩薩の霊験を得て開山したとされる。中世にはその垂迹神が羽黒山大権現と呼ばれるようになった。明治の神仏分離によって仏教色が廃され、正史の記録に残る蜂子皇子の開山とされるようになったが、江戸時代初期の『羽黒山縁起』には蜂子皇子の名はない。」(Wikipedia「羽黒権現」
 中世においては羽黒修験道が盛んになったが、「史料はほとんど残されていない。天宥別当の時に、東叡山寛永寺直末となり、江戸幕府の庇護の下で、西国の熊野三所権現に対する東国三十三ヶ国総鎮守三所権現(羽黒山大権現・月山大権現・湯殿山大権現)として、宗教的にも経済的にも隆盛を極めた」(Wikipedia「羽黒権現」)が、「寛文[1661-1673]以来東叡山寛永寺末となつたため天台宗の下に立つことになり、修験も天台修験の一部と見られた。」(『宮城縣史』)
「慶應4年(1868)の『神仏判然令』によって権現号が禁止され、仏像は廃棄されるか、末寺などに移された。手向の黄金堂にある仏像はその名残である。大堂は三神合祭殿と改められ、月山と湯殿山は冬期の参拝が困難であることから、三山の神を合祭している。現在は、出羽神社、月山神社、湯殿山神社を総称して、出羽三山神社と呼ぶ。しかし、出羽三山は昭和10年代に登場した新しい呼称である。神仏分離・廃仏毀釈によって、三山信仰は大変貌を遂げた。各地に残る羽黒神社は、かつての羽黒権現である。(中略)
 明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道の神である羽黒権現は廃された。羽黒山寂光寺は廃寺に追い込まれ、出羽神社(いではじんじゃ)に強制的に改組された。全国の羽黒権現社の多くは神道の羽黒神社あるいは出羽神社となっている。」(Wikipedia「羽黒権現」

蜂子皇子
 「蜂子皇子(はちこのおうじ(中略))は(中略)欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。
 羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている。出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。(中略)
 592年 - 父崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺される。聖徳太子によって匿われ、法名を弘海として出家する。
 593年(推古元年)- 由良の八乙女浦の海岸にたどり着き、羽黒山を開山。3年間崖下の岩窟で修行。羽黒修験の元になったと言われる。引き続き、月山も開山した。
 605年(推古13年)- 湯殿山に湯殿山神社を建てる。
 641年(舒明13年)- 羽黒で死去(享年80)。享年は91とする説もある。」(Wikipedia「蜂子皇子」

三山詣
 「羽黒修験道は廃仏毀釈等による壊滅は免れた。現在は、仏教寺院として存続した手向の正善院を中心とした宗教法人羽黒山修験本宗が、神道側とは別に羽黒山の峰入りを継続している。毎年、8月に行われる荒沢寺での秋の峰入り(峰中行)では十界修行が行われ、南蛮燻しや、自己の肉体を焼尽して生まれ変わる柴燈護摩などの死と再生の修行は秘行として知られる。
 少数ではあるが、廃仏毀釈を免れて現在でも羽黒権現を祀る寺院が存在する。
 長命山笹野寺(山形県米沢市)」(Wikipedia「羽黒権現」
「羽黒入峰は幕末には少なくなつたとしても、羽黒の信仰は町村からぬけず、青少年にして羽黒に参拝し三山をかけることは永く行われた。これら三山詣には羽黒修験のいる村が盛んなのは当然のことである。
 例を黒川郡吉田村(大和町)にとると、吉田村には羽黒修験医王山妙覚院があつた。(中略)安永年間[1772-1781]まで二十三代を数え、明治の世になつても三山詣の先達をつとめた。
 村内には各部落の川沿いに数坪の行屋が建てられ、祭壇がある。行屋は貞享[1684-1688]頃より建てられたというから、羽黒派が貞享初年不利な決裁を受けたのち、せめて本山派に邪魔されぬ三山詣でその信仰を維持せんとしたあらわれであろう。出発する前日はこの行屋に一泊して斎戒沐浴し、白衣に着替えて出発し、帰宅の時もこの行屋に帰り、一泊の上帰宅したという。
 吉田村の行屋所在地は、同村浅井清三郎氏の調査によれば、麓・悪田・金取・八志田・反町下・長尾・清水・峰・三畑・沢渡・升沢の十一個所で、明治末年まで峰・悪田・金取の三ヶ所に残っていたというが、現在では金取部落に一ヶ所だけである。」(『宮城縣史』)

修験道の落日
 既述のとおり、「奥羽越列藩同盟の盟主だった仙台藩は、戊辰戦争の敗北によって大幅な減封処分を受け、1871年(明治4年)の廃藩置県により消滅してしまう。藩の財政的裏付けがなくなった上に、1872年(明治5年)の太政官布達により修験道は廃止され(修験禁止令)、良覚院は廃寺となり、当寺〔花京院〕も時を同じくして廃寺となったようである。」(Wikipedia「花京院」)「数百の末院を失い、禄に放れ、かつ秩禄を下賜される際にも寺として与えられず、寺を維持することができず十年にして退転している。寺の没落これより甚だしきはなかつた。」(『宮城縣史』)
 「修験は、幕末儒者・神道家の排仏思想のうちで最も強く反撥を受けた。修験が国の刑罰を無視して宗法を以て私刑を行い、神社を別当して仏法を以てこれを支配する(修験は神社を別当する)者が最も多かった。天台・真言また然りで、かくて仏教と神を切り離すためには、修験を禁止して天台・真言に帰せしめる必要があつたからである。
 神社別当たる修験の半数が神官に転じたのも、長年月仕えて来た神社への愛着であり、生活の根本であつたためであろう。
 とまれ修験禁止は千年来生成されて来た日本的な祈祷専門の仏教の瓦解となつた。宗教は法によつて禁止されてもその内容が残るべきであり、古い習慣は明治・大正にまでなお存在したが、大きな修験寺院は天台・真言の寺となり、小さなものは百姓に帰り、神社を所有したものは神官となった。」(『宮城縣史』)


第三節 神道
 「当時は本地垂迹の説全国を風靡し独り本郡のみに限れるにあらざるも神道を以て一種の宗教の如く考ふるは一般人民の其軌を同うしたる所又慨〔うれた(嘆かわし)〕くに堪たるなり
 神道は所謂両部神道にして真言山伏は神社に奉仕〔別当〕したるものなり 唯駒場村須岐神社神官斎藤能登守吉岡天神社神官日下権守其他二三家のみ世襲以て其神社に奉仕したるものなり 故に神仏混淆自ら一種の宗教たるが如き観ありしも亦怪むに足らざるなり」(『黒川郡誌』)。

郡内神社の総覧
 「黒川郡内に祭られし神社を見るに八幡社十一社を最多とす封内風土記所載の八幡社は廿五社現今十一社 熊野神社十七社現今四社 神明十六社現今一社 其他愛宕天満稲荷各七社之に次ぐ 総計風土記所載は百四十六社のものが今や三十七社に合併せらる
 八幡社の多きは黒川氏の来任以来の事なるべし蓋し黒川氏は源姓最上氏の庶族なればなり由来本県各郡を通じて八幡社の多きは源頼義義家父子の関係なるべきにより本郡のも或は然らんも黒川氏の関係は少なくとも之を興隆せしめたるは必然ならん
 熊野社の多きは紀州民の移住に原因せずや其他仔細に調査老〔考〕量せば仏寺神社と住民移動との関係は大いに発明する所あるべきなり」(『黒川郡誌』)。

古神道(原始神道)
 「外来の影響を受ける以前という意味での古神道とは『原始宗教の一つである』ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。その要素は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としてのマナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。民俗学などで提唱された。 江戸時代に発達した復古神道の流れの国学において、古神道という概念が初めて提示された。当初の定義では『記紀などの古典に根拠を置き儒仏の要素を混じえない神道』が古神道、『記紀などの古典に根拠を置かず儒仏思想を混じえた神道』が俗神道であるとされ、古神道と俗神道が対概念であった。
 近代以降、歴史学において仏教伝来以前の神道を純神道と呼んだが、その後、おもに人類学のほうから原始神道という呼び方がされるようになった。これは原始キリスト教や原始仏教などという用語に倣ったもので、より学問的で中立的な表現とされた。」(Wikipedia「古神道」

伯家神道(白川伯王家)
 「律令制のもとで、神祇官の長官である神祇伯には、当初は大中臣氏が任ぜられ、後に藤原氏や源氏など他の氏族も任じられるようになった。花山天皇の皇子清仁親王の王子延信王は万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下すると、永承元年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。神祇伯は延信王の後、その子康資王、三条天皇の皇曾孫敦輔王、大中臣親定、村上源氏の源顕房の子顕仲、顕仲の甥顕重と補任された。康資王の孫の顕広王が永万元年(1165年)に神祇伯に任ぜられて以降、その子孫によって神祇伯は世襲されるようになり、後にこの家系は『白川家』『伯家』『白川伯王家』と呼ばれるようになった。
 室町時代後期になると、吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し神祇管領長上を称した。兼倶を輩出した吉田家は神祇官の次官である神祇大副を世襲していた家系だが、白川家の当主の忠富王は兼倶の指導を受けていた。
 吉田家がその神道説を整理して教義を確立した一方で、白川家は鎌倉時代後期に一族に『日本書紀』を研究した者がいたものの、教義によって信仰を説くことはせず古来より朝廷に伝わる祭祀の作法を口伝により受け継いでいた。
 寛文5年(1665年)に発布された諸社禰宜神主法度ではその第三条にて無位の社人が白張以外の装束を着用する際には吉田家の裁許状を要する旨が規定され、これにより吉田家の支配下に入る神職が激増した。(中略)
 明治維新を迎えると神祇制度にも変革が加えられた。白川家の当主の資訓王は明治元年(1868年)に王号を返上し明治2年(1869年)には正式に復興した神祇官の次官である神祇大副に就任した。同年、白川家で奉斎されていた八神殿の霊代が神祇官の神殿に移された。
 明治4年(1871年)、神祇官は神祇省に降格され、明治5年(1872年)には教部省に改められ皇室祭祀は宮内省式部寮に引き継がれた。神祇官の神殿の祭神は賢所へ遷座し歴代天皇および皇族の霊は皇霊殿に天神地祇は神殿に祭られた。
 八神殿の霊代は宮中に移されたものの儲君〔皇太子〕への禊を行う祝部〔(はふりべ)〕殿は白川家に残された。祝部殿は資訓の子で子爵の資長の東京移住に伴い東京へ移転している。 資長には実子がなく、伯爵上野正雄の子久雄を養子に迎えたものの、後にこの養子縁組は解消され、昭和36年(1961年)には資長の死去により白川家が断絶したため伯家神道の正統は途絶えることになる。」(Wikipedia「伯家神道」

伊勢神道(度会神道)
 伊勢神道とは、伊勢神宮で生まれた神道の説。外宮〔豊受大神宮〕の神職(度会氏)の間で唱えられるようになった。このため、度会神道・外宮神道ともいう。
 鎌倉時代末期に、それまでの両部神道山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本地垂迹説(神本仏迹説)が勃興するようになり、その影響で、伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって、伊勢神道が唱えられた。伊勢神道は、『神道五部書』(偽書とされる)を根本経典とする。また、儒教・道教思想の要素も含まれた最初の神道理論とされる。伊勢神道は、元寇により、日本を『神国』であると再認識し、唯一絶対の日本の宗教が神道であるとする勢力のよりどころとされて、発展した。
 日本書紀によると、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女で、天照大神の御杖代(みつえしろ)として各地を巡行し、伊勢の地で神宮を創祀した。『神道五部書』と呼ばれる伊勢神道の根本史料の一つ『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』(鎌倉時代ごろ)に、度会(わたらい)郡(度会町、大紀町、玉城町、南伊勢町)を中心とする倭姫命の足跡が数多く記されている。
 その思想は、外宮の祭神である豊受大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神や国常立尊と同一視して、内宮〔皇大神宮〕の祭神である天照大神をしのぐ普遍的神格(絶対神)とし、内宮に対抗する要素があった。それまで、外宮の豊受大神は、内宮の天照大神に奉仕する御饌津神〔(みけつかみ)〕とされていたが、度会氏は『神道五部書』を根拠に、外宮を内宮と同等、あるいはそれ以上の権威あるものとし、伊勢神宮における外宮の地位の引き上げを目指した。
 伊勢神道の理論の構成には、中国思想の影響が多分に感じられるが、絶対神の存在を強調することで、神を仏の上位におき、反仏、排仏の姿勢を示したのである。
 伊勢神道は、鎌倉時代・室町時代を前期、江戸時代を後期とする。代表的な神道家として、創唱者の度会家行のほか、出口〔(度会)〕延佳などがあげられる。」(Wikipedia「伊勢神道」

