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姓氏家系総索引



第二部 古代東山道と沿道郷村




東山道
 「東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
 往時の読み方については、『とうさんどう』の他にも『とうせんどう』『ひがしやまみち』『ひがしのやまみち』『ひがしやまのみち』『ひがしのやまのみち』そして『やまのみち』」など諸説ある。(中略)
 律令時代の東山道は、畿内と東山道諸国の国府を結ぶ幹線道路であり、律令時代に設けられた七道の中で中路とされた。ただし中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道である。陸奥国府・多賀城より北は小路であり、北上盆地内にあった鎮守府まで続いていた。東山道には、30里(約16km)ごとに駅馬(はゆま)10匹を備えた駅家(うまや)が置かれていた。 (中略)また出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。(中略)
 当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、(中略)渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の山道の方がむしろ安全と考えられていた。このため、東海道の渡河方法が整備される10世紀頃までは東山道は活発に機能していた。(中略)
 江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された。」(Wikipedia「東山道」


東山道の歌枕
白河の関
  都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関(『後拾遺和歌集』、能因法師)
 安積山
  安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾れ思はなくに(万葉集)(中略)
 信夫:福島県福島市。
  みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れむと思ふ 我ならなくに(『古今和歌集』、源融)
 阿武隈川:岩沼市と亘理町の境を流れる川。
  阿武隈に 霧立ちくもり 明けぬとも 君をばやらじ 待てばすべなし(『古今和歌集』、東歌)
 名取川:名取市と仙台市の境を流れる川。
  名取川 瀬々のむもれ木 あらはれば いかにせむとか あひ見そめけむ(『古今和歌集』、よみ人知らず)
 広瀬川:仙台市を流れる川。
  ひろせ川 渡りの堰の 澪しるし みかさそふらし 五月雨の比(西行)
 玉田横野(たまだよこの): 仙台市の北仙台駅辺りから東照宮駅東方までの仙山線沿線の平地(仙台上町段丘の北側にある同段丘より低い段丘面)。
  とりつなげ 玉田横野の はなれ駒 つつじの岡に あせみ咲くなり(『散木奇歌集』、源俊頼)
 躑躅岡(つつじがおか):仙台市宮城野区(ツツジの名所)。
  陸奥の 榴ヶ岡の くまつづら 辛しと妹を けふぞ知りぬる(『古今和歌六帖』、藤原仲平)
 宮城野:仙台市宮城野区(ハギの名所)。
  宮城野の 本荒の小萩 露を重み 風を待つごと 君をこそまて(『古今和歌集』、よみ人しらず)
 おもわくの橋:多賀城市。
  踏まま憂き 紅葉の錦 散り敷きて 人も通はぬ おもわくの橋(『山家集』、西行)
 浮島:多賀城市。
  陸奥は 世を浮島も ありと云ふを 関こゆるぎの 急がざらなん(『小町集』、小野小町)
 野田の入江:多賀城市。
  朽ちのこる 野田の入江の ひとつばし 心細くも 身ぞふりにける(『夫木和歌抄』)」
 野田の玉川:宮城県多賀城市。
  夕されば 潮風越して みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり(『新古今和歌集』、能因法師)」
 末の松山:多賀城市。
  契りきな かた身に袖を しぼりつゝ 末の松山 浪越さじとは(『後拾遺和歌集』、清原元輔)
 壺の碑:多賀城市。青森県の南部壺碑説もある。
  みちのくの 奥ゆかしくぞ おもほゆる つぼのいしぶみ そとの浜風(『山家集』、西行)
 沖の石:多賀城市。
  我が袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らめ 乾く間もなし(『千載和歌集』、二条院讃岐)
 塩竈:塩竈市。
  塩釜に いつか来にけむ 朝なぎに 釣する舟は ここによらなむ(『伊勢物語』)
 雄島(をじま): 松島町。
  見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変わらず(『千載和歌集』、殷富門院大輔)
 松島:松島町ほか。
  たよりある 風もやふくと 松島に よせて久しき 海人のつりぶね(清少納言)
 朽木橋(くちぎばし):大崎市小野の化女沼入り口付近。
  逢ふ事は 朽木の橋の 絶え絶えに かよふばかりの 道だにもなし(『風雅和歌集』、藤原朝定)
 緒絶橋(おだえのはし): 大崎市の緒絶川(おだえがわ)に架かる橋。
  みちのくの 緒絶の橋や これならん ふみみふまずみ 心まどはす(『後拾遺和歌集』、藤原道雅)
 姉歯の松:栗原市。
  栗原の あねはの松の 人ならば 都のつとに いざといはましを(『伊勢物語』)」
Wikipedia「歌枕の一覧」


歌枕
 「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。
 歌は古くは、漢語や当時の日常会話で使われる表現、また俗語の類などを出来るだけ避けるようにして詠まれていた。(中略)それらの言葉が歌枕であり、その中には『あふさかやま』(逢坂山)や『ふじのやま』(富士山)、『しほがま』(塩竈)などといった地名も含まれる。歌枕の『枕』とは、常に扱われる物事また座右に備えるものといった意味だとされるが、その枕というのが寝具の枕に拠るのか、または違うものからその語源がきているのかは不明である。 『古今和歌集』の仮名序(中略)の「まくらことば」というのは今でいう枕詞のことではなく、和歌において通常使われる言葉すなわち歌枕のことである。 ただしこの古い時代の歌枕には、現在でいうところの枕詞も含まれた。(中略)
 しかし歌枕は時代が経つにつれて、次第に和歌で詠まれる諸国の名所旧跡のみについて言われるようになった。(中略)
 もともと地名の歌枕は実際の風景をもとに親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠まれていた面がある。(中略) また一方では、地名の歌枕は歌や物語で場面として繰り返し登場する中で、実際の風景から離れたところでイメージが形成されてきたものともいえる。たとえば「桜」なら「吉野山」、「龍田川」なら「紅葉」と、その場所ならこの景物を詠むというように組み合わせがある程度決まっていた。そして本歌取りが行われるようになると、そういった古歌にある組み合わせが受け継がれ、歌枕が持つイメージとして使われるようになった。こうしたイメージはのちに和歌だけではなく、硯箱をはじめとする工芸品や、着物などのデザインにも用いられた。今では和歌を詠むこととは関わりなく、全国各地にある歌枕は松島など観光名所のひとつとされている。」(Wikipedia「歌枕」




