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InterBook紙背人の書斎
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姓氏家系総索引



第六部 脇街道と沿道郷村




支倉常長の歌
 ♪一 鵬翼図南の計画の 君命を受けて常長は 燃ゆる望みを胸に秘め 月の浦より船出しぬ
  二 八重の潮路に帆を揚げて 漕ぎ行く先は雲と水 艱難辛苦を忍びつつ はるける国に着きにけり
  三 ローマの法王に遣いして 我が日の本の御光を 西の果てまで示したる その勇おしのかんばしさ♪
(浅野末治作詞/作曲)



第一章 升沢/嘉太神道道〜沢渡道〜吉田道


第一節 ◯升沢/種沢
割山断崖/割れ山滝
 北泉ヶ岳から東になだらかに流れる長い山稜の終点大倉山から、さらに伸びた先に割山断崖がそそり立つ、その「升沢なる割れ山〔割山〕にあり 多量の清水湧出し滝をなす 高さ六十尺 真に壮観なり」(『黒川郡誌』)。
三光ノ宮
 三光ノ宮(サンコノミヤ)は「吉田村吉田なる升沢より大船形山への通路に在り奇岩青松真に仙境に属す眺望亦甚た佳なり」(『黒川郡誌』)。
岩魚
 岩魚(いわな)は「吉田村升沢の地を流るゝ荒川に棲む一種の魚類にして形鱒の小なるに似たり里人鱒の子と稱せり骨甚だ軟かにして味頗る美なり大正六[1917]年同地に砂防工事ありしより多数の工夫之を漁せしを以て現今著しく減少せり」(『黒川郡誌』)。
伊達いわな 宮城県水産技術総合センター内水面水産試験場(大和町)が開発したブランド魚伊達いわなのPRを強化しようと、町内に養殖施設もある大和町が今月から、数字の語呂合わせで毎月1~7日を「伊達いわなの日」と設定したキャンペーンを展開している。予約なしで食べられる環境を整え、知名度向上を図っている。
 伊達いわなは2~3年で通常の倍ほどの体長50センチ、重さ1キロに育つ。試験場がバイオ技術を駆使して開発。県内の養魚場と連携し量産体制を整え、市場に2014年、初出荷された。
 キャンペーンは来年2月まで、町内の和食店「八幡はなぶさ」に、町が食材費を支援する形で実施する。刺し身を平日10食、土・日曜20食限定で、780円(税別)で出す。
 同店の高平恒司さん(33)は「川魚特有の癖がなく、程よく脂が乗り上品な味わい。イワナは焼き魚のイメージが強いが、ぜひ刺し身を楽しんでほしい」と勧める。
 伊達いわなはこれまでも町内の複数の飲食店が提供していた。数量の関係などから予約が必要で、食べられる機会が限られていた。
 町は今回のキャンペーンに併せ、伊達いわなを生んだ試験場が町内にあることから「発祥の地」を前面に出したアピールを始めた。「伊達いわな発祥の地 大和町」と記したのぼりやステッカーなどを新たに作り、売り込んでいる。」(2018.11.20付「河北新報」

升沢稲
 「升沢稲と稱する一種耐寒性の〓〔?に更〕稲なり紫黒色の芒及び殻を有す俗にみなくちし〔い〕ねと云へり」(『黒川郡誌』)。
船形山神社
 船形山神社は「吉田村吉田字升沢にあり
 祭神 保食神
 由緒 奥羽観蹟聞老誌に反正帝[406-411]の時之を建つとあり明治卅二[1899]年十月二日山の一字を加へらる以前は船形神社と稱したり
 祭典 明治卅三[1900]年より五月二十五日を以て例祭となす以前は四月九月の八日を以て祭礼を行ひたりしも爾後随時之を行ふ祭典に於て特筆すべきは左の一事なり曰く吉田村吉田字寺野に堀籠清四郎と云ふ人あり累代官社に奉仕す維新以前は升沢権現と稱したり祭典に先だち斎戒船形山下の胡魔堂に至るや参拝のもの千人以上境内立錐の余地なし警衛弓銃旗戟各数人螺声に伴ひ銃声殷々社人を護して社後に至る此より疾風飛ぶが如く其何処に至るを知らず警衛の者と雖も之より従ふを得ず暫くにして神体を奉じて復る銃螺又殷々拝者哄〔こえ〕を作りて之に応ず乃ち之を神殿に安じて拝せしむ世に之を御開帳と稱す諸人賽礼了りて後社人故地に奉還すること元の如し而して女人禁制山に入るを許さず」(『黒川郡誌』)。

梵天ばやい  船形山神社の「『御神体』として高さ15cmの金銅菩薩立像があり、普段は船形山中の秘密の場所に埋めてあるが、5月1日の例祭の時にのみ掘り出され開帳される。この立像は、北魏[386-534]時代の様式を残しており、北魏の影響を受けた朝鮮三国時代(6世紀中頃)の製作と推定されており、日本への仏教公伝前後に渡来人によってもたらされたものと思われるが、どのような経緯、ルートで当神社に安置されるに到ったのかは全くの不明である。(中略)
  大梵天祭(5月1日)─例祭日に船形山中の洞窟(場所は秘匿)から金銅菩薩立像を運び出して薬師堂に遷座、祝詞奏上の後に開帳される。開帳時の本尊の湿り具合でその年の天候が分かると言われており、開帳されると社殿に奉納されていた梵天が参拝者の中に投げ入れられ、これを激しく奪い合う光景が見られる。この神事は船形山神社の梵天ばやい〔奪い合い?〕』として県無形民俗文化財に指定されている。(中略)
 本像はもともと三尊像の脇侍として造られた可能性が高い。(中略)日本の上代金銅仏にはみられないものであり、本像が三国時代の朝鮮半島からの渡来像であることを示唆する。」(Whikipedia「船形山神社」

種沢山崇源院
 「寺跡吉田村吉田升沢に在り
  曹洞宗 明峰派
 本寺 吉岡天龍山中興寺
 由緒 本寺七世異巌文秀和尚慶長十七[1612]年の開山にして爾後五世相伝其後鑑寺持となり遂に転退廃寺となる」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音九番
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌九番 吉田升澤 さかなきにそれとしんによのなみたゝはつひにまよひのみかさ升澤♪

