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InterBook七つ森紙背人の書斎
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姓氏家系総索引


大和町鶴巣地域振興協議会「歴史講座」講演

大和町鶴巣地域振興協議会主催
2018.9.11TUE,18:30 鶴巣防災センターホール
鶴巣<黒川郡の古街道(フルケド)と「幻の勿来関」
小鶴沢長根街道一里塚/別所黒川袖振薬師(黒川・黒川橋)/下草黒川駅家郷(黒川坂本町宿・鶴巣館)
〔レジュメ 増補版〕
(Website「InterBook紙背人の書斎」 『奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌─「幻の勿来関」と黒川郡の古街道』より抜粋)
http://www2.odn.ne.jp/cij80530/index.htm#shosaihttp://www2.odn.ne.jp/cij80530/nakoso.htm




澤田 諭



郷土の先覚若生毅・伯父澤田金太郎(1895-1961)・大先達鹿又勘太郎(1921-)翁にささぐ

別所の沢中央を流れる小川を黒川と称し、黒川に架せるを黒川橋と称えたり
(若生毅編纂『下草郷土誌』下草契約講発行,1951)』)
♪向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ サテ♪
(原千秋作詞/佐々木章作曲「鶴巣音頭」鶴巣青年団制定,1953)



鶴巣<黒川郡の古街道(フルケド)と「幻の勿来関」

◯宮城郡
 宮城郡は言うまでもなく国府多賀城を擁する陸奥の首郡であり、”遠の朝廷” (とおのみかど)「多賀城(陸奥国府)と東山道本路は、栖屋〔すみや〕(利府町菅谷が比定地)に到達する手前の七北田川近くの『洞ノ口〔どうのくち〕』で接続されていたと考えられます。その支路(東西大路)とみられる道路は(中略)南北大路と交差していました。」(菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版,2014)
 七北田川は「古代・中世には岩切を過ぎたあたりで東に折れ、現在の砂押川を合わせて現在より約4キロメートル北の七ヶ浜町湊浜付近で海に注いでいた。江戸時代初期(寛文年間[1661-1673])に流路変更が行なわれ、ほぼ現在の位置に河口が移った。 」(wikipedia「七北田川」
 東西大路と連結した東山道(奥大道)は北上して利府に入り、森郷一里塚を経て、やがて本論稿の白眉・勿来関にかかる。
◯黒川郡東山道(奥大道)
前期東山道(東路)
 勿来関を過ぎた東山道は、板谷峠を越えて黒川郡に入り、板谷街道(東成田街道、鶉崎街道、中村街道)東成田、鶉崎、中村・白川郷へと、最も開発の早かった東路を北上し、やがて西に折れて土橋、大平(大平街道)を経て、清水谷(すずのや)/石ノ沢から鳥屋幕柳に出た(前期東山道)ものと思われるが、
中期東山道(中路)
 古代中期に長根街道と共に中路柳沢街道が開削されて、板谷街道と結ばれ(中期東山道)、
後期東山道(西路)
 古代も下って後期になると、「黒川郡の往古の官道〔後期東山道〕は、〔多賀城を発し、〕利府の地より〔勿来の関を越え、西寄りに移って(西路)〕嶺路〔長根街道〕経て小鶴沢、〔山田をかすめて〕太田〔郷右近館〕」(『仙台郷土研究5-4』仙台郷土研究会)、次いで前期東山道と同じく「幕柳〔、〕鳥屋〔に出た。
古代東山道(奥大道)