第一章 板谷道~東成田道~鶉崎道~土橋道/白川郷


 後述するように、「アイヌ語地名が宮城県北部から北東北地方にあることは知られていますが、(中略)『惣の関ダム』の『ソウ〔滝〕』をはじめダム周辺に〔板谷〕『イタヤ(アイヌ語でもイタ・ヤ)。板のような丘』、(中略)〔利府〕『リフ(リッフル)。高い岡』などがあります。」(『蝦夷と「なこその関」』)

第一節 ◯宮城郡
 宮城郡は言うまでもなく、国府多賀城を擁する陸奥の首郡である。
 ”遠の朝廷” (とおのみかど)「多賀城(陸奥国府)と東山道本路は、栖屋〔すみや〕(利府町菅谷が比定地)に到達する手前の七北田川近くの『洞ノ口〔どうのくち〕』で接続されていたと考えられます。その支路(東西大路)とみられる道路は(中略)南北大路と交差していました。」(菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版,2014)
 七北田川は「古代・中世には岩切を過ぎたあたりで東に折れ、現在の砂押川を合わせて現在より約4キロメートル北の七ヶ浜町湊浜付近で海に注いでいた。江戸時代初期(寛文年間[1661-1673])に流路変更が行なわれ、ほぼ現在の位置に河口が移った。 」(wikipedia「七北田川」
 東西大路と連結した東山道(奥大道)は北上して利府に入り、森郷一里塚を経て、やがて本論稿の白眉・勿来関にかかる。
  ♪ふくかぜを なこそのせきとおもへども みちもせにちる山ざくらかな 源 義家♪

多賀城
 「多賀城(たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。
 奈良時代から平安時代に陸奥国府鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。なお、多賀城が存在した頃は「 平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたため注意が必要。
 奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀11年)伊治公砦麻呂〔いじのきみあざまろ〕の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震(貞観地震)による倒壊まで、第4期は869年 - 10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる。
 多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十群〔郡〕(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった。
 これにより、平城時代の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。
 多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する陸奥総社宮を奉ずる。陸奥国一宮鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾千賀ノ浦(塩竃湊)国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(後に多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。
 建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府が置かれた。奥州将軍府は、多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。
 1961年から、多賀城跡とその周辺に位置する遺跡の調査が開始され、外城は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860mの土塁がめぐる。その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの土塁で囲まれた平坦な区域があり、そこに主要な建物の跡と見られる柱穴や礎石が複数確認された。
 1966年(昭和41年)4月11日、遺構は国の特別史跡に指定された。その後も発掘調査が進展した結果、多賀城跡一帯とともに多賀城廃寺跡館前遺跡柏木遺跡山王遺跡などを含む範囲の追加指定がなされている。
 724年(神亀元年) - 創建。陸奥国府が郡山遺跡(現在の仙台市太白区)より北進移転。なお、文献上の出現は『日本後紀』の839年(承和6年)の記事である。
 762年(天平宝字6年) - 藤原朝狩によって修繕されている。
 780年(宝亀11年) - 伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれている。
 802年(延暦21年) - 坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市胆沢区)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
 869年(貞観11年) - 陸奥国で巨大地震(貞観地震)が起こり、多賀城でも多くの施設が被害を受けた。この後復興していったが10世紀後半頃には維持、管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していった。
 11世紀後半の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年(承徳元年)にも陸奥国府が焼失している。南北朝時代には、後醍醐天皇率いる建武政府において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、多賀城に東北地方、および北関東を支配する東北地方の新政府、陸奥将軍府が誕生した。
 近年では、曲水宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。
 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(7番)に選定された。 」(wikipedia「多賀城」

"壺の碑"多賀城碑
 「多賀城碑は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑。1998年(平成10年)6月に国の重要文化財に指定されている。 当時陸奥国の国府があった 多賀城の入口に立ち、724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。
 石材は花崗砂岩(アルコース)で、現地の南東100メートルに露出する中生代三畳紀の利府層によく似た石がある。碑身は高さ約1.86m、幅約1m、厚さ約50cmで、その一面を平らにして字を彫っている。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11行140字の碑文が刻まれている。
 碑に記された建立年月日は、天平宝字6年(762年)12月1日で、多賀城の修築記念に建立されたと考えられる。内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝?)によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる。
 江戸時代から保護のための覆堂の中に入れられ、場所は古代の多賀城南門の前である。復元模型が東北歴史博物館に展示されている。
 碑文(多賀城碑文・安井息軒『読書余滴』より)
 西 多賀城  去京一千五百里 去蝦夷國界一百廿里 去常陸國界四百十二里 去下野國界二百七十四里 去靺鞨國界三千里
 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守將軍藤原惠美朝臣朝?修造也
 天平寶字六年十二月一日
 江戸時代初期の万治~寛文年間(1658~1672年)の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壺の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった。俳人松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に訪れたことが『奥の細道』で紹介されている。 碑文は様々に記録されたが異なる点が多く、現在読み取られる文面が判明したのは、仙台藩の儒者で史書編纂に従事した佐久間義和(佐久間洞巌)が、子の義方とともに拓本をとった元禄12年(1699年)である。」(wikipedia「多賀城碑」