吉田神道(唯一神道)
 「吉田神道とは、室町時代京都吉田神社の神職吉田兼倶によって大成された神道の一流派。唯一神道、卜部神道、宗源神道とも。
 吉田神道は、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派であるが、実際は吉田兼倶がほとんど一人で集成したと見られている。元本宗源神道、唯一宗源神道などを自称している。本地垂迹説である両部神道や山王神道に対し、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる。(中略)
 吉田神道は、仏教・道教・儒教の思想を取り入れた、総合的な神道説とされる。吉田神道は、仏教を『花実』、儒教を『枝葉』、神道を『根』と位置づけた。
 吉田神道は、顕隠二教を以って一体となすのが特徴で、顕露教の教説を語るものとしては『古事記』『日本書紀』『先代旧事記』(三部本書)、隠幽教の教説は『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』(三部神経)に基づくとするが、兼倶独自のものとは言い難く、上述のとおり、仏教・道教・儒教のほか、陰陽道等の教理や儀礼を取り入れたものといえる。また、密教の加持祈祷も取り入れている。
 室町時代、吉田神道と同様に反本地垂迹説の立場をとっていた伊勢神道(度会神道)が南朝と結びつくことで勢力を失っていたため、吉田神道が反本地垂迹説を受け継ぐこととなった。吉田神道によって、反本地垂迹説は完成に導かれ、より強固なものとなった。 兼倶は祓の秘宝伝授を行い『日本書紀』を後土御門天皇から比叡山の僧侶に至るまで講釈し、『神道大意』などが自身の家に伝えられたと捏造し、さらに伊勢信仰を吸収するために川の上流に塩をまき、『伊勢の神器が吉田山に降臨した』と偽ったので神宮側から激しい反発が起こった。
 しかし活発な宣教運動により、日野富子らの寄付によって太元尊神を祭神とする神道の総本山を自称する斎場所太元宮を完成させ、朝廷や幕府に取り入って支持を取り付けつつ、従来の白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、『宗源宣旨』を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。
 このように神道を日本の宗教の根本と言いながらも、それまでの儒教、仏教、道教、陰陽道などを習合における矛盾を巧妙に解釈・混用した、きわめて作為的な宗教であったが、一方でその融合性に富むところから近世に広く長期に渡って浸透し続けた。
 本来の神道は皇室が主家であり、長く白川家が実務担当の役にあったが、以後、大部分の権限を吉田家が持つこととなった。一時衰退した時期もあったが、江戸期には、徳川幕府が1665年(寛文5年)に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いた。
 やがて平田篤胤らによる復古神道、いわゆる平田神道が隆盛となり、明治の神仏分離により吉田神道と対立する本地垂迹説はほぼ完全に衰退するものの、明治政府により古代の官制に基づく神祇官が復古されて、かつての権勢は失われている。」(Wikipedia「吉田神道」

儒家神道
 「儒家神道は、江戸時代において儒学者によって提唱された神道である。神儒一致思想とも呼ばれる。
 神儒一致思想は江戸時代に儒学者の林羅山によって提唱されてから多数の儒学者によって説かれるようになったが、儒教の立場から神道を説く者は古くから存在していた。北畠親房『神皇正統記』度会家行『類聚神祇本源』などにその思想が見られる他、清原宣賢〔吉田兼倶三男〕の神道説には宋学の理論が取り入れられていた。

神儒一致思想 江戸時代に入ると、藤原惺窩〔冷泉為純三男〕が神道と儒教は本来同一のものであると説いている。林羅山の神儒一致思想はその師である惺窩の論を継承し発展させたものである。羅山が自ら理当心地神道と称した神儒一致思想の特徴としては、徹底した排仏思想が基本にあることが挙げられる。羅山が登場するより前の神儒一致思想には排仏思想は見られない。羅山の『本朝神社考』では神仏習合思想や吉田神道が批判されている。また、羅山は三種の神器が『中庸』の智・仁・勇の三徳を表すものであると考えた。『神道伝授』では、歴代の天皇はその心に清明なる神が宿り、神の徳と力によって国家が統治されてきた、その統治の理念が神道であり王道であるとし、神道と王道は同意であると主張した。
 林羅山の神儒一致思想は多くの神道家や儒学者の説に影響を及ぼした。外宮神職であった度会延佳が創始したいわゆる後期伊勢神道も神儒一致思想の影響を受けている。しかし、政治理論であった羅山の神道説とは異なり、延佳の説は日本人の日常生活に視点を置いていた。延佳は神道を日常生活の中にある道義であると考えた。」(Wikipedia「儒家神道」

吉川神道  吉川惟足は師である萩原兼従から吉田神道を受け継ぎながら、それをさらに発展させ、道徳的な側面の強い『吉川神道』を唱えた。吉川神道は、官学、朱子学の思想を取り入れており、神儒一致としたうえで、神道を君臣の道として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸時代以降の神道に新しい流れを生み出し、後の垂加神道を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた。
 吉川神道では、神道を祭祀や行法を中心とした『行法神道』と天下を治める理論としての『理学神道』に分類し、理学神道こそが神道の本旨であるとした。そのうえで神道を宇宙の根本原理とし、国常立尊等の神々が、すべての人間の心の中に内在しているという神人合一説を唱えた。
 会津藩主・保科正之など多くの大名が吉川神道に共鳴し、吉川家は寺社奉行の神道方に任命された。」(Wikipedia「吉川神道」

垂加神道 「臨済宗の僧侶であった山崎闇斎〔(垂加)〕は、その後儒教を学ぶがあきたらず、度会延佳から〔後期〕伊勢神道を学び、ついで吉川惟足に師事し、吉川神道の奥義を伝授された。垂加とは、このとき、惟足が闇斎に贈った号である。『倭姫命世記』の『神垂以祈祷為先冥加以正直以本』の語句に由来する。〔「『嘉』の字を二文字『垂』と『加』に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。」(Wikipedia「山崎闇斎」〕」(Wikipedia「垂加神道」
 「朱子学者の山崎闇斎が提唱した垂加神道は、他の儒学者の神道説とは異なり易姓革命を否定していた。闇斎は天皇と臣下との関係は不変であるとし、臣下のあるべき姿を説いた。水戸学は栗山潜鋒を通じて垂加神道の影響を受けていた。」(Wikipedia「儒家神道」

儒教/神道 神儒一致思想には儒教に重きを置くものと神道に重きをおくものがある。林羅山や貝原益軒、三輪執斎などの説は前者の傾向が強いが、雨森芳洲、山鹿素行、熊沢蕃山、二宮尊徳、帆足万里、徳川斉昭、藤田東湖などの説は後者の傾向が強い。
 貝原益軒は儒教の経書は神道の経典になるべきと考えた。また、益軒は儒教の理を用いて神道を解釈すべきとし、神道を儒教の天と同一視していた。三輪執斎は『中庸』に神道の極意が存在すると考えた。
 雨森芳洲は三種の神器が仁・明・武の三徳を表すものであるとし、儒教は神道への注釈であると考えた。一方、熊沢蕃山は三種の神器が知・仁・勇の三徳を表すものであるとした。山鹿素行聖教(儒教)渡来以前から日本にも聖教(神道)が存在し、天皇が断絶せずに続いていることが、大陸より日本が徳化が行き渡っている証拠だとし、日本こそが「中朝」であるとする日本=中国説を唱えた。二宮尊徳は神道、儒教、仏教の中で神道を重視し、神道は開闢の大道であると主張している。徳川斉昭藤田東湖は神道と儒教に優劣をつけることはしなかったが、東湖は神道には天照大神の神訓に由来する道義が存在すると主張した。斉昭が指導したいわゆる後期水戸学の特徴としては、易姓革命を否定し、尊王の立場をとったことが挙げられる。」(Wikipedia「儒家神道」

復古神道
 「江戸時代前期に大きな勢力を有した神儒一致思想であったが、これを批判する流れから成立したのが復古神道である。」(Wikipedia「儒家神道」
 「神道は『古道』とも称され、仏教やキリスト教のように戒律や教義を説く教典がなく、素朴な精霊信仰の形態を維持し続けている数少ない宗教のひとつであり、『神道神学』が形成されにくいものであった。このため、神仏習合は、結果的にはその教理面では仏教理論によって古来の神々を説明するような事態になっていった(→寺社縁起譚、中世神話の成立)。
 江戸時代に賀茂真淵『国意考』などで古道の存在を訴え、その薫陶を得た本居宣長は大著『古事記伝』を完成し、その巻1にある『直毘霊(なおびのみたま)』で、記紀からみいだされた『神の道』を示して、日本固有の神道の復活を目指す復古神道の成立に大いなる貢献をなした。

平田派国学(平田神道)  平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、皇道の正当性を天下に示すなど、復古神道の形成に大きな役割を果たした。また、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名な成果をあげ、法華宗や密教、キリスト教、道教などの他宗教を参照した『平田派国学』を大成させた。この平田派国学の流れから後に、本田親徳、川面凡児その他の、『古神道系の』宗教家が多く誕生してくる。
 その後、明治になると、明治政府に入った平田派国学者らは、神仏分離と神道国教化を推進した。また、同じ明治の本田親徳や、本田の弟子の長沢雄楯、またその系譜に連なる出口王仁三郎らは、人間の心は根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が「荒魂」、「和魂」、「奇魂」、「幸魂」の4つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂」説を体系化した。」(Wikipedia「復古神道」
 「復古神道の教義は多種多様だが、概ね共通しているのは、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想である。神々の意志をそのまま体現する『惟神(かんながら)の道』が重視された。
 復古神道は、江戸時代初期に生まれた垂加神道と同じく、時代を大きく動かしていったが、国学者たちによって、より学問的な立場でつきつめられていった神道といえる。(中略)復古神道は、都市部の町人のみならず全国の農村の庄屋・地主層を通じて農民にも支持され、幕末の志士たちにも大きな影響を与え、明治維新の尊王攘夷運動のイデオロギーに取り入れられることとなった。
 なお、維新政府の政治理念の中心になった復古神道について、『角川日本史辞典』には『江戸後期の国学系統の神道。古代の純粋な民族信仰の復古を唱えた神道。独善的排他的な一面をもつが、明治維新の思想的側面を形成し、神仏分離、廃仏毀釈の運動となり、神道国教化を推進した』とある。(中略)
 復古神道では、多くの流派で、「言霊」、「数霊」を使って古事記や日本書紀を読み解くことも行われた。十言の神咒(とごとのかじり)、三種の祓い(みくさのはらい)など多くの行法が取り入れられたり復興されたりした。禊行も重要視される。言霊は太占や鎮魂、帰神法と並んで復古神道の四つ柱と称される。また傍流としてではあるが折符も発達した。現在、神社などで使われている行法も、実はこの復古神道の流れから発達したものが少なくない。
 現時点で宗教団体として活動している流派の中には『我々は復古神道の流派ではあるが平田派国学と何の接点もない』という趣旨を主張しているものがあるが、教義上そういう建前になっているにすぎず、歴史的には、平田派国学の影響を免れるものではない。」(Wikipedia「復古神道」


第四節 国家神道(神社神道)
 「国家神道とは、近代天皇制国家において作られた一種の国教制度、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。「国体神道」「神社神道」、単に「神社」とも称した。
 応仁の乱により、律令制のもとで神社を管掌した神祇官の庁舎が焼失し、以来吉田家・白川伯王家が私邸を神祇官代として祭祀と神社管掌を継続していた。特に吉田家は寺社法度の制定によって江戸幕府より神社管掌を公認され、支配的な勢力となっていた。
 幕末になると黒船来航などの外交問題が発生し、朝廷と江戸幕府は全国の有力社寺に攘夷の祈願をおこない、また、民間では国学の隆盛から国難打開のために神祇官再興論が浮上していた。特にペリーの来航について幕府は直に朝廷に奏聞し、以後も、幕府は外交問題について朝廷の判断を仰いだため、朝廷の権威が次第に高まるのと相対的に幕府の権威は低下し、尊王攘夷思想・討幕運動と相まって大政奉還及び王政復古の実現へと繋がった。
 大政奉還の後、慶応三[1867]年十二月九日の王政復古の大号令によって明治維新が始まった。平田篤胤の思想に共鳴した平田派の神道家たち、また津和野藩出身の国学者たちは明治維新の精神を神武創業の精神に基くものとし、近代日本を王政復古による祭政一致の国家とすることを提唱していたが、王政復古の大号令には王政復古と神武創業の語が見え、従来理想として唱えられていた王政復古と「諸事神武創業ノ始ニ原」くことが、実際の国家創生に際して現実性を帯び、「万機御一新」のスローガンとして公的な意義を持つようになった。 明治政府は新政府樹立の基本精神である祭政一致の実現と、開国以来の治安問題(浦上村事件など)に発展していたキリスト教流入の防禦のため、律令制の崩壊以降衰えていた神祇官を復興させ、中世以来混沌とした様相を見せていた神道の組織整備をおこなった。」(Wikipedia「国家神道」
 「維新に至り各村間に耶蘇教信者を生ずるに至り吉岡町にも屡々牧師の出張在住伝教に努めたれども甚しく其勢を扶植するに至らずして遂に止みたり」(『黒川郡誌』)。
 「1880-1881年(中略)東京の日比谷に設けられた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった。(中略)伊勢派のなかにも出雲派支持者が多く出たが、伊勢派の幹部はこれを危惧し、明治天皇の勅裁により収拾した(神道事務局神殿は宮中三殿の遙拝殿と決定、事実上の出雲派敗北)。政府は、神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したといわれている。
 1919年、朝鮮神宮(京城)の造営に際して政府は明治天皇と天照大神とを祭神とした。これに対し、国学者賀茂真淵の末裔で靖国神社三代目宮司の賀茂百樹は「朝鮮民族の祖神」の「檀君」もまつるべきであると主張した。

非宗教説・宗教説 『国家神道』は宗教ではないとする説と宗教であるとする説がある。非宗教説は敬神を国民の義務とし、この義務は道徳の範疇にあるので、神社・軍隊・学校・官公庁などにおける敬神は宗教ではない、また神道は教義が存在しないため宗教ではない、という説である。一方、宗教説はこの理屈を「近代国家の体裁を整えるために信教の自由を認めることと、神道に基づく天皇崇拝の強制を両立させるための詭弁」とするものである。
 神道は『国家の宗祀』であって「宗教」ではないというのが政府当局の見解であった。行政上も1900年(明治33年)に内務省社寺局から『神社局』『宗教局』に分離することにより、神道とその他諸宗教を明確に区別した。(中略)
 明治政府は、天皇をトップとした社会構築にあたり、国民の精神的支柱として神道を採用した。五箇条の御誓文も天皇が神に誓うという形式を採用した。

