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第六章 黒川澤田分家亥兵衛


第一節 初代亥兵衛(1911~2004)
四代ゆゑ四男亥兵衛
 黒川澤田分家初代亥兵衛は、1911 (明治44) 年10月30日、宮城県黒川郡鶴巣村北目大崎4番地澤田本家で、澤田本家四代辰五郎 (1868~1931) =ゆゑ (1876~1956) の九子中第六子・四男に生まれた。私の父である。
 当時、長兄金太郎(1895~1961) はすでに16歳に達していた。おとなしかった亥兵衛は祖母まつゑのお気に入りで、大の「おばあちゃんっ子」であった。着物と素肌の間にすっぽり入れられ、風呂に入れられたり、おりふし昔語りを聞かされたということである。

 1914 (大正3) 年、長妹てる子が生まれた。既述のごとく、すでにこのころには、北目大崎村の澤田家留守本宅は長兄金太郎の采配するところとなっており、金太郎は文字どおり、16歳年少の弟亥兵衛の「親方(兄貴)」であった。
 1916 (大正5) 年亥兵衛5歳の時、外曾祖父大越文五郎(1832~1916) が85歳で大往生した。
 翌1917 (大正6) 年11月次妹すゑこが生まれたが、翌12月夭折した。
 1919(大正8)年2月15日長姉ちよとが湯村家に嫁ぎ、同月27日長兄金太郎が小沢つねよと結婚した。ときに、亥兵衛はいまだ8歳であった。
 翌1920 (大正9) 年1月弟辰夫が生まれ、同年11月には長兄金太郎の長男一郎が生まれた。
 翌1921 (大正10) 年2月亥兵衛10歳の時、祖父・三代金五郎 (1854~1921) が68歳で死去し、父辰五郎が形式的に澤田家四代を継いだ。
 同年5月、前年生まれたばかりの、長兄金太郎の長男一郎が夭折した。
 翌1922(大正11)年、祖母まつゑの弟・伯祖父大越文平(1860~1922)が満州旅順で亡くなった。
 1924(大正13)年13歳の時、次兄金蔵が秋葉家に養子に入った。
 翌1925(大正14)年、次姉もりよが志賀家に嫁いだ。
 1926 (大正15) 年15歳の時、祖母まつゑ (1856~1926) が71歳でみまかった。

代代家督
 1931 (昭和6) 年20歳の時、父辰五郎が64歳でなくなり、長兄金太郎が正式に澤田本家五代を継いだ。我々兄弟は、母しづかも含めて、誰も祖父辰五郎の顔を知らないのである。
 翌1932 (昭和7) 年、金太郎の次男・嗣子力が生まれた。
 1934(昭和9)年4月、長兄・澤田本家六代金太郎は、既述のごとく、のちに亥兵衛の澤田分家の敷地となることになる「原っこ」の土地を購入した。
 「                賣渡證書
一金拾壱円五拾戔也(中略)
昭和九[1934]年四月弐拾八日
  黒川郡鶴巣村北目大崎字照節沢五拾参番地
     賣主    中米猶三郎(印)
黒川郡鶴巣村北目大崎字照節沢参拾四番地
  澤田金太郎殿
     物件
黒川郡鶴巣村北目大崎字三角田北四拾参番地
一 畑弐畆九歩」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 同年8月、三兄金之助が山影家に養子に入った。
 同年10月、妹てる子が鈴木家に嫁いだ。
 ところで、長兄金太郎の妻つねよは結婚後リューマチを患い、農作業のできない身体となっていた。加えて早くに長男一郎を喪い、嗣子・次男力もなお幼少であった。そこで成人に達していた亥兵衛は、金太郎の要請で、「代代家督」として澤田本家の家業を助けることになった。「代代家督」とはつまりはピンチヒッターで、16歳年少の亥兵衛が金太郎の跡を襲って澤田本家六代を中継ぎし、同七代を21歳年少の甥・金太郎の次男力に譲り、自身の長男元は分家に出すということである。

しづかとの結婚
 代代家督の話が本決まりになると、さっそく亥兵衛の嫁探しが始まった。金太郎は、砂金沢
いさござわの佐藤今朝吉=つめ長女しづか(1917~2014) に白羽の矢をたて、さっそく佐藤家を訪れて縁談を申し入れた。縁談は順調に進んだが、万事は金太郎がとり進め、当の亥兵衛の出る幕はまったくなかった。
 翌1935(昭和10) 年1月16日[旧1934(昭和9)年12月12日]、亥兵衛はしづかと結婚した。ときに亥兵衛23歳、しづかは17歳であった。新郎新婦は、結婚式当日に初めて顔を合わせた。嘘のような話であるが、事実であった。以後亥兵衛夫婦は澤田本家に同居し、亥兵衛は、外交家の「親方」金太郎のいわば「黒衣」役に徹することになった。
 しづかは、1917(大正6)年4月28日、鶴巣村北目大崎字前屋敷39番地(通称砂金沢)佐藤今朝吉=つめの長女に生まれた。私の母である。
 小学校の成績は優等で、読書の好きな少女であった。結婚まで生家の家事をてつだったが、よく本を読みふけっては親に叱られたという。

戦争と長女こゆきの夭折
 翌1936 (昭和11) 年9月1日、亥兵衛24歳=しづか19歳の嫡男元はじめ が誕生した。亥兵衛夫婦は、元を頭につごう三男四女をもうけた。
 1939 (昭和14) 年1月10日、 長女こゆきが誕生したが、生後わずか8日の同月17日夭折した。
 同年4月、長兄金太郎の三男勝彦が生まれた。
 1941 (昭和16) 年3月21日、亥兵衛29歳=しづか23歳の次男修が誕生し、同年12月日本は太平洋戦争に突入した。金太郎・亥兵衛兄弟の大家族に、さらに仙台空襲の繊細に見舞われた三兄金之助(1908~)一家その他の疎開者が加わり、澤田本家は銃後の一大戦場とも言うべきありさまを呈した。
 1943 (昭和18) 年、妹てる子が目黒家に再嫁した。
 翌1944 (昭和19) 年6月15日、31歳の亥兵衛は陸軍二等兵として応召し、機関銃部隊に入営した。しかし、もはや戦局はいかんともしがたかった。
 同年10月1日、幸い外地に派兵されることもなく召集は解除となり、老兵・亥兵衛は無事帰宅し、翌1945 (昭和20) 年8月の敗戦を迎えた。

分家独立
 翌1946 (昭和21) 年7月11日、亥兵衛34歳=しづか29歳の三男諭
さとし・筆者が誕生した。
 1948 (昭和23) 年6月20日、亥兵衛36歳=しづか31歳の次女しづゑが生まれた。
 1950 (昭和25) 年9月4日、亥兵衛38歳=しづか33歳の三女こあきが誕生した。
 翌1951 (昭和26) 年、長兄金太郎が鶴巣農協組合長に就任した。
 翌1952(昭和27)年12月12日、長兄・黒川澤田本家五代金太郎の嫡男力20歳が下草の同期生高橋きよしと結婚式を挙行、翌13日澤田本家の前庭で記念写真を撮影し、幼い筆者6歳等澤田一族が一堂に収まった。
 翌1953 (昭和28) 年4月6日、末子・四女こはるが誕生した。ときに亥兵衛41歳、しづかは35歳であった。同年10月、長兄金太郎の嫡孫智が生まれた。
 このころの澤田本家は、金太郎・亥兵衛一家をあわせてじつに二十人に迫る大所帯で、大家族うちそろっての食事風景はまさに壮観そのものであった。
 さて、亥兵衛の叔父俊郎(1893~1958)や叔祖父松吉 (1875~1960)は、一族の不和の源ともなりかねない「代代家督」には当初から反対であった。そこで金太郎は、金蔵 (1900~1990)ら弟妹たちとも協議の末、嗣子力 (1932~) の成人にともない、代代家督の約を反故にして亥兵衛を分家させることに決した。
 当初金太郎は、黒川神社の東・通称「売り場」に分家するように提案したが、亥兵衛は日照の悪さを理由にこれを拒否し、澤田分家は、当時「原っこ」と呼ばれれていた耕作不能の草地と畑地の上に建てられた。畑の上に母家を建てて、「原っこ」の表土の岩石を掘り下げて現在の畑地とした。「原っこ」は当時子供たちのかっこうの遊び場で、私等もよくそこで遊びまわったもので、澤田分家はいわば「原っこの家」とでも言うべき因縁にある。
 1955 (昭和30年) 年12月30日、亥兵衛44歳・しづか38歳・嫡男元19歳・三男筆者9歳(小3)・末子こはる2歳の時、亥兵衛は黒川澤田本家第二の分家として、現在地・宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎字三角田北34番地に独立し、「黒川澤田分家」を興してその祖となった。
 当時澤田本家は約3町歩の水田を所有しており、当主金太郎はそのうちの約1町歩と若干の畑および山林を亥兵衛に分与し、澤田分家の財産とした。
 明けて1956 (昭和31) 年2月27日、亥兵衛の母ゆゑは、とうとう完成した亥兵衛の新居を見ることなく、81歳の高齢でみまかった。