 以降は古代(・中世)の全期間を通じて、鳥屋〕の宇頭坂〔うとうざか〕を過ぎ〔、天険の難所天神山を避け直進して宇頭山越えて〕別所に入り〔、黒川橋を渡って黒川を越え”お薬師様”黒川袖振薬師に参り、日光山の峠を越えて北目の西端にかかり〕、下草の東南に位置せる俗称樅の木山〔観音堂〕の南を経て黒川坂にかかる。(中略)そこを昔の道路は〔黒川駅家郷(鶴巣館下町)〕下草の部落に入りて北に向かひ、舞野に入り〔舞野観音堂を拝し〕、吉岡〔今村〕の東端現在天理教布教所の東側を過ぎ〔た。〕(中略)そこで当時は下草を〔黒川坂〕本町の宿〔もとまちのしゅく〕と称えたらしい。」(『下草郷土誌』)
 東山道(奥大道)「駅路が吉田川を越えたのは、舞野あたりから吉田・麓あたりまでの間においてであった。それは(中略)ほぼ現在の羽後街道に一致し、」(高橋富雄監修『大和町史』宮城県大和町,1975年)「今村〔吉岡)より大瓜字四反田一里塚」(黒川郡教育会編纂『(復刻)黒川郡誌』名著出版,1972)を経て、王城寺原の丘陵を抜けて、(中略)色麻柵〔しかまのき)に出た。駅路はここで、北にまっすぐに進んで玉造柵に出るものと、西に折れて賀美〔加美〕郡衙を経て、出羽国最上郡玉野駅に向かうものとの二つに分かれたのである。」(『大和町史』)
 以降「熟蝦夷(にぎえびす)」の「黒川以北十郡」を貫通し、「麁蝦夷(あらえびす)」の巣窟「奥六郡」に達して、遂には最果ての「都加留(つがる)」の辺土へと到達する。
◯中世奥州街道
中世前期奥州街道
 次いで、中世奥州街道は、はじめ国分氏松森城(鶴ヶ城)下「宮城郡松森より発して富谷村大亀を経て本〔鶴巣〕村山田太田」(『下草郷土誌』)に出ていた(中世前期奥州街道)が、
中世後期奥州街道
 のちには再び留守氏の利府城下「宮城郡利府の地より沢乙を経て山田、太田、幕柳、鳥屋、北目大崎〔(別所)、下草〕等の各村を過ぎり舞野村に出で(中世後期奥州街道)今村〔吉岡、以降は次の近世奥州街道と同一ルートを辿り〕大衡〔奥田〕を経志田郡伊賀〔、三本木〕に出でしものならん」(『黒川郡誌』)。
◯近世奥州街道(奥州道中、奥道中)
 近世奥州街道(奥州道中、奥道中)は、1601(慶長6)年伊達氏の仙台開府による「国分町」「七北田」宿開基及び富谷新町の内ヶ崎氏関ノ川の若生氏・熊谷の渡辺氏と共に「黒川三家老」と並び称された)による1623(元和九)年「富谷宿」開鑿〔かいさく〕後、大きく西に転じてほぼ今日の国道4号ルートに移動し、同じく吉岡(下草)伊達宗清が「元和〔元(1615年)〕の昔沢埋め 山平げて築きたる」(土井晩翠作詞・吉岡小学校校歌吉岡宿を経た後は、(おそらくは中世奥州街道も)今日の国道4号筋から大きく東に逸れて「大衡村〔奥田〕昌源寺に至り、〔現今の第二仙台北部中核工業団地を縦断して〕北に向かった様子が判然としている。」(『下草郷土誌』)永らく大松沢丘陵山中に埋もれていたが、2008年工業団地造成で発掘調査後破壊された「奥田一里塚」から、「戸口一里塚」駒場を経て、ほぼ今日の東北自動車道沿いに伊賀三本木を経て古川へと至る。(高倉淳 HP「大衡村の奥州街道」
 ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡♪(「奥道中歌」)
 「明治一七[1984]年吉岡から昌源寺坂へ越えていた奥州街道が、西方へ迂回する現国道四号に付替えとなる。」(『日本歴史地名大系』)
 かくては、古代黒川郡東山道(奥大道)の沿道に織り込まれた「点と線」の絵巻物からは、「田村麿・八幡太郎・鎌倉殿伝説」の類いの故事、古跡、伝承のはるかな幻影がまざまざとあぶり出され、鶴巣小鶴沢長根街道一里塚の史実と下に述べる利府勿来関の信憑性を傍証している。
 明治の新造語である「白河以北(河北/かほく)」ならぬ、文字どおりその向こうを張る「黒川以北」という古代史の定形表現も、もちろんこちらの方がはるかに古く且つ普遍的なのである。
 事ほど左様に、我が郷土鶴巣(つるのす)<黒川郡は遠く太古から開け、歴史と伝説とロマンに彩られた、由緒ある土地柄なのである。