神社合祀政策 江戸時代、会津藩や岡山藩、水戸藩、長州藩、津和野藩では、批判論が出るなどの議論が続く中で、小祠や淫祠の廃止・統合がおこなわれていた。このうち、水戸藩の神社合祀政策を特に「八幡改め」と称した。これは旧支配者佐竹氏が尊崇した八幡神社を破壊し、みずから崇拝する鹿島神宮に置き換える運動である。
 明治になると、神祇官は神社の調査が済むまで神社の整理をおこなわない方針をとった。1876年以降、教部省はこの方針を変更して無格社や仏堂の整理を開始した。
 1906年(明治39年)12月、一町村一社を原則に統廃合をおこなうとする『神社合祀令』が出された。同年以来、内務省は数年間かけて神社の整理事業をおこなった。神社整理というと一般にはこの頃の事業を指す。(中略)1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減した。
 事業の目的は荒廃した小祠や淫祠を廃止・統合して国家の祭祀として神社の尊厳を高めることにあった。また、地方行政の合理化という側面もあった。
 一方で、地域の氏神信仰に大きな打撃を与えるなどの理由で反対意見も多く出された。民俗学者・博物学者の南方熊楠は『日本及日本人』などで10年間にわたって反対運動をおこなった。広大な面積の鎮守の森を失ったことも弊害の一つだったといえる。そのため、神社が保有する森林を材木として財源にする狙いもあったといわれるようになる。

民間信仰禁止政策 明治初期において、神霊の憑依やそれによって託宣を得る行為、性神信仰などが低俗なものや迷信として否定され、多くの民俗行事が禁止された。そのため、出雲神道系などの信仰が偏狭な解釈により大きく後退した。また、神社の祭神も、その土地で古来からまつられていた神々ではなく、『古事記』、『日本書紀』などの皇統譜につながる神々に変更されたものが多い。そのため、地域での伝承が途絶えた場合にはその神社の古来の祭神が不明になってしまっている場合がある。」(Wikipedia「国家神道」
天皇家と神道
 「天皇陵(仲哀天皇・恵我長野西陵) 皇室の祖先神を祀る伊勢神宮・内宮 宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的事実として密接なかかわりを持つことが上げられる。また、神道の信仰の対象としての天皇とその祖先神の存在がある。
 多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。」(Wikipedia「神道」

宮中祭祀 宮中祭祀は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する小祭がある。
 中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で『禁中作法先神事』と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている。四方拝などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。
 江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭など祭祀の再興が盛んになった。
 今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編された物である。 天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年(明治4年)には『神社は国家の宗祀』との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令皇室令の一つとして制定された。
 宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。
 1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省は宮内府・宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範は日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。
 これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、『新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること』を確認している。
 日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を『天皇が私的に執り行う儀式』と解釈するようになった。(中略)
 制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇や大正天皇はあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であった。一方で、貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后は非常に熱心であった。」(Wikipedia「宮中祭祀」

天皇の神格性と「現人神」 「古来より天皇の神格性は多岐に渡って主張されたが、明治維新以前の尊皇攘夷・倒幕運動と相まって、古事記・日本書紀等の記述を根拠とする天皇の神格性は、 現人神(あらひとがみ)として言説化された。また、福羽美静ら津和野派国学者が構想していた祭政一致の具現化の過程では、天皇が「神道を司る一種の教主的な存在」としても位置づけられた。幕府と朝廷の両立体制は近代国家としての日本を創成していくには不都合であったが故の倒幕運動であり、天皇を中心とする強力な君主国家を築いていきたい明治新政府の意向とも一致したため、万世一系の天皇を祭政の両面で頂点とする思想が形成されていった。
 具体的な国民教導に失敗した宣教使が廃止された後、神仏儒合同でおこなわれた教部省による国民教導では、『敬神愛国の旨を体すべきこと』、『天地人道を明らかにすべきこと』、『皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと』の3つ、『三条ノ教則』が設定された。この『三条ノ教則』を巡る解説書は仮名垣魯文の『三則教の棲道』(1873年)など多数が出された。これらのなかには『神孫だから現人神と称し奉る』とする例が複数存在した。(中略)
 昭和維新運動以後の軍国主義の台頭によって、天皇の威を借りた軍部による政治介入が頻発した。満州事変はこの石原〔莞爾〕の最終戦争論にもとづいて始められた。
 GHQによる神道への危険視は、神国・現人神・聖戦などの思想が対象となっており、昭和天皇が1946年に発した『新日本建設に関する詔書』(通称「人間宣言」)もこのような背景で出されたものと考えられている。」(Wikipedia「国家神道」

神社本庁(神道事務局)
 「神社本庁は、神宮(伊勢神宮)を本宗とし、日本各地の神社を包括する宗教法人である。 庁が付くが、役所ではなく、民間の宗教法人である。
 神社本庁は、神道系の宗教団体として日本で最大。約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上が加盟している。都道府県ごとに神社庁を持つ。内務省の外局であった神祇院の後継的存在であり、宗教法人法に基づく包括宗教法人である。 神社本庁の宗教法人としての規則である『神社本庁庁規』では、神社本庁の目的を、包括下の神社の管理・指導、神社神道の宣揚・神社祭祀の執行・信者(氏子)の教化育成・本宗である伊勢神宮の奉賛・神職の養成・冊子の発行頒布を通じた広報活動などとしている。
 1872年(明治5年)、伊勢神宮の少宮司で教部省にも所属した浦田長民が神宮教会を設立した。
 1875年には全国の神道諸派を結集させた行政団体として神道事務局が創設され、総裁には有栖川宮幟仁親王、副総裁には岩下方平が就任した。1882には神道事務局から生徒寮を分離独立させて神職の中央機関である皇典講究所が創設〔1889年日本法律学校(日本大学)、1890年國學院(國學院大學)設立〕。神道事務局のほうは1884年、神道本局と改編された。(中略)
 1890年(明治23年)11月29日に施行された大日本帝国憲法第28条により、国民の『信教の自由』が認められると、神道も仏教、キリスト教とともに宗教団体として国家の公認を得ることになったが、一方で、神社は国家から宗教として扱われないまま国家祭祀を公的に行う位置づけとされた。
 1898年(明治31年)に全国神職会が結成され、全国の神社の連携が強化された。1900年(明治33年)、社寺局から独立するかたちで、内務省社寺局が神社局宗教局として再編され、神社と仏教が区別されることとなる。全国神職会は後に大日本神祇会と改称し、神社本庁の前身団体の一つとなる。
 1899年には神宮教会が神宮奉斎会に発展。(中略)
 明治末期になると、皇室祭祀関連の規定も整備され、大正に入ると全国神社の祭祀・祭式の形式も整う。
 1918年(大正7年)には今泉定助〔白石片倉家中今泉伝吉三男〕が皇典講究所の理事に就任し、次いで1921年(大正10年)には神宮奉斎会の会長となる。
 昭和期に入り、1938年には日本大学皇道学院が設立され今泉定助が院長に就任。1940年に神祇院が設置される。
 1945年(昭和20年)10月4日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP〔Supreme Commander for the Allied Powers; 連合国最高司令官〕)が『思想、宗教、集会及言論の自由に対する制限』を撤廃し『天皇、国体及日本帝国政府に関する無制限なる討議』を認める『自由の指令』を公布する。12月15日には、『神道指令』を日本政府に命じて神祇官を廃止し、西洋で見られる緩やかな政府と宗教の分離とはかけ離れた、国家から宗教的要素を完全に分離させることを目的とする過激な内容を実施しようとした。これにより、12月28日に『宗教団体法』が廃止されるとともに、『宗教法人令』が公布され即日施行される。
 1946年(昭和21年)1月23日、神道指令に伴い、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の3団体が中心となり、神社本庁を設立した。(中略)
 本庁の設立の際、神宮奉斎会から10万円が神社本庁に寄付され、奉斎会の地方本部奉斎所のうち『相当ノ設備ヲ有スル』(宮川による説明より)ものは神社として再発足した。たとえば東京の奉斎会本院は1946年(昭和21年)3月に神社本庁に神社設立を申請し、東京大神宮として再発足した。(中略)
神社本庁との被包括関係に属さない神社 有名な神社であっても、鎌倉宮・靖国神社・日光東照宮・富岡八幡宮・伏見稲荷大社・梨木神社・気多大社・新熊野神社など神社本庁との被包括関係を有せず、単立宗教法人として運営される場合がある。大きな単立神社は約2000社、小さな祠等を含めると20万社の単立神社がある。
 神社本庁以外にも神社神道系の包括宗教法人がいくつかあり(神社本教、北海道神社協会、神社産土教、日本神宮本庁など)、これに属する神社は神社本庁の被包括関係には属さない。
 気多大社は別表神社であったが、宮司人事における対立から訴訟の末、神社本庁から離脱し、単立神社となっている。明治神宮も2004年(平成16年)に神社本庁と被包括関係を解消し、別表神社から離脱したが、2010年(平成22年)8月23日に再び神社本庁と被包括関係になった。富岡八幡宮も宮司人事に対する神社本庁の姿勢に疑問を持ち、2017年(平成29年)6月に脱退した。」(Wikipedia「神社本庁」

教派神道(神道十三派)
 「教派神道とは神道十三派に代表される神道系新宗教教団のことである。幕末期に起こり、明治時代に教派として公認された14の神道系教団を指す(のちに1団体が離脱し13団体となる)。
 神仏合同の大教宣布と教導職を成すため、1868年頃、神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こり、同年、祭政一致の制度を復活する。その宣教機関として大教院が設置されるが、1875年解散。その代わりに神道側は神道事務局を設け、そこに元来ばらばらに存在した民衆信仰的な宗教を所属させ、信者数など一定の条件を満たした教派を独立教派として公認した。明治政府の宗教行政で明治時代に14派が公認された。それは神道大教、黒住教、神道修成派、神宮教、出雲大社教、扶桑教、實行教、神道大成教、神習教、御嶽教、神理教、禊教、金光教、天理教であった。そのうち1派、神宮教が1899年(明治32年)に神宮奉賛会〔東京大神宮〕となり離脱したため、行政上公認された神道系の教団を意味する教派神道の合計が13教派である期間が続いた。この13派を神道十三派と呼ぶ。なお当時仏教の認可は13宗(十三宗五十六派)である。加えて戦後、教派神道連合会に大本が加盟している。
 文化庁の分類によれば、大きく復古神道系、山岳信仰系、禊系、儒教系、純教祖系に分類される。復古神道系は、神道大教や神理教、出雲大社に端を置く出雲大社教がある。山岳信仰系には富士信仰の實行教、扶桑教、御岳信仰の御嶽教がある。儒教系とされるのは神道大成教と神道修成派。禊系は禊教と神習教である。純教祖系、教祖の体験と教えに比重の大きい教団は、黒住教、天理教、金光教、大本である。天理教は今日では文化庁の分類上も教派神道系ではなく諸教に分類される。また、宗教学者の沼田健哉は、大本の影響を受けた深見東州のワールドメイトを、教派神道と見做すべき存在であると述べている。」(Wikipedia「教派神道」




第三章 風俗・民俗


第一節 講

 「契約講の外又各種の諸講ありて各地に普く行はれ居れり今之を記せば左の如し
  古来〔峰〕原講 古峰原参詣をなすの目的を以て組織せり
  山の神講    婦人等の産神木花咲耶姫を拝す又山神大山祇命を拝するの目的を以て山間又は林業に従事するものの組織せるものなり
  庚申講     庚申の日猿田彦を拝す
  御伊勢講    伊勢参詣の目的を以て組織す
  権現講     正月十二月の八日羽州三山参詣の目的を以て組織せり
  己侍〔巳待〕講 金華山参詣の目的を以て組織せり
  八幡講     八幡宮礼拝の目的を以て組織せり三月八月の十五日
  愛宕講     愛宕神社礼拝の目的を以て組織せり正月六月の廿四日なり
  観音講     多くは婦人連中に行はるゝものにして観世音礼拝の目的を以て組織す大抵は牌所の寺院にて行ふ正月七月の十七日
  不動講     不動尊礼拝の目的を以て組織す
  雷神講  二月十日前後及六月十五日に行ふ」(『黒川郡誌』)。

口寄・神下し
 「又民間一種の奇風あり口寄・神下しと稱す前者は正月或は彼岸巫女を招き親類集まりて死者の意中を語らしむ巫女青竹にて造りたる弓の弦を打ち鳴らしつゝ屡々数千言聴者感動涕泣するを常とす後者も亦巫女を請じ或は其家に至り御正月下しと稱し一ケ年中の吉凶禍福を質す者にして巫女語ること一種異様の音調あり家族一同に対し正月より十二月に至る間の事変悉を之を筆記するものありて之を授与するなりこれを保存して堅く其言を守る而して口寄は巫女中途にして其言ふ所を中止すれば聴者之に応じおしかへしますといひ銭を投じて銚子に水を注げば亦言を続けて語るを例とす一口銭幾何と定め置けるを以て死者一人に就き数回推返し許多の金銭を要するなり神下しは家族一人に就き白米一升を出すを通例とす飼馬等に至る迄之を質すを以て是亦其賃決して少額にあらざるなり
 吉凶判じ難き事件或は成功し得るや否やを予知せんと欲せば卜売家に質すの他亦巫女の許に至りて之を質すを通例とす値概ね白米一升を納る疾病あるときは特に死者の怨霊あらざるや否やを判ぜしむ果して死霊ありたる時は亦白米五升を納れて之を放たしむ維新前は生霊と稱し生存し居れる人の余に対し憤怒の精霊ありやを疑ひ之を質して病を癒せんとするものなり稱して是等を死霊放し生霊放しといふ現今多くは僻陬〔すう〕なる地方に於て為せる所なり巫女たるものは大抵生れながらにして盲目の女子特に其師に就きて学びたるものなり俗に之を稱しておかみさん〔オガミサン〕さまといふ蓋し御神様の意ならんか〔母方祖母の姑が、檜和田のオガミサンだった!〕」(『黒川郡誌』)。