子供たちの自立と隠居
 1958(昭和33)年、次男修が家を出、東京に自立した。
 1960(昭和35) 年3月、嫡男元が結婚した。
 翌1961(昭和36) 年6月、長兄・澤田本家五代金太郎が死亡し、甥力が同六代を相続した。
 同年12月22日、亥兵衛の嫡孫裕子が誕生した。
 1965(昭和40)年3月、三男筆者が上京して自立した。
 同年4月、次男修が福島県小高町・佐藤アキ子と結婚し、分籍自立した。
 同年、中学時代から進行性関節リュウマチを患っていた次女しづゑが、黒川高校を二年で中退した。
 翌1966(昭和41)年、妹目黒てる子が51歳で亡くなった。
 翌1967(昭和42)年、次男修の長男・孫猛が生まれた。
 1972(昭和47)年9月、長姉湯村ちよとが70歳で亡くなった。
 同年11月、三女こあきが三本木町伊場野・村田家に嫁いだ。
 1974(昭和49)年2月、弟辰夫が51歳で亡くなった。
 同年11月、三男筆者諭が新潟県新潟市・工藤信子と結婚し、分籍自立した。
 1980(昭和55)年12月、澤田分家初代亥兵衛は69歳で隠居し、嫡男元44歳が同二代を継いだ。亥兵衛は本家譜の原本制作者である。
 翌1981(昭和56)年、末子・四女こはるが大衡村大森・文屋家に嫁いだ。
 1983(昭和58)年、二代元が父の建てた母家をとり壊し、澤田分家本宅を新築した。
 1985(昭和60) 年、三男筆者が38歳で東京都立大学に入学し、哲学を専攻した。
 1987(昭和62)年、次男修が「澤田製作所」を創業した。
 1989(平成1)年6月、前年筆者の許に上京して人工関節装着手術を受けて加療していた次女しづゑが、めでたく退院して元気に帰郷した。
 同年8月19日、澤田分家一族は鳴子ホテルに参集して亥兵衛の喜寿としづゑの快気を祝い、あわせて母しづかの労を癒す、初めての「兄妹会」を催した。
 翌1990(平成2)年3月、三男筆者が東京都立大学を卒業した。
 1990(平成2)年陽春、 亥兵衛三男諭・筆者が、黒川澤田分家初代亥兵衛 の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田氏家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 同年9月、次兄秋葉金蔵が90歳で亡くなった。
 同年、亥兵衛はその所有する水田の大半をゴルフ場開発用地として売却し、澤田分家は農業から大きく手を退くことになった。
 2004(平成16)年5月9日、塩竈市花立町赤石病院で、我が父・黒川澤田分家初代亥兵衛は、行年94歳(満92歳)で大往生を遂げた。生涯、篤実な一農民であった。
 2014(平成26)年1月20日午前1時30分、夫亥兵衛の死から10年後、大和町吉岡公立黒川病院で、我が母・黒川澤田分家初代亥兵衛妻しづかは、筆者と次兄修の見守る中、行年98歳(満96歳)で大往生を遂げた。生涯、善良な一農婦であった。


第二節 佐藤家
佐藤家
初代庄三郎
 佐藤家の宗家は、仙台から移住してきたと伝えられている。砂金沢
いさござわは藩政時代上郡山かみごおりやま氏の領地だったので、いずれその辺りの縁りを物語っているものと思われる。佐藤家は同集落の佐藤宗家から、初代庄三郎が現大和町鶴巣北目大崎字前屋敷39番地に分家した農家である。
二代さち
 庄三郎には男子がなかったようで、二代はさちが継ぎ、三代正治を産んだ。。
三代正治
 三代正治=はるにも男子がなく、長女つめに富谷村穀田・若生今朝吉を養嗣子として配し、四代を継がせた。
 正治の後妻まつは三女政子を産んだが、夫の死後子連れで他家(吉田?)に再嫁した。

四代今朝吉=つめ
 今朝吉は谷村穀田・若生庄三郎庶子として生まれ、佐藤家三代正治の養嗣子となって長女つめに婿入りし、同家四代を継いだ。私の外祖父母である。なお、若生家は神奈川県に移住しており、穀田には現在していない。
 今朝吉は農業および「馬車引き」をなりわいと
するかたわら、竹細工を作って生活の足しにしていたが、なかなかの名人はだしで、本場岩手山の職人たちにも一目置かれていたという。
 岩手山の竹細工は、「享保年中[1716-35] 、この地方の副業として始められた。篠竹の皮の部分だけを用いて作ったざるや籠などは、丈夫で軽く、形態にのこした機能と美しさはそのまま民芸品とさえなっている。」(『宮城県の歴史』)
六男五女
 今朝吉=つめ夫婦は、六男五女をもうけた。

 1917(大正6)年4月28日、第一子・長女しづかが生まれた。私の母である。
 長男(しづかの弟)一郎は、志願兵として太平洋戦争に従軍して戦病死した

 1921(大正10)年1月27日、次男重夫が生まれた。重夫は後に佐藤家五代を継いだ。
 三男正夫もまた太平洋戦争に従軍し、ベトナムで戦病死した。
 次女きのは夭逝した。
 1927(昭和2)年10月、四男巌が生まれた。巌は後に分家独立し、佐藤分家を興した。
 1929(昭和4)年、三女静志が生まれた。
 五男静男は夭折した。
 1933(昭和8)年7月28日、四女満子が生まれた。
 1934(昭和9)年旧12月12日、長女しづかが、鶴巣村北目大崎澤田亥兵衛に嫁いだ。
すなわち、私の両親である。
 1936(昭和11)年6月10日、五女栄志が生まれた。同年9月1日には、栄志の甥にあたる亥兵衛=しづか嫡男元
はじめが誕生した。
 1939(昭和14)年二月26日、末十一子・六男勝志が生まれた。
庶流
 正治の次女しんは落合村桧和田千坂家に嫁ぎ、嫡男国光他を産んだ。千坂家は、大越家と縁が深く、戊辰戦争時まつゑが隠れ住んだといわれる、いわゆる「大六天」の分家で、姑は盲目の祈祷師「オガミサン(拝みさん?)」だった。
 国光には子がなかったので、末弟宏が跡を継いだ。
 正治の後妻まつの産んだ三女政子は、母と共に他家(吉田?)に再嫁したが、後に結婚して東京に住んだ。

五代重夫
 重夫は1921(大正10)年1月27日、佐藤家四代今朝吉=つめの次男として生まれた。私の母しづかの次弟、私の叔父である。
 今朝吉の長男(しづかの弟)一郎は志願兵として太平洋戦争に従軍して戦病死したの
で、重夫は大和町鶴巣鳥屋(清水谷すずのや)文屋さかゑと結婚し、佐藤家五代を継ぎ、三男二女をもうけた。
 重夫の長男重悦は夭折した。
 1943(昭和18)年、長女栄子が生まれた。
 1946(昭和21)年5月、次男・嫡子重信が生まれた。筆者と同期の従兄である。
 1948(昭和23)年、次女つえ子が生まれた。筆者の妹しづゑと同期の従姉妹である。
 1950(昭和25)年、三男重則
が生まれた。筆者の妹こあきと同期の従兄弟である。
 晩年の重夫は長く自宅で病床に伏していたが、奇しくも長弟巌にわずかに6ヶ月遅れて、1999(平成11)年10月21日、78歳で永眠した、
 2011年3月、東日本大震災の直後、さかゑが死去した。
庶流
 今朝吉の長女しづかは、1934(昭和9)年旧12月12日、鶴巣村北目大崎字照節沢参拾四番地澤田辰五郎=ゆゑ四男亥兵衛に嫁いだ。ときに亥兵衛23歳、しづ
かは17歳であった。すなわち、私の両親であり、三男四女をもうけた。
 しずかは、2014(平成26)年1月20日、96歳で大往生した。
 今朝吉の三女静志は、加美郡四竈村色麻佐藤丈夫に嫁ぎ、長女富子、次女宮子(夭折)、三女美代子をもうけた。
 今朝吉の四女満子(~)は、大谷村中村大久保鐐一に嫁ぎ、嫡男哲郎
てつろう、次男益郎ますお、三男満郎みつおをもうけた。
 今朝吉の五女栄志は、一時長姉しづかの義姉目黒てる子の仙台高等技芸学校に寄寓し、さらに東京高等技芸学校に進んで、東京千歳船橋、祖師谷大蔵で洋裁業を自営、後に多摩市聖蹟桜ヶ丘に転居し、生涯独身を通した。
庶家
 今朝吉の末子・六男勝志は東京大森に分藉自立し、一女久美をもう
けた。

佐藤分家巌
初代巌
 今朝吉の四男巌は予科連、警察予備隊に入隊した
が、脊椎カリエスを患って除隊し、長く自宅で療養生活を送った。のちに健康を回復して三本木町伊賀□□ひさ子と結婚して小売業を自営し、長女ゆり子、次女たみ子をもうけた。
 巌は同大和町鶴巣北目大崎町頭163に分家して佐藤分家を興して初代となり、後年第三セクターに勤務した。
 次女たみ子は、仙台市青葉区南吉成5-15-1高橋幹夫と結婚した。
 巌は病身をよく克服し、1999(平成11)年4月5日、62歳で死去した。
二代俊正=ゆり子
 巌の嫡女ゆり子は、同期の大和町鶴巣鳥屋斎藤俊正を初代巌の養嗣子として結婚し、同家二代を継ぎ、一男二女をもうけた。

六代重信
 重信は1946(昭和21)年5月、佐藤家五代重夫=さかゑの次男として生まれた。私の同期の従兄である。
 重夫の長男重悦もまた夭折したので、重信は四竈町□□信子と結婚し同家六代を継いだ。重
信は筆者の同年の従兄弟で、鶴巣小・中学校の同期生である。
 重信夫妻は、長男巧、長女□□、次女直美の
一男二女をもうけた。
 重信の長女仁美
ひとみは、愛知県名古屋市□□□□に嫁いだ。
 重信の次女直美は仙台市泉区□□政和に嫁いだ。
 しかるに長男巧が不幸にして自動車事故で亡くったので、既に嫁いでいた次女直美の夫政和が養嗣子となって夫婦子供共に同居した。 

庶流
 重夫の長女栄子は、仙台市太白区四郎丸字戸ノ内8-1 伊深忠に嫁いだ。
 重夫の次女つえ子は、亘理町吉田字松元219 江川□□に嫁いだ。
 重夫の三男重則は、東京消防局を経て、仙台消防局レンジャー部隊に勤務した消防官で、仙台市若林区六十人町91湯目敦子と結婚して養嗣子となり、湯目家を継いだ。1995年阪神淡路大震災に際しヘリコプター救援隊長として派遣され、活躍した。2011年3.11東日本大震災時には若林消防署長の任にあり、同年定年退職した。