米軍実弾射撃訓練と集団移転
 「現在、大和町吉田升沢地区には、集落としての姿はありません。しかしかつてここには、船形山への登山 口となる最奥の地区がありました。 升沢地区は、船形連峰の広大な自然に抱かれ、山間 集落のくらしの伝承をとどめていました。また、山麓 に鎮座する神社の古風な作神まつりには、郡域を越え、多くの人が訪れました。
 平成8[1996]年、それまで沖縄県で実施していた米軍実弾射撃訓練の負担軽減を図るため、訓練の本土移転が合意され、升沢地区に隣接する王城寺原演習場のほか、 全国5演習場での分散実施が決定しました。升沢地区ではその砲撃音などの対策として、平成9[1997]年から集団移転事業が開始され、平成12[2000]年までに住民のほとんど は吉田の三峯地区に移転しました。
 これに対し町は、升沢の貴重な文化を記録保存し、後世に伝えることが重要な責務と考え、地区住民皆様の理解のもと、東北民俗の会と町の共同で民俗調査を実施しました。その記 録を『升沢にくらす 集団 移転に伴う民俗調査報告書』として平成15[2003]年に発 刊・報告しました(まほろばホール図書室所蔵) 。」(『広報たいわ』2021.4月号


第二節 ◯嘉太神(カデーズン)
万能滝
 「本郡の西部は山嶽峻険にして河流も亦瀑布を生ずるもの少からず
 就中吉田川の上流には万能(まんのう)滝と稱するあり上中下三ケ所にあり孰れも高さ五丈余水煙濛々夏尚ほ涼し稱して之を三滝と云ふ茲に不動尊を祀れり

やんぴつ〔乱飛〕滝
 万能滝の下流に位し直下七十八尺側に不動尊を祀る(中略)
平軍滝
 吉田川の支流志田ノ川〔志田野川〕上流に平軍滝あり」(『黒川郡誌』)。
風早峠の水
 「風早峠の水(かざはやとうげのみず)は、宮城県黒川郡大和町吉田の県道147号線沿いで湧き出る湧水。汲み易いようにパイプから常時流れ出るように整備されている。
 湧き水の取水地点は船形山麓、宮城県黒川郡大和町吉田の宮城県道147号、桝沢吉岡線沿いで船形山に向かって進行した場合、道路左脇にある。水量が豊富で、近くには嘉太神ダム陸上自衛隊王城寺原演習場がある。かつては東側周辺に〔嘉太神(カデーズン)〕集落があった。
 1990年代から、演習場の騒音・振動対策の緩衝緑地帯とすべく国の用地買収が進んだ。それにより升沢地区と三畑地区の計約50戸が2000年から2005年にかけて、大和町の中心部近くに集団移転をし、現在は付近一帯に人家はない。移転前の26戸の人達が、おいしい水を利用しようと三峯水利組合を作り、常時湧き水を汲めるように整備した。取水パイプの長さは数百mに及ぶという。大和町の内外から汲みに訪れ、人気化していった。水汲み場に向かって左側に取水場メンテナンスのための募金箱が設置してある。」(Whikipedia「風早峠の水」

吉田青
 後述するように、「吉田村嘉太神石倉と云ふ所に於て飼育したる吉田青と稱するものあり石倉の飼主滅亡の後同地中見山にて飼育せり青毛にて体格は南部馬の如し故に一名仙台の南部と稱せり現今同村堀籠周吉にて奨励金を受け居る牝馬は其の系統なり」(『黒川郡誌』)。

第三節 ◯吉田(ヨスダ)
石神山精神社
 「吉田村吉田字麓にあり
  祭神  大山祇命 大歳神 事代主神 保食大神 釜神
 由緒 延喜式内なる石神山精神社(いわがみやまずみじんじゃ)即ち是なり桓武天皇紀に延暦九[790]年十一月丁亥陸奥国黒川郡石神山精神社並為官社とあり勧請年月詳ならず〔一説に坂上田村麿勧請〕明治[1872]五年一月村社に列す社前に大杉あり囲二十一尺五寸当社は元此地を去ること数町なる石神沢にありたりしを今の社地に奉還したるものなりと云ふ其年代不詳なり(中略)

石神岩 「吉田村吉田字麓に在り麓館より直下拾数丈紫紅色を呈す実に奇観たり岩下石神山精神社を祭れり(中略)
石神山精神社境内の杉 周囲二丈二尺仝神社の前に在り田村〔麿〕将軍手植の杉と稱し居れり」(『黒川郡誌』)。
永仁の碑(行沢観音堂)
 「仝〔吉田〕村中田にあり永仁二[1294]年十月二十日と記せり行沢(なめざわ)観音堂の東南にありしを現今仝堂宇に保存せり佐藤重栄大正六[1917]年之を発見す」(『黒川郡誌』)。
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二番 吉田村行澤 くわうだいのじひにうるはぬものぞなき おしなめざわのむしもうろこも♪

麓館
 「麓館は吉田村吉田字麓に在り伝へ曰ふ入生田右京之允之に拠ると長二十四間横十六間二の丸長二十間横壱拾四間文永二年没落す」(『黒川郡誌』)。
 「初め観応年間[1350-52]に留守一族の吉田氏が住んでおり、中院北畠守親が黒川郡吉田城を本拠としていた。その後黒川(中略)晴氏月舟の家臣である入生田右兵衛左が城主となった。
 入生田駿河は天正の戦い[1590]に敗れた後伊達家に属し、文禄[1593-96]年中まで居住した。
 入生田氏の末裔は、涌谷に移る。」(『まろろば百選 』)

入生田の古杉
 「周囲二丈吉田字入生田の畑中一小邱に在り邱の広さ半段古杉聳立す惜むべし体部朽を生ず」(『黒川郡誌』)。
医王山妙覚院
 後述するように、「吉田村には羽黒修験医王山妙覚院があった。至徳年間[1384-1387]羽黒の大越家の法性の開山である。法性は最初は峰屋敷に居ったがのちに麓屋敷に移り、村内五十の神社・祠堂のうち四十の別当を兼ねた。一村鎮守の岩上山神社や七つ森のうち四つの薬師堂もその別当所である。安永年間[1772-1781]まで二十三代を数え、明治の世になっても三山詣の先達をつとめた。
 村内には各部落の川沿いに数坪の行屋が建てられ、祭壇がある。(中略)吉田村の行屋所在地は、同村浅井清三郎氏の調査によれば、麓・悪田・金取・八志田・反町下・長尾・清水・峰・三畑・沢渡・升沢の十一個所で、明治末年まで峰・悪田・金取の三ヶ所に残っていたというが、現在では金取部落に一ヶ所だけである。 」(『宮城縣史』)