利府
 利府「町菅谷から仙台市宮城野区岩切の一帯は、スゲの名産地だった。一帯のスゲは丈が長く良質で、これを使った敷物『菅薦〔すがこも〕』は編み目が10筋あったことから『十符の菅薦』と呼ばれた。
 平安時代ごろから京の都に献上された。歌人の目に触れ、歌枕にもたびたび詠まれた。江戸時代の松尾芭蕉の『奥の細道』でも、藩主に献上していることが記されている。
 町名の由来になったという説もある。産地一帯が『十符(とふ)』と呼ばれ、字が変わって『利府(とふ)』となり、読み方が『利府(りふ)』に変わったという。
」(「河北新報ONLINE NEWS 2021.08.28」
 後述するように、「アイヌ語地名が宮城県北部から北東北地方にあることは知られていますが、(中略)『惣の関ダム』の『ソウ〔滝〕』をはじめダム周辺に(中略)〔利府〕『リフ(リッフル)。高い岡』などがあります。」(『蝦夷と「なこその関」』)
 「神亀元年(724年)、仙台平野を南北に分けるように奥羽山脈から松島湾まで東西に横たわる松島丘陵の東南麓に陸奥国の国府兼鎮守府の多賀城が創建された。丘陵を越える街道の南側の入口に位置する利府の森郷地区には勿来の関が築かれた。この勿来の関は白河の関や鼠ヶ関と共に”奥州三関”の一つであるとの説がある。利府町は、現在の仙台市宮城野区・多賀城市・塩竈市・七ヶ浜町とともに陸奥府中内にあるが、「国府」・「府中」が町名の由来かどうかは不明。
 平安時代末期の文治5年(1189年)、源頼朝が東北地方全域を支配していた奥州藤原氏を滅ぼすと、翌年、奥州藤原氏の重臣・大河兼任が反乱を起こす。この乱を鎮圧した頼朝の御家人・伊沢家景は、頼朝から陸奥留守職に任ぜられ、多賀国府および東北地方の最高責任者となった。家景は現・利府町の加瀬に居館を構え利府に定住。この地で26年を過ごし天寿を全うした。家景の子孫も代々利府に定住し、伊沢氏は留守氏を称するようになった。伊沢家景の子孫も代々、陸奥留守職に任ぜられた。(中略)
 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行により、利府村が誕生。
 1967年(昭和42年)10月1日 町制施行。
 1986年(昭和61年) 三陸自動車道の利府中インターチェンジが開通。
 2000年(平成12年) 東北地方最大のショッピングセンターであるイオン利府ショッピングセンター(現:イオンモール利府)がオープン。隣接してシネマコンプレックスのMOVIX利府等がオープン。」(wikipedia「利府町」

名古曽(勿来)関
 「勿来関(なこそのせき)は、古代から歌枕となっている関所の1つ。江戸時代の終わり頃からは『奥州三関』の1つに数えられている。所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説もある。 以下、福島県の観光地『勿来の関』と区別するため、および、漢字表記にゆれがあるため、本論の関を『なこその関』と記す。
 『なこそ』とは、古語における「禁止」の意味の両面接辞『な~そ』に、『来(く)』(カ行変格活用)の未然形『来(こ)』が挟まれた『な来そ』に由来する。現代語では『来るな』という意味。
 『なこそ』の漢字表記では、万葉仮名あるいは平仮名の真名を用いて『名古曾』『名古曽』『奈古曽』と書かれる例と、訓であてて『名社』と書かれる例がある。また、漢文において『禁止』の意味で用いられる返読文字『勿』(~なかレ)を用いて『勿来』と書き、語釈から『なこそ』と読み下す例がある。関の名称であることから『来』に『越』の字を当てて『勿越』『莫越』と書く例も見られる(『莫』は『勿』と同様に禁止の意味の返読文字)。
 『なこその関』はとよぶも関所とはよばない。また、目下のところ、和歌など文学作品以外の古代の史料に『なこその関』を見出すことすらできていない。
 一般に『なこその関』は、白河関念種関(『吾妻鏡』の表記。江戸時代以降は鼠ヶ関、ほかに念珠ヶ関とも)とともに『奥州三関』に数えられている。『奥州三関』は、『奥州三古関』『奥羽三古関』『奥羽三関』とも呼ばれる。しかし、『奥州三関』がなこそ・白河・念種の三関を指していたのかの確証はない。
 奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説については、『なこそ』が来るなという意味であると考えられることからの付会、あるいは、他の関が軍事的に活用された事例の援用あるいは敷衍だと察せられるが、今のところそれを積極的、直截的に示す根拠は見当たらない。
 今のところ、所在地は分かっていない。
 現在、考古学的な発掘調査を根拠とした所在地の推定はなされていない。
 11世紀に『平中物語』の一節を引いて能因が遠江国(静岡県西部)に所在すると考えた『能因歌枕』の説のほか、17世紀に西山宗因が紀行文『宗因奥州紀行巻』のなかで『なこその関を越て』磐城平藩領に入っていると記していることなどから、現在の福島県いわき市に長らく比定されている。吉田松陰の『東北遊日記抄』にも現いわき市勿来町関田字関山付近を『勿来故関』と記録されている。ただし、『なこそ』の地名がこの周辺に存在した証はない。
 福島県いわき市勿来町に所在したと考えられている菊多関の別名とする説もあるが、最近では区別されている。
 歌枕であるなこその関は多くの歌人に詠まれているが、それらの歌からは陸奥国(東北地方の太平洋沿岸部)の海に程近い山の上の情景がイメージされる。しかし、一般に近代写実主義に拘束されていない近代以前の和歌においては、歌枕を詠むにあたってその地に臨む必要はない。なこその関を詠んだ歌についてもその多くは現地で詠んだ歌とは考えられていない。
 なお、平安海進により、古代の海岸線の位置は現在と異なる。
 陸奥国府・多賀城や松島丘陵の軍事的な意味合い、19世紀ごろの江戸時代の絵図『陸奥名所図会』などを根拠に、奥大道名古曽川(なこそがわ。現在は「勿来川」と書く。砂押川水系)が交わる宮城県宮城郡利府町森郷字名古曽に比定する説もある。
 周囲は[1999]惣の関ダムが建設されたため地形が大きく変わり、現在は「なこその関」の説明看板と江戸時代に建立された「勿来神社」の碑、および、利府街道沿いに「勿来の関跡」の誘導看板が設置されているのみである。なお、「勿来神社」の碑から約4km南に多賀城政庁跡がある。また、約700m北東に「北宮神社」があり、これは陸奥府中の北端を示す「北宮」だったとされる。
 平安時代から近代前までに125首ほどの短歌形式の和歌に詠みこまれている。(中略)
 なこその関で詠んだとされる詞書をもつ歌には、源義家「ふくかぜを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる やまざくらかな」がある。その死後80年ほど後に添えられた『月詣和歌集』の詞書と、それを基礎に編集された『千載和歌集』の詞書には「みちのくににまかりけるときなこそのせきにてはなのちりければよめる」とある。源義家が陸奥に赴いたのは生涯において3度ある。1度目は1056年(天喜4年)8月から翌年11月までの期間に前九年合戦に際して、2度目は1070年(延久2年)8月の下野守在任中に陸奥国への援軍として、3度目は1083年(永保3年)9月に自身が陸奥守兼鎮守府将軍として、である。いずれも季節的に桜が散る時期に合致するものはなく、詞書と歌の内容との間に齟齬があって、どこまでを事実として整理できるか見極めが難しい。ただし、この詞書が、なこその関の実在を示す根拠の一つではあることに違いはない。」(Wikipedia「勿来関」