◯勿来関
 「白河関(1966年国指定史跡)」(福島県白河市旗宿)、「鼠(念珠)ヶ関(ねずがせき、1968年鶴岡市指定史跡)」(山形県鶴岡市鼠ヶ関)と共に奥羽三関の一に数えられる、名高い「勿来関」の所在地は未だ学問的に同定されていない。いわき市関田の”勿来関跡”は単なる「記念碑所在地」/観光地『勿来の関』であり、指定「史跡」ではない。たしかに関はあったろうがそれは「菊多関(きくたのせき)」であり、少なくとも「勿来関跡」でないことは確定されている。
 代わって現在その最も有力な候補地に比定されているのが、はしなくも我々になじみ深い南の隣郷「利府」なのである!
 「陸奥国府・多賀城や松島丘陵の軍事的な意味合い、19世紀ごろの江戸時代の絵図『陸奥名所図会』などを根拠に、奥大道名古曽川(なこそがわ。現在は『勿来川』と書く。砂押川水系)が交わる宮城県宮城郡利府町森郷〔もりごう〕字名古曽に比定する説もある。
 周囲は[1999]惣の関ダムが建設されたため地形が大きく変わり、現在は『なこその関』の説明看板と江戸時代に建立された『勿来神社』の碑、および、利府街道沿いに『勿来の関跡』の誘導看板が設置されているのみである。」(Wikipedia「勿来関」
 遠くは征夷大将軍坂上田村麿八幡太郎義家、さらには「鎌倉殿」頼朝らが、「遠の朝廷(とおのみかど)」多賀城を進発して「東山道(奥大道)」を進軍し、利府森郷一里塚を経て「勿来関」で「勿来桜」を愛で、
  ♪ふくかぜを なこそのせきとおもへども みちもせにちる山ざくらかな 源 義家♪
の名歌をも遺して「勿来川」を渡り、「名古曽山」を越えて宮城郡から黒川郡に入り、
 小鶴沢長根街道一里塚、小鶴沢集落を抜けて北上し、山田、
 太田の郷右近館"八幡太郎蹄石"を遺し、
 幕柳は「伝へ云ふ此地源頼朝〔藤原〕泰衡征伐に際し柳二〔に〕幕を張りたりし〔幕営/柳営〕により村名〔幕柳〕の起因となれりと」(『黒川郡誌』)、 鳥屋(鳥屋八幡古墳)、
 別所の[885]智証大師円珍北目山別所寺黒川薬師”お薬師様”を「永承年間(1046-1052)源義家東征に際し尊崇して袖振薬師と稱せり」(『黒川郡誌』)、北目、
 下草駅家郷(鶴巣館下町/黒川坂本町宿)に至る。
 下草から吉田川を越えた舞野の舞野観音堂「観世音菩薩は[808]滋覚大師〔円仁〕の御作にて坂上田村丸〔麿〕の御建立の霊場なり」(『黒川郡誌』)、吉岡(上の原/今村)、
 大衡駒場の須岐神社は「往古此地源頼朝藤原泰衡追討に際し駒を駐めて軍を稿ふ故に号して駒場と呼ぶ」(『黒川郡誌』)、
 王城寺原丘陵を北上し、黒川郡を出でて加美郡に入り「『清水寺』(きよみずでら)(中略)は征夷大将軍『坂上田村麻呂』に関係があります。(中略)かっぱの神社である「おかっぱ様」伊達神社もやはり「坂上田村麻呂」と深い関係がある神社で」(色麻町HP「色麻での坂上田村麻呂の足跡」)、色麻柵玉造柵等々の伝説の地を通って、勇躍「蝦夷征討」の長途についたのである。