第三節 二代元(1936~1996)
初代亥兵衛嫡男元
 黒川澤田分家二代元はじめ は、1936(昭和11)年9月1日、初代亥兵衛24歳=しづか19歳の長男に生まれた。私の、10年年長の長兄である。
 元は、澤田本家同居時代の労苦を両親とともにした。
 1939 (昭和14) 年1月10日長妹こゆきが誕生したが、同月17日夭折した。
 1941 (昭和16) 年3月、長弟修が誕生した。
 翌1946 (昭和21) 年7月、元9歳のとき、次弟諭
さとし・筆者が誕生した。
 1948 (昭和23) 年6月、次妹しづゑが生まれた。
 1950 (昭和25) 年9月、三妹こあきが誕生した。
 1953 (昭和28) 年4月、末四妹こはるが生まれた。ときに、元は17歳になっていた。
 1955 (昭和30年) 年元19歳のとき、父初代亥兵衛が黒川澤田本家から分家独立し、一家は黒川澤田分家の新居に移転した。
 翌1956 (昭和31) 年、祖母ゆゑが81歳の高齢でみまかった。
 元は両親とともに家業の農業に従事するとともに、民間会社に勤務して兼業農家となり、親にも劣らぬ労苦をもって幼い弟妹の養育にあたった。

黒川澤田分家二代当主
 1958(昭和33)年、長弟修が家を出て東京に自立した。
 1960 (昭和35) 年3月結婚、翌1961 (昭和36) 年12月22日長女裕子が誕生した。私の姪である。
 1965 (昭和40) 年2月2日、次女純子が生まれた。同じく私の姪である。
 同年3月元28歳のとき、次弟筆者18歳が上京し、自立した。
 同年4月長弟修が結婚し、東京・大田に分籍自立した。
 1972 (昭和47) 年、三妹こあきが村田家に嫁いだ。
 1974(昭和49)年11月、元38歳のとき、次弟・筆者諭28歳が工藤信子と結婚し、東京・渋谷に分籍自立した。
 1980(昭和55)年12月、父・初代亥兵衛が69歳で隠居し、元は44歳で黒川澤田分家二代を継いだ。
 翌1981 (昭和56) 年、四妹こはるが文屋家に嫁いだ。
 1983(昭和58)年12月、元は父亥兵衛が1955 (昭和30年) 年創建した母家をとりこわし、本宅を新築した。
 1990(平成2)年、父・隠居亥兵衛はその所有する水田の大半をゴルフ場開発用地とし
て売却し、兼業農家・澤田分家における農業の比重は大きく後退した。

 1996(平成8)年10月3日、古川市星陵病院で、黒川澤田分家二代元は行年61(満60)歳で父亥兵衛に先立ち、長女裕子が三代を襲った。


第四節 庶流
こゆき(1939~1939)
 1939 (昭和14) 年1月10日、 長女こゆきが誕生したが、生後わずか8日の同月17日夭折
した。季節がら、寒さにヤラレタのでは?ともいわれている。私の姉である。遺骸は弔われることもなく、鳥屋の墓地の片隅に葬られた。当時幼い者の夭折は、べつに珍しいことではなかった。澤田家においても、生後間もなくあるいは成人に至ることなく夭折した多くの子供たちの記録が残されており、こゆきはその一人にすぎない。
 それにしても、「も
しこの姉にして生きてあらば………」とおりふし思わざるを得ないのは、ひとり筆者のみではあるまい。後に「早世光照孩女位」の法名を追号し、その霊をなぐさめた。

しずゑ(1948~)
 しづゑは、1948(昭和23)年6月20日、亥兵衛37歳=しづか31歳の次女に生まれた。私の2年年少の長妹である。
 しづゑは不幸にして中学時代から進行性関節リュウマチを患い、二年で高校を中退するのやむなきにいたった。しばらく実家に身を寄せるなどしていたが、病状はしだいに悪化し、1987 (昭和62) 年4月ついに歩行が不能となった。
 同年9月25日兄なる私の許に上京し、翌1988 (昭和63) 年3月25日、東京都世田谷区瀬田の「日産厚生会玉川病院整形外科」に入院した。1年3ヶ月にの長きに及んだ入院中、実に4ヶ所・5回におよぶ人工関節装着手術を行い、本人の必死の努力と亡妻、老親、次妹こあき等の懸命の看護のかいあって再び歩行可能となり、1989 (平成 1) 年6月5日めでたく退院、同月11日勇躍故郷に帰還した。

こあき(1950~) /村田家
 こあきは、1950(昭和25)年9月4日、亥兵衛38歳=しづか33歳の三女に生まれた。私
の4年年少の次妹である。
 1972 (昭和47) 年11月7日、志田郡三本木町伊場野字鉄砲町20-3村田澄二と結婚、誠一郎・真澄の二男をもうけた。私の甥たちである。

こはる(1953 ~) /文屋家
 こはるは、1953(昭和28)年4月6日、亥兵衛41歳=しづか35歳の三女に生まれた。私の7年年少の三妹である。
 1973(昭和48)年、東京・帝京大学附属保母幼稚園教員養成所を卒業し、東京板橋・陽
光保育園に勤務した。
 1981 (昭和56) 年11月14日、大衡村大森字幕ノ沢5-2文屋勉と結婚し、一女しのぶをもうけた。私の姪である。




第七章 澤田修家


第一節 初代修(1936~)
黒川澤田分家初代亥兵衛次男修
 修は、1941(昭和16)年3月21日、黒川澤田分家初代亥兵衛29歳=しづか23歳の次男に生まれた。私の5歳(学齢6年年長、ただし早生まれのため学齢は6年年長の次兄である。
 1946 (昭和21) 年、が誕生した。
 1948 (昭和23) 年、長妹しづゑが生まれた。
 1950 (昭和25) 年、次妹こあきが誕生した。
 1953 (昭和28) 年、末妹こはるが生まれた。ときに、修は12歳であった。
 1955 (昭和30年) 年12月、修14歳の時、父・黒川澤田分家初代亥兵衛が分家独立し、黒川澤田本
家より分家新宅に移転した。
 翌1956 (昭和31) 年、祖母ゆゑが81歳でみまかった。

澤田修家分藉自立
 1958(昭和33)年、修は家を出て上京した。
 1965(昭和40)年3月、弟諭・筆者が、兄に7年遅れて家を出、上京した。
 同1965(昭和40)年4月28日、修は福島県相馬郡小高町小屋木字前畑63佐藤覚さとる=タケ末女アキ子(1944~) と結婚して澤田分家から東京大田区に分籍自立し、同家第一の分流を興してその祖となった。
 1967 (昭和42) 年5月20日、長男猛が誕生した。私の甥である。
 翌1968 (昭和43) 年6月18日、次男進が生まれた。おなじく、私の甥である。
 1980(昭和55)年12月、父・初代亥兵衛が隠居し、兄元が澤田分家二代を継いだ。

第二節 有限会社沢田製作所
有限会社沢田製作所の創業
 1987 (昭和62) 年4月、長い間の刻苦奮励が実り、埼玉県入間市二本木1175番地に、ま
ったく自力で試作板金製作業「沢田製作所」を創業した。
 翌1988(昭和63)年10月、「有限会社沢田製作所」を設立・登記し、以後同社の経営に
あたった。

会社経歴書
 「
会社経歴書
□沿   革
              弊社は昭和62[1987]年4月
     主として自動車部品その他一般板金部品の試作加工を目的として
           個人企業として創業した若い会社です
 創業以来『みなさまの良き試作工場』として鋭意努力を重ねてまいりましたところ
     各種新製品の開発ならびに試作研究等のご要求は日増しに高まり
               弊社はこれに対応して
  昭和63[1988]年10月改めて法人として設立・登記し新たなスタートを切りました
      併せて各種機械設備を拡充するなど本格的に会社の体制を整え
       みなさまの多様なご要望にお応えできるよう努力を重ねて
                今日に至りました
□会社概要
商    号  有限会社沢田製作所
所 在  地  〒358 埼玉県入間市二本木1175番地
        TEL.(0429)34-5366
        FAX.(0429)34-5588
創    業  昭和62[1987]年4月
設    立  昭和63[1988]年10月13日
資 本  金  500万円
取引金融機関  青梅信用金庫 瑞穂支店
代 表  者  代表取締役 沢田 修
従 業  員  男子5名
        女子1名
営業 種 目  各種試作板金(主に自動車部品)
        プレス加工、各種溶接加工、一般板金、ヘラ絞り加工
工場 敷 地  231?
工場 建 物  165?
□機械設備
        ○油圧プレス 150Ts(クッション付)………………………………1台
        ○油圧プレス 50Ts C型……………………………………………… 1台
        ○パワープレス 35Ts…………………………………………………1台
        ○パワープレス 12Ts…………………………………………………1台
        ○シャーリング 3.5t×2400 ………………………………………………1台
        ○フットプレス ……………………………………………………………5台
        ○コンターマシン …………………………………………………………3台
        ○旋盤8尺 …………………………………………………………………1台
        ○フライス …………………………………………………………………2台
        ○三本ロール(動力)  シャフト径φ60 ………………………………1台
        ○スポット溶接機 25K …………………………………………………1台
        ○スポット溶接機 15K …………………………………………………1台
        ○MIG溶接機………………………………………………………………1台
        ○TIG溶接機………………………………………………………………1台
        ○アセチレン溶接機…………………………………………………………1式
        ○ボール盤……………………………………………………………………3台
        ○ヤスリ盤……………………………………………………………………1台
        ○その他板金加工用治工具                     」
                            (有限会社沢田製作所「会社経歴書」/筆者制作)
1990(平成2)年陽春、弟諭・筆者が、 父・黒川澤田分家初代亥兵衛 の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 2010(平成22)年3月26日、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。
 2013(平成25)年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。