第二節 ◯板谷
 ようよう無事に勿来関を通り抜け、勿来川を渡りおもむろに勿来山を越えると、当初の古代東山道は板谷街道鶉崎・中村白川郷へと、最も開発の早かった東側ルート「古代前期東山道」(板谷街道、東成田街道、大平街道)を北上したものと思われる。
 後述するように、「アイヌ語地名が宮城県北部から北東北地方にあることは知られていますが、(中略)〔板谷〕『イタヤ(アイヌ語でもイタ・ヤ)。板のような丘』、(中略)などがあります。」(『蝦夷と「なこその関」』)

板谷道
 「室町時代の『留守家旧記』(『余目文書』)にあるもので、応永年間(1394-1428年)の記事に『朔(さく)の上(私注:大崎氏六代目持詮)様、宮城へ駆賜ふ。府中山、板谷とをりて、大木をきりふさぐといえども事ともせず。そうの関へ御出張候間、留守殿おそれたてまつり陣を引退賜う』とあり、(中略)
 この記事から辺郡の黒川郡大崎地方から宮城郡に来るのに国府中山の板谷を通り『そうの関』に至ったことがわかりますが、このルートは古代の東山道で平安時代には奥大道と呼ばれた道と考えられます。」(『蝦夷と「なこその関」』)

休み松
 「東成田より利府村への通路〔古代前期東山道板谷道〕にあり行人此の樹下に憩ふ故に此の名あり高さ二間樹齢四百年」(『黒川郡誌』)。
 「黒川郡以北の奥地に行くには『奥州名所図絵』にあったように、『〔勿来〕関より奥の山道は数十町ほど、険しい嶺の間を通る山の切り立つ険しい難所で 道は折れ曲り、馬に頼るような道』でしたが、『大郷の文化財』(大郷町教育委員会)第八号にも『(なこその関跡から)道は険しくなる。胸突きの急斜面や崖ぶち、馬の背のような細道が曲がりくねって休み松少し手前までが登り路できつい。
 休み松に至って北方の谷間が開け、三~四百m先からは板谷の渓流に沿って比較的平坦な道となり、鶉崎(黒川郡最初の郡衙が置かれたところ)の関屋の清水に至る』と険阻な道だったことが書かれています。(中略)

県道板谷道
 この県道の板谷道は昭和四十四(1969)年頃に小型自動車が擦れ違いできるよう道の一部が拡幅されたり舗装されたりしましたが、それでも古代の道の雰囲気を残しているような場所が今でもところどころにあります。平成三(1991)年に『惣の関ダム』の建設が始まり、それに付随して板谷道に代わる新県道が造られたことで名古曾川沿いの板谷道は途中から分断されました。」(『蝦夷と「なこその関」』)
板谷氏
 宮城県歴史研究会の柴修也氏(大郷町粕川出身、仙台市若林区在住)のブログ「おおさと歴史探訪会」に、2017年1・2月「名古屋の板谷〔吉朗〕さんから〔メールと〕電話があった。(中略)板谷さんは、ルーツは東北であると言い伝えられていた。(中略)
 西暦1187年源頼朝による奥州征伐があり、(中略)大谷保(現大郷町)にも関東から菅原氏が頼朝より領地を拝領して、大谷保の新たな支配者となった。この時菅原氏の家臣団の一人である板谷氏が、現在の大谷保成田に住み着いたと考えられ(中略)、やがて居住地の地名(板谷)を字としてい名乗るようになったと推測される。(大郷町史)(中略)
 平成23(2011)年頃にブログ『おおさと歴史探訪会』の中に板谷齋兵衛残間家の先祖で大蛇退治をした大谷邑英雄)を検索して、その子孫である残間小一郎さんに電話したが、既に小一郎さんは平成21(2009)年に永眠してしまい、(中略)小生〔柴氏〕に電話してきたのである。
 その内容は『板谷さんの先祖は南北朝時代に宮城県の多賀城から北畠顕家と共に足利尊氏討伐のために関東、名古屋の方まで出征して、そのまま名古屋に住み着いた』との言い伝えが名古屋の板谷家に伝わっていた。(中略)
 建武2(1335)年12月北畠顕家は、結城・伊達・南部などの東北の大名を従え、義良親王(後村上天皇)を奉じ、父親房と共に西上の途についた。関東では新田・宇都宮・千葉の諸軍も合流しその数5万余騎、ほとんど無人の境をいくが如く東海道を攻め上り、近江国本で尊氏追い落とし大勝利を可能にした。(宮城県の歴史・高橋富雄著)
 この戦いに板谷氏が従軍して、北畠氏の領地・伊勢の奥津、そして篠島へ移動してそこに土着して現在に至っているのではないかと思います。南北朝時代の板谷氏は大谷邑の板谷を拠点とする土豪ではなかったかと思います。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」
 なお、柴氏に本稿をご紹介いただいたのもまた名古屋の板谷氏であり、それを機に2017.8.19柴氏から私(本稿編著者澤田)にご連絡いただき交流が始まり、2018.1.1板谷氏からもメールをいただいて直接交流が始まった。