沢渡の榧の木
 沢渡の「榧(かや)の木は、伊達藩時代に距離の測定に使うために植えられたという。昔、この街道は吉岡と山形県を結ぶ間道として栄え、この榧の木は当時の旅人たちの憩いの場であった。
 樹高約16.0m 幹周約3.1m 推定樹齢450-500年(中略)
 道路改修の際、何回となくその存続を問題視されたが、地域住民と世論とにより、地区の象徴として道行く人に安らぎを与えています。」(『まろろば百選 』)。
 「宮城県道147号線、升沢吉岡線沿いの沢渡地区は、江戸時代に吉岡と山形を結ぶ間道があったところで、距離の測定に使うため、伊達藩時代に榧の木を植えたところ、次第にここを通る旅人たちの憩いの場となったという。1996年(平成8年)8月8日に大和町の「まほろば百選」に指定された当時の推定樹齢は400年、根元の周囲は4.7mであった。榧の木は銀杏と同様、雄の木と雌の木(雌雄異株)があるが、この木は雌の木なので実がなる。現在では地区の人々の憩いの場として、道路脇の木陰にベンチが設置され、木の周りのスペースは季節の花々で飾られて、子供用の遊具も据えられている。また、船形山への主要な通過点であることから、スペースの一角には登山時の入山届けポストが設置された小屋があり、登山者は入山届出書を提出し、半券の下山届出書を該当する地点でポストに入れるようになっている。近年では交通量の少ない高低差のある緩やかなカーブの続く舗装道路(147号線)目当てで来る2輪ライダーの立ち寄りも目立つようになった。榧の木の日本での北限は福島県辺りといわれており、その意味で非常に珍しい木となっている。」(Whikipedia「沢渡の榧の木」

沢渡のまるこ杉
 「周囲一丈一尺五寸沢渡経壇上にあり形鞠状をなす故に呼んでまるこ杉と云ふ」(『黒川郡誌』)。「樹高約20.0m 幹周約4.3m 推定樹齢400-450年」(『まろろば百選 』)。
玉の井(玉ヶ池)
 「吉田村字玉池に在り伝へ曰ふ悪玉御前の化粧水の遺蹟なりと池水清冽菖蒲を生ず根必ず小石を掴む側に古碑あり正応年間[1288-92]に立つるところなり」(『黒川郡誌』)。
 「玉ヶ池の史跡には、その北側に屋敷跡(地頭屋敷)があったと伝えられています。玉ヶ池には七ツ森(鎌倉山)からこんこんと湧き出る清水が流入しており、旱魃時でも絶えることがないといわれており、昔から付近一帯の水田をうるおし恵みの「神水」として信仰の対象となっていたと考えられます。
 伝説によれば、坂上田村麻呂将軍が七ツ森で狩をした折、この土地(悪田地区)の長者の娘悪玉姫を見そめて愛妻にしたとあります。悪玉姫は毎日玉ヶ池の水を飲み、この水で顔を洗ったために、稀代の美女になったと伝えられています。」(『まろろば百選』)

玉ヶ池の古碑(正応の碑) 「吉田村吉田字玉ヶ池に池在り玉ヶ池と稱す傍に古碑二枚あり共に高さ五尺余幅二尺余あり其由緒を知るに由なし碑の上部に梵字の如き形あり安永[1772-81]書上に依れば正応二[1289]歳閏十月六日と刻したる寄し見ゆれども今は読むべからず」(『黒川郡誌』)。
石獲菖蒲 「吉田村吉田字玉池に小池あり玉ヶ池と云うふ水清冽比此処に生ずる菖蒲は其根必ず小石を獲めり之を他に移植する時は自ら其特質を失ふ奇と云ふべし
巻拍〔狛?〕 主として七嶷峰懸崖絶壁の所に生せり世人之を珍重して採取するもの多し現今に至りては見ること能はざるに至れり又惜しむべきなり
あいぬねぎ 仝村仝地に生ぜり葉韮に似て中央部広く又臭韮に似たり繖〔きぬがさ〕形にして黒き種子を結ベリ」(『黒川郡誌』)。
台ケ森鉱泉
 「吉田村吉田字台ケ森  湯主 高橋亮三郎
 由緒 延宝年間[1673-81]柴田某といふ武士半身不髄の病に罹り百方治療を加へたれども其巧〔効〕無く依て七巍峰へ病気平癒の願を立て廿一日断食のまま神に祈りたるに満願の夜夢に白髪の老翁あり我は汝の信心する薬師如来なるが汝の願いにより病気全治する泉を告げんこれより西方二十町にして台ケ森といふ地に湧出する泉あり之に入浴せば全治すべしとの神告により翌朝従者をして探らしめたるに果して一ッの泉あり採って入浴したるに旬日にして全治せり故に薬師如来を祭り広く同病者に入浴せしめたるに一として効なきものなし其後湯守の変遷ありて今日の盛大を見るに至れり」(『黒川郡誌』)。

鎌房四十八滝
 「其 〔難波川〕下流一里余荻ヶ倉川〔南川〕と合して其水鎌房滝をなす白滝巨巌に激し殷声遥に響く稱して鎌房四十八滝と云ふ」(『黒川郡誌』)。
 「難波川にかかる宮橋から道を川に沿うて下ること 約一粁、四十八滝の勝と鉱泉宿がある。」(『緑の故里七つ森を語る』)
  中学時代笹川先生に連れられて飯盒炊爨した思い出の地だが、惜しむらく1987年南川ダム(七ツ森湖)建設により水没した模様。現在ダム下流に「四十八滝運動公園」が整備され、わずかに名勝の名残りを偲ぶのみ。

四十八滝鉱泉  「難波川にかかる宮橋から道を川に沿うて下ること 約一粁、四十八滝の勝と鉱泉宿がある。七つ森鎌倉山の麓で前記難波川の岸に建ち眺めは素晴らしい。位置は隣の吉田に属しているが宮床からの交通は至便で此処も亦来遊に好適だ。」(『緑の故里七つ森を語る』)

  ♪くわうだいのじひにうるはぬものぞなき おしなめざわのむしもうろこも♪(「黒川郡三十三所巡礼御詠歌二番 吉田村行澤」)
  ♪くもりなきこゝろのそらにすむ月はやしたのみつにかけうつるなり♪(「黒川郡三十三所巡礼御詠歌八番 吉田の八志田」)




第二章 蒜袋道〜相川道〜報恩寺道〜三ヶ内道/蒜袋御所



第一節 ◯蒜袋(シルブグロ)
黒川氏発祥の地
 蒜袋は今日鄙びた小集落だが、実は黒川氏発祥の地、下草・鶴巣館以前の「黒川郡都」であり、中世華やかなりし頃は名城御所館、八谷館、八谷古城を擁する黒川郡のまほろばとして殷賑を極めていた。今日の吉岡を江戸・東京、下草を京都室町に比すれば、さしずめ黒川郡の鎌倉にあたるとも言えよう。
斯波氏
 既述の通り、「北條氏の手中に歸し、陸奥探題の配下に属〔していた黒川郡は、〕建武以後は相馬氏〔東氏〕の所有たりしが
 足利尊氏勢を擅〔ほしいまま〕にするに至り、其の簇〔斯波(大崎)〕家兼を以て陸奥探題となす 後〔石塔、〕畠山〔、吉良〕探題に賜う
 同氏の衰ふるや大崎〔(斯波)〕直持の奪ふ所となり 其の簇黒川左衛門尉氏直の所領となる
 後亀山天皇元中年間(1384-1392)は伊達大膳大夫〔政宗〕の配下に歸す
 爾後黒川氏の治下に属し〔景氏〕郡鎭を下草に置く
 豊臣秀吉の天下を一統するや蒲生氏郷の配下となり 伊達政宗と力を合はせ
 尋〔つい〕で天正十八(1590)年政宗黒川晴氏を討つて之を滅せり 以後本郡は再び伊達氏の直属となる」(『黒川郡誌』)。