第八章 澤田諭家


第一節 初代諭 (1946~)
黒川澤田分家初代亥兵衛三男諭
 私・諭(さとし)は、1946(昭和21)年7月11日、宮城県黒川郡鶴巣村北目大崎字照節沢43番地黒川澤田本家で、黒川澤田分家初代亥兵衛34歳=しづか29歳の第四子・三男に生まれた。
 1948 (昭和23) 年、長妹しづゑが生まれた。
 1950 (昭和25) 年、次妹こあきが誕生した。
 1952(昭和27)年12月13日、伯父・黒川澤田本家五代金太郎の嫡男力20歳の結婚式翌日、澤田本家の前庭で撮影された記念写真に、幼い筆者6歳等澤田一族が一堂に収まった。
 1953 (昭和28) 年4月6日、末三妹こはるが生まれた。
同月、鶴巣村立鶴巣小学校に入学した。
1955 (昭和30) 年(9歳/小3)、父・澤田分家初代亥兵衛が澤田分家を興し、一家はそれまで同居していた照節沢の黒川澤田本家から、同部落の現在地・宮城県黒川郡鶴巣村北目大崎字三角田北>43番地の新居に移転した。
 翌1956 (昭和31) 年(10歳/小4)、祖母ゆゑが81歳でみまかった。
 1958(昭和33)年(12歳/小6)、次兄修が家を出て上京した。
 翌1959(昭和34)年4月、大和町立鶴巣中学校に入学した。
 翌1960(昭和35) 年(14歳/中2)、長兄元が結婚した。
 翌1961(昭和36) 年元日より「日記」を書き始めた。
 同年6月(15歳/中3)、伯父・澤田本家六代金太郎が亡くなった。
 翌1962(昭和37) 年3月(16歳/高1)、仙台一高を敬遠した同二高の受験にも失敗し、4月滑り留めの仙台市某私立工業高校に入学した。在学中は学校寮、バス・汽車、山影金之助伯父宅下宿等により通学し、専ら大学受験勉強に専念した。
 1963(昭和37) 年7~8月(17歳/高2)の一夏、広瀬川河畔片平丁仙台澤田家二代實宅に寄宿して、金野とし子叔従母の瀬戸屋でアルバイトし、この時習作小説『清風荘』をものした。


上京・大学中退・放浪
 1965(昭和40)年3月(19歳)、東京都立大学を受験するも失敗し、翌4月家を出て上京、奇しくも東京麻布広尾町・日本アルファ電機(株)に入社・自活するも、なお大学入学を諦め切れず受験勉強を継続した。
 同年4月、次兄修が結婚して分籍自立した。
 同年夏同社を退職し、以後大日本印刷五反田工場、東京鷺宮日経新聞専売所等でアルバイトしながら大学受験勉強を続けた。
 1967(昭和42)年3月(21歳)、単身福岡県小倉市に渡り、市立北九州大学外国語学部米英学科に入学した。
 翌1968(昭和43)年5月(22歳)、思うところあって同大学を中退(授業料未納により除籍)し、なお学究生活を目指して遠大な計画を立て、
 同年7月、愛知県豊田市・トヨタ自動車工業(株)上郷工場の工員となり、会社寮、アパート等で苦学を続けた。
 1971(昭和46)年4月(25歳)、三妹こはるが上京した。
 翌1972(昭和47)年(26歳)、次妹こあきが三本木町・村田家に嫁いだ。
 翌1973(昭和48)年3月(27歳)、結局のところ虻蜂取らずとなってついに学究生活の夢を断念、再度上京して北区東十条に住み、東京銀座・(株)ビクトリー出版に入社した。この間、一時さきに上京していた三妹こはると同居した。


信子との結婚/分藉自立
 翌1974(昭和49) 年11月2日(28歳)、勤務先で知り合った新潟県新潟市豊三丁目3番地工藤國男=米子次女信子満25歳と結婚、黒川澤田分家から東京都渋谷区広尾五丁目7番地3-614号に分籍自立して、同家の第二の分流を興した。
 信子
(1948.11.7~1994.3.13)は、1948(昭和23)年11月7日、新潟県新潟市川端町・工藤國男=米子の第二子・次女に生まれ、のち新潟市本町通十番町に移転した。雙葉幼稚園、新潟大学附属新潟小学校、同中学校、新潟県立新潟高校を経て明治学院大学仏文科を卒業した。
翌1975(昭和50) 年3月(28歳)、同社が倒産し後継会社に勤務するも、
 同年10月、招聘により東京大塚の新興広告会社に勤務した。
 1980(昭和55)年7月(34歳)、社命により千代田区神保町に(株)ビジネスでザインを設立し、代表取締役社長に就任した。
 同年12月(34歳)、父亥兵衛 69歳が隠居し、長兄元44歳が澤田分家二代を継いだ。
 翌1981(昭和56)年7月(35歳)、同社同役を退任し、11月東京大田区の電機部品会社に転職した。
 同年11月、三妹こはるが大衡村・文屋家に嫁いだ。
 1983(昭和58)年(37歳)、長兄元は、父が創建し、我々が少年時代に住んだ母家をとり壊し、黒川澤田分家本宅を新築した。


労働者卒業/大学再入学
 翌1984 (昭和59) 年3月(38歳)、いささか思うところあって同社を退社、長年のサラリーマン生活から「ドロップアップ」し、心機一転して半年間は文庫本で内外の小説を読みふけり、続く半年間で猛烈に勉強し、
 翌1985年 (昭和60) 4月(39歳)、満38歳で一般入試を突破して、宿願の東京都立大学人文学部に入学、哲学を専攻した。この時文字どおり飛び上がって欣喜雀躍してくれた妻信子の姿は、永遠に忘れられない!
 同年9月29日、習作論文『世界の具象性と理性の抽象能力について』執筆。
 翌1986年 (昭和61) (39歳)、競馬新聞『勝馬』の自動二輪車による依託配送業務を開始し、後に妻も共に携わり、生活の基とした。
 翌1987 (昭和62) 年4月(41歳)、永年リウマチを患って実家に戻っていた長妹しづゑがついに歩行不能となった。
 同年9月、実家からさらうようにして妹を同道して上京、妻の協力を得て自宅で介護した。
 翌1988 (昭和63) 年3月(42歳)、妹を東京都世田谷区「日産厚生会玉川病院」に入院させた。
 翌1989(平成1)年6月(43歳)、しずゑは、妻信子、両親、次妹こあき等の協力を得、実に4ヶ所・5回におよぶ人工関節装着手術を経て、めでたく退院し、元気に帰郷した。
 翌1990(平成2)年(44歳)、東京都立大学卒業論文『マルクス物神論の研究』執筆。
 同年3月、満43歳で東京都立大学を卒業した。東京都立大学哲学会会員。


本『澤田氏の歴た道 清和源氏奥州黒川澤田家譜』の執筆開始
 同1990(平成2)年(44歳)陽春、 父・黒川澤田分家初代亥兵衛 の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとして、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田家譜』初版(稿本)4部を創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈した。
 ところで、曽祖母まつゑ本人の写真は、今日澤田本家にはただ一枚しか残っておらず、それも楕円枠で焼きこまれたもので、元の写真はすでに失われていた。ところが、
 同年4月29日私と亡妻信子が大越家嫡流十三代当主茂隆氏宅を初めて訪れた際、我々は同家のアルバムのなかに、その元の(まつゑと長男笹川養太郎との)写真及び外高祖父大越文五郎夫妻と嫡男文平、養太郎、それにおそらく養太郎の義母の5人の記念写真等を発見することができ、あたかもまつゑ本人と再会したかのような感慨にうたれた。
 当主茂隆氏はじめ大越家の人々には、まつゑおよび澤田家のことは全く伝わっておらず、まつゑらの写真も、我々の訪問の前までは、大越家所蔵の他の多くの写真と同様正体不明のまま保存されていたのである。


第二節 愛妻信子の死と余生
信子の急死
 翌1991(平成3)年11月(45歳)、妻と共にワープロ入力業「サワダデザインマネジメント」を開業した。
 翌1992(平成4)年1月(46歳)、鶴巣中学校第15期関東以西在住者同期会「東京ありんこブラク」を立て上げ、主催した。

 1994(平成6)年3月13日午後4時28分(46歳)、最愛の妻信子が、東京信濃町慶応病院にて急逝した。
 同15日午前10時30分、同病院霊安室にて密葬。同日正午 東京幡ヶ谷・代々幡葬儀場にて荼毘に付した。
 同年4月10日午後1時30分、我が実家宮城県黒川郡大和町鶴巣にて本葬。同日午後2時30分、澤田家菩提寺臨済宗法宝山玉泉寺にて告別式。同日午後3時、同寺域「澤田家之墓」に葬る。法名妙純教信大姉、行年47(満45)歳。
 翌1995(平成7)年5月14日午前11時、新潟市の実家に分骨した。


『信子残照』
 信子の死後、我が人生は文字どおり「余生」となった。茫然自失、しばらくは酒漬けの毎日が続いた。

長兄・両親の死と病気療養/「InterBook絶版文庫七つ森」開業
 1996(平成8)年10月3日(50歳)、古川市星陵病院で、長兄・黒川澤田分家二代元が、脳腫瘍により行年61(満60)歳で早世し、嫡長女裕子が黒川澤田分家三代を継いだ。
 2001(平成13)年11月1日(55歳)、神奈川県川崎市川淵正臣氏(川淵企画)と共同で、廃刊・絶版(品切)専門ネット古書店
「interbook BackPage』の仮営業を開始した。
 翌2002(平成14)年4月1日(56歳)、正式に「interbook BackPage絶版センター」を共同開店した。
 2004(平成16)年5月9日(58歳、亡妻信子の死から10年後)、塩竈市花立町赤石病院で、父・黒川澤田分家初代亥兵衛が、直腸癌により行年94歳(満92歳)で大往生を遂げた。生涯、篤実な一農民であった。
 同年8月父の新盆に帰郷、以後帰省を封印した!
 この頃から、長妹しづゑ、末三妹こはるに続き、筆者もまたリウマチを発症していた。
 翌2005(平成17)年2月28日(59歳)、川淵氏との共同経営を解消して同店を閉店した。
 翌3月1日ただちに、筆者単独で「InterBook絶版センター」を仮開店した。
 同月14日、「InterBook絶版センター」内に小欄「InterBook紙背人の書斎」を開設した。
 翌2006(平成18)年(60歳)ごろから地元広尾の梅ケ枝医院で、奇しくも開発された抗リウマチ薬メトトレキサート(リウマトレックス)投与による治療を開始、不幸中の幸いにほとんど自覚症状がなく推移している。
 翌2007(平成19)年7月11日(61歳、筆者誕生日)、正式に「InterBook絶版の森」を開店した。
 同年年8月13日、亡妻信子の母方祖父大谷鍾三が、新潟県内最高齢の110歳で死去した。
 この頃から、腰椎ヘルニアに起因する間欠跛行の症状が発症した。
 2009(平成21)年4月12日(63歳、亡妻信子の死から15年後、奇しくも鶴巣小・中関東同期会「東京ありんこブラク」花見会当日)、こんどは岳父工藤国男が、胃癌により91歳で永眠した。
 同年9月24日、頚椎間板ヘルニアに起因する頚椎症性脊髄症で歩行不能となり、次兄修に助けられて東京恵比寿「厚生中央病院」に生涯初の緊急入院し、翌10月6日頚椎部を切開手術した。
 翌11月退院後、長期にわたるリハビリ・自宅療養生活に入った。