板谷齋兵衛大蛇退治
 「奥州松山茂庭氏の領内黒川郡大谷庄成田村板谷峠の麓に〔板谷〕齋兵衛といふものあり傳へ曰く平氏の一族なりと 天正三[1575]年十月の頃齋兵衛出て猟す偶々大蛇あり沼ケ澤堤畔に横る齋兵衛射て巨眼に中つ蛇怒りて齋兵衛を逐ひ門に至り遂に斃る 後政宗公巡狩に際しその骨を収めて観覧に供したりと 末孫〔12代〕浅間〔残間〕忠太郎の家現にこの蛇骨黨牙〔きば〕四個を蔵す
  因に記す此骨と歯とは前世紀鮫類のものなりと方今学者の説なり
天保年間[1834]〔松山茂庭氏の家中〕木村完一といふ人口碑に基き齋兵衛の傳を記せり」(『黒川郡誌』)。

黒川口説
 「注目されるのは、その功績の語り口は『黒川口説』によって伝えられたということである。(中略)
 口説きとは、語り者風に長い叙情的なもので、一定の節をつけて物語を語ること(古語辞典)、宮城県内では明治の初め頃まで『女川口説』・『米岡〔登米市米山町〕口説』・『黒川口説』の三つの口説きが残っていた。現在では『女川口説』は今でも知られているが、『米岡口説』・『黒川口説』はすっかり忘れ去られてしまった。
 『黒川口説』は大谷邑の板谷齋兵衛の大蛇退治物語を唄った口説きであるが、いつの頃から誰が唄いだしたのかは記録に残っていないので分からない。この大蛇退治物語が記録に出てきたのは天保5年(1834)2月(残間家文書より)残間家10代嘉左衛門の時である。
 当時大蛇退治の物語は『黒川口説』で仙台藩内にも聞こえていたので、松山公(現在の大崎市松山町を領地としていた茂庭家)の一行が仙台からの帰り道、利府から勿来の関(春日から成田邑を越える山道にあった。)を超えて松山に行く途中に、残間家で休憩した時、大蛇の骨を見た茂庭家お抱えの儒学者木村完一が 『黒川口説』の唄を聞きそれを文章化して、この大蛇退治物語が更に広まったのである。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」

クドキ クドキ(くどき)は、浄瑠璃や歌舞伎のクライマックスで俳優と浄瑠璃とで演じる個所。「口説き」ともいう。元来は平曲や謡曲あるいは説経節で登場人物の悲しみを歌う演出であったものが、近世以降各種の口承文芸の演出も加わり多様化した。(中略)
 クドキから生じた俗曲の1ジャンルが口説き節であり、市井の情話などを長編の歌物語にしたものである。瞽女などが歌って江戸時代後期に流行した。すなわち、瞽女の歌う瞽女唄のレパートリーに「くどき(口説き節)」があり、これは浄瑠璃から影響を受けた語りもの音楽であるが、義太夫節よりも歌謡風になっている。」(Wikipedia「クドキ」

御山守残間家
 「残間家は、宮城県黒川郡大郷町東成田平田沢、通称板谷に現存する旧家である。祖先は、戦国時代にさかのぼる土豪であって、藩政時代を通じて、この板谷というところの御山守を続けて幕末に至り、旧家の伝統を伝えて今日に及んだ。三百年の御山守。四百年の旧家。制度上は百姓並である。しかし、山守りという特別な使命を代々伝えた名誉ある家柄である。そのように肝入でもない、百姓でもないという特別名誉身分を、この門閥山守家は板谷の山間に形成したのである。(中略)
 残間家の世代については、安永(一七七一)の頃に調べたものが残間家文書に出てくるが、しかし正確なものとは言えない。(中略)一応推定によって述べておくことにする。
 初代 藤右衛門 出生年不明。天正一九年(一五九一)岩出山城に出向し、政宗に持山を献上して御山守を仰せつけられる。
 〔下に述べるように、〕慶長十七年(一六一二)より同十九[1614]年まで大谷山谷地共に和久宗是の知行となり、御山守を免ぜられる。同十九[1614]年和久氏が上地し御蔵入地となって、再び御山守を仰せ付けられる。
 同年九月二十一日、山林盗伐など防止のため厳しい取り締まりをしたことから周辺住民の恨みを買い、名子の次郎兵衛とともに、利府に於いて酒を飲まされ謀殺されている。年月不明。
 二代 藤右衛門 父初代藤右衛門が殺された後相続を辞退したが、慰留され相続を仰せ付けられた。時に十七歳というから、天正十六年(一五八八)の生まれか。相続の時御郡役を免ぜられたが、慶安三年(一六五〇)、持山で御林に地続きのはぎ原山他四ヵ所を新御林に召し上げられている。明暦年代(一六五五~八)まで御山守をして いたことが、残間文書に見える。死亡の年不明。
 三代 長吉 元和七年(一六二一)出生、御山守相続の年月日不明。寛文七年(一六六七)、屋敷廻りの居久根(いぐね)を新御林に召し上げられる。延宝二年(一六七四)、御郡役九口のほかの諸役を免除される。持山を召し上げられて生活が苦しくなり、貞享五年(一六八八)に『困窮のため御山守ができないから、居久根ばかりでもお返し下さい』との旨、村御百姓連判で願い出て、翌元禄二[1689]年に地付山と居久根が返された。死亡年月日不明。
 四代 斎兵衛 寛文九年(一六六九)出生。御山守相続の年月日不明。関係文書も見当らない。享保三年(一七一八)死亡。
 五代 伊兵衛 元禄十五年(一七〇二)の出生。享保三年(一七一八)父斎兵衛死去を承け、御山守を相続した。享保十五年(一七三〇)から同十八[1733]年まで肝入役を兼ねたが、御山守多忙のため兼役が出来ぬという理由で、肝入役御免を願い出て許されている。
 寛保二年(一七四二)御山守を長吉に譲っているが、関係文書は一点だけである。生死年不明。
 六代 長吉 享保五年(一七二〇)の出生。寛保二年、二十三歳で御山守を継ぐ。明和八年(一七七一)、子の斎兵衛が相続している。死亡年月日不明。
 七代 斎兵衛 享保三年(一七四三)出生。寛政十二年(一八〇〇)死亡。
 八代 長吉 明和八年(一七七一)出生。寛政十二[1800]年、父死亡により相続。この年、土橋・鶉崎・成田三村兼帯の肝入から、従来斎兵衛家に与えられていた諸役免除の特別扱いを、御百姓並に負担させられたい旨の願書が代官所に提出され、その後数年間、先祖の旧功を訴えて阻止しようとする斎兵衛の願書と、申達関係の文書とが数通見える。弘化四年(一八五七)家屋新築(現在の家屋)年齢七十歳としている。死亡年月日不明。
 九代 庄吉 斎兵衛には安永七年(一七七八)生まれの庄吉という長男がいたが早死にし、文化八[1811]年鶉崎から善之助を婿に迎え、庄助と呼んだ。天保十年(一八三八)貢租請け人となっている。 弘化四[1857]年の家造りの時は五十七歳とある。しかし御山守関係の文書には庄吉の名前は見当たらない。舅の斎兵衛は、残間家の人頭は譲ったが、御山守の職務は孫の嘉左衛門に直接相続したもののようである。
 十代 嘉左衛門 文化十一年(一八一四)出生。庄吉長男、安政七年(一八六〇)御山守を仰せ付けられる。文久三年(一八六三)枯槻密伐の疑いを受けた文書や、元治元年(一八六四)の御糺し文書もあるが、明治二[1869]年版籍奉還に至るまで御山守を務めたものと思われる。
 十一代 斎兵衛 嘉左衛門の子伊兵衛は家を継ぐこともなく他に出てしまい、隣家(別家)の芳之助を養子とし、斎兵衛と改名した。
 十二代 忠太郎
 十三代 兵四郎
 十四代 小一郎(中略)
 余談・・小生〔柴修也氏〕の父方の祖父は大和町の小鶴沢〔鹿又家〕で生まれた。母方の祖父は大郷町の板谷の残間家に生まれた。両家は山一つ離れた場所で生活をしていた。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」