鶴巣村・鶴巣小学校の成立ち

◯仙台藩/仙台県
 下って「明治元[1868]年十二月藩主伊達慶邦版籍奉還を許され仙台藩を置かる 次で四[1871]年七月に至り廃藩置県となり仙台県と改む 此間本郡も亦常に其治下に属せり 然れども郡行政に至りては其組織尚其制を改めず因襲以て其旧に従ふ 大肝入肝入組頭等又従来の名稱を襲用したりしが
 三[1870]年に至り肝入を里長と改め後村長と稱し各一人を置く 組頭は之を百姓代と改む 又五人組の制を用ひ伍長を置くこと元の如し 又大肝入を改めて郡長となす浅野寿家治之に任ず従来の大肝入なり
◯仙台県第四大区

 明治五[1872]年郡村の区画制定せられ本郡は第四大区に属す 更に之を分ちて十二小区となす 是に於て各村或は連合し或は独立したるものあり
 村長を改めて二等戸長を置くこと各一名 百姓代之を改めて村扱と稱す 又郡長を改めて一等戸長となす 副として二等戸長二名を置く
 左に其一班を挙ぐべし 其区務所を吉岡駅旧本陣千葉庄左衛門宅に置く
 第四大区 黒川郡一円
  一等戸長 浅野寿家治
   副戸長 二等戸長 畑谷直蔵  二等戸長千坂利四郎
  第一小区 富谷 今泉 大童 三ノ関 下草
   