黒川氏(蒜袋黒川氏)
 「源姓(清和源氏)足利氏庶流斯波一門・大崎氏分家の最上氏一族で、陸奥国黒川郡の国人領主。家紋は足利氏と同じ『二つ引両』及び『五三の桐』。
 〔蒜袋「御所館」に拠った〕黒川氏初代・氏直の出自については、以下の三説がある。
 1. 最上氏初代・兼頼(1315年-1379年)の子。没年月日不詳。(「報恩寺旧蔵黒川氏系図」)
 2. 最上氏第2代・直家の子。応永26年(1419年)6月28日死去。子に満氏。(『寛政重修諸家譜』巻80所収「最上氏系譜」)
 3. 最上氏第3代・満直の子。文明3年(1471年)6月18日死去。(「水沢大衡氏系図」)
 『最上氏系譜』と『水沢大衡氏系図』とでは、氏直の没年に半世紀近い差があり、また黒川氏歴代の位牌には氏直の物が無い代わりに、文明4年(1472年)8月15日死去の景氏(6代景氏とは別人。『最上氏系譜』に見える満氏か)の物が存在するなど、かなりの混乱が見られる。
 斯波氏の庶流筋であることから、長禄年間[1457-61)には将軍より直接に古河公方・足利成氏討伐を命じる御内書を下されるなど、大崎氏麾下の国人領主として重きをなした。16世紀初期に伊達稙宗が勢力を伸張すると、伊達氏庶流の飯坂家から景氏が養子として入り伊達氏に服属したものの、景氏の子・稙国以降、稙家・晴氏(月舟斎)と三代にわたって将軍より偏諱を賜っている。晴氏は伊達晴宗の三男・留守政景に娘を嫁がせる一方で、大崎義直の子・義康を養子に迎えるなど、大崎氏・伊達氏の双方に配慮を欠かさなかった。
 しかし伊達政宗の代に伊達一門と斯波一門の対立が深刻化すると、晴氏は大崎合戦において伊達氏より離反し、中新田城を攻めていた伊達軍を潰走させた。またこの時、婿の政景を救うために和睦を斡旋した。(中略)
      ┌氏基2                ┌稙家8
 黒川氏直1┴顕氏3─氏房4─氏矩5…景氏6┬稙国7┴晴氏9…義康10─季氏11
                      ├飯坂氏定
                      ├大衡宗氏
                      ├細川重定
                      └八森定直 ※『水沢大衡氏系図』を元に作成。
 『報恩寺旧蔵黒川氏系図』では以下のように記す。
 最上兼頼-黒川氏直-家重-重朝-重隆-隆景=時氏(足利高基の子)-康氏-康清-清里=景氏-稙国-晴氏-義易」(Wikipedia「黒川氏」

御所館
 御所館(御所楯城、石神館)は、「落合村蒜袋に在り黒川晴氏の祖某〔氏直〕鎌倉より来たりて茲に館す西北は山を僥し南善川を控江て平野に面し東は大沢沼湖を挟みて加美山に対し東南は山脈連なる本丸は高地平坦にして縦五十四間横二七間今尚大石あり里人稱して石神館と云ふ老松十数株遠く之を望めば臥牛の如し故に臥牛山と名く時に或は土器を発掘すること在り」(『黒川郡誌』)。
 「本丸の平場を北に置き、南には二の丸平場そして谷を越えて南曲輪、そしてその南には一段と高い物見を思わす曲輪を配す〔。〕(中略)
 これを要するに、この城館の取立については、黒川氏の祖とも、大崎宗家(家兼?)が創始とも各説ありて一致しないが、南北朝時代の築成になる割合に古い形に属した由緒深い城館として間違いない。」 (『仙台領内古城・館 第三巻』)
 「正応四[1291]年十月亀山天皇[1260-1274在位)]第三の皇子継仁親王[1279-1280]国司に任ぜられ、奥州黒川郡高田御所に住す
 徳治元[1306]年親王帰らるゝ趣を伝ふれども吉田村高田には現に其の遺跡を発見すること能はず
 一説に曰く鶴巣城〔むしろ御所舘がふさわしかろう〕は蓋し古の御所ならんかと」(『黒川郡誌』)。
 「『古城書上』に─一説に黒川安芸〔守晴氏〕の先祖は尊氏将軍の御子、鎌倉将軍〔関東管領〕左馬頭基氏の御末、此所に御下向、最初御取立故、御所と申し候─とある。」 (『仙台領内古城・館 第三巻』)
 「東北自動車道の通過地に入っているため、昭和四十七[1972]年以来、宮城県教育庁文化財保護課によって発掘調査が行われ、その道路の建設にともなう遺跡の破壊に先立って、その状況を徹底的に記録〔「東北自動車道遺跡調査報告書8」〕し後世に伝えることになった。こうして二十世紀後半の巨大開発によって、黒川郡〔の古都、〕中世の貴重な遺産は消滅させられてしまった。」(『大和町史』)
 今は知らず、その昔初めて多賀城の東北歴史博物館を訪れた時、ともに『大和町史』に大きく取り上げられている既述の勝負沢遺跡出土の巨大土器と、「御所館八谷館模型」の現物を見る機会に恵まれた。

八坂神社
 「落合村蒜袋字宮下に在り
 祭神 素盞鳴尊
 事由 大永元[1521]年の勧請にして元禄五[1692]年域内を拡め新に拝殿を作る文化年中[1804-18]に至り改築す明治六[1873]年四月村社に列す仝四十[1907]年九月九日須賀神社を合祀せり」(『黒川郡誌』)。

天王杉 「蒜袋八坂神社境内に在り周囲一丈五尺五寸」(『黒川郡誌』)。
八谷館(八谷古城?)
 御所館南の狭間を挟んで、八谷館(八谷城)がある。「落合村蒜袋に在り東西卅六間南北卅五間伝へ云ふ黒川(中略)安芸守〔晴氏〕の弟八谷冠者氏則の居館なりと其年代詳にすること能はず」(『黒川郡誌』)。
 「『八谷城(八谷館)』、『古城』の呼び名の何れが正しいか『古記』、地方の伝承など各説ありて定かでないが、本書では『仙台領内古城書立之覚』のうち、『八谷城』は蒜袋村にある──の説をとりたい。
 高さ三〇米(標高三六米)、東西四五米、南北一三〇米ほどの独立形の雑木山、山頂に構えられた城館址である。(中略)
 城制は中央に本丸を置き、南北両翼に同形の曲輪を配す、いわゆる梯郭式平山城の一種と見られ、規模は小型に近い。(中略)おそらく北面に位置した御所楯城の支城となった所であろう。」 (『仙台領内古城・館 第三巻』)
 「この遺跡も、前の御所館と同じく自動車道によって北側の三分の一が破壊されるところから、昭和四十七[1972]年十月以降、約半年の月日をかけて、宮城県教育庁文化財保護課の手で発掘調査が行われ、その概要が明らかにされるにいたった。」(『大和町史』)
  ♪尚も奥田と訪ぬれば 心細くも蒜袋♪