『御山守残間家文書』
 残間家が御山守として、その山の維持・管理に当たった板谷の地は、勿来曾の関すなわち惣の関(曾の関)を以って、宮城・黒川の郡境を限った。その境の北側に位置する。多賀国府のすぐ北側にも勿来の関があって、みちのく府城の北を限っていたのである。
 とすれば、その勿来の関の奥山に、中世以来の山林土豪の伝統を伝える残間家が、謎の歴史に包まれた家柄になることは当然である。(中略)
 残間家に伝わる文書には、固有の山守文書はもとより,村方・地肝入文書から、さては,藩の法令、諸覚・定留の類から鉄砲・諸秘伝・教養の類まで,並の山 間郷士家にはほとんど期待できない、格の高い諸史料が、ここに集積されているのは、この特別職の家柄たることによって残っていたのである。(中略)
 昭和59[1984]年残間家に所蔵されてきた古文書を公開する。町の教育委員会で解読された内容は、『御山守残間家文書 〔仙台藩御山守史料 大郷町史史料編2』 宝文堂,1985〕として1冊の本にまとめられている。専門家からは「仙台藩小郷土資料館」と呼ばれて絶賛されている。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」


第三節 ◯東成田
柳沢道西光寺一里塚
 小鶴沢柳沢に通ずる柳沢街道「東成田西光寺にも〔一里塚が〕ある。」(『まろろば百選 』)奇しくも、下述の伊藤家の入口にあるのがそれと思われる。
 板谷街道(古代前期東山道)と長根街道(古代後期東山道)とを結ぶ柳沢街道は、言わば移行期の古代中期東山道とでも称すべきであろう。

和久宗
 上述のとおり、残間家「初代 藤右衛門(中略)慶長十七年(一六一二)より同十九[1614]年まで大谷山谷地共に和久宗是の知行となり、御山守を免ぜられる。同十九[1614]年和久氏が上地し御蔵入地となって、再び御山守を仰せ付けられる。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」
 「和久宗(わくそうぜ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・能書家。祐筆衆。老いて入道、自庵を称す。(中略)
 三好氏や足利将軍家に属していた宗是であったが、将軍家衰退に伴い織田信長に仕えた。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると豊臣秀吉 へ出仕する。能書家・右筆として文官の職を努めるほか、武勇の士でもあった。同18年(1590年)の小田原征伐の際には、秀吉の側近として、伊達政宗と秀吉の間を取り持ち、政宗のため種々便益を計った。
 慶長3年(1598年)、秀吉が没すると宗是は政宗に招かれて仙台へ来仙、2千石を賜り黒川郡大谷邑〔東成田村丑穴/川内村実成沢〕に住んだ。政宗は宗是を客礼を以ってもてなした。
 同19年(1614年)10月、大坂冬の陣が起こると、宗是は秀吉の恩願に報いるため、政宗に暇乞いをし大坂へ向かった。やがて、徳川氏と豊臣氏の間で和睦となるが、宗是は和議は一時的なもので再び乱が起こると察し大坂へ留まった。
 翌20年(1615年)4月、宗是の読み通り、大坂夏の陣が勃発。宗是は従者に別れを告げ、老齢のため甲冑の替わりに白綾を着て、兜を被っただけの姿で槍を手にし単騎で徳川勢へ突入、討死した。享年81。」(Wikipedia「和久宗是」
 1999年、火坂雅志が短編集『壮心の夢』(文春文庫)の一編「老将(和久宗是)」でとりあげた。