「InterBook七つ森紙背人の書斎」サイト開設
 翌2010(平成22)年2月27日(64歳)、主著『具象と抽象 知・情・意・体・物・力(エネルギー)』執筆開始、以後随時執筆、推敲、加筆。
 翌3月14日、小欄「InterBook紙背人の書斎」を、副サイト「InterBook紙背人の書斎」に格上げした。
 同月26日、副サイト「InterBook紙背人の書斎」内に、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。
 同年末、こんどは胆嚢炎で地元「広尾病院」に入院、
 翌2011(平成23)年1月(65歳)、切開手術で胆嚢を全摘出した。翌2月再入院し胆汁排出チューブ抜き取りに失敗して腹膜炎を発症し、さらに敗血症に感染して一時重篤な状態に陥った。
 翌3月11日、同病院入院中に、「3.11東日本大震災」に遭遇した!
 翌2012(平成24)年5月(66歳)、妹こあきの姑村田とみこ102歳の葬儀参列を機に、封印を解除して8年ぶりに帰省、同年内に前後4回立続けに帰郷した。
 翌2013(平成25)3月13日(66歳、亡妻の命日)、「InterBook絶版の森」を「InterBook絶版七つの森」と改称、改編した。
 翌14日、『「幻の勿来関」と古代黒川郡奥大道「小鶴沢一里塚」”鶴巣・黒川讃歌”ー勿来関は利府(宮城県)にあった!ー』執筆開始。
 同年7月1日、「InterBook絶版七つの森」から副サイト「InterBook紙背人の書斎」を独立させ、同格サイトとした。
 同年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。
 同年12月30日、前月より入院中の母が遂に危篤となり、翌大晦日急遽帰郷、次兄修と共に直ちに大和町吉岡「公立黒川病院」泊まり込みの看取り介護に入った。
 翌2014(平成26)年1月20日午前1時30分(67歳、父の死から10年後)、我が母・黒川澤田分家初代亥兵衛妻しづかは、約3週間にわたる泊まり込み看取りの後、心臓肥大による心不全により、大崎部落最高齢の行年98歳(満96歳)で大往生を遂げた。生涯、善良な一農婦であった。
 同年2月6日、「若生毅編纂/相澤力新訂/澤田諭WEB編集『下草郷土誌』下草契約講発行」をWeb発行した。
 同年7月、去る2009年の頸椎手術後歩行は可能となったものの、案に相違して間欠跛行はいっこうに改善されなかったので脊柱管狭窄症と自己診断し、かねて予約していた厚生中央病院に再度入院、自ら進んで手術を受けて、長い間悩みの種だった間欠跛行はようやくにして解消した。
 翌2015(平成29)年11月3日(70歳)、三妹文屋こはるが急逝した。行年64(満62)歳。
 2018年5月8日(71歳)、「InterBook絶版七つの森」を「InterBook絶版七つ森」に、「InterBook紙背人の書斎」を「InterBook七つ森紙背人の書斎」にそれぞれ改称するとともに、「InterBook七つ森紙背人の書斎」を主サイトとし、「InterBook絶版七つ森」を副サイトに逆転した。
 同年9月11日、故郷の鶴巣防災センターホールにて、大和町鶴巣地域振興協議会主催「歴史講座」(第1回)講演会として、『鶴巣<黒川郡の古街道(フルケド)と「幻の勿来関」小鶴沢長根街道一里塚/別所黒川袖振薬師(黒川・黒川橋)/下草黒川駅家郷(黒川坂本町宿・鶴巣館)』と題し講演した。
 2021年1月5日(74歳)、「InterBook絶版七つ森」を「InterBook絶版文庫七つ森」に改称した。


第三節 工藤家
工藤本家
 工藤家の初代は、信子の曾祖父にあたる軍平(1863~1922)である。
 郷土誌『越後赤塚』「第九号の第一頁と二頁に、『赤塚の人物(九)〔?〕』として工藤軍平が取り上げられていて、写真〔1?〕と小伝が載っています。赤塚とは、私〔信子の父國男〕の生まれた〔新潟県西蒲原郡〕赤塚村の事であり、昭和三十六[1961]年に新潟市と合併しました。工藤軍平とは、私〔國男〕の祖父〔信子の曾祖父〕の事であります。」(工藤國男「祖母─工藤軍平の妻─」『越後赤塚』第十号、赤塚郷土研究会)
 「赤塚村はかつて北陸道の宿駅であった。この街道に沿う村々と隣接村々を赤塚組と称して、石黒家が大庄屋を勤〔務〕めてきた。この石黒家の前に、その昔石黒家の家臣渡辺勘解由左衛門家(後世の家号は嘉助)があったが、いつの頃か大慈寺門前へ移り、かわって入ってきたのが工藤家である。」(「赤塚の人物? 工藤太久」『越後赤塚』第十号)
 既述のごとく、工藤家は工藤氏の元祖・藤原木工助(工藤大夫)為憲と同じく「五つ木瓜
もっこ」を家紋とし、「工藤家がいつ赤塚村へ入ってきたのかは明らかではないが、男先祖の歿年から数えて今年〔1991(平成3)年〕は三百十年になる。幕末には組頭、駅亭役人・〔工藤家の菩提寺〕大慈寺世話方等を勤〔務〕める上層農家に成長し、“太郎左衛門ドン”と呼ばれた。
 御手洗潟水論で苦労した組頭九代目太郎左衛門は、嘉永四[1851]年に歿し、松陽斎天山知徳居士と戒名がつけられた。先に妻が歿しており、工藤家における戒名の“斎号”は九代目夫妻からである。」(「工藤太久」)

十代太久
 「工藤太久〔太郎左衛門、信子の高祖父〕は十代目で、文化八[1811]年十一月十日に生まれた。富裕農家で、旅館『松屋』の亭主でもあった彼は、自らの処世術を的確に生きた一人といえよう。
 赤塚宿の通行量は多かったとはいえないが、それでも幕末から明治初年にかけては宿駅としての全盛時代であり、公用・私用にかかわらず四民の交流・文化の伝播が活発となってきた。当時赤塚にもいくらか知られた文化人がいた。(中略)飯田吉作(中略)等々は諸名士と交わり、文雅の道を以て後世に名を残したが、その陰に工藤太久がいたことは余り知られていない。
 工藤太久こそは赤塚文化の貸座敷的役割に任じ、また相互の紹介者であり、支援者であった。自らは『松屋太郎左衛門』の名に甘んじていた。肖像画に見られる通り、温厚篤実、長者の風格を備えた人物であったと口碑は伝えている。妻は安政五[1858]年に歿し、」(「工藤太久」)「子無きためか近郷の天竺堂村〔西川町天竺堂〕本田家より養子太郎を迎え、同じ赤塚村の旅籠『松坂屋』九右エ門の娘と娶せて、孫鉄太郎を得た。
 太郎左エ門は〔、〕弥彦の先、麓村〔弥彦村麓〕の武石長平三女ミキを後妻にし、五十二歳でわが子軍平を設〔もう〕けた」(「赤塚の人物? 工藤軍平」『越後赤塚』第九号、赤塚郷土研究会)「が、すでに婿養子太郎に家をゆずり渡した後ゆえ、後に軍平を日の詰へ分家させ、間もなく明治十八[1885]年八月四日世を去った。松寿斎泰岳涼雲居士。
 (中略)掛軸仕立ての画像は分家三代目工藤国夫氏の仏間に掛けられ、その姉鎌野シズさんが日々礼拝している。煙草盆と箱枕は、本家十五代定夫氏が母家改築の際に、『松屋』の遺品として、飯田〔昭二郎〕氏に寄贈されたものである。」(「工藤太久」)