第二節 維新前に於ける風俗習慣の一班
 「本郡は四方山を繞し交通甚不便なるが如しと雖も国道の通ぜるにより東京青森間は勿論山形より仙台に通ずるには必ず本郡を通過せざるを得ざるを以て交通自ら頻繁なり故に吉岡駅富谷駅の如き殷賑亦現今の比にあらず特に伝馬の継立ち甚だ煩はしかりしを以て自然博徒等も多く風俗温柔ならざりしも又一方には侠気に富み強者は善く弱者を助け隣保相援くるの風ありしなり明治十九[1986]年鉄道開通に伴ひ交通頓に不便を来し風俗自ら質朴堅実となる之を他郡に比すれば軽佻の風なしと雖も一面に於ては進取の気象に乏しくして時間の観念薄く共同の思想弱く動もすれば利己的に傾き易きの短所あらんか宮床吉岡中村大松沢の如く従来館主の居住せし処は自ら礼儀に習ひ言語に熟せり現今に至るも幾分其道風の存ずるものあり
 伊達家に於ても藩内一般に下したる宝暦八[1758]年の条目は維新以前まで敢て変ずることなし忠孝を専にし礼儀を守り質素を重じたりし結果本郡に於ても亦万事倹約を主とし衣食住の如きも士農工商其階級に従ひ自ら厳然たる等差ありしなり絹紬は士分大肝煎山伏神主禰宜等に限り其他は一切木綿を用ひ絹類は帯襟等にても用ふるを許さず衣服染模様も亦紫紅を禁じ其他は無地とし小紋形付は之を許されたり木綿合羽は士分の外は用ひしめず青地紙合羽も肝煎組頭の外着用するを禁ぜらる総て赤紙合羽にして先つ一般に蓑を用ひしめ傘は肝入組頭も之を禁ぜられたり妻娘等も日傘を用ひんとして之を禁制せられたりしことあり農民は妻娘の櫛を用ふることさへ禁ぜられしなり麻上下は士分一般の礼服にして之に大小刀を佩ぶ士分にあらざるも由緒功績あるものには特に麻上下着用を許され又更に大小刀を佩ぶことを許されたるもあり是等は非常の名誉となす所なり羽織も亦農家にては普通の者の用ふること能はざる所にして袴は現今の所謂平袴を通常用ひたるものにして袴高は之を馬乗袴と稱し乗馬の場合にのみ用ひたるものなり士分は一般に素頭にして通路往復等には菅笠を用ひたり食物も一般に野菜を用ひ之を魚類に配す生魚は一に無塩と稱したれば多く塩物を用ひたりしこと推知すべし獣肉類は一切之を用ふることを禁じ牛豚は勿論鹿猪等をも之を食することを禁ぜられ偶々之を食せんとせば通常の炉に於て之を煮ることを禁ぜられ又之を食したるものは穢ありとなし戸内に入ることを忌まらることもありしなり兎は唯鳥類なりとて用ふることを許さる蓋し鳥類は一般に用ひられたるを以てなり諸振舞等にも一汁三菜酒三献酒は濁醪〔ドブログ〕を以て常例となし祝儀たりとも之を犯すことを得ず外人の会合たりとも旗元の如き格式者には二汁五菜とし其他は一計三菜或は五菜となし之に用ふる器具等も又金銀箔類を用ふるを禁ぜられ婚礼葬儀祭礼の如きも一般に質素なりしものにて条目の趣旨を堅く遵奉し居れるものなり
 当時の正月祝に用ひしものも一般に面取大根煮がらぼし煮豆数ノ子鱈の吸物等の如く上下共に定例となり居れるが如し而して其常食は白米に大根糧若くは麦粟等を混用し単に白米のみを用ふることは士家にあらざればなさざる所なり吉例には小豆を混用し若くは赤飯餅等を製する等現今に異なることなかりしなり
 家作は絵図面を製し之を代官に差出し認可を受くることとなしたりしも後此繁を省きたり旅人宿は襖障子唐紙等を許され大肝入肝入検断は表向板敷等は許されたれども天井長押等は禁ぜられ其他の農家は一切之を禁ぜらる士人には其制なきが如くなるも四脚門は之を厳禁せられしなり灯は農家一般に松節を採りて之を焼き又デツチと稱する松脂を以て製したるものを点じ士家商家にありては行燈を用ひしなり明治十四五[1881-2]年頃より洋燈を用ひしものありたれど多くはカンテラと稱したるものを使用したり大正七[1918]年吉岡町にては鳴瀬発電にかゝる電燈を点ぜしが翌年に至り富谷村に延長す又大崎電燈を引き大松沢粕川中村方面に於てもこれを使用し居れり維新初年に於て此電燈を見せしめなば其威如何なりしか」(『黒川郡誌』)

年中行事の一班
 「慣習として一般に行われたる年中行事の如きも士農工商により其趣を異にすどれ〔れど〕も左に一班を挙げん
 維新前は勿論陰暦を用ゐたるなり(中略)
  正月元日より三日まで 雑煮餅を食す士分は時服を着け祝言の為登城
  正月七日       (七草たゝくなにしにたゝく唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に七草たゝく)の歌を唱ひつゝ七草を叩きて之を粥に雑へ神前に供し家内も食す所謂七草日なり(中略)
    十四日      ちやせごあき〔明け〕の方よりちやせごにまゐった)〔家々を回り、”あぎの方からちゃせごに来すた”と唱えて、お菓子などをもらった。幼少時夜隊伍を組んで、樅木沢の大崎の同期旧姓高橋一子さん親戚の疎開者宅に行った強烈な記憶がある。土着の日本版ハロウィンであり、ぜひ復活させたい風習である。〕(中略)
  五月五日       前四日には菖蒲と蓬とを交え家根を飾り菖蒲湯に浴す餅を搗くなり〔宮田堤で菖蒲を採ったものである〕 端午の節句(中略)
  六月廿九日      大さなぶりと稱す餅を搗き休日なり(中略)
  七月七日       夕日祭前七日の夕方五色の紙を短冊形に切り之を笹竹に付け川原に立つ町屋にては軒に立つるを以て甚賑なり吉岡の夕日とて有名なり七日の朝に至りて之を撤す 此笹竹を大根畑にたつれば虫除になるといふ(中略)
    十三日      盆棚を飾る〔同期・従兄佐藤重信君と、「盆花」を採りに高森山に通ったものだ。〕(中略)
    十六日      此日盆棚を撤す十四日より十六日まで墓参をなす
 十二月廿五日      農家は納豆ねせ煤はらひ稱してどだらばたらの廿五日といふ(中略)
    三十日      門松を飽〔飾〕る或は内松とて神棚に供するものあり現今は大抵内松なり
             此夜鬼やらいをなす 豆を煎り御年男と稱するもの袴を着け一升枡に入れ蒔ながら唱ひて曰く福は内鬼は外天うち地うち四方うち鬼ふの目玉ふつつぶせ(中略)

住民一般に於ける諸階級
 我国古来挙国皆兵の制たりしが中世武門武士の起りしより出で戦争に従事するものは兵となり止まりて耕作農事に帰するものは所謂農にして兵農の別はじめて起りしなり本郡も亦徳川幕府の時代にありては一般人民の間に於て自ら数種階級を生ずるの観ありしなり即ち地頭直参陪臣農民寺家中外に一種穢多非人と稱する賎民等なり
 地頭は即ち伊達家に属する武家の采邑多きものにして大抵千石以上のものを稱す仮令宮床の伊達(八千石)吉岡の但木氏(千五百石)中村の太田氏(千三百石)等の如く各家臣を有せり之を稱して陪臣といふ
 直参とは伊達家直属の武士の義にして往々本郡内各地に知行所を有せり士分及卒の別あり士分は所謂大番士以下のものにしてとは其下級に位するものをいふ
 宮床伊達氏の家臣中家老職は大番士五番座に同じ其の他地頭の家臣たる者は其格伊達家直属の徒組と同格にして又其家臣中各資格を定め小姓通以上は士分となし以下を徒組と稱せり其下に与力同心あり(中略)。
 又本郡は仙台地方の如く商業を以て専業となすものなく故に商業にありても一朝藩庁より指令の時には悉く御百姓何の某と書くを常となせり
 寺家中は俗に門前とも稱せられ寺院の門前に居住し寺院の用務を弁ずるものにして農民の如く田畑を有せず又商業を営まず又地頭の家中の如く家禄を有するにあらず全く人に属せるものなり
 而して各階級其懸隔甚しく厳重なる制限を設けられ婚姻は勿論平素の交際に於ても容易に往復することを得ず
 農民以下のものは士人に対し不敬欠礼等の行為あるべからざるは勿論直に法に処せらる地頭の居館郭内は駄馬の通行を禁し笠傘高足駄を禁ぜらる士人の前にて馬より下りざるが為め手打にせられたることさえありたりしなり
 農家にては由緒家格の正しきもの又献金したるものは特に苗字麻上下帯刀を許され又抜擢して士格に準ずるものあり是等は最も名誉なりとして誇となせり
 次に最低階級の賎民に至りては其例言語に絶せしなり(中略)然れども其生活内福にして八十貫〔八百石〕取の士に同じと稱せられしなり」(『黒川郡誌』)。

演芸
 「当時流行せし演芸にして本郡特有なるものは獅子舞田植踊神楽等なりしが左に其一班を挙ぐべし
獅子舞〔ススメエ〕 稲荷五社獅子舞と稱す素と西成田地方に於て此技に長じたるものあり伝えて文化年間[1804-18]に至り忠蔵といふ人これを明石村伊藤栄次郎に伝へられたるより同村青年等の歓ぶ所となり近村に出でゝ之を演じ好評を博せり稱して之を明石獅子といふ栄治郎の門弟甚数多し今尚演習盛なり(中略)
 又剣舞と稱する一種の舞あり西成田に伝ふる通常獅子舞と共に出ゝ演ずるものなれ共剣舞は獅子舞の終りたる後に出でゝ舞ふ(中略)舞の歌に曰く
 一、黒川の七つ森登りておがめば薬師様下りておがめば吉田川其川上に蛇石とて石一つある(中略)

田植踊 黒川郡七ツ森田植歌と稱し本郡全部に伝はれる舞にしてやんじらうと稱する二人の少年と笠を被れるそうとめと稱する三人或は四人の少女とにて舞ふ笛によりて拍子をとる其歌詞優長自ら特殊の郷風あり従来本郡に於ては宮床村鶴ケ峯八幡社に行はるゝ御田遊と稱する法楽の各村落に伝はれるもの(中略)
神楽〔オガグラ〕 吉田大瓜或は今泉〔イメズミカグラ、北目神楽の本か?〕等にて盛に行はるゝ一種男子の舞踊なり直垂〔ひたたれ〕烏帽子を被り或は白鉢巻をなし刀を佩び幣束を取り或は扇を持ち鈴を鳴らし太鼓と笛とにて拍子をとる歌によりて舞ふ其詞勇壮にして機敏観る者をして足を踏み自ら舞台中の人たらしむ(中略)
どっぴき
 駅場にては当時賭博行はれ所謂公然の秘密といふべき状態にあり農村に於てもどっぴきと稱する一種の賭博流行せり多くは老女輩のなせるものにしてど糸と稱する多く麻糸を束ね其中或る糸に銭若くは赤魚等を着け置き一度に其糸を引くなり幸に其着きたる糸を引きたるものは銭赤魚を得故に赤魚どっぴき等の稱あり又富籤いろは籤等行はれしなり
麦搗
 当時は特に夜麦搗と稱する者〔もの〕行はる陰暦八月十五日の頃より夜間七八の臼を列ね麦を搗き居れば近隣の青年集まりて之に手伝へ手杵にて一種の唄を謡ひ拍子に依り上下するなり是れ一面に於ては男女間の風儀を乱すの媒となる其歌詞猥陋挙ぐるに勝〔た〕ゆへからず故に略す」(『黒川郡誌』)。
鉱泉
 「本郡には温泉なけれども冷泉は到る所に湧出せり其主なるものを挙ぐれば吉田村に台ケ森、湯の沢〔、四十八滝〕、大衡村には畑の湯、牛野、落合村には上山新湯、宮床村には滝ノ原、湯沢、山田、富谷村には鹿ノ湯、大谷村には川内等にして各泉共に特殊の効能あり大抵浴室等の設置もありたりしが現にその存するものは台ケ森、山田、滝の原、川内、鹿ノ湯等のみにして其他は悉く廃絶せり」(『黒川郡誌』)。



第四章 農林・畜産業


 「本郡産物の主要なるものは米麦大豆薪炭繭等にして馬家禽産卵之に次げり特に工産としては酒類を其最たるものとす(中略)


第一節 農政
 藩政時代は特に農業の奨励に注意し農民に対する条目を設け専ら之が保護撫育に努められたり農家は一人の所有五貫文即ち五町歩を限り其れ以上の田地を所有することを禁せらる且つ地形分け又売田買田をなすこと能はず止むを得ざるものは村肝煎〔入〕連署を以て郡代官に差出づ田地には必ず屋敷を付属せしめ若し廃絶するものあらば他より其の屋敷に入り田地を耕作するを常例となす之れを稱して代百姓と云ふ本郡内各所に此の類例の存するを見る毒〔妻〕子兄弟家族等専一に農耕に従事し無用の人数を召抱ふることを得ず(中略)
 高利を以て金穀を貸付し兼併するが如きものは深く之を戒めらるゝ所にして其年の収穫にかゝる米穀は先ず年貢の分は必ず備へ置かしめ其の剰余あるにあらざれば敢て之を事由に処置すること能はず(中略)
 特に水源涵養の目的を以て森林の伐木を厳禁し旱魃に際し窮する場合には大肝入各村肝入等を始めとして吉田村桑沼に登りしこと地頭等親ら其の鎮守に五穀豊穣ならんことを祈願すること等専ら農事に注意せられたり(中略)
 当時にありては耕作法に付き直接指導の如き施設なしと雖も農民一般に淳朴にして勤勉なればよく深耕をなし施肥もま亦十分なれば秋実常に豊なりしなり文政時代[1818-31]においては未だ三本鋤なく平鋤を以て田打をなしたりしも深耕に利あるを知り精励之を実施せしは今尚ほ亀鑑となすべきなり然れども一人麦作の収穫は現今に比較して莫大の劣位にあり是れ作法の研究せられざりしが為なり
 而して一般作物の耕作法に就き直接指導の設ありしは明治二十三[1890]年黒川郡米作改良組合の設成るや老農林遠里の門下岡野梅吉を聘したるを以て嚆矢となす事後農業技師を置き直接の指導をなし以て之が奨励に尽力せり之と同時に馬耕〔バッコ〕の奨励興り競黎会を催し一般普及に尽力せり(中略)その他正条植架掛の如き全部挙つて之を実施したるも独り水田の二毛作は其の進行遅々として進まざるは洵に遺憾となす所なり麦作は明治三十八九[1905-6]年ごろ宮城県農会技手吉野平八の出張指導より其の嚆矢を開き同時に堆肥の製造を奨励し両々進歩発展を来せり
 維新以前より従来耕作し来れる稲の品種は元禄文吾岩賀白稲等にして分蘖〔ぶんけつ〕少けれども通常違作なかりしなり明治三十三四[1900-01]年頃より分蘖多き奥稲の輸入をなし且つ暖地の作法に則りしかば結実遅れ動もすれば早霜のために青立となるもの往々なきにあらず特に明治三十年[1897]頃より愛国と稱する晩稲の流行せしが仝三十五[1902]年は甚だしき不結果を来し 凶作を見たるにより爾後奨励法を一変して早生種中生種となし更に早蒔き早植の励行となれり(中略)