「梅安清公禅定門」
 「承応三[1654]年二月十七日 支倉氏
 右大谷村東成田西光寺に在り伝へ曰ふ支倉六右衛門常長の墓なりと文化八[1811]年著す所の某記録中には大谷成田村鍛冶谷沢林中にて昔掘出したる石也と 其東方に支倉屋敷もあり此処より墓所に通ずる道路の蹟今尚見る可し 其頃は支倉右門と稱し食碌四百石にてありしに宝暦[1751-64]の初頃十四五才にして家断絶せる趣に書き居れり 右の墓所より少し離れて碑石の二に折れたるあり即ち梅安清公禅定門と記せるものなり此碑折れたるにより後今の碑を建て換へたるものなりと云ふ明治二十二三[1890.91]年頃なりし 此墓所を発掘し遺骨を改めて現今支倉氏の遺族なる内山氏に蔵せり
 又支倉屋敷に近く伊藤清三郎と稱するものありたりし由なるが今は断絶して伝はらず世々支倉氏の墓守なり 其家に伝れる古位牌に貼れる極めて煤けたる古紙に左の如く記したり
    命を海外に渡入したまひし人
       梅安清公禅定門

 此の墓地より手前七八丁の所に切支丹墓と稱する場所あり之を検したるに大抵は婦人の墓なり仏式法名を記し天和[1681-83]等の年号も見江たり」(『黒川郡誌』)。

支倉常長
 「支倉常長は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。(中略)
 元亀2年(1571年)、桓武天皇を祖先とする山口常成の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(現在の山形県米沢市立石)に生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県川崎町支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。
 文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また葛西大崎一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。(中略)
 遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。(中略)
 慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。(中略)
 慶長20年1月2日(1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見している。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日(1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。(中略)
 数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。
 はるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所、仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山の1つ)、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。
 その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した〔川内支倉氏〕。その後、第10代当主の代まで宮城県大郷町に 、第11代から現在の第13代支倉常隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。」(Wikipedia「支倉常長」

支倉常長の墓
 「支倉常長。ある意味では政宗以上に有名な人物である。政宗は所詮日本史上の英雄なのであるが、常長は世界史に日本を代表するスターとして登場するからである。(中略)
 常長の墓が詮索され、世の関心を高めるようになったのは、常長死後200年以上過ぎた明治27[1894]年になってからである。明治4[1871]年岩倉具視らがヨーロッパに派遣され、その時ローマで支倉関係の古文書を提示されたのが機縁となって、急に〔禁教以来完全に黙殺され、歴史の闇に葬られてい た〕常長の関心が惹起されたのが事の始まりである。
 それまでは常長の墓が何処にあるのか、皆目不明であるばかりでなく、常長の墓に関心を持つものさえいなかった。岩倉使節団のお土産話から宮城県内の郷土史研究家の間に墓探しが始まり、明治27[1894]年になって北山光明寺に常長の墓があると言い出したのが大槻文彦博士と郷土史家の鈴木省三先生である。
 仙台市の光明寺には常長の墓とされる五輪の塔のほかに常長の子孫支倉家の墓、ソテロの供養碑がある。支倉家の墓はすでに仙台市内に移住していた子孫が明治以降大郷町〔川内〕の桂蔵寺から移したもの。常長の義弟〔久成の実弟〕で大郷・東成田に領地があった〔新右衛門〕常次の一族も光明寺で永代供養されている。(中略)
 招来品として外国からの文物が仙台領に入った。派遣計画の推進者である藩主の伊達政宗には、ローマ教皇パオロ五世の肖像画と短剣三振が土産品として献上され、残りは支倉家の管理に委ねられた。(中略)寛永17年(1640)、(中略)支倉家は改易となった。この折、同家の招来品が、藩に没収され片平丁にあった藩の切支丹所に保管され〔、以来じつに明治27[1894]年まで、250余年の永きにわたり封印され〕た。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」

仙台北山の墓はニセ物
 柴修也氏によると、1953.12.8付「河北新報」に、「仙台北山の墓はニセ物 支倉六右衛門300年祭を前に新説 本物は東光寺に 発見の過去帳が裏付け」という見出しの記事がある。
 「政宗の使者としてローマに渡った常長は支倉本家系図では元和8年(1622)7月、52歳で病死したと伝えられ、仙台の北山光明寺に葬られたとなっている。
昭和28[1953]年ごろに大谷村(現大郷町)東成田〔中村原町〕の東光寺から発見された当時の過去帳、位牌によればこれは間違で事実は、それから32年後の承応3[1654]年2月17日大谷村で84歳で往生したという、仙台の墓は切支丹の制裁をのがれて隠居した常長を、かくまい幕府の目をゴマ化すための、カラクリの墓だったのである。
 これがはっきりしたのは大谷村にある古碑に「梅安清公禅定門」承応3[1654]年2月17日没と刻まれていることと、常長が死んだ後の過去帳、六銅銭、古位牌(同村遠藤与市氏所有)にも法名や没月日が明記されていることで、これ裏付けるように"命をもって海外に渡入し給いし人"という添書まである。また同村東成田には昔からキリシタン屋敷と呼ばれている支倉屋敷と馬場跡があり、キリシタン墓といわれる墓石も多数残っているのだ。常長はローマで洗礼を受け幕府の目が光っていたので、伊達政宗は一計を案じて常長を大谷村東成田に匿い、架空の墓を仙台に作ったのだろうといわれている。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」

伊藤嘉兵衛/伊藤家
 伊藤嘉兵衛伊藤清三郎の祖先?)は、支倉「時正の子新右衛門〔常次〕六世の孫定可」(鹿又勘太郎『ふるさと綺談』2012)=「藩士支倉右門〔定可〕の 家士なり、主人に忠を盡し、且つ母に事へて至孝なり(中略)其の家斷絶し、其の母獨り存せしかば、嘉兵衛之に事ふる愈々篤し、後ち十數年にして母亦死す、 (中略)是に至りて嘉兵衛謂へらく、存亡を以て義を失ふ、何の顔ありてか地下に見えんと、歳に金を出し數十年にして盡く之を償ふ。嘉兵衛年已に七十一、十金(十両)懐にして寺僧に告げて曰く、余老いて子なく、人の子を養ひて家を継がしむ、(中略)願はくは之を納れて香花の料とせよと、竟に農に帰せりと謂ふ。寛政七[1795]年四月二九日齋村公其の忠節を賞し挙げて組抜並となし、四十二石を賜ひて終身公役を免ず。(東藩史稿、封内孝義録)」(『仙台人名大辞書』)
支倉常長の歌」
 「毎昼大郷町の防災無線の試験放送として明るく軽やかな、歌えば心が希望に満ち溢れるような曲が流れてくる。この曲は今から90年ほど前の昭和の初期に、大谷小学校の故浅野末治先生が、大郷町東成田の地に埋もれていた常長公の墓碑に光をあて、子供達が常長公の偉業に学び、郷土愛、夢、希望と誇りを育むことを目的に作詞、作曲した曲である。
  支倉常長の歌
 一 鵬翼図南の計画の 君命を受けて常長は 燃ゆる望みを胸に秘め 月の浦より船出しぬ
 二 八重の潮路に帆を揚げて 漕ぎ行く先は雲と水 艱難辛苦を忍びつつ はるける国に着きにけり
 三 ローマの法王に遣いして 我が日の本の御光を 西の果てまで示したる その勇おしのかんばしさ