八谷古城(八谷城?)
 八谷館から狭間を隔てた南に八谷古城がある。その入口から南半は相川村分だが、地政学上は蒜袋と一体であり、大松沢丘陵南端に位置している。
「黒川郡大和町〔落合〕相川字蜂谷〔品川日出男蒜袋区長(吉岡宿本陣案内所ガイドスタッフ)=鶴中時代憧れの1期先輩・(旧姓大友)豊子さん夫妻宅に南接する脇山にあたる〕(中略)
 郷人はここを『八谷城』と称している。しかし『古城書上』、『古城書立之覚』ともに『古城』は相川村分として記録しているので、ここでは『八谷古城』と呼んでおく。(中略)
 高さ約三十米、東西百米、南北百五十米ほどの平山形式。北面には東西にはしる二重の空濠あり、完全に分断される。(中略)
 空濠の南には一条の土塁を置き、東西七十米、南北六十米の削平地が開け、ここが本丸となる。東、西両面には二段ほどの壇がとりつく。南に一条の同形の空濠を置き、再び平場が展開する。この東西七十米、南北八十米の楕円形平場は二の丸と推定され、ここよりの眺望はまことに良好である。(中略)大手門は本丸、二の丸の接点、東の曲輪の所にあったように思われる。
 東、南、東の三面は絶壁、奥部の北は二条の空濠と土塁で包み込まれた仲々の要害。しかも、麓の下は善川流路、東の窪地にも水濠らしい所も見られ、規模は大きくないがまとまりの良い連郭式状の城館と、高く評価できる。(中略)
 『古城書立之覚』には、城主、黒川安芸守遥〔晴〕氏の弟、八谷冠者〔氏則。所在地に「相川字蜂谷」とあるように八谷は蜂谷とも書かれ、北目の同期蜂谷文夫君や鶴中初代校長蜂谷善右衛門一族との関連も想像される〕 と申す者に御座候─とあり、別記『八谷城』と全く同一の記録がなされている。何れ、蒜袋から相川にかけては同一族の支配下にあったものであろう。」 (『仙台領内古城・館 第三巻』)
 「探偵団の声 大和町の歴史に思いを巡らせ、七ツ森の風景を眺望し、時代と共に変わり行く吉岡の町や田園の様相を見るには最高の展望台。
 史跡公園として整備され、町民憩いの場所となっている。 千葉八郎」(『まろろば百選 』)
 思いがけず、鶴中の恩師・故八郎先生〔ハヅロシンシ、昔「河北川柳」の常連だったチバハチローの名句を拝見するのが、楽しみだった〕、大平上の旧家百目木(ドウミギ)出の先輩の一文に接し、上述の品川〔旧姓大友〕豊子先輩といい、浅からぬ因縁を感じる。
 上述の通り、大和町内の城跡では唯一、「八谷館緑地」として眺望絶景の公園に整備されている。しばらく前に私も訪れてみたがじつにすばらしい眺めで、花見時などはさぞかし格好の憩いの地だろうから、亡きハヅロシンシに倣い、私もぜひご一訪をお勧めする。


第二節 ◯桧和田(シワダ)
 さて、沢渡街道の終点吉岡を過ぎて相川街道に入り、既述の舞野を経て桧和田に至る。
桧和田八幡宮
 桧和田八幡宮は「創建年代ヲ詳ニセズト雖往古北條氏ノ支族[1334}建武ノ変ニ遭ヒ神体ヲ奉ジテ東下シ檜和田村草創ニ当リ奉祀セラレタル処ナリト言フ 而シテ其ノ後黒川安藝守鶴巣館ノ主タルヤ武神ノ故ヲ以テ尊神誠ニ篤ク後黒川家伊達氏ノ為亡ブヤ其ノ旧臣等多クハ皈(キ)農シ檜和田村ニ農耕セリ從ツテ一郷鎮護ノ神トシテ奉祀極メテ篤ク爾後伊達氏ノ臣大和田氏之ヲ尊崇スルニ及ビ民衆ノ信仰益々深ク明治五[1872]年二月村社ニ列セラル(中略)
  昭和四十四[1969]年九月三日
    桧和田八幡神社宮司  日野 薫 撰並書」(境内『記念碑』)

桧和田八幡宮境内の銀杏
 「桧和田八幡宮境内にあり周囲二丈七尺八寸」(『黒川郡誌』)。
檜和田観音堂
 「檜和田観音堂は『風土記御用書出』によると一間四方の南向きの御堂で地主は沼木屋敷で、当時から既に本尊及び額が失われていた。
 祭日は旧暦の三月十八日。
 現在、小川栄一氏の欅の木の根元に半間四方の観音堂がある。聖観音を安置するがまもなく盗難にあう。再安置するが盗難を気遣い、観音堂を管理している小川二郎氏宅に祀っている。」(『まろろば百選 』)黒川三十三観音三十三番札所
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌三十三番 檜和田觀音 けちゑんのねかふ功徳のありかたや ひわたのさくらみるにつけても♪
  ♪報恩寺の暮れの鐘 諸行無常と檜和田村♪(「黒川願人節」)


第三節 ◯相川(エーガワ)
落合村
 既述のとおり、1879年「町村制実施に際し相川外六ヶ村を合して之を落合村と稱せり蓋し当地方は諸川の合流するより起り又落合と呼びし一地方もありしなり相川の地名も亦合川即ち諸川の合いたるより出でたるものなるべし」(『黒川郡誌』)。

  ♪城で名高い下草よ 鶴巣の館を見上ぐれば 日は落合の相川よ♪(「黒川願人節」)