蔬菜
 蔬菜は維新前は一般に菘〔すずな、あおな〕類を漬物に使用することなく大根の茎を塩漬となし食用に供せしなり明治十[1877]年頃より三河島菘即ち芭蕉菘と稱するもの漸く流行せり二十七八[1894-5]年頃より体菜の播種を見之に尋ぎて山東菜朝鮮白菜等盛に作られ明治四十1907]年頃より(中略)白菜種賞揚せられ各地盛に播種せられ今や大根茎を漬物に使用するもの亦昔日の如くならず
 大根には在来種のもの一般に使用せられしが明治四十1907]年頃より聖護院種の試作をなし民間一般に播種せらるゝに至れり沢庵大根として賞揚せらるゝ尻細練馬種は本県農会技師吉野平八の本郡に於て種作法実地指導ありしより今や各町村に於て是等の種作を見ざる所なきに至れり
 特に牛蒡は吉田村高田地方より東方吉田川沿岸の地方に適せるものなるが(中略)滝の川種赤茎の種子を播種せり(中略)大正三[1914]年大阪輸出を試みたるに頗る好評を博し爾後大規模の注文あるに至れるも惜い哉数量少なく其の輸出を充すこと能はず
 又維新前より行はれたる五升芋又通常あふらと呼びしもの一般に作られたるも明治二十[1887]年頃より現今の馬鈴薯漸く行はれ従来のあふらは全く跡を絶つに至る甘藷は大正の初年頃より大衡村駒場区の試作を始めとし今や各町村ほとんど之が栽植を見るに至れり(中略)
 明治三十二[1899]年農会法の発布せらるるや本郡に於ても黒川郡農会を組織し郡長を以て之が会長となす各町村又各自農会を組織せり(中略)
 之を要するに明治維新前に於ては藩制を以て農民の土地兼併を禁じ其の財産を平等に保護せられたるが如くなるも維新後に至りて其制度革り土地の売買を自由ならしめたる結果其の平均を失ひ逐次小作人の増加しつゝあるは洵に慨すべき事実なりとす然れども形式上斯業奨励保護の機関は大に備はるが如し

養蚕
 本郡の蚕業は維新前に於ける状態極めて幼稚なりしものなり然れども其起源を訪ぬれば天保年間[1831-45]已に伊達桑の栽培せられ蚕児飼育の道を講ぜられしなり(中略)蚕種は多くは自種と稱する自家製造のものを用ひたりしなり其漸く盛況を呈するに至りたるは文久年間[1861-64]にあり宮床館主伊達宗賢吉岡館主但木成行等斯業の奨励に力を用ひ桑苗を福島地方より移入し宮床に於ては特に伊達郡より留吉(当時農人には姓氏なし)夫妻を招きて斯業の教導に力めらる是より漸く盛なるに至れり然れども其之に従事する者は主として士屋敷にして商家にても之にふものありしが又稀なりとす農家には絶対に之を見ず
 当時は山桑〔クハ〕と稱し山間に自生する桑樹の発育良好なるものゝ葉を採取し以て飼料に供せるものにして所謂伊達桑と稱し(中略)其繭は各自之を生糸に製し之を販ぐを通例とす
 明治十三四[1780-81]年に至り桑園改良として刈桑仕立の方法行はれ全郡一般に又飼育方法を講究し之に従事する者漸く多かりしが(中略)本郡は郡内を一組合となし事務所を吉岡に設け吉岡蚕糸改良組合と稱し郡内各地に共同揚返場を設け(中略)共同販売法を設け横浜に直輸出となしたり二十二三[1889-90]年頃より器械製糸場の設立各地に興り繭販売のもの漸く其数を加へたるを以て組合も又自然消滅に帰せり
 此時に当り郡役所に於ても亦養蚕技師を聘し各村に巡回教授をなさしめ従来の自然飼育法は一変して温度飼育法となり技術に熟せるもの漸く多く亦稚蚕飼育場も漸次各地に興り之に加ふるに三十四[1901] 年農学校を吉岡に分校を粕川に設け一方蚕業の奨励に尽力したるを以て本郡斯業の進歩是より盛なるに至れり(中略)
 桑園は維新前は勿論明治二十[1887]年頃までは専用に仕立つるもの誠に少なく畦畔等に栽植するに止まりしが爾後桑園改良の必要を成し稍々専用として根刈中刈の仕立方をなすもの生じ來り漸次各地に実施せられるゝに至れり (中略)

漆業
 漆業〔ウルス〕に関する維新前の状況を略叙せば先づ指を宮床吉岡の二邑に屈せざるを得ず吉岡に於ては已に嘉永年間[1848-55]館主但木土佐の企画する所あり金田隆作を山形より招き盛に其の植栽に従事し又臣下某等に命じて其の技を習はしめたり維新後に至るも其家伝へて尚ほ斯業に従事し居れるものあり宮床村にても館主伊達宗賢父子の計画に係り盛に之が植栽に力しめたるも共に其の成功を見るに至らず時恰も明治の初年に際会し戦乱の世となり館主等又次いで死亡し当業を継ぐものなく遂に絶滅に帰するに至れり只漆畑と稱し両邑共に同じく空名を残せるのみ又惜むべきなり(中略)

第二節 果実

 維新前より本郡にて著名なるものは独り〔カギ〕あるのみ吉田宮床の二カ村より多く産出せり甘柿又渋柿あり渋柿は主として富山種優良なり盛に他方に移出す宮床村難波に産するものは難波柿と稱し渋柿にして形富山に似て少なり維新後に至り本郡各地に移植せらるる
巴旦杏
 又宮床村より盛に巴旦杏〔バダンキョ(スモモ)〕を産出せり味酸甘夏季の珍果なり此種素当地の産にあらず嘉永[1848-55]の頃館主伊達宗賢秋保村秋保外記より贈り来れる巴旦杏を家老職に分与したることありしに佐藤丹下の妻キミ其の種子を植江置きたりしに発育して母樹となり之を近隣に分植せしめたるものにして宮床中一戸として此の果実を有せざるものなきに至る仲春開花の時期満村一白言はん方なし其の吉岡地方にあるものも皆是れより分れたるものなり〔我が家(本家)にもあった〕此の母樹今尚ほ存在せり而して現今宮床地方唯一の産物となり遠く仙台古川方面に移出せらる」(『黒川郡誌』)。
  家毎にすももはな咲くみちのくの春べをこもり病みてひさしも 原阿佐緒(大年寺山第一歌碑,1961.6)

栗の実
 「栗の実は維新前は勿論明治十六七[1883-84]年頃までは山村各地より産したる唯一の大産物にして一婦女と雖も一日八九升位を拾得すること敢て難しとなさざる所なり従つて其の値も二三銭を上下せしものなりしが漸次樹木減少し現今は拾得の量極めて少く値も又甚だ貴くなれり然れども其豊年には又一種特有の産物として比較的其の収穫も多かりしなり
梨・林檎・葡萄
 梨林檎葡萄等も又地味の適せざるにあらず近年宮床村に於ける葡萄〔ブド〕の産出其の数量を増したるのみならず品質も亦優良なり後来一種の産物たるを失はず梨〔ナス〕は吉岡町西原にて児玉金兵衛の経営せしものは亦品質良く収穫豊かなりしが今は経営人の代れるにより廃業せり林檎は宮床より産するもの品質最も良し大谷地方にても植栽するものあるに至る」(『黒川郡誌』)。

第三節 茶業
 「郡内の産物としては茶がある。『奥道中歌』(宮城県図書館蔵)に『富谷茶のんであぢは吉岡』とあり、『封内土産考』に『茶黒川郡富谷・成田・明石の近村』とあり、『安永[1772-1781]風土記』産物の項に『富谷村煎茶 穀田村煎茶 御城下并奥御郡まで売出申候』とある。」(『日本歴史地名大系』)
富谷茶
 「本郡内古来製茶を以て著れたるもの富谷吉岡ありて富谷にては熊谷字源内屋敷渡辺政治祖先某の製造したるものにして仙台並に奥郡村に販売したるものなり寛延四[1751]年藩主伊達家に御膳用として杓把茶〓加茶等の製造を命ぜられ爾後例によりて之を献納したり獅山公〔吉村〕の命により真切茶を奉納したることもあり然れどもその製造の起源を明にすること能はざるを遺憾となす明和八[1771]年藩命により献品製造を止む」(『黒川郡誌』)。
「富谷茶」新葉を収穫
 【黒川支局】江戸時代に歌われた「富谷茶」の茶摘み式が27日、富谷市富谷清水沢の気仙屋茶畑で行われた。富谷市シルバー人材センターや富谷市などの関係者約30人が参加し、新葉を収穫した。新型コロナウイルスが収束しイベントが開催できるようになれば来客に振る舞う。奥州街道の宿場を歌った江戸時代の奥道中歌では「国分の町よりここへ七北田よ富谷茶のんで味は吉岡」と歌われるほど富谷は茶の産地だった。大正末には30軒ほどが茶を栽培していたが、静岡などの大産地に押されて50年ほど前にすべて廃業。一方で気仙屋茶畑や穀田地区の民家、富谷中央公民館には木が残っており、3年前からシルバー人材センターが中心になって復活プロジェクトを始めている。」(2020.5.30「大崎タイムス

吉岡茶
 「吉岡にては上町〔笠原〕菅原〔屋〕篤平治の製造にかゝり藩主伊達家に献納千鳥角文字政所の三品宝暦十一[1761]年藩命を以て御買上げとなる又明和年間[1764-71]九条左大臣に五品を献上したりしに公特に家紋付きの絵符提灯を賜ひ執事より道中通判壱枚を与へらる公直書の和歌
   みちのくの仙台なる吉岡といふ所にすむ菅原の何某より雲花五種をおくりしを賞翫のあまりに
    御書判  春風の香ほりもこゝに千世かけて
            花の浪こす末の松山

         又五色の銘は  春風 かほり 千世 花の浪 末の松
 菅原又藩に請うて屋根看板を掲ぐ当時産物の著名なるものたりしなり
 其後但木土佐大に茶業の奨励に勉めたり文久年間[1861-64]男沢清之進を山城国宇治に派遣し上林牛加に就きて其の製法を学ばしむ清之進帰りて之を伝授す即ち是れ上林流なり但木氏仙台本屋敷片平丁及下屋敷小田原牛小屋町並に吉岡館内に茶園を開きて盛に其の製造に従事せり又臣下に命じ悉く其の邸内に茶樹を植ゐしむ土佐その製するところの茶を藩主に献ず楽山公〔慶邦〕之を賞し和歌及幾世の友の銘を賜ふ
 吉岡現今に至るまで製茶の発達せるは実に其の賜なり明治初年に至り山崎村にても之を産出す(中略)現今に至り茶樹を仆して桑樹を栽え斯業漸く衰へたり只吉岡にては自家用として製するもの四十五戸之を以て副業をなし販売するもの僅に二戸に過ぎず」(『黒川郡誌』)。
 「奥道中歌」で有名な富谷茶に比し、実は「吉岡茶」の方が盛業だったようであり、意外である。
  ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡♪(「奥道中歌」)


第四節 林政
藩政時代の林政
 「伊達政宗封を受くるや深く林政に志し山林の保護経営に尽力し諸般の施設を経画せらる特に本郡の如き人跡稀なる吉田村升沢方面にまで親ら踏査を実施せられたる事あり又歴代之に則りて最も意を林政に用ひられしなり而して本郡に属する山林は各所の地頭士人即ち宮床村の伊達氏吉岡の但木氏を始めとし其拝領せし山林及び百姓屋敷の地続山居久根山等を除くの外一切仙台藩庁の直轄に属す之を稱して御林と云ひ西方の辺境に属するものを岳山と稱す通常之を留山となし伐採を禁ぜり嶽山留山にも種々あれども本郡に於ては特に水源涵養に供せらるゝものにして黒森長倉山花染山等の如き即ち之に属せり又一朝有事の場合に備へらるゝものあり例へば東名浜にて製塩用の為本郡西部嶽山の樹木を伐採し之を荒川より鳴瀬川を流木となし之を東名浜に送るの計画をなせしものなることを伝ふるものあり〔遠足で渡波の塩田に行ったものだ〕又売分山と稱するものあり是れ山林の樹木を売却すれば其値を折半して五分を官に納め五分を其住民に付与するが為に名くる所なり(中略)即ち山守と稱する当地の徳望者は村肝煎の推挙によりて任命せられ直接山林を巡回して其異状を検察し火災盗伐等の予防及び立木の調査をせしものなり山林の区域を定めて之を任す故に山守は其地方の住民を指揮し専ら山林の火災を予防し討伐を警戒することに尽力せしなり又山守等互いに気脈を通じ共同尽力したるを以て若し誤りて山林に火災の起ることあるも其地方各山守は其部下住民を率ゐ来りて協力消防に尽瘁したるを以て忽にして之を防ぐことを得故に密林鬱蒼として天を覆ひ昼尚暗きの観ありしなり〔明治の仙台澤田分家初代の大叔父は、山守だったと伝えられている〕
 山林保護の機関としては山守の上に近山横目其上に山林方下役等ありて常に直接山林警戒の任に当り其上に山林横目及び山林元締あり共に山林に関する書類に連署する其上に山林奉行ありて之を統ぶ是れ藩庁山林に関する官制の一班なり
 又一種特殊の制に於ける励山と稱するものあり是れ即ち住民に永代山相続の為特設せられたりしものにして其一部を伐採して正に尽くるに至れば揚山となし更に地方を開放して其作業に従事せしむ勉励の如何によりて官之に付与する方法なり本郡に於ては吉田村升沢種沢の住民作業の為特設せられたりしものあり
 野手山は秣〔まぐさ〕を刈取るに使用し又萱野は萱を刈るに適切なる経画を定めらる其他蕨野と稱し蕨取に使用する部分等悉く厳格なる境界を立て充分なる監視をなせるなり(中略)
 山林監視に関しては特に野火の防御に重きを置き(中略)別に青木留木と稱することあり樟松樅其他材林として最も重きを置きしものにして代苗の植栽は勿論許可なくして伐ることを得ず(中略)
 之を要するに藩政時代に於いては林政良しきを得至る処山林鬱蒼として木材薪炭用ひて余裕あり水源の涵養豊にして洪水旱魃の患少なく社寺堂塔松杉茂りて趣あり以て明治の維新に至れり