 故浅野先生は毎年2月17日の命日には、小学校から常長の墓碑までの4㌔余りの道のりを徒歩で児童を引率して、墓前でこの歌を唱和され、その行事は終戦まで続いた。平成20[2008]年4月から町の防災無線の試験放送としてこの曲を蘇らせて流しているが、残念ながら町民の間にはほとんど知られていない。(中略)
 浅野先生は明治36年(1904年)宮床(現在の大和町宮床)の生まれで、昭和初期大谷小学校の教員として勤務していた。当時はまだ独身で、同校に勤務していた裁縫の先生の紹介で、粕川小学校の先生と結婚した。(中略)
 同先生は大谷村(現大郷町)東成田にある支倉常長の墓について研究し、昭和8[1933]年8月仙台郷土研究会の機関紙に『大谷村にある支倉常長の墓について』という研究論文を発表している。同じ頃に同先生は支倉常長の歌を作詞・作曲したものと思われる。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」

支倉常長メモリアルパーク
 「大郷町東成田字西光寺(地名)に支倉常長メモリアルパークがあります。〔川内〕桂藏寺の弟子である郷土歴史研究家佐藤宗岳師が苦労を重ねて、支倉常長の墓を研究されました。
 支倉氏家中伊藤氏の口伝によると『政宗様の御指示により、この郷のかくれ人になって暮らした人である』と伝えられ、支倉屋敷跡があり伊藤家が常長の領収書などの古文書をもたれていたことなどを踏まえ、この地に眠られたと伝えられています。
 常長の墓は、宮城県内に3か所あり、その内の1つが大郷町にあります。宗岳師は大郷のお墓が本当の常長の墓であることを証明すべく、昭和32(1957)年に『支倉六右衛門常長の墓について』を執筆しました。
 現在、常長のお墓はメモリアルパークとして町が美しく整備し、全国から多くの人が常長の偉業を讃え、お墓に参拝されています。」(HP「川内支倉氏と支倉常信について」
 みごとに整備された公園で、1996年7月、落合舞野出身(父が黒川農学校教師)の世界的彫刻家佐藤忠良作の銅像が設置されるなど、そのあまりにも立派すぎる施設には驚嘆させられるとともに、(大和町や利府町に比べ、)大郷町の見識に敬意を表する。

世界の支倉常長立体像
 世界「各地の支倉常長の立体像の多くは、青葉山公園の仙台城二の丸にある佐藤忠良制作の銅像を基に鋳造されている。足跡順に記載。
1)日本:宮城県仙台市青葉区 仙台城二の丸 1972年(昭和47年)設置。支倉常長生誕400年記念事業による。
2)日本:宮城県石巻市 月の浦公園 1987年(昭和62年)設置。
3)メキシコ:ゲレーロ州アカプルコ 日本広場 1973年(昭和48年)11月設置。仙台市との姉妹都市締結記念。(中略)
4)キューバ:ハバナ 2001年(平成13年)4月26日設置。仙台開府400年を記念(中略)
5)スペイン:アンダルシア州セビリア県コリア・デル・リオ カルロス・デ・メサ公園 1992年(平成4年)6月設置。慶長遣欧使節団渡航380年記念事業による。(中略)
6)イタリア:ラツィオ州ローマ県チヴィタヴェッキア カラマッタ広場 1991年(平成3年)設置。石巻市との姉妹都市締結20周年を記念。(中略)
7)フィリピン:マニラ首都圏マニラ
8)日本:宮城県黒川郡大郷町 支倉常長メモリアルパーク 1996年(平成8年)7月設置。」(Wikipedia「支倉常長」

東成田村
 既述の通り、「明治三[1870]年に至り大谷〔おおや〕郷を廃して単に黒川郡と稱し其成田村は之を東成田村となす 西成田村は之を小野目成田村と稱したりしを之と同時に西成田(ヌスナンダ)村と稱するに至れり。」(『黒川郡誌』)
 「小生〔柴修也氏〕が中学時代に成田地区から通う同級生に『なんだ山の中」』などと言って馬鹿にしたことがありましたが、改めて大郷町の歴史を考えると、成田板谷街道こそ大郷で最も早くから開けた地域だったということが解りました。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」)

  ♪山田の乙女に道とわば 東は成田か川内か♪(「黒川願人節」)


第四節 ◯鶉崎
 既述のとおり、黒川「郡衙の所在地は、大衡村の善川流域にある亀岡遺跡と大郷町〔鶉崎〕大小寺地区に求められている。いずれも官衙的性格をもつ遺物が発見されており、特定できない。」(『日本歴史地名大系』)
「大郷町中村・〔鶉崎〕住吉・鶉崎等を含む東成田地域一円がその古代黒川郡衙のあった地域ではなかったかと推定せられるのである。」(『大和町史』)

関屋の清水
 上述のとおり、「休み松に至って北方の谷間が開け、三~四百m先からは板谷の渓流に沿って比較的平坦な道となり、鶉崎(黒川郡最初の郡衙が置かれたところ)の関屋の清水に至る』と険阻な道だったことが書かれています。」(『蝦夷と「なこその関」』)

  ♪大谷中村鶉崎 今は土橋大平♪(「黒川願人節」)


第五節 ◯土橋
  ♪大谷中村鶉崎 今は土橋大平♪(「黒川願人節」)


(続く)


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