五ヶ村 二等戸長 細川平三郎   副戸長 加藤保蔵 渡辺勘三郎
  第二小区 穀田 成田 明石 石積 大亀 山田 太田 幕柳 小鶴沢(中略)
  第五小区 桧和田 北目大崎 鳥屋 大平〔現今の「鶴巣」を構成する8村は、当初第一・二・五の三小区に分かれていた。〕
   四ヶ村 二等戸長 千坂藤右衛門  副戸長 佐々木久四郎 高橋運治(中略)
◯仙台県第三大区(黒川加美合郡)
 然るに明治七[1874]年四月に至り更に大小区画の合併行はれ 黒川加美両郡を合して第三大区となし 更に之を分ちて十四小区となす其黒川郡に属するもの七小区なり(中略)而して当時の大区詰所を吉岡駅旧本陣に置くこと元の如し
 第三大区 黒川加美二郡合併
  区長 横山盛季  福 千坂利四郎
  小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童
     合十三ヶ村 戸長 細川平三郎  副 佐々木文四郎
  小二区 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 志戸田 下草
     合七ヶ村  戸長 高橋運治   副 浅野角右衛門
  小三区 北目大崎 大平 桧和田 相川 松坂 報恩寺 三ヶ内
     合七ヶ村  戸長 千坂雄五郎  副 不祥(中略)
◯宮城県第二大区
 当時戸長役場は戸長宅を以て之に充当し別に詰所を設けざりしなり
 而して明治八[1875]年十一月仙台県を改めて宮城県となし 明治九(1876)年十一月に至り県の分合に伴ひ更に大小区画の変更を生じたるに際し宮城県を五大区に分てり 而して本郡は仙台及び宮城名取黒川の三郡に共に第二大区に属し公務所を宮城県庁構内に置く(中略)
 本郡は之を十五十六十七の三小区に分ち十五区十七区の区務所は吉岡駅に設く(中略)
 副を改めて戸長代理と稱す 其下に筆生一名を置く
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる(中略)〔この第二大区・三小区制で、現今の「鶴巣」を構成する8村が初めて同一区に顔を並べた〕(中略)
 戸長の外各村には村扱更に其下に村扱補なるものを新設し以て事務の取扱を敏ならしむることに努められたるなり
◯北目大崎大平土橋鶉崎村/一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草村/幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村(黒川加美郡役所)
 次ぎて仝十一[1878]年三月に至り再び黒川加美郡を合し黒川加美郡役所を吉岡駅元の区務所跡に置き
 従来の区長を改めて郡長と云ふ 大立目克譛郡長心得として就任す之を本郡初代の郡長となす
 十一月行政の便宜に依り其各部落或は合併し或は分離し其変革一ならず 従来の村名を存用し以て何村戸長と稱するに至る
 即ち左の如し〔全15村〕(中略)
  北目大崎大平土橋鶉崎村      戸長 高橋運治(中略)
  一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草村  戸長 早坂忠四郎
  幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村  戸長 今野栄八 〔ここで、「鶴巣」8村は再び三分裂した。(中略)
◯北目大崎大平土橋鶉崎桧和田〔村〕/鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕/東成田今泉幕柳大童村/富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸下草〔村〕
 明治十四[1881]年四月更に区域の変更ありたれども一小部分の併合に止まりしなり左に其一班を挙ぐべし〔全13村〕
  北目大崎大平土橋鶉崎桧和田〔村〕         戸長 高橋運治─千坂雄五郎(中略)
  鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕  戸長 佐々木久四郎
  東成田今泉幕柳大童村               戸長 白石利章─遠藤源之助
  富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸下草〔村〕     戸長 佐々木久四郎(中略)
 当時の村長は之を公選となす而して其詰所を稱して戸長役場と云ふ 従来の戸長自宅における執務は一切之を廃止せらるる
◯今泉外十二ヶ村/富谷外六ヶ村
 仝十七[1884]年に至り官選戸長となり其行政区画も亦一変せり 左に之を揚ぐ〔全9村〕(中略)
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(中略)〔現今の「鶴巣」を構成する8村の内、下草を除く7村が同一区に入った〕(中略)
  富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草を合して富谷外六ヶ村戸長 橋本顕徳(中略)
◯鶴巣村の成立(一町九ヶ村)
 「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[明治二十二1889]年四月一日を以て之が実施をなし(中略)
  鶴巣村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎
   村長 千坂雄五郎 石川寿得治 平渡高良 鶴田直次 千坂雄五郎 平渡高良 石川寿得治 小沢秀永 〔郷古善四郎 高橋久左衛門 鶴田癸巳 高橋多利治 佐藤彦太郎〕」(『黒川郡誌』) 
 「蓋し観蹟聞老誌に載する鶴巣城より取れるなり」(『黒川郡誌』)。
 なお、新生「一町九ヶ村」のほとんどが旧中心町村名を冠する中、「鶴巣」と「落合」の2村のみは、まったく新しく村名を興して発足した。
 叙上の、維新以来20余年間の、先進的ではあるがまさに複雑怪奇としか言い様のない紆余曲折(薩長藩閥政策の然らしむるところ)を経て、ここにようやく「鶴巣村」が誕生し、今日につながる我が「鶴巣」のくくり、領域、概念が定まったのである。
 地政学上これを要するに、一貫して連合していた吉田川本流域歴史文化圏「駅家〔うまや〕郷」西川域の北目大崎、大平両村を中核として、これに西川・小西川流域歴史文化圏「南迫」の鳥屋及び幕柳、太田、山田、小鶴沢(南四区)を接ぎ合わせ、締めにいかにも唐突に、歴史・文化的に西川圏の中核(富谷)に近縁で、竹林・宮床川流域歴史文化圏「新田〔にうた〕郷」の入口(一二三ノ関・志戸田)を扼する、本流圏竹林・宮床川域の下草を接ぎ併せて、三川歴史文化圏の狭間に政治的に産み落とされた、きわめて人工的なモザイク状の構図と解せよう。
 なにはともあれ、一二三ノ関・志戸田・富谷域の歴史的中心、鶴巣館・下草の破調の会盟あってこその「鶴巣村」の誕生であり、少なくとも仮に下草の合同なかりせば、この地に旧「鶴巣村(ツルノス村)」の誇らしき呼称が生まれることはなかったのである。
 「明治二十三[1890]年五月郡制の発布あり 仝廿七[1894]年四月を以て黒川郡は加美郡と分離し吉岡町に黒川郡役所を置き本郡を統括せり 時の黒川加美郡長大立目謙吾は加美郡長となり 但木良次出でゝ黒川郡長となる」(『黒川郡誌』)。