獣魚 「維新以前は林政厳重なりしを以て山岳は勿論各地に樹木密生せるが故に自ら鹿猪猿猴等の棲息すること夥しかりしも近年に至りては全く跡を絶ち見るべからざるに至る然れども吉田村升沢奥の大倉には幾何の猿猴の棲めるを認めたり又かもしかを見ること屡々なり(中略)
ぎんぎょ 形甚だ鯰に似たる一種の魚なり特に渓流に棲息するものにして明治二十五六[1892-3]年頃までは之を漁する者多かりしが近年鯰の蕃殖夥しくぎんぎょは之を見ること甚だ稀なるに至れり」(『黒川郡誌』)。
維新後の林政
 「明治維新に際し廃藩置県に伴ひ(中略)山林悉く官林となり地理寮山林局の所管となる(中略)廃藩と共に各般の綱紀一時弛廃を来し林政の如きは特に顧みられざる状態となり交通運輸の開くるに従ひ土木に関する事業も勃興し社寺境内の樹木先づ伐られ森林濫伐の弊を生じ又野火取締の寛容は林地の荒廃を来し水害旱魃の頻繁なるに至る(中略)
 独り民有林の荒廃甚しく漸く之れが救済の切なるを感じ各村於ては村有地一般人民に在ては各地に林樹の植栽をなしたるも当路者は経験学理に乏しく其結果も間々不良に陥る事なきなあらず又野火の侵害甚しく森林の伐採は年に加はり用途の不足を生じたる結果官林の払下をなし一目惨憺たる光景を呈するに至る(中略)

製炭 製炭は往古より行はれ来れる生業なれども本郡に於ては其年代事績等を審にすること能はず 其製造する所のものは所謂黒炭にして間々白炭の製造に従ふものもあり 製法改良に就き石釜講習或は黒炭製造講習等ありたれども当業者は概して旧法に泥みて新法に従はざるの観あり 又大正四五[1915-16]年頃製炭の副業として吉田村に於て酢酸製造の術を伝習作業したること等ありしも業半にして中絶するに至れり 製炭業者は近年材料著しく欠乏したるを以て自然節約的にこれを用ゆるに至れり此に特筆すべきは吉田村及宮床村等に於ては東京輸出の木炭製造に従事するの外来人其数を増し 宮床村笹倉山の如きは宮城郡根の白石村某の所有に帰し自村民の生業上支障を生じるに至れり(中略)
 は藩政時代より吉田村升沢種沢等は流木事業に従事せり 維新後尚現今に至るも村有林国有林の払下を受け盛に之を行ふ 荒川と稱する鳴瀬川の支流を利用して色麻村に流下するを常とす 其嘉太神方面に属するものは吉田川を利用して吉岡方面に移出し主として酒造家の用に供す
 流木事業の外新事業として仙台高城吉岡方面に移出するものは木炭と同じく富谷宮床大平大谷の各村落なりとす

丸太角材他 丸太角材は町村各地より之を産す
 木羽は維新後社寺境内の老杉伐採に伴ひ薄木羽と稱し其製造に従事する者各地に点在せるも現今其材料に乏しく産出殆絶無となれり
 栗木羽も亦吉田宮床の如き材料豊富なる地方に於ては維新前より之に従事せるもあり現今今尚産出せり
 杉皮は材料と共に各地に之を産し柏皮榛皮等は染料として主に吉田大衡の両村より産出せり
 栗の実は主に西部の産地より産すれども明治十七[1884]年鉄道枕木製造の為伐採したるを以て産出は頓に減少す
 菌類は山村各地に之を産すれども現今森林荒廃せるを以て又著しく減じたり
 は吉田宮床大衡等の野山に産し 山桑は主として宮床吉田村に産せり 明治三十五六[1902-03]年頃までは吉岡宮床吉田地方に於て養蚕をなせるものは其二三齢までは之を採りて飼養用に供せしものなり
 又松樹に生じたる脂即ち松脂を採集し之をデッチと云ふ 酒造家を始め民間夜業の時之を点じたるものなりしか洋燈行はれてのち廃れたり 然れども酒造家にては蝋燭を用ゐるを忌み尚之を用ひ居りしも松樹の伐採繁くために松脂を生ずること甚だ尠くなりしを以て自然デッチも亦廃絶するに至れり
 之を要するに本郡林産物の主なるものは丸太角材其他の製材薪炭木羽等にして副産物として杉皮栗の実諸菌類等なり 故に是等産業に従事するものは主として山地に居住するものにして就中製炭等に従ふもの比較的多数を占む 製炭は吉田村を第一として宮床大衡大谷落合等之に次ぐ 吉田村にては吉田宮床村は宮床小野大衡村にて大瓜駒場大谷村にては川内東成田落合村にては松坂等の諸部落に過ぎず〔既述のとおり、小鶴沢など南三区でも行っていた〕 是等住民は寧ろ中流以上の従事する者多く資本の関係より下級者は直接従事すること能はず却て焼子と稱する一種の傭となりて労働するに止れり 其材料は民有林を利用すること勿論のなれども国有林の払下をなし以て之に充つるを常とせり
 本郡西部なる吉田村は大瓜村及加美郡なり〔る〕四釜村王城寺村黒澤村等と山林境界争をなしたること屡々なり」(『黒川郡誌』)。


第五節 畜産業
産馬業
 「本郡は古来の産馬地にして亦主要なる副業なり而して地勢上最も斯業に適し従て其産する所もまた駿逸たりしなり藩政時代に於ては産馬は一に官業に属し藩より種馬を下渡され毎年種付期に於て種馬及牝馬の体格検査を行ひ其種付をなす然れども其種牡馬は他国より購入したるものにあらず競売場より優良のものを買上げ之を御手打馬と稱し俗に金五両を出せば高価のものなりとて之を種牡馬に使用したりなり其管理に於ても別に規定なく種付期は廻番に各戸にて飼育し種付に使用し終れば貸付をなし駄馬に使用せしなり而して其産出したる所の馬匹〔は〕悉く之を官に納む即ち毎年秋期二歳仔馬を競売場に出したるものにして其取締は馬肝入之を執行せり牝馬は蕃殖用として直に生産者に無料を以て下渡されたるも若し其体格の蕃殖用に適せざるか又は生産者の蕃殖用として望みなき時は牡馬と共に競売に付す其競売代金は官に於て五分を納め生産者に五分を交付したるなり然れども牝馬一頭にして仔馬四頭以上に達すれば其超過せる産馬代金は三官七民の割合に以て生産者に交付せるなり当時二歳仔馬の競売場としては大谷郷は宮城郡高城駅にして其他は吉岡駅なり」(『黒川郡誌』)。
 「馬匹の血統上特に保存を要したきもの
 吉田村嘉太神石倉と云ふ所に於て飼育したる吉田青と稱するものあり石倉の飼主滅亡の後同地中見山にて飼育せり青毛にて体格は南部馬の如し故に一名仙台の南部と稱せり現今同村堀籠周吉にて奨励金を受け居る牝馬は其の系統なり」(『黒川郡誌』)。
 「維新後も亦尚藩政を踏襲せしが明治七[1774]年より本郡内産馬競売場を大松沢村に置かれ大森三ヶ内旧大谷郷を其所属となし其他及宮城郡根白石村を吉岡に属せしめたる(中略)而して其競売代金は三官七民の分収に改めらる仝十三[1780]年に至り之を民業に移し本県内の産馬地を合して仙台産馬組合を組織し(中略)諸般の事務を掌らしめたりしが仝二十五[1892]年組織を改め(中略)競売代金の二分を組合の経費に充て八分を生産者に交付することゝなれり然るに三十三[1900]年(中略)県庁に委任することとなりたり其間大谷所属の競売場は大松沢より分離し大谷村粕川村とを合し交互隔年開設したり之を稱して粕川組といふ後合併改めて大松沢組と稱し其大松沢組に属する以外の各町村及宮城郡の〔根〕白石を併せて所謂吉岡組と稱せるなり仝三十八[1905]年より競売場を吉岡町に置き本郡全部其所属となる然るに大正八[1918]年に至り亦分離して東部競売場を大谷村中村に設け大谷粕川大松沢の三ヶ村其所属となるに至れり茲に吉岡組大松沢組各取締役の歴代を挙ぐ
  吉岡組   伊藤弥太夫 伊藤弥三郎 碓井円太郎
  大松沢組  佐々木富七 田中伝三郎(中略)
 明治三十一[1898]年始〔初〕めて宮城種馬所より種牡馬二頭を派遣せられ(中略)爾後馬政局支配の種付所を開設するに至る仝四十三[1910]年種付所建設翌四十四[1911]年より種牡馬三頭づゝを派遣せらるることとなれり又三十九[1906]年陸軍省にて濠州産牝馬を買受け蕃殖用として組を組合に貸付したるにより吉岡組合にも十六頭の配当を受く大正十一[1922]年より大衡村大衡にも亦種付所の増設をなせり」(『黒川郡誌』)。


第六節 副業
 「維新前より副業として行はれしものは養蚕業の外士分のものは白箸掻 下駄打等をなすものあり其材料としては前者はあをか後者はごんずゐかはくるみ等山林の天然林を伐採して製作せしものなり白箸は主として宮床村より下駄は宮床吉岡地方より産せり白箸は明治十四五[1881-02]年頃より製作衰へ現今は全く絶滅に帰せり下駄類も亦材料の欠乏に伴ひ白箸と前後して衰退せり然れども現今吉岡町に於て之に従事するものあり其他宮床村よりを産出せり材料は地方天然生の筋竹を採りて製作せるものにして現今尚ほ之を業とするもの十余戸あり
 吉田村升沢より鍬柄 折敷〔角盆〕 篦〔へら〕等を産せり(中略)明治三十五六[1902-03]年頃より鍬柄の製作衰へたるも近年其製法を改良し再び其産出盛なるに至れり 折敷は現今尚正月の神前用として之を製作せり 箆は船形山参詣の土産物としてこれに船形山と烙印し是を販売するに止まれり

木羽
 木羽〔こっぱ、木端〕も亦従来吉田村より盛に産出したるものなりしが栗木の欠乏に伴ひ製造著しく減少せり 大正七[1918]年吉田村嘉太神早坂佐太郎観る所あり刈田郡遠刈田より佐藤虎治を聘し木地挽業の伝習を開き斯業の拡張を計り一は以て信用組合を組織し奨励に尽力し居れり後年最も有望事業たるを失はず
竹細工
 竹細工は維新後に至り大谷郷の東成田川内中村の土地生産の筋竹篠竹にて石炭笊の政策を奨励し仝三十七八[1904-05]年〔日露〕戦役に際し出征軍人家族保護のため竹蔦籠製造伝習所を開き盛に是等の製作を奨励せしが 其後川内東成田の官林払下となり竹の発育を害し材料の不足せるが為め自然衰退に帰せり 亦宮床村にても竹蔦籠の製造ありたれども至って少量なり同地の如き材料豊富なる所に於ては惜しむべきことなりとす 笊の製作の如きは亦各地之を産すれども地方の需要を充すに足らず〔砂金沢の母方祖父は竹細工の名工だったが、独学と聞いている〕
氷豆腐
 茲に特筆すべきは氷豆腐〔スミドウフ〕にて維新前に於ては吉岡の名産にして仙台其他特に江戸地方にも土産として移出せられたるものなりしが現今に至り是が製造も漸く衰へ他より移入するもの帰〔却〕つて多きに至れり 伝へ曰ふ玉造郡岩出山の人某吉岡なる某に至り氷豆腐製造法の伝習を受け帰りて是を地方に伝ふ之岩出山氷豆腐改良の因をなせるものなりと 而して富谷村新町の氷豆腐製作は年を追うて漸く盛になり各地に移出するに至れり
藁細工
 〔既述のとおり〕藁細工は農家一般の副業にして自家の用一切を弁じ来りしも物産として他に移出するものは鶴巣村鳥屋の藁筵なりとす毎戸是を製造し広く販路を開き北海道方面まで移出し居れり