第四節 ◯松坂(マッサガ)
 既述のとおり、「正応四[1291]年十月五位侍従松坂大膳定政継仁親王[1279-1280]に供奉し黒川郡高田の御所に至る生国勢州松坂の紫明神を此地に勧請すとあれば村名蓋し是より起りしものならん」(『黒川郡誌』)。
松坂氏
 松坂氏、「姓は源五位侍従松坂大膳定政を以て祖となす
松坂定政
 定政勢州松坂の人正応四[1291]年十月亀山天皇[1260-1274在位]第三皇子継仁親王[1279-1280]奥州の国司任ぜらるゝに従ひ奥州黒川郡高田御所に住す正和二[1313]年郡を南北に分ちて鈴木成時と之を守らしむ定政三十三邑を受く徳治元[1307]年成時親王に随て還り定政独り留る元亨二[1322]年六月十九日没す年五十七歳
 定政の子定衡嗣ぐ国司北畠顕家高田に至り親王の事を諮ひ具足及び刀を賞賜す又定衡の宅に臨み絵百匹綿二百屯馬一匹を賜ふ
 後数世大膳定隆に至り享禄三[1530]年自ら京に赴き奏するに天下大に擾〔みだ〕るゝを以てす後奈良天皇[1526-57]右衛門督尹実をして高田に赴かしむ此に至りて松坂その他の諸邑を領す

松坂定信
 曾孫定信実に元祖定政より十二世相続きて黒川に住す天正十九[1591]年正月定信貞山公に北目に謁す公黒川叛人の残党を諮ふ答ふるに今皆滅びたるを以てす六月公定信父子に命し黒川の兵を師ゐ公軍を宮崎城に導かしむ定信兵を率ゐて之に従ふ槍傷の為めに没す時に年五十二家臣等力を戮せ奮戦斬首二百七十六級その城遂に陥る家臣鈴木某敵を殺して定信を傷ふ所の槍を奪ふ
 七月公定信の死を恤〔あわれ〕みその子定治を賞す又命じて黒川の兵を率ゐ佐沼城に導かしむ当時大崎の軍皆降り唯佐沼の将服せず公瀬嶺山に営す定治佐沼川を渡り火を城外に縦〔はな〕つ力戦首級を獲ること百十一城遂に陥る公賜ふに田二百五十石を以てす後高麗の軍に従ひ慶長十九年大阪の役に従ふ元和六[1620]年二百石を加賜す子孫相継ぎ世禄六百五十余石

松坂幸蔵
 数世の孫幸蔵南渓と号す幼にして異稟あり戊辰の役上書して父に従ひ出陣せんことを請ふ未だ許されず発して白河城に向ひ健闘す衆之を壮とす明治十[1877]年西南の役起るや軍に従ふ警部となり県軍豊後に入り先登敵砦を陥る勇名大に振ふ而して隊将と善からず毎に抗論す故を以て独り賞に与らず然れども又慍める色なし人以て長者となす
 十七[1884]年選ばれて宮城県会議員となる二十二[1889]年町村制実施推されて落合村長となる施政方正治績大に見るべし二十二[1889]年再ひ県会議員となる容貌魁偉鬚髯顔を覆ふ音声鐘の如し直諭硬議満場聳動す一日議論百出議場湧くが如し幸蔵抗論之を争ふ偶々脳充血に罹り議場に仆る加療遂に癒えず明治廿五[1892]年一月十九日没せり」(『黒川郡誌』)。
 上述のとおり「多数の家臣が〔現大和〕町内各所に所領を与えられている(中略)〔が、〕前代から続いて当町域に所領を持ったのは、松坂氏と宮床の鴇田氏(初期のみ)〔並びに大松沢氏〕である。」(『角川日本地名大辞典』)なお、私事になるが、松坂は、顔も知らない私の祖父の実家である。

紫神社
 「松坂字宮地 紫神社
 由緒 正応四[1291]年十月亀山天皇[1260-1274在位]第三皇子継仁親王[1279-1280]奥州の国司とならせたまひ、本郡高田の御所に下向の際松坂大膳定政供奉す勢州松坂の紫神社より分霊せしものなりと古老の口碑に伝ふ明治[1872]五年二月村社に列す」(『黒川郡誌』)。
 紫神社は、現在下記姫宮神社に合祀されている。

蓬沢溜池の鰍
 「落合村松坂に蓬沢溜池と稱するあり茲に棲めるは一種特殊の形色を有せり」(『黒川郡誌』)。

第五節 ◯報恩寺(ホウオンズ)
法宝山報恩寺
 「落合村報恩寺字上の山にあり
  臨済宗 妙心寺派
 本尊 観世音菩薩 開山禅師来朝の際持ち来たりしものなり)  総本山 由西京妙心寺
 由緒 創立年代不詳唐僧智覚の開山にして黒川下総寺〔守〕景氏の開基なり景氏以下十一代総位牌を蔵む智覚は延慶二[1309]年正月二日に入寂す 境内に景氏の墓あり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音二十一番札所

黒川景氏の碑 「落合村報恩寺なる報恩寺境内寺院の後方丘陵の中腹に在り五輪塔にして稍崩壊せり即ち黒川家の祖景氏の碑なり氏は文明四年八月十五日卒去」(『黒川郡誌』)。
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十一番 報恩寺 よしあしをもらさてすくふぐわんなれは あゆみをはこふ報恩の寺♪
  ♪報恩寺の暮れの鐘 諸行無常と檜和田村♪(「黒川願人節」)

窟(あな)薬師磨崖仏(波打薬師)
 「報恩寺住職菊池氏が語られる口碑によれば、最初の報恩寺は現在の場所ではなく、波打薬師の所にあったという。この薬師は、砂岩の断崖の中腹に掘られた洞穴に刻まれている磨崖仏である。その姿は多年の風雪にさらされて、その面立ちや衣文〔紋〕のさまもわからないように風化しているが、仙台市岩切にある東光寺にある有名な磨崖仏とよく似通った特色を示している。東光寺のものは鎌倉時代の作と推定されているから、この磨崖仏もそのころのものと考えてよいのではないだろうか。
 昔は、この窟薬師磨崖仏のあった付近まで海〔品井沼〕であったとされ、そのため波打薬師といわれたと聞く。」(『まろろば百選 』)

姫宮神社
 姫宮神社(オシメノガミサマ)は「祭神 稲倉魂命
 落合村報恩寺字乳母神に在り
 事由 其勧請の年代詳ならずと雖ども神体座台に文明十八[1486]年の記載あり明治[1872]五年三月村社に列す五穀の神と稱し遠近賽者多し源国氏の刀一振中原光重作の鏡一面を蔵す
 合祀の神社左の如し
  松坂字宮地 紫神社」(『黒川郡誌』)。
  ♪姫宮神社に願いかけ 明くればここは三ヶ内♪(「黒川願人節」)


第六節 ◯三ヶ内(サンガウヅ)
三ヶ内城主報恩寺可則
 既述のとおり、”お薬師様”北目山別所寺黒川薬師は、「多賀城主〔大野〕東人(おおのあずまびと)の臣太野〔大野〕三郎左衛門兼則七代の孫黒川郡三ヶ内(サンガウヅ)城主報恩寺可則仁和年間(885-889)智澄〔證〕大師〔円珍〕の作にかゝれる師の像を当所に祭れるを以って嚆矢となす」(『黒川郡誌』)。
 「文和[1352-55]年中京都みたれの時国司北畠顕家中納言奥州の軍兵を率えて後醍醐天皇の為に攻登らる砌報恩寺左近入道高遠国司にしたがひ伴ひ越前の府の戦に高遠ほまれをほとこす依之帰国に及んて賽とし〔こ?〕の為に当社〔鹿島天足別神社〕を再興したてまつる 其棟札云
    亀国山明神    文亀三[1503]年
             奉造立
      九月十五日  丹羽遠江守正時」(『黒川郡誌』)