◯鶴巣小学校(山田分教場)の成立ち
第一中学区四十五番北目大崎小学校(一本木小学校・小鶴沢小学校)/富谷小学校/西成田小学校
「明治六(1873)年(中略) 富谷〔富谷・今泉・大童・三ノ関・下草
 西成田〔穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢
 北目大崎北目大崎小学校、桧和田・北目大崎・鳥屋・大平
 中村 山崎 粕川 大松沢 大衡 相川 今村 吉田の各村に各一小学校を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院〔大崎山智光院〕を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)、
 「五月創立 〔第一中学区〕四十五番北目大崎小学校と稱す」(『黒川郡誌』)。
 「校長更迭左の如し 日野丹吾 八谷影貞 横田貢 安久津成清 横田貢 志賀時熙 佐藤文之進 小野寺元貞 黒川勝三郎 阿部金一郎 佐藤文之進 八巻文彌 上野常三郎 〔堀籠與四郎〕 郷家勝三郎 玉城直彦 片平賢三郎 遠藤信太郎 田村庄吉」(『黒川郡誌』) 「田副軍治 武澤喬 青砥庄七 菅井燿七 米澤泰規 長田省耕 針生健治 蜂谷善助 佐々木仁圭 濱尾勲」(大和町立鶴巣小学校創立百二十周年記念事業実行委員会「創立百二十周年記念誌『飛鶴』」1993)
 仝八[1875]年八月新築
 仝十一(1878)年大平村に一本木小学校〔大平〕(中略) 小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕(中略)を設け
 仝十二(1879)年三の関小学校〔一ノ関・二ノ関・三ノ関・志戸田・下草〕を置く
 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け
 仝十四(1881)年一本木小学校を北目大崎小学校の支校〔一本木支校〕となす
 仝十九(1886)年北目大崎小学校に属する一本木支校廃せられ 今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす
 仝二十(1887)年三ノ関小学校を廃して富谷小学校の分校〔三ノ関分教場〕となす
 仝二十二[1889]年三ノ関分教場を廃す
鶴巣小学校(山田分校)
 此年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ 今泉は富谷村に属せしを以て鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕 を設けたりしが
 廿五[1892]年に至り仝仮校舎たる慈雲寺焼失の為山田区に〔普門院を仮校舎にし〕移転したに依り山田分教場と稱す 同時に今泉分教場廃止となる
 仝廿五[1892]年四月小学校令実施 吉岡小学校は尋常高等を併置し其他は尋常小学校〔鶴巣尋常小学校〕となる
〔これより先下草分教場並びに大平分教場を設けていたが、〕
 仝二十九[1896]年九月二十四日下草大平両分教場廃止 並に高等科併置認可〔鶴巣尋常高等小学校
 大正十(1921)年校舎一棟増築(『黒川郡誌』)。母の話では、近隣の児童からは、俗に”障子学校”と囃し立てられていた由である。
「昭和16[1941]年 ●国民学校と改称〔鶴巣国民学校〕
 昭和22[1947]年 ●〔鶴巣村立〕鶴巣小学校と改称
 昭和30[1955]年 ●町村合併により大和町立鶴巣小学校と改称
 昭和53[1978]年 ●新校舎落成 ●山田分校閉校」(大和町立鶴巣小学校創立百二十周年記念事業実行委員会「創立百二十周年記念誌『飛鶴』」1993)