第七節 凶歉・治水
 古来年に豊凶ありその原因種々あるべしと雖も帰する所は気候の順否にあり旱魃水害後暑早寒主として稲梁〔籾〕を害ふ農民一年中営々たる辛労も一朝にして画餅に帰しその惨害の及ぼすところ実に名状すべからず本郡凶歉〔きょうけん〕の口碑に存するもの左の如し
 万治三[1660]年 寛文十[1670]年 延宝二[1674]年 元禄十三[1700]年 正徳五[1715]年 元文三[1738]年 宝暦五[1755]年 天明三[1783]年 天明四[1784]年 文化五[1808]年 文政八[1825]年 天保四[1834]年 天保六[1836]年 天保七[1837]年 弘化元[1845]年 弘化二[1846]年 明治二[1869]年 明治三十五[1902]年 明治三十八[1905]年
なりとす
 寛政元[1789]年幕府諸侯に令して備荒倉を設け万石毎に百石を備蓄せしむ本郡の如きも吉岡倉場新町会所に倉庫を設け毎年穀納するところの玄米を管理するの外藩庁に於て之に籾を蓄へ置きしなり此備籾は毎年田打田植稲刈夫喰等と稱し農民耕作に要する資本を貸付け歳末に至り是を回収し以て之を新になし置きたるなり然れども一朝凶歉に接すれば藩庁に於ては倉庫を発きて窮民を救ふと雖も仙台藩中莫大の窮民を洽〔あまね〕く給するに足らず(中略)且つ各藩領鎖国主義を採り絶対に米穀の移出入をなすこと能はざるを以て米価遽〔にわか〕に暴騰し(中略)如何ともなすこと能はざるに至る(中略)
 天保年間の凶作における古老の言によれば(中略)巷間死屍累々数犬群りて之を咬ふ古に曰く餓?〔ふ、あまかわ〕野に充つとは夫れ是を評するものならんかその食するところの二三を挙ぐれば蕨根松皮楢の実タラの根葛の葉河菫の根藁オホバの根等古より伝へて以て食すべきしとなすものことごとく之を食ふ
 之を要するに本郡に於て凶歉と稱すべき年代は万治年間以後前期十数回に亘れりと雖も大洪水のため一層困難を極め惨状を呈せしこと殆ど連年枚挙に遑あらず吉田川は其水品井沼に至り水閘狭く且鳴瀬川の逆流を受け大谷大松沢粕川の三ヶ村を浸し更に進んで落合鶴巣村等に遡り浸水十余日に亘れるを以て稲其他の諸作物を害すること夥しく之が為め被るべき損害実に莫大なるものにして惨状名状すべからざる有様なりしも明治四十二[1909]年新に品井沼の閘門を開鑿し旧来の沼地を開墾したりしより水害の患を免れ郡民挙って安堵するに至れり而して明治二〔三〕十八[1905]年の凶作を以てして能く其の惨状を免れ得たりしは一に社会文明の進歩と交通機関の発達とに因るものたることを証明すべき一大試金石たるを免れず」(『黒川郡誌』)。

用水
 「郡内のおもな用水には四日市場(現中新田町)で鳴瀬川に合流する花川(もと荒川)に、普請奉行前田善左衛門によって開削された金洗(かなあらい)堰荒川堰がある。金洗堰は寛永七[1629]年から五[1630]年、荒川堰は正保三年(一六四六)から四[1647]年をかけて完成。金洗堰は王城寺村に堰口をもち、大村、大衡村、大瓜村の用水となる。
 荒川堰は志田郡一〇ヵ村用水のため志田堰ともいう。三本木町農業協同組合には、安政五年(一八五八)の荒川堰絵図が保存されている。(中略)宝暦一一[1761]年には、金洗堰を利用する大・大衡・大瓜の三ヵ村と、荒川堰を命綱と頼む志田郡十ヵ村との間で激しい水争いがあった。
 このほか吉田川を堰止めて造られた用水堰に八志田堰大堰がある。八志田堰は『安永[1772-1781]風土記』に吉田・今・大衡三ヵ村入会用水で、溜高二五七貫三二三文とあるが、築造の年代は不明。
 享保一一年(一七二六)高田村の百姓長左衛門孫兵衞は、肝入の年貢取立・御塩払などの不正十数ヵ条を書きたて、村の百姓二〇余名と肝入就任を阻止するために直訴に及んだ。首謀者長左衛門・孫兵衞は高田村で獄門、百姓たちは遠川切追放以下の刑に処せられている。」(『日本歴史地名大系』)

品井沼排水工事
 既に詳述のとおり、「本郡は吉田川其中央を貫流し落合村舞野にて竹林川鶴巣村大平にて西川粕川村字行井堂にて逆川〔滑川〕を合し其他の諸流悉く之に合し志田郡神島台大迫に於て品井沼に入る 故に一旦降雨に会すれば出水直ちに汎〔氾〕濫を来し是等二川の逆流遥に舞野を浸し其甚しきは更に進んで吉岡高田吉田に至り一望宛も大海の観ありたりしなり是尚品井沼排水の行はるゝ当時に於てすら此惨状を呈せし者〔もの〕なり 品井沼排水工事の未だ行はれざりし以前にありては其の冠水の惨実に想像に余りありしなり
 抑々〔そもそも〕此工事は仙台藩の直轄にして元禄六[1693]年七月九日藩士〔私の曽祖母の実家仙台大越氏の同族〕大越善右衛門部下の吏員を率ゐて宮城郡根廻村に於て鍬立即ち起工式を挙げたるをはじめとし爾後六年を経て幡屋潜穴 浦川開鑿工事を竣工したり(中略)是に於て新田の開墾せられたりしものも夥しく我が黒川郡大松沢付近不来内付近其他現今の大谷村粕川村各地に於ける田地も亦其反別を詳知すること能はざれども亦決して尠からざりしなり 爾後(中略)六次の穴払工事を施工し孰れも藩直属の工事にして(中略)
 明治廿二[1889]年品井沼村組合なるもの起れり本郡にても大谷粕川大松沢の各村是に加入せり(中略)
 明治三十二[1899]年に至り沿岸の有志は品井沼排水工事を根底的に実施し以て永久に禍根を芟〔さん〕除せんと欲し之を組合に建言せれり(中略)
 仝〔明治四十三[1910]〕年十一月二十六日を以て開渠隧道の通水式を挙行するに至れり(中略)
 回顧すれば明治十三[1880]年以来品井沼開墾の宿望始めて其目的を達するを得たり 当時何者の狂歌に
   むかしより田にも畑にも品井沼
     こけな狐が開墾となく

も該工事の歴史を物語るに一節となれり」(『黒川郡誌』)。




第五章 商工鉱業


第一節 醸造業
酒造

 本郡製造品の盛なる者は酒類なり元禄年間[1688-04]吉岡に内門某あり酒造を業となす家甚富めり後遠藤周右衛門あり浅野屋と稱す宝暦年間[1751-64]但木氏吉岡に治するや浅野家を以て御酒屋及御用達となす又品川新七あり酒造を業となす但木氏以て御用達を命す享和二[1801-04]年遠藤氏第七代僖之其醸す所の銘酒霜夜寒月春風を近衛公に上る公之を嘉し銘酒の看板を自書して賜ふ爾後献納以て常例とせり惜い哉看板は明治十二[1879]年吉岡大火に際し焼失せり
 当時吉岡には遠藤品川両家の他早坂新四郎吉田権八 高平重三郎〔穀田屋十三郎〕の三家亦酒造に従事せり而して早坂品川の二家は何時しか廃絶に帰し児玉金兵衛次に興りしも明治初年に至り高平児玉に〔二〕家一事中止となり仝十二[1879]年の大火に伴ひ遠藤氏亦業を廃せり是より先き吉田潤吉明治九[1876]年業を興せるを以て当時酒造家を以て業をなすものの吉岡には吉田二家あるのみ
 明治三十[1897]年頃高平東四郎 児玉金兵衛其業を復興し又従来〓〔秋に酉〕麹営業たりし浅野多三郎 早坂源七業を創め酒造営業者前後通じて六家となる此間加藤養右衛門一時業を興したるも幾何ならずして止む
目下吉岡町に行はるる所の銘酒には吉田勝治醸造の勝駒 浅野多三郎醸造の春風 児玉金兵衛醸造の七峰旭露 早坂源七醸造の松華奥正宗 吉田善九郎醸造の天禄等にして何れも芳醇無比の稱あり
 富谷新町に内ヶ崎某〔織部〕あり二世作右衛門に至り酒類醸造を創む寛文年間[1661-73]藩主巡狩の際之を献納す後以て恒例となせり銘酒あり春霞初霜と云ふ歴代伝えて之を醸造し以て十二代を歴現今に至る〔現在、県下最古の醸造元である〕今醸す所の銘酒を鳳陽と稱す 又阿部八郎平明治初年より業を興し醸造に従事せり(中略)
 大正九[1920]年に至り吉岡町各酒造家は時勢の進運に鑑み株式会社を組織し吉岡酒造株式会社と稱し工場を吉岡町字館下八十八番地に建設し茲年より醸造に従事せり(中略)
 是より先宮床村に原広寛〔原阿佐緒の先祖〕あり邑主宮床一門伊達氏の御酒屋となる銘酒をに鬼懲と稱す伝えて明治初年に至りて止む其他舞野村の高橋林之助中村の桜井忠右衛門三ヶ内村に桜井庄之丞駒場村に和泉忠之丞等あり孰れも清酒醸造に従事したれども久しからずして廃せり
 当地方に於いては其醸造には概して近傍の河水を利用し吉岡町にては吉田川の支流五間堀〔洞堀川?〕と稱するものを用ひ富谷村にては富谷川〔西川〕を用ふ寒侯鶏鳴拾数人之を汲み以て醸造に給す然れども近年孰れも井水を用ふるに至る(中略)

濁醪(どぶろく)
 本郡は地勢上寒気烈しく又習俗酒を用ふる場合多し古来毎戸は濁醪〔ドブログ〕を醸し以て自家用に供したるも明治十五[1882]年より自家醸造に課税をなし(中略)明治三十一[1898]年濁酒醸造の絶対禁止令発布せらるるや皆廃業をなすの止むを得ざるに到れり
 而して今や是等各酒造家の産出するや酒類は何れも芳醇甘味を以て賞せられ郡内の需要を充して遥に余あり仙台仙北各郡に移出し本郡移出物中唯一の逸品たり
 濁酒に附帯して忘るべからざるものは〓〔秋に酉〕麹業なりとす維新前に於ては(中略)宮床村に原幸力〔原阿佐緒の曽祖父〕(中略)等あり孰れも歳時顧客山をなし盛況を極めたり然れども濁酒禁令と共に或は廃し或は酒造業に従事するものあるに至る

醤油
 醤油醸造者には(中略)宮床村の原幸力(中略)ありしが(中略)現今其継続営業せるものは大松沢の平井磯之助落合村の桜井寅次郎吉岡町の吉田善九郎富谷村の内ヶ崎作三郎等の数人に過ぎず而して是等醸造石数は郡内の需要を充すこと能はず志田郡三本木遠田郡北浦加美郡中新田其他の方面より移入せらるゝもの多し(中略)

第二節 食品製造
菓子類
 特に日下春治製造の熊谷おこしは豆粉と炮〔あぶり〕豆とを飴にて捏り之を長方形に切りたるものにして当郡の名物として同所通行の旅客は必ず之を購ふを例となせり吉岡町志賀野屋の製作にかゝる寿煎餅よしあめ等は其味甘く質淡白にして本郡の名物を以て稱せらる(中略)
 維新前に於ては砂糖類の供給甚だ乏しきを以て一般に菓子類はを主として造れるもの多く所謂殿中おこしと稱する類を普通となせり落雁南京羊羹等は当時の最も上品なるものなりしなり維新後西洋製法伝はり特に舶来小麦粉及砂糖の輸入盛になり一般に麺麭〔パン〕類かすてら等の製作流行し生菓子飴物の製造特に多くなりたり近日更に葛子粉製造の進歩著しく又昔日の観を止めざるに至れり(中略)

氷豆腐
 〔既述のとおり氷豆腐〔スミドウフ〕は維新前に於ける一種特有の産物にして吉岡氷豆腐の名声嘖々〔さくさく〕たるものあり當業に従事する戸数も亦決して少なきにあらず遠く江戸地方にまで移出したるものなり
 然るに現今岩手〔出〕山氷豆腐の世間に好評を博し又広く移出せられたるもの今其源泉を尋ぬれば同地方某本郡吉岡佐藤勇七の許に来り其製法を伝授せられ帰りて之を同地方に伝習したるものにして吉岡氷豆腐を凌ぐに至る 又吉岡に於ては之に従事するもの次第に減少し今は却て富谷村新町当業者の発展を見るに至れり
 又吉岡には油揚の製造に妙を得たる安曇屋藤藏ありたり 維新前のことなりしが遠く最上地方より来りし某の此製造方法の伝習を受け帰りしことありしと云ふ

油屋
 油屋は(中略)従来燈用其他食用品として一般の必需品たりしを以て其需要も多かりしなり其原料として多く用ひしものは菜種子なりしが本郡高田村舞野村は勿論遠く志田郡地方より移入したるものなり明治十二三[1879-80]年頃より漸く洋燈の流行に伴ひ種子油の需要遽に減じたるを以て当業者も亦自然廃止の止むを得ざるに至る加之豆油の輸入盛になりたるにより斯業当面一層の大打撃を受くるに至り今や全く廃絶に帰せしなり

第三節 木櫛他
 木櫛は大衡村八鍬木櫛製造工場にて製造せらる 仝工場は明治三十八[1905]年四月の創立にかゝり其製品は各地方に移出せられ(中略)
 履物類は吉岡富谷大谷粕川方面より 麺類は大松沢吉岡鶴巣大谷大衡富谷方面より産出せり


第四節 鍛治
 維新前にありては刀剣鍛錬の必要より宮床館主伊達家にては駒板重正吉岡館主但木氏にては尾形行房をして盛に斯業に従事せしめ門弟等をも教養せしめしなり 特に宮床村にては葉山丸安達正義を聘し大森山に於て刀剣を鍛へしめたり其の精巧なるもの今尚存在せり
 普通の刃物は民間の日常必須なるを以て各地方に鍛治匠ありて之れか製作に従事せり鍛治屋敷と稱する地名の各地に散在せるを見ても之を徴するに足べし 吉岡にては従来志賀野家大鍛冶屋と稱し往昔は正月二日には同業者集合して当工場に於て鉄槌を以て金敷を打ち発火せしめ斯火を持ち帰ることの儀式をひたりしと云ふ 又金敷を作る場合にも同業者は茲に集合して協同製作したりしものにして常に使用する鉄は先づ鉄問屋より大鍛治に大卸をなし大鍛冶屋は更に之を同業者に分配したり当時の鉄問屋は吉岡町の児玉金兵衛之を営む 而して時勢の進歩に伴ひ洋釘類延鉄製作品の流行及び他地方より各種の刃物類農具類の移入盛なるに至り当業者は大打撃を被り目下不振の状態にあり」(『黒川郡誌』)。