出ばり屋敷観音堂
 「観音堂は三ヶ内出張屋敷内の西側一角にある。安産・子育ての観音として近郷の人々の信仰を集めていた。安産を祈って観音堂より枕を借り、無事出産すると、枕を倍にして返しお礼参りをする。観音堂には今だに依然納められていた枕や子供が身につけていた物が残っている。
 千手観音は既に失われ、その後大(天下一青山和泉吉信の銘あり)・中(藤原光長の銘あり)・小(天下一作の銘あり)の三個の鏡を本尊として祀っていたが、現在は、十年前に裏山の土砂が崩れ観音堂の一部が崩壊した時に発見された石仏を本尊として安置し、鏡はその左右に祀っている。祭日は旧暦9月17日。」(『まろろば百選 』)黒川三十三観音二十二番札所。」(『黒川郡誌』)。
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十二番 三ヶ内出ばり屋敷 こゝろにはくもりなけれはおのつから やみちをてらすゆみはりの月♪
  ♪姫宮神社に願いかけ 明くればここは三ヶ内♪(「黒川願人節」)




第三章 石原道〜大松沢道〜鹿島台道〜松山道/大窪城



第一節 ◯石原(イスバラ)

富有山東泉院
 「〔吉岡〕宝珠山龍泉院(中略)末寺石原村の富有山東泉院」(『黒川郡誌』)。
  ♪明くればここは三ヶ内 誓いも固い石原よ♪(「黒川願人節」)


第二節 ◯大松沢(オオマッツァ)
 「当時の町場としては吉岡に上中下の三町 富谷に新町 大松沢上町下町ありしのみ」(『黒川郡誌』)。
大松沢貝塚
 「大松沢貝塚は、宮城県黒川郡大郷町〔字貝殼塚〕にある縄文時代中期の貝塚。
 旧品井沼の北岸にある丘陵に立地し、標高は約55mで、遺跡の大部分は雑木林となっている。ヤマトシジミを主体とする貝殻や縄文時代中期の土器などが発見された。」(Wikipedia「大松沢貝塚」

箭楯神社
 箭楯神社(やたてじんじゃ)は「大松沢村字宮畑に在り
 祭神 別雷命
 由緒 伝へ云ふ大同二[807]年坂上田村麿東夷征討に際し山城国愛宕郡加茂大明神を勧請したり初め矢立明神と稱したり蓋し将軍の放てる鏑矢此地に止るの故なりと後殿堂頽廃に帰したりしを数百年を経て宮沢実家之を再建す明治[1872]五年二月村社に列」(『黒川郡誌』)す。

八幡館
 「八幡館は大松沢村に在り東西五十一間南北二十一間廊あり伝へ曰ふ源義家東夷追討の時之を築くと爾後鶴田五郎丸〔我が幼時の十一代鶴巣村長鶴田癸巳を輩出した、大平中の鶴田氏の遠祖ならんか〕之に拠る故に稱して鶴田崎館とも曰ふ其年代を詳にすること能はず」(『黒川郡誌』)。
大松沢氏
 「大松沢氏は藤原其先を詳にせず飯田八郎左衛門というもの伊達氏の一族より某公の駕に奥州伊達郡に従ふ是時田若干を伊具郡宮沢に賜ふ且つ命して宮沢と稱せしむ
大松沢時実
 〔吉実の玄孫〕掃部時実某公の時黒川郡大松沢邑を攻め之を抜く因って時実をして大窪城を守らしむ是時悉く大松沢の邑を賜ふ或は曰ふ儀山〔大膳太夫政宗〕公の時なりと
 〔時実の子〕掃部祐実明応四[1495]年五月香山〔尚宗〕公の時亡父の忠節を追賞して田若干を賜ふ前を併せ八千石余となる是時賜ふ所の親善の判物あり
 其子八郎左衛門実家 其子又六郎景実

大松沢元実
 子左衛門元実天正中貞山〔政宗〕公の時相馬或は大崎に従ひ其先鋒となる公親書を賜ひ之を労す 文禄中高麗の役に従ふ後ち公元実を以て久しく大松沢に住せしむ遂に在所を賜ふ且つ命して大松沢となさしむ是より大松沢と稱すといふ 元実の家一族に列す守屋朱柏奉名一家一族の名籍を修む誤て元実を脱す偶元実使を奉して京師にあり帰れば朱柏没す元実一族の名稱之より除かる 後江戸留主居番頭となる 公嘗て元実をして金崎に移住せしめんと欲す元実曰く金崎は南部の境薄禄の者は居るべからず汝の禄を仮らんと是時禄を公に貸す減じて三百八十七石となる
 子左衛門定実着座に列す
 定家〔実〕の子越中頼実承応三[1653]年野谷地を開墾す寛文八[1668]年八月皆之を賜ふ之に於て六百十一石五斗三升の禄となる 延宝五[1752]年閏十二月一族に列す
 長子又六郎辰実病て家を承くこと能はず 次男左太夫広実嗣となる 辰実の子彦之丞信実又広実嗣く 之を其子中務以実に伝ふ」(『黒川郡誌』)。以後 「11代文実、12代定実、13代従実、14代良実、15代衛実(大松沢掃部之輔衛〔衡〕実)と続いた。」(Wikipedia「大窪城址公園」

大松沢衡実
 其後数世掃部輔諱は衡実文武に通し特に剣道に達し弓馬を善くす性闊達 慶応二[1866]年家籍を襲き藩主慶邦に謁す公拝して大番頭となす 戊辰の役起るや明治元[1868]年二月藩士三百余人を率ゐて軍に従ふ四月数塁を襲ひ鹵〔ろ〕穫あり五月根田矢吹等に転戦す尋て白河口軍事総督に拝せらる 幾もなくして乱平く家を子成実に譲り遂に剃髪し専ら戊辰殉職者の冥福を修す 大正六[1917]年九月五日没す年八十四」(『黒川郡誌』)。
 後述するように、「多数の家臣が〔現大和〕町内各所に所領を与えられている(中略)〔が、〕前代から続いて当町域に所領を持ったのは、松坂氏と宮床の鴇田氏(初期のみ)〔並びに大松沢氏〕である。」(『角川日本地名大辞典』)