◯参考文献
磯田道史『無私の日本人』文芸春秋,2012
大塚徳郎・竹内利美監修『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』平凡社
小野勝美『原阿佐緒の生涯』古川書房,1975
鹿又勘太郎『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』2006
鹿又勘太郎『ふるさと綺談』2012
菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会,1933
黒川郡教育会編纂『(復刻)黒川郡誌』名著出版,(1924,)1972
黒崎茗斗(幹男)『緑の故里七つ森を語る』七つ森観光協会,1973
佐々久『仙台藩家臣録』歴史図書社
佐々久監修/利府町誌編纂委員会編纂『利府町誌』利府町,1986
紫桃正隆『仙台領内古城・館 第三巻』宝文堂
紫桃正隆『政宗に睨まれた二人の老将』宝文堂,1980
菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版,2014
大和町立鶴巣小学校創立百二十周年記念事業実行委員会「創立百二十周年記念誌『飛鶴』」1993
高橋富雄監修『大和町史』宮城県大和町,1975
鶴巣中学校・鶴巣中学校同窓会編集発行「創立50周年記念誌『つるす』」1997
鶴巣中学校編集発行「閉校記念誌『鶴中』」2007
富谷町誌編さん委員会『新訂富谷町誌』富谷町
藤原相之助『復刻 仙台戊辰史』柏書房,(1910,)1968
藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩』柏書房
まほろばまちづくり協議会企画編集発行『大和町まほろば百選 〜未来への伝言〜 第1刊《史跡・名跡編》』2002,2005
まほろばまちづくり協議会企画編集発行『大和町まほろば百選 〜未来への伝言〜 第二刊《人物編》』2004
まほろばまちづくり協議会企画編集発行『大和町まほろば百選 〜未来への伝言〜 第三刊《七ツ森編》』2007
宮城縣『宮城縣史』宮城縣史刊行会,1961
吉田東伍『大日本地名辞書』富山房
若生毅編纂『下草郷土誌』下草契約講発行,1951
若生毅編纂/相澤力新訂『下草郷土誌(新訂版)』下草契約講発行,2013
「大越家系勤功巻」大越茂隆氏所蔵
『角川日本地名大辞典 4宮城県』角川書店
『全国遺跡地図宮城県』文化庁文化財保護部,1978
『仙台郷土研究5-4』仙台郷土研究会
「仙臺郷土研究復刊第16巻第1号(通巻242号) 〔特集〕仙台藩歴史用語辞典」仙台郷土研究会
『伊達世臣家譜』宝文堂


◯澤田 諭略歴
1946(昭和21)年 北目大崎(別所)澤田本家(伯父金太郎)に生まれる。
1955(昭和30)年 父亥兵衛が分家し、一家もろともに北目大崎(別所)澤田分家に移る。
1959(昭和34)年 大和町立鶴巣小学校卒業
1962(昭和37)年 大和町立鶴巣中学校卒業(15期)
1965(昭和40)年 東北工業大学電子工業高等学校(電子工学科)卒業
1967(昭和42)年 市立北九州大学(外国語学部米英学科)中退(除籍)
1990(平成02)年 東京都立大学(人文学部人文学科哲学専攻)卒業
◯ウェブ出版
『'60年代「奥の中学生日記」』(1961)、『清風荘』(1963)、『世界の具象性と理性の抽象能力について』(1985)、『北の錦旗』(1990)、『澤田氏の歴た道 奥州黒川澤田家譜』(1991稿本初版/2010〜Web版執筆中)、『具象と抽象 知・情・意・体・物・力(エネルギー)』(2010〜Web版執筆中)、『奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌 「幻の勿来関」と黒川郡の古街道(フルケド)』(2013〜Web執筆中)、『東北二十五勝 ”七ツ森”詩歌・歌謡集』その他
◯連絡先
InterBook紙背人の書斎 〒150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614 mobilephone:080-5465-1048(澤田 諭)
e-mail:sirworder@world.odn.ne.jp  website:http://www2.odn.ne.jp/cij80530/index.htm#shosai
★パソコン、スマートフォンから、上記ウェブ出版物他、すべてご覧いただけます。お気軽に、アクセスください。


◯講演会参会者芳名録

◯講演会広報(回覧)チラシ


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