工藤家初代軍平(1863~1922)
 「軍平の生年は文久三[1863]年十一月九日である。多分に父母の慈愛を受け、しかも生来情感に富み、聡明であった。
 工藤軍平は明治維新の新しい世に、少年として大きく呼吸をした一人であった。学制の発布により明治五[1872]年十一月、大慈寺禅堂で赤塚校が開校されたが、明治十三[1880]年一月、僅か十六歳にして授業生として採用され、十七[1884]年迄教鞭を執り後に巻
まき校〔新潟県西蒲原郡巻町〕へ転じた。これにより田辺熊一・大島秀一(共に代議士となった)の両氏は軍平に謝すること大であった。また戸長役場の筆生をしたこともあり、当時村政の要路にいた(中略)大越長八・〔義兄〕工藤太郎らから学ぶことが多かった。更に山際七司を知り、板垣退助の自由民権運動に共鳴していった。
 軍平は中年の頃から佐潟・御手洗潟の水産資源の振興に注目し、或るいは赤塚煙草会社を創設するなど事業意欲も持つようになったが、収益の殆どは〔近在の岩室温泉での〕遊興に消えた。だが、公職に関わることでは清廉を旨とした故に、村民から親〔慕〕われていた。彼は広通江の水利問題・神明社(船江神社)境内払下問題には大きく貢献したことは、石碑が伝えている。他にも教育・消防・衛生面など多方面に渉って力を注いだ。一方では絵画・書道・茶道・俳諧などの趣味を持ち、また人をよく遇した。
 軍平は『松屋』の嫡子ではあったが、明治十[1877]年に一軒前をもらって分家した。妻は赤塚村の戸長を勤〔務〕めた〔既述の〕飯田吉作の二女セン。赤塚村長在職中の大正十一[1922]年十二月十六日歿、寛量斎高明清節居士。村葬で葬られた。」(「工藤軍平」)
赤塚の人物?  工藤軍平
 〔前1の写真は、〕赤塚村第五代村長を勤〔務〕めた工藤軍平青年時の写真である。写真の裏書きはなく、また今のところ参考となる資料がないので、撮影者及び年月日は不明である。」(『越後赤塚』第九号) 「この軍平の若い頃の写真、明治十[1877]年代のものと思う。テーブルの上の帽子、上に着ているトンビとかいうもの、まだ私〔國男の義姉・鎌野シズ〕のところに残っている。洋服も着たらしく、戦争の頃、私が子供達に着せるものがなくて困っていたら、母〔軍平の次女タケオ。姉キヨノ(國男の生母)の死後、義兄軍治の後妻(國男の義母)になった。〕がおじいさん〔軍平〕のものだと言って、うす茶色のこまかい格子の背広を出してくれたので、ほどいて縫い直して子供達に着せてしまった。」(鎌野シズ「板垣退助・山際七司・工藤軍平」『越後赤塚』第九号)
 「板垣退助、山際七司、工藤軍平、この三人が一緒に写った写真が、〔新潟県西蒲原郡〕黒埼町木場の山際さんのお宅にあると言うことを数十年前に聞いた事があって、私〔鎌野シズ〕も見たいと永い間思い続けてきた。(中略)
 元峰岡〔三根山〕藩士だった祖母〔セン〕の兄が、明治三十[1897]年頃大野町〔黒埼町大野〕の町長をつとめていたという事実も知ることが出来た。(中略)三人の写真を〔は〕見つからなかったけれども、板垣退助一人の写真があるのだから三人のもあると信じて、又探すつもり。」(「板垣退助・山際七司・工藤軍平」)
「右〔上〕の小伝にあるように、〔信子の曾祖母〕センは戸籍上は飯田吉作の二女となっていますが、村から八キロ程の所にあった峰岡〔巻町峰岡、三根山〕藩の士族の出で、飯田氏の養女となり、軍平のもとに嫁しました。〔明治十[1877]年、〕二人は親から田畑十町歩と、新築の家屋敷を貰って分家しましたが、そのまま農業を続けておれば、大した波乱〔瀾〕もない、平穏な一生だったでしょう。それが、夫〔軍平〕の政治好き、事業好きのために、出入りする大勢の人の面倒も見なければならず、その上に、女性問題なども絡んで、祖母センのこれまでの人生は、かなり屈折したものだったと思われます。」(「祖母」)

二代軍治
 「〔工藤家の〕二代目は〔、信子の祖父・〕婿養子軍治」(「工藤軍平」)で、軍治は斉藤家から養子に入った。
 「〔大正十一[1922]年〕軍平没後、諸方面の整理を進めた結果、手持ちの資産を始末しただけでは足りずに、かなりの額の借金が残ることがわかりました。債権者と相談の上、家屋敷と、五、六反の田畑を残して、総てを売却処分し、残りは十年程度の分割返済という事に了解を取りつけました。大した金にならない家財道具は競りに掛け、売り上げ金は、再出発の資金としました。(中略)
 やがて、家族が二つに分かれる日が来ました。祖母〔セン〕、中学三年の長兄〔軍一郎〕、小学二年の〔義〕姉〔シズ、実は叔母タケオの子で従姉であるが、伯母キヨノの養女となっていた〕と私〔國男〕の四人が家に残り、父母〔軍治、キヨノ〕、叔母〔タケオ〕と次兄〔軍二郎〕の四人が東京に出稼ぎと決まりました。次兄は中学に入学したばかりでしたが、涙を飲んで退学させ、東京行きの一員としました。
 このときからはじまった祖母の第二の人生の目標は、多分、孫達を責任をもって養育すること、いや、養い育てるだけではなく、りっぱな人間に教育することと、もう一つは、残留組も、ただ、仕送りを受けるだけでなく、分相応の働きをして、出稼ぎ組の苦労を、少しでも軽減するということだったろうと思います。
 それで、今までは人を雇ってやっていた養蚕を、四人の手でこなしました。私達は毎日桑の葉を摘みにいき、祖母は何時間かおきに、蚕にその葉をやりました。夜中に三回も起きなければなりませんでした。大変、苦労のいる仕事なのですが、立派に繭が出来て、仲買人に売り渡し、代金を手にした時の喜びは、又、一入なものでした。勿論、私は年少なので、はじめのうちは、実際の仕事には参加出来ませんでしたが、皆の苦しみや喜びは、充分に感知できました。(中略)
 今、考えて見ますと、育ち盛りの子供三人をかかえた祖母の家事労働は、大変なものだったと思います。〔さすがに〕電灯だけはありましたが、〔まだ〕洗濯機も、ミシンも、ガスも、水道もない田舎で、子供達に、こざっぱりした着物を着せ、他人に見られても恥ずかしくない弁当を持たせて学校に通わせる……。母親がいても、手一杯の仕事だったと思います。中でも冬季は特に大変でした。兄は冬は自転車がきかず、六キロの道を徒歩で通学しました。そのため、〔祖母は〕四時起きをして食事と弁当をつくり、又、日がくれて帰って来れば、濡れた外套と靴を、囲炉裏で乾かすのが、毎日の日課でした。私はいつも、その濡れた靴のそばで、足を出してあたっていましたので、今でも、その情景が目に浮かんで来るのです。冬といえば、越後の冬は、雪が積もって、寒い日が続くのですが、祖母は、外で遊んで腹をすかせて帰って来る私達に、囲炉裏で、かた餅を焼いたり、あられをいったりして楽しませてくれました。
 こんな風にして、祖母は私達にとって、母であり、盆と正月に帰省する母は、母という名の、よその人にすぎませんでした。」(「祖母」)
 軍治は後に赤塚村に帰り、なお村役場の役人を務めて養父軍平の負債の弁済に努め、自らの退職金を充当してついにこれを完済した。

三代國男(1918~2009)
 軍治の長男軍一郎は京都市・綱島家の養嗣子となり、「〔工藤家三代目は〕その〔軍治の〕六男〔五男・信子の父〕国男〔國男〕氏〔(1918~2009)〕であるが、〔新潟市〕転住のため長女鎌野シズさん(当会幹事)〔國男の義姉〕が工藤家を管理している。」(「工藤軍平」)
 國男は、1918(大正7)年12月1日、新潟県西蒲原郡赤塚村に、工藤軍治=キヨノの五男に生まれた。私の岳父である。
 1922(大正11)年の祖父軍平の没後、工藤家の財産を整理した「その時、私〔國男〕は数え年で六歳でしたが、今まで身近にあった品物が、次々と競りに掛けられて、他人の手に渡っていくのを、ぼんやりと見ていました。そんな姿を不憫と思ったのでしょう、親類の人が、菓子を買ってやるからと、外につれ出してくれました。祖母〔セン〕をはじめ、家族の者の姿を見なかったのは、現場に立ち合うのがつらくて、皆、裏の離れに逃れていたからでした。(中略)
 その頃の私の仕事は、二頭の豚と、十数羽の鶏に餌をやることでした。豚は生長すれば、まとまった金になり、鶏は卵がいくらかの日がねになりましたから、多少は皆の役にたっていた訳です。」(工藤國男「祖母」)
 「〔1927(昭和2)年〕小学校四年の秋、私〔國男〕は新潟の農村から東京の郊外の学校に転校して行きました。今まで離れていた両親〔軍治=キヨノ〕と一緒になれて嬉しかったのですが、祖母を一人で残してきた事が子供ながらも心の重荷になっていました。おまけに言葉が思うように通じないために友だちも出来ませんでした。それやこれやですっかり閉じこもりがちの毎日でしたが、(中略)
 しかし、(中略)〔やがて〕クラスの中にも溶けこめ、もとの元気を取り戻すようになりました。」(工藤國男「模型飛行機」、『文章教室作品集』 '90後期、NHK学園)。
 その後、國男は旧制一高を経て九州帝国大学理学部物理学科を卒業し、第二次大戦中は海軍大尉として従軍し、航空機レーダーの開発に従事した。
 敗戦後は郷里に帰り、新潟市で産業機械製作整備業「工藤製作所」を経営した。
「昭和 22 年 (1947) 新潟市に〔(株)大谷商会〕鉄工製作部を開設
 昭和 24 年 08 月 鉄工製作部を工藤製作所と改称し分離独立」(「株式会社大谷商会ホームページ」より)
 信子の母米子は、1926(大正15)年8月16日、新潟県新潟市上大川前通十番町で、大谷鍾三=トキの次女に生まれた。私の姑である。
 國男との結婚後は、夫を助けてともに工藤製作所の経営にあたった。


四代泰三(1952~)
 國男=米子の長男泰三(1952~) は、自宅敷地内で楽器店「ジャムハウス」を経営している。泰三は、妻節子との間に、長男大助を頭に三男一女をもうけた。

庶流
糸子
(1946~)
 國男の長女糸子 は、母の跡を継いで工藤製作所に勤務した後、国男の跡を継いで経営している。
信子
(1948~1994)
 國男の次女信子は、1974(昭和49) 年11月2日、東京都渋谷区広尾5-7-3-614澤田諭・筆者と結婚した。

 
第四節 大谷家
初代鍾三/大谷商会
 米子の父で私の妻信子の外祖父大谷鍾三は、米相場で財を成し、一代で機械工具商社「大谷商会」を創業した立志伝中の人物であった。
 鍾三は長男正雄に社長職を譲った。
 「(株)大谷商会 〒950 新潟市逢谷内463 ?025-274-7111 【目的】産業用機械器具卸【設立】昭和25[1950]年 3月 【資本金】 3,000万円 (50円) 【役員】 (会) 大谷鍾三(代長)大谷正雄(副長)大谷愛子(締)アルベルト・ヴェッツラー(締)大谷昌子 【株主】7名 大谷正雄 【従業員】68名 【営業所】酒田市、上越市 【仕入先】日本ホイスト、バンドー化学、日本ロール製造、東洋バルブ、北沢バルブ 【得意先】新潟県、新潟市、新潟鉄工所、昭和シェル石油、北陸ガス、北越製紙 (決算) 1.1 収入3,036 百万円 利益 1,673万円 配当率15%」(『帝国銀行会社年鑑』帝国データバンク)
 鍾三の次兄鍾二は工藤國男の叔母コイネと結婚し、長男幹夫をもうけた。國男と米子は、幹夫をはさんで従兄弟の従兄妹であり、工藤家と大谷家は重複した姻戚関係にある。
 鍾二夫妻は早世し、遺された幹夫は叔父鍾三にひきとられて、米子等の従兄妹たちと大谷家で同居した。