第五節 鉱業
 「本郡の鉱業としては一の見るべきものなし唯現今大衡村落合村より亜炭の採掘あるのみ 然れども維新前に於ては吉田村の鉄宮床の鉄及燧石の採掘ありたり 其他二三の産出あり左に之を述べん
鉄山
 吉田村に於て採鉄をなしたりしことは本郡重大の歴史に属す 其個所三あり一は升沢北石光山にして二は嘉太神字鉄山三は字宇根古なり 而して其材料としては砂鉄を集め是より採取したりしものなり
石光山鉄山 素字柴坂にて着手したるものなるが天保六[1836]年志田郡平渡村山師平蔵といふもの之を行ひたりしも其結果不良なりしなり(中略) 加美郡中新田村只野氏家来小島久右衛門是に代りて従事せり然れども炭の不足なりしを以て此石光山に移れるものなり(中略) 子惣内其弟喜八郎に至るまで三代茲所に於て採鉄に従事し明治七[1874]年に至り止む 其盛に産出したりし時は牛多数を使用し運搬に従事したりしといふ
 当時又宇根古に於ても小島善八郎の経営により採鉄行はれ明治十三[1880]年に至りて止む
 嘉太神なる高倉山鉄山は安政二[1856]年吉岡町今野庄七郎高橋勇等の経営に係りしが其成績良しからず(中略) 明治初年迄採鉄に従事したり

宮床村鉄山 其原料は砂鉄にして萩ヶ倉附近の砂鉄を採集し之を牛にて運び宮床村石塚と稱する土地に於て之を精錬したるものなり是れ燧石のザンギと此地方松木の豊富なりしによる(中略) 万延二[1861]年の頃より明治初年に至るまで之を継続せり(中略)
 蓋し本郡の西部を流るる諸川大抵莫大の砂鉄を有せり 是れ赤崩山麓一帯の砂鉄を蔵せるによるものなりと稱し居れり

燧石
 宮床村燧石〔ひうちいし、シウヅイス〕の産地は之を稱して宮床村四つ辻萩ヶ倉銀山といへり 元燧石鉱たりしが銀分を含有せるにより之を精錬せんとして銀山と稱せしものなりしと云ふ 邑主伊達宗賢弘化年中[1845-48]より直営として燧石を江戸表に移出せしものなり(中略) 後伊達氏故ありて之を止む(中略)其休山となりしは鉱石の欠乏より生じたるものにあらずして燧石は従来蒲の穂を打ちてフクチと稱するものを当て之を火打鉄と稱する鋼鉄製のものを以て打付け点火したるものなりしが擦付木の流行せしより燧石の用益々減少したるを以て其採掘を中止するの止むを得ざるに至れるなり
 其鉱穴中に大なる鉱石あり之を稱してハダカイシと云ふ 其上方に当れる所に山神の碑を建て之を記念せり
 而して当時火打用に供せし燧石を産せし処は水戸津軽と此鉱穴との三ヶ所に限られたりしものにして三貫目に対し金三円なりしといふ 其掘取りたる鉱石は之をタガネを以て細かく打ち磨きをかけて光輝を発せしめ小なる俵に入れ牛にて運搬したりしものなり 其磨屑は之をザンギと稱し鉄鋼吹分の際に使用したるものなり

鶏冠石
 鶏冠石は明治二十三[1890]年の頃嘉太神国見と稱する処に於て之が採掘に従事したりしなり 之を以て朱黄生黄と稱する絵具を製したるものなりといふ其採掘の跡今尚ほ存せり
亜炭
 亜炭は大衡村駒場に産したるを初とし後各所に発見採掘に従事せり 今其駒場山亜炭鉱山の沿革を述べん
 当鉱山は明治二十三[1890]年の春地主泉貞治其妻及び数人の農夫を伴ひ雑木伐採の作業に従事せり妻女いそ渇を覚えること頻なるを以て水を求めんと欲し谿間に下れり偶々眼前に黒色の炭層横れるを発見し木片を以て之を破砕し破片を携へ帰りて燃料に試用したり 果たせる哉是れ良質の亜炭なるを知り大に之を喜び貞治は其採掘に着手せり販路直に拡張し家政大いに整ふ嗚呼いその功績偉なる哉
 仝二十八[1895]年三月鉱業法公布に際し本郡富谷村内ヶ崎〓治郎の為に鉱山の権利を取得せられ貞治は唯採掘の役に当るのみ 治郎は益々鉱区を拡張し大に炭業の隆昌を企画せりと雖も時勢の之に伴はざるを以て稍々遅滞の景況を呈せり
 仝三十五[1902]年志田郡三本木町鈴木喜平に権利移転となるや喜平は鉱区の南北に向つて延長するを知り其南方区域に於て亜炭業拡張の有利なるを悟り生家に〔を〕出でて鉱山の麓なる駒場区字北沢四番地に移住せり 而して北方鉱区の経営は生家の尊属に之を委任し以て南北呼応して益本業の発展を企てたり(中略) 当鉱山の経営に倣ひ探見以て経営に従事するもの其数を加ふるに至れり故に当鉱山は本郡亜炭業の嚆矢にして泉氏は実に開祖といふも過言にあらざるなり
 仝三十九[1906]年(中略)駒場山(中略)を分立し自営の基を開き他は生家の経営に移せり 其大正五[1916]年十月喜平は病死したるを以て嗣広治其後を受け専ら斯業の発展に力め居れり
 当山の炭質は優良他に比類なきを以て(中略)内地亜炭の代表的標本採取の光栄を負ふ(中略)

川瓢
 吉田村吉田の吉田川沿岸にあり岩層は一般に耐火耐寒性を帯び建築用土台石及竈等に使用して実揚せらる 地方に於ては之を稱して川瓢〔ひさご、ふくべ〕といふ移出高少からず
 因に記す吉田村大倉森に於て大正十一[1922]年の末頃地方人石炭を発見し目下調査中なり
 又先年仝村嘉太神に於て銀鉱を発見したるも未だ調査の域に進まず」(『黒川郡誌』)。


第六節 商業
 「藩政時代においては農業保護の為商業に対する諸種の政策を講し農民の勤倹を奨励せし状態を伺うことを得
 由来商業は所謂町場に限り許可せられたるものにして其他一般家庭に於ては商業を営むことを許さず加之行商人すら農村に立ち入ることを得ず唯濁酒刻煙草のみは一種名目の下に僅かに許可せられたりしなり文化十[1813]年宮床館主伊達隼人其所領の地に於て下町なく日用品の購買に困めるを以て荒物小間物一戸五十集〔いさば〕八百屋一戸濁酒一戸の商売を宮床に許可せられんことを藩に請ひしが詮議の上之を許されたることありと云ふ亦以て当時の情勢を観るべきなりと

町場
 当時の町場としては吉岡に上中下の三町富谷に新町大松沢に上町下町ありしのみ日用品たる味噌米豆腐清酒醤油等は商人より価格を定めて地頭に申告し其許可を得後之を販売せるものにして若し事情により価格を変更せんとする時は其事由を具し地頭に申告し其許可を受く但し豆腐の如きは其寸法を更ふることとなせり而して其管理は町役人ありて其一切を処弁し町同心をして日を定めて商家の実際を臨監せしめたり
 藩政時代にありては藩内の産出品を除き総て商品仕入は必ず仙台に就かざるべからざる制度にして若し之を犯したる時は厳罰に処せらる明治維新に伴ひ此制を廃せられたり然れども交通の関係上尚仙台を主としたれども明治十五[1882]年頃汽船の便開けてより東京に就くものも顕れたるが汽車開通よりは一層其度を増し或は各地の製造家と直接取引をなすものも出づるに至れり」(『黒川郡誌』)。
 「吉岡町の市日は五・九の日の六斎市で、穀物や五十集(いさば)の売買が中心であったが、遠隔地の商人が各地の産物や上方物をもたらし、近在の農民も特産物を持参し交易は賑わいをみせた。」(『日本歴史地名大系』)

米取引
 茲に特筆すづ〔べ〕きは米の売買にして藩庁は制令を以て恣〔ほしいまま〕に米を移出することを禁ぜり其免許を受けたる穀問屋にあらざれば米取引に従事することを得ず 例へば吉岡にて吉田善吉 吉田半七富谷にては内ヶ崎作太郎 若生某等の如し 而して米の買占めを為すが如き元より藩庁の厳禁せるところにして之を犯したるものは必ず厳罰を蒙る 本郡と志田郡との通路たる伊賀には番所を設けて之を検覈〔かく〕す其検閲を得ずして竊〔ひそか〕に移出したるは之を脱穀と稱し厳罰に処せらる 明治維新に伴ひ此制を廃せられたり
 吉岡は本郡米取引の中心にして維新に至りては近村は勿論遠く志田郡加美郡より駄馬にて運搬し来る所の米穀は総て穀問屋にて買受け口銭を付し之を米仲買人に売渡し仲買人更に他に移出するなり 大谷郷附近は宮城郡高城に運搬し富谷村附近は七北田仙台に運搬したるなり 然れども明治十九[1886]年汽車開通に至り交通の便遽〔にわか〕に開けたるに伴ひ米取引の状況も一変し志田加美郡地方より吉岡に運搬するもの無く商売頓に寂漠の観を呈するに至れり
 木炭も亦炭問屋ありて其取引をなすこと尚米穀の如し
 食塩は藩の専売に属し藩の特許を以て之を行ふ若し藩制に反し又非道の行為ある時は其免許を剥奪せらる

海産物
 海産物は其問屋吉岡上中下三町に二三軒あり日を定め順番に之を行ふ 塩釜高城より直接移入をなし地方の需要を充し尚余りたるを以て更に加美郡方面に移出せらる者なりしが鉄道開通に伴ひ移入頓に少なく鯛鮪の如きは現今稀に見る所なり
 塩蔵物には鮭鱈鮪鰹鰤〔ぶり〕鰯等にして鮭はアキアジと稱し年末にのみ移入せるものなりしを以て一ヶ年の需要高を歳の市にて買置きをなしたるもなりしが現今は四時之を買ふことを得るに至れり該問屋は古来四分問屋とも稱せり即ち売揚高の四分を受領するを以てなり

煙草
 煙草は往時各地に於て自家用として栽培せしを以て其供給も少かりしが主として登米郡狼河原産販売せられたり明治十二三[1879-80]年頃より福島県須賀川産移入せられて狼河原産は杜絶し之に代りて山形産となり次に水戸産の移入盛に行はれ特に明治十四五[1881-82]年頃より巻煙草の流行見るに至る明治三十{1897]年煙草の栽培を厳禁せられて一層刻煙草の需要を増すに至りたるが当時貧窮の者は松葉を採りて之を炭酸にて煮使用したるもの多き有様なり同三十七[1905]年より一般官営となる
荒物小間物類
 荒物小間物類として荒物の呉座笠麻等は栗原郡及中磐井郡の産出を用ひたるもの多かりしが近来関西地方のもの移入せられ特に花呉座の需要最も多し近頃に至り仙南地方製造の花呉座類移入せらる
 竹細工物は玉造郡岩手〔出〕山の製品移入せられ
 鍬柄箸杓子折敷等は吉田宮床産のもの多かりしが近来は他地方より移入せるもの多く
 下駄足駄は往時にありては宮床吉田にて産出したりしも現今は単に吉岡のみとなり下駄緒類は多く買品を用ひず自作のものを使用したりしも現今に至りては自製のものを用ふるもの絶無に帰し多くは他方より移入せり
 蝋燭は他方より来るものなるが明治卅四五[1901-02]年頃より西洋蝋燭流行し在来のもの全く廃れたり
 挽物曲物は鬼首産
 紙類は中田磐井地方より移入せり明治三十[1897]年頃より西洋紙の需要多く和紙の需要は其半に減ぜり
 小間物類は往時に於いても精巧を極めたるもの多かりしと雖も西洋雑貨の流行に至り現今に於ては旧来の品種は店頭に見ること能はざるの観あり
 漆器は中田地方陶器は他方より移入したるものなれども漆器の如きは現今に至りては各産地より注文募集員を遣し多くは直取引をなせり
 鉄器は日用の鍋釜の如きものにして主に他方より移入せらる其他は大抵鍛治の製作にかかれり中にも明治十五六[1882-83]年頃より西洋釘の使用盛になり打釘は影を止めざるに至れり

織物類
 織物類は藩政時代は特に庶民着用の制を定められしにより日常の買品は白木綿手拭形付纈〔しぼり〕等の類にして 絹布は其需要甚だ少く単に裏地に止れるが如し
 毛織物は呉呂〔服〕毛織等なりしなり明治維新に至り藩政廃せられ又紡績機業の進歩に伴ひ現今に於ては諸種の呉服毛織物等精巧を極め又上下貴賎の別なく購買するに至れり

灯油
 最後に至り特筆すべきものは灯油なりとす 維新前にありては士人商家に於て行燈〔あんどん〕を使用せしを以て灯油の消費多かりしなり 故に〔既述のとおり〕吉岡富谷大松沢の三駅及中村等には油屋ありて製造し之を販売し以て維新後に至りたれども明治十三四[1880-81]年頃より洋燈〔ランプ〕の流行漸く盛になり行燈を使用するもの絶無に帰し従て灯油の用途絶えたるにより何時しか油屋は廃業をなし之に代りて石油の販売盛に行はれたるも 大正六[1917]年より吉岡町を始として富谷大松沢中村方面に電灯を点ずるに至りしを以て石油の販売商にも幾分の影響を及したるを免れず」(『黒川郡誌』)。


(続く)


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