県内最高齢の110歳男性死去

 〔新潟〕県内最高齢で110歳だった新潟市東区牡丹山2の大谷鍾三さんが〔2007(平成19)年8月〕13日午前7時15分、同市の新潟市民病院で死去した。遺族の要望により、死因は非公表。
 大谷さんは1897(明治30)年生まれで、同市逢谷内の機械工具卸売業大谷商会の創業者。昨年11月から県内最高齢となっていた。( 「新潟日報」2007.08.16

二代正雄
 鍾三の嫡男正雄は大谷商会の経営をひき継ぎ、その社長となった。
 「大谷正雄 〈生〉大11[1922].1.31 〈職〉大谷商会代表取締役社長、新潟機工会長〈略〉新潟青年会議所理事長、新潟ロータリークラブ会長 〈学〉日大 〈出〉新潟市〈住〉同牡丹山2-〓-〓 ?271-〓〓 〒950 」(『新潟県年鑑1991』新潟日報社)


庶流
長女君子=林昂/アラビア石油
 鍾三の長女君子は、元アラビア石油専務林昂
たかしと結婚した。
 昂は長く同社サウジアラビア駐在代表を務め、アラビア語に堪能で、同国王族とも親しく、政府外交官を凌ぐ民間外交官として著名である。
 「林  昂 アラビアン・ホスピタリティ・センター主宰 新潟県出身 新発田市在籍
  妻  君子 大12[1923]12 7生、県立新潟高女卒(中略)
 大正5[1916]年12月1日真一はなの男に生る 昭和15[1940]年エジプト国立フオアード一世大学文学部アラビア語学科卒業 同17[1942]年大阪外語助教授兼京大文学部講師となり 其後大阪外語教授に就任 同29[1954]年三菱商事に入社 同33[1958]年業務部長代理 同38[1963]年同部次長に進み 同40[1965]年アラビア石油取締役に選ばれ 同41[1966]年サウジアラビア駐在代表を委嘱 同48[1973]年常務 同52[1977]年専務 同56[1981]年6月顧問及び富士石油(代表)副社長に就任 同60[1985]年6月退任す 其後日本サウジアラビア友好協会副会長 中東協力センター理事 国際大学特別顧問を務む 尚昭53[1978]年4月経済協力貢献者として通産大臣賞 同55[1980]年4月藍綬褒章を受く 〈著〉(翻訳)ナーセル「革命の哲理(筑摩書房)」 アスアド「メッカへの道(同上)」・「若いアフリカ、その政治と経済(経団連)」 〈趣〉読書 〈宗〉イスラーム教 〈住〉 171東京都豊島区千早町二-〓〓 (電)(〇三)957 〓〓〓〓」(「人事興信録」)
 「長男 保 昭20[1945] 1 7生、日本医科大卒、医博、林胃腸科外科クリニック院長(
池袋サンシャイン60)
 同妻 憲子 昭21[1946]11 3生、大妻女子大卒
 長女いずみ(昭22[1947] 6 23生、早大大学院建築科、仏国ボザール大各卒、一級建築
士、仏国政府公認建築家)は、柴田知彦(SKM設計計画事務所主宰、一級建築士、日本建築家協会会員)に嫁す」(「人事興信録」)。

庶家
次男政衛
 鍾三の次男政衛は長岡(および東京)の大谷商会系列会社の経営にあたっていたが、のちに廃業し、1991(平成3)年6月、長命の父に先だって病死した。
 政衛の妻欣子は仙台市の出身で、宮城学院を卒業した。
政衛長女比呂子/世界初ベンゼン分子映像化
 政衛の長女比呂子は東京大学 (化学) を卒業し、1988 (昭和63) 年世界で初めてベンゼン分子の映像化に成功する業績を挙げて、日本経済新聞(7月19日)、日本工業新聞(7月19日)、電波新聞(7月19日)、朝日新聞(7月22日)、赤旗(7月25日)等の紙上に報道され、世界的な注目を浴びた。
 「日本アイ・ビー・エムによるとIBMアルマデン研究所(米カリフォルニア州)は原子レベルの解像度でベンゼン分子を映像化することに世界で初めて成功した。(中略)
 この研究のスタッフは、日本IBM大和研究所技術推進応用技術の大谷比呂子氏をリーダーにIBMアルデマン研究所の(中略)四氏。」(1988 (昭和63) 年7月19日付「電波新聞」)
 「ベンゼンは正六角形の環状炭化水素化合物で、化学成分は一八二五年に明らかにされたが、その構造は一八六五年、ドイツの化学者アウグスト・ケクレが」(同年7月22日付「朝日新聞」)、「夢の中でヘビが自分の尾をかんで“輪”になっている姿を見たことから、」(同年7月19日付「日本経済新聞」)「初めて環状構造を提唱した。その後、X線解析などで確認されたものの、分子の実像をとらえたのは今回が初めてという。」(「朝日新聞」)
 「大谷〔比呂子〕氏は一九八一〔昭和56〕年IBMに入社、同社の海外留学制度を利用し八四〔昭和59〕年から四年間の予定でカリフォルニア大学バークレー校の博士過程に留学しG・A・ソモルジャイ教授の研究室で固体表面の分子の化学結合をテーマに研究活動を行っている。」(「電波新聞」)
三男政吉/大谷産業
 鍾三の三男政吉は兄政衛と双生児の弟で、秋田で同系会社「大谷産業」の経営にあたっている。
 「大谷産業(株) 〒010 秋田市保戸野通町5-30 ?0188-23-5421 【目的】配管材料衛生陶器卸、機械工具卸 【設立】昭和39[1964]年4月 【資本金】 3,000万円 (50円) 【役員】(代長)大谷政吉(専)大谷正人(締)大谷レイ〔(礼子)〕 【株主】4名 大谷政吉 【従業員】54名 【支店】仙台市、大館市、郡山市、横手市 【仕入先】荏原製作所、日本ロール製造、橋本総業、粟井機鋼、湯浅商事 【得意先】朝日工業社、三機工業、川本工業、興盛工業所 (決算)1.2 収入2,214 百万円 利益 392万円 配当率5%」(『帝国銀行会社年鑑』帝国データバンク)




第九章 十四代力(1932~)


第一節 黒川澤田本家六代力
五代金太郎嫡男力
 澤田本家六代力は、1932(昭和7)年10月10日、五代金太郎=つねよの次男に生まれた>。
 これより先、1920 (大正9) 年5月3日、長兄一郎が誕生していたが、翌1921 (大正10) 年3月不幸にして夭折したので、金太郎37歳の嗣子となった。私の従兄である。
 1934(昭和9)年、叔父亥兵衛が、父金太郎の代代家督の約のもとに、結婚して澤田本
家に同居した。
 1936(昭和11)年、叔父亥兵衛の長男元が生まれた。
 1939(昭和14)年、7歳年少の弟勝彦が生まれた。
 1941(昭和16)年、叔父亥兵衛の次男修が生まれた。
 1946(昭和21)年、叔父亥兵衛の三男・筆者が生まれた。
 1951(昭和26)年、父金太郎が鶴巣農協組合長に就任した。
 翌1952(昭和27)年12月12日、20歳で、同期の鶴巣村下草観音堂高橋利一=あさよ三女きよしと結婚した。翌13日澤田本家の前庭で記念写真を撮影し、幼い筆者6歳等澤田一族が一堂に収まった。
 翌1953(昭和28)年10月13日、嫡男智が誕生した。力夫妻は、二男一女をもうけた。
 1955(昭和30)年2月27日午後11時20分、母つねよが57歳で亡くなった。当時力は22歳であった。
 同年12月、叔父亥兵衛が分家独立して澤田分家を興し、一家はその新居に移転した。
 翌1956(昭和31)年、奇しくも2月27日次男豊彦が生まれ、同日午後11時50分祖母ゆゑが81歳で没した。
 1958(昭和33)年12月27日、長女友子が誕生した。
 1961(昭和36)年28歳の時、父・五代金太郎が67歳で永眠し、力は澤田本家六代を相続した。
 1963(昭和38)年、弟勝彦が関根裕子と結婚して分籍自立した。


猪狩杢左衛門所有の二反三畆
 父金太郎の没後、既述のごとく、力はつぎの書翰を猪狩家当主隆明から受けとった。文面にもあるとおり、この書翰の直前に、力は弟勝彦をともない、猪狩家に「御産穀」の大豆を持参した。
 「拝啓 酷暑厳しき折柄御尊家御一同益々御祥運の事とお慶び申上げます 当〔猪狩〕家もおかげで無事消□いたして居りますから 御安心下さいます様 尚ほ先日は大豆の事で色々有難う御座いました
扨て去る昭和二十二〔・〕三年の頃と思いますが〔、〕不在地主の理由で猪狩杢左衛門所有の二反三畆と思いますが 千百円と思いますが 確かにあなた〔力〕の御父さん〔金太郎〕から送られましたが 此の度田地代償かん〔還〕云々となった由てすが それには黒>川の方の農協から証明書が必要で八月十日迄に提出せよ との事ですから 御多忙の処誠に御迷惑てすけれども 農協から証明書を取って 大至急御送り下さるやう 伏して御願申上けます
勝手乍ら速達便にて御願申上けます
先づは取り急ぎ要件のみ申あけます
   八月二日       仙台市禅寺通五八
  沢田 力様       戸主  猪狩隆明(印)」(黒川澤田本家六代力所蔵)

 1990(平成2)年陽春、従弟諭・筆者が、 叔父・黒川澤田分家初代亥兵衛 の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 2010(平成22)年3月26日、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。

 2013(平成25)年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。

第二節 庶流
トシエ (1922~2013)/須藤家
 金太郎の長女トシエは、1922(大正11)年2月21日生まれた。私の従姉である。
 トシエは大衡村大衡字大童おおわら72番地須藤喜祐に嫁ぎ、二男二女をもうけた。私の従姪
である。

ひとし (1925~)/気仙家
 金太郎の次女ひとしは、1925(大正14)年9月12日生まれた。私の従姉である。
 ひとしは富谷村富谷字町 100番地気仙滋
けせんしげしに嫁ぎ、一男三女をもうけた。私の従姪である。
 滋の父気仙栄次郎は、「若冠三十にして〔富谷〕村の役場書記として働き、二十九年の生活を戸籍とともに寝起きしてきた人である。そして自治功労者として全国、県町村長会から幾度かその功績をたたえられ、仙台地方裁判所長、全国戸籍事務協議会長、法務総裁から優秀な事務を表彰された。道路整備基本財産の確保、六・三制、学校増築、町村合併問題では夜を撤して東奔西走した人で村の元老たちの手足耳となって、村政確立のため苦労しながら〔1959年〕現在助役の職にある。(富谷村)」(内ヶ崎卓郎『黒川郡誌』)


千代子 (1929~)/文屋家
 金太郎の四女千代子は、1929(昭和4)年9月17日生まれた。私の従姉である。
 千代子は、既述のごとく、落合村相川の再従兄文屋昭郎に嫁いで一男二女をもうけ、澤田家と文屋家の血の交わりをいっそう濃いものにした。私の従姪たちである。
 千代子の夫昭郎は、祖母ゆゑの妹むめのの孫で、私にとっても再従兄である。筆者の幼いころ、昭郎は妻の従弟にあたる筆者宅をたびたび訪れ、当時まだ珍しかった愛用のカメラで幼い我々を撮影してくれた。現在それは、幼い私たち兄妹の面影を伝える貴重な写真となっている。

 文屋昭郎家は落合相川の故郷を引き払い、現在神奈川県海老名市中野に一家を>構えている。




第十章 澤田勝彦家


第一節 初代勝彦(1939~)
五代金太郎三男勝彦
 勝彦は、1939(昭和14)年4月13日、黒川澤田本家五代金太郎43歳=つねよ39歳の末子・三>男に生まれた。私の従兄である。
 1951(昭和26)年、父金太郎が鶴巣農協組合長に就任した。
 翌1952(昭和27)年、兄力が高橋きよしと結婚し、翌1953(昭和28)年、嫡男智が誕生した。
 1955(昭和30)年2月27日午後11時20分、母つねよが57歳で亡くなった。当時力は15歳であった。
 同年12月、叔父亥兵衛が分家独立して澤田分家を興し、一家はその新居に移転した。
 翌1956(昭和31)年、奇しくも2月27日兄力の次男豊彦が生まれ、同日午後11時50分祖母ゆゑが81歳で没した。
 1961(昭和36)年22歳の時、父・澤田本家六代金太郎が67歳で永眠し、次兄力が同家七代を相続した。
 1963(昭和38)年1月13日、福島県西白河郡矢吹町小山39番地関根誠=まつゑ長女裕子(1937~) と結婚して澤田本家から分籍自立した。勝彦夫妻は二女をもうけた。
 1964 (昭和39) 年4月4日、長女ひろみが誕生した。私の従姪である。
 1966 (昭和41) 年10月2日、次女純子が生まれた。おなじく、私の従姪である。

1990(平成2)年陽春、従弟諭・筆者が、 叔父・黒川澤田分家初代亥兵衛 の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田氏家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 2010(平成22)年3月26日、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。
 2013(平成25)年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。


 


第十一章 十五代智(1953~)


第一節 黒川澤田本家七代智
六代力嫡男智
 力の嫡男智さかしは、1953(昭和28)年10月13日、黒川澤田家六代力=きよしの嫡長男に生まれた。私の従姪である。
 1955(昭和30)年2月27日、祖母つねよが57歳で亡くなった。
 同年12月、大叔父亥兵衛が分家独立して黒川澤田分家を興し、一家は新居に移転した。
 翌1956(昭和31)年、奇しくも2月27日弟豊彦が生まれ、同日午後11時50分曾祖母ゆゑが81歳で没した。
 1958(昭和33)年12月27日、妹友子が誕生した。
 19□(昭和□)年□月□日、宮床大椚
くぬぎ千坂勝弥=やゑ次女淑子 (1954~) と結婚し、三男をもうけた。
 1982 (昭和57) 年12月8日、長男充博が誕生した。私の従姪孫である。
 1984 (昭和59) 年6月27日、次男孝行が生まれた。おなじく、私の従姪孫である。
 1987(昭和62)年6月22日、三男裕幸が誕生した。おなじく、私の従姪孫である。

 1990(平成2)年陽春、大叔父・黒川澤田分家初代亥兵衛三男諭・筆者が、父の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田氏家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 2010(平成22)年3月26日、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。
 2013(平成25)年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。

第二節 庶流
友子 (1958~)/大沼家(大沼製菓)
 力の長女友子は、1958(昭和33)年12月27日生まれた。私の従姪である。
 19□(昭和□)年□月□日、友子は桃生郡桃生町中津山中津山〓〓〓大沼弘輝に嫁ぎ、四女をもうけた。私の従姪孫である。
 大沼家は、株式会社大沼製菓を経営している
株式会社大沼製菓
沿  革
昭和20年     創業/初代大沼徳二郎が和菓子、飴の製造販売を主とし、「大沼菓子店」を創立
昭和32年     工場新築により現在地に移転
昭和35年     和菓子に加え菓子パンの製造を開始
昭和51年    (有限会社)法人組織化 出資金100万円
昭和55年     菓子パンの製造を中止する
昭和56年     麺工場を新設し生麺の製造販売を開始する
昭和60年     和菓子工場を現在地に新設 出資金450万円に増資する
昭和61年     御取引先様と受発注のオンライン化を計る
平成2年     事務所を現在地に移転新設し、製品検査室を設置する
平成3年     出資金1000万円に増資する
平成5年     日本冷凍食品協会より認定証交付
平成9年     管轄税務署より優良申告法人表彰を受ける
平成10年     株式会社大沼製菓に組織変更 額面株式1株5万円
         資本金1000万円 発行株数200株とする
平成14年     宮城県知事より食品衛生優良施設表彰を受ける
平成20年     ISO9001:2000,JISQ9001:2000認証取得
平成21年     ISO9001:2008,JISQ9001:2008認証取得
会社概要
名称       株式会社 大沼製菓
代表者      代表取締役 大沼 弘輝
所在地     〒986-0322 宮城県石巻市桃生町給人町字東町119番地
TEL.      0225-76-3213(代表)
FAX.      0225-76-1836
メールアドレス  info@onuma-seika.co.jp
役員       代表取締役 大沼 弘輝
         常務取締役工場長 大森 信悦
         取締役 大沼 友子
事業内容     和生菓子の製造販売(95%)
         生麺類の製造販売(5%)
従業員数     46名(パート含む)
設立       昭和51年11月1日
創業       昭和20年5月
資本金      1000万円
取引銀行     七十七銀行
主な製品名    ・桃次郎のきびだんご
         ・やっこい饅頭
         ・塩豆大福
         ・ずんだ餅
主な取引先   (株)セブン・ミールサービス      コープサンネット
        イオン(株)             (株)ヨークベニマル
       (株)セブン&アイ・ホールディングス  (株)東北西友
        さくら野東北(株)          (株)ウジエスーパー





第十二章 澤田豊彦家


第一節 初代当主豊彦(1956~)
六代力次男豊彦
 豊彦は、1956(昭和31)年2月27日、黒川澤田本家六代力=きよしの次男に生まれた。その日は奇しくも祖母つねよの一周忌であったばかりか、同日午後11時50分には曾祖母ゆゑもまた亡くなった。私の従姪である。
 1958(昭和33)年12月27日、妹友子が誕生した。
 19□(昭和□)年□月□日、豊彦は青森県八戸市赤坂□□・はま□女信子 (19□~) と結婚し
、分籍自立した。
 19□(昭和□)年□月□日、長女綾奈が誕生した。私の従姪孫である。
1990(平成2)年陽春、 大叔父・黒川澤田分家初代亥兵衛三男諭・筆者が、父の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田氏家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 2010(平成22)年3月26日、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。
 2013(平成25)年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。


(続く)










「わたし」が存在するためには父母が要る
父母が存在するためには4人の祖父母が要る
4人の祖父母が存在するためには8人の曾祖父母が要る
こうして例えば澤田本家第六代当主力には64人の直系祖親が存在した
これは自然の摂理である
これらの直系祖親の内のただ一人が欠けてさえも澤田家は存続しえなかった
さらに力の嫡孫でやがて澤田本家八代を継ぐであろう充博には
まことに 256人の直系祖親が現実に存在した

この間に黒川澤田氏は二百数十年の歴史を経過している
それ以前の仙台・楢葉・石川各澤田氏の長い歴史は今日では埋もれてしまっているが
だからといってそれは消滅してしまったわけではない
その存在は絶対的必然である
楢葉澤田氏が仙台澤田氏となった17世紀初頭まで
約 400年・13代さかのぼると
じつに 4,096人の直祖系親が数えられる
13世紀の石川澤田氏まで約 800年・27代さかのぼれば
驚くなかれ約67,108,864人の直系祖親が存在し
1代で現在の日本の人口に匹敵する規模に達する!

さらにその先をたずねれば石川氏ついには清和源氏へと至る
まことに気の遠くなるような話であるが
これは厳然たる数学的・歴史的事実である

我々の「いのち」とはこのようなものである
我々はこのような連鎖の中に生を受けている存在なのである
これまでも
いまも
これからも
……………
……………
……………





奥州黒川澤田家譜第二巻 清和源氏奥州黒川澤田家譜
1991陽春 稿本『澤田氏の歴た道 澤田家譜』初版発行
2010.3.26 改題『澤田氏の歴た道 清和源氏奥州黒川澤田家譜』Web版初版発行
2013.12.26 Web版改訂初版発行
2020.3.19分巻改題『奥州黒川澤田家譜第二巻 清和源氏奥州黒川澤田家譜』発行
編著者 澤田 諭
発行者 澤田 諭
発行所 InterBook紙背人の書斎
所在地 150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614
e-mail sirworder@world.odn.ne.jp
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黒川澤田分家初代亥兵衛 (1911-2004) の手になる覚書および談話を基に
1991年陽春、 亥兵衛三男諭 (1946-) これをつくり
子々孫々に伝う





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140213新規開設、200319分巻改題改訂、210225改訂、210307改訂
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