大窪城
 「大松沢村に在り東西四十六間南北十四間下ること一段四十四間に十二間北五十二間に六間東二十八間又下ること一段東六間に三十間の地形六間に九間の出しあり此等皆土手にして西尾崎五間深四間の堀あり昔時伊達右京大輔植〔殖〕宗大崎葛西両氏の鎮として宮沢掃部をして茲に居らしむ掃部より左衛門に至るまで七代の居館なり」(『黒川郡誌』)。
大窪城址公園
 「大窪城址公園(おおくぼじょうしこうえん)は宮城県黒川郡大郷町大松沢にある都市公園である。大窪城趾公園と表記されることもある。
 400本の桜の木が植えられていて、河北新報社の『みやぎ城新観光名所100選』にも選ばれている。アクセス道路が主要道路から少し離れているため、お花見の季節でも目立たず、隠れた穴場的な存在の公園である。登坂道路は舗装されているが、急坂であり、下る時に注意を要する。頂上付近が公園なので、水田地帯などの眺めは良い。大窪城は、比高70mほどの山城で、伊達家一族に列した大松沢氏が代々居住し、大松沢掃部之輔衛〔衡〕実の時に明治維新を迎えた。」(Wikipedia「大窪城址公園」

青田山観音寺
 「大松沢村字森にあり
  曹洞宗 通幻派
 本尊 釈迦牟尼仏
 由緒 天正十[1582]年村民協同之を創立し志田郡下中目満年寺卓山良逸和尚をして開基たらしむ慶長十[1605]年当村地頭川島行重なる者寺領八石を寄付し伽藍を修す其後星霜を経て堂宇頽破殆見るべからず文化七[1810]年村民之を再興すと云ふ」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音二十三番札所
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十三番 大松澤下ノ町観音寺 佛縁にあふまつ澤やのりの道 たゝ一筋にたのむ慈眼を♪
  ♪大松沢の流れくる ここに粕川下り松♪(「黒川願人節」)


第三節 ◯志田郡
鹿島台
松山



第四章 中村道〜川内道〜高城道〜松島道/白川郷・大谷保(郷)


 既述のとおり、「高城(現宮城郡松島町)・大谷(現大郷町)〔東(あずま)海道〕を経て〔、石ノ沢・〕幕柳〔/清水谷・鳥屋〕で多賀城〔・利府〕から吉岡〔・色麻〕に通ずる古代の駅路〔古代後期東山道〕に合する道〔古代前期東山道〕が〔、松島〕丘陵北縁に沿って東西に通じる。」(『日本歴史地名大系』)

第一節 ◯中村(ナガムラ)
  ♪大谷中村鶉崎 今は土橋大平♪(「黒川願人節」)

第二節 ◯大谷

第三節 ◯川内(カワウヅ)
川内支倉氏
 既述のとおり、「桂藏寺の弟子である郷土歴史研究家佐藤宗岳師が苦労を重ねて、支倉常長の墓を研究されました(中略)宗岳師は大郷のお墓が本当の常長の墓であることを証明すべく、昭和32(1957)年に『支倉六右衛門常長の墓について』を執筆しました。(中略)
 支倉家系図書常信の条に『貞享2年2月20日卒、年48、葬干黒川郡大谷郷川内桂藏寺、法名花岳宗香信士』と記載されており、明治初期迄支倉常長9世に当たる支倉清成と夫人の墓があります。
 支倉常信は常長の孫であり『祖君常長の墓前に石灯篭を献じた』とされたという方です。また、常長9世の支倉清成は、仙台藩士であり、明治維新で禄を失い、生活の糧を得るため、仙台から現大郷町川内安戸に住み、寺子屋を営み松島や仙台方面から幅広く子弟教育し、「支倉先生」と敬称され、本人は仙台に戻らず、地元の女性と暮らし養子を迎え、安戸にて生涯を閉じられました。(中略)
 仙台人名大辞書の川内支倉氏の部(P.860)より、支倉常長の孫にあたる支倉又兵衛常信は、常長の600石が衰退した支倉家を60石まで再興された方とされています。
 宮城県史において常信→盛清(養子)となっていますが、当寺にある墓所には常信の次は常盛となっています。現在でも支倉家の遠縁の子孫がおり、川内支倉氏の墓守をされてます。(中略)
 桂蔵寺の裏手の山にある支倉家の墓所は、昔、桂蔵寺の本堂があった場所であり、その子孫のお墓が周りにあります。 元々、支倉家代々の墓地は桂藏寺にあり、清成の死後、支倉家では、これら代々の墓石をあらかた仙台に運び去ったとされますが、清成の門人達が遺徳を偲び清成のお墓を建立されました。現在でも子孫が墓守りとして川内支倉氏代々のお墓を守られています。
 桂蔵寺墓所にある川内支倉氏は 三代 又兵衛常信(中略) 四代 又兵衛常盛(中略) 七代 内蔵之亟清隆(中略) 九代 清成 夫婦墓(中略)とお墓がございます。」(桂蔵寺WS「川内支倉氏と支倉常信について」

桂蔵寺
川内鉱泉
 「大谷村川内  湯主 佐々木久太郎
 由緒 大正四[1915]年三月黒川郡大谷村川内佐々木久太郎其ノ所有地内に於て赤褐色混濁水の湧出せるを発見し之を難症の患者に試浴せしめしに大半平癒し其効果顕著なるを見(中略)浴室を設けて開業せり」(『黒川郡誌』)。
   ♪山田の乙女に道とわば 東は成田か川内か♪(「黒川願人節」)

第四節 ◯宮城郡
松島
高城



第五章 粕川道〜羽生道〜味明道〜山崎道〜不来内道〜小野道


第一節 ◯粕川

諏訪古墳
 諏訪古墳「は、直径三十メートル高さ約4メートルの円墳で、下壇に二列、肩の部分に二列、その内側にそれぞれ『埴輪』をめぐらした中期古墳で、五〜六世紀のものです。
 二、中央の船底の前に凹んだところが死体の木棺(割竹型)に収めて葬ったところで、棺の上に粘土をつめ、さらに円形に白色粘土をおき、さらにその上に『あさがお型』『つぼ型』の埴輪を立てならべたものです。
 三、埴輪はこの近辺で焼いてつくられたものですが、関西方面のものと同じで、すぐれた製品です。円筒埴輪は肩の直径が二十センチメートル、上の縁で三十センチメートル、高さが五十センチメートルぐらいです。その他に『あさがお型『つぼ型』埴輪も出土しましたが、いずれも人形や動物型埴輪などよりも前の古いものです。
 四、葬られた人物は、よほどの勢力を持った者で、歴史には『名』は残っていませんが、後に黒川郡で一大勢力をふるったといわれる『従五位大伴靭負』という人の先祖かもしれません。多賀城ができる三百年ぐらい前の人のお墓です。」(大郷町教育委員会「諏訪古墳の説明」)
 「海老沢古墳とも呼ばれる。
 松島丘陵の西側(黒川郡部分)で、吉田川の南にある丘陵の麓にある。(中略)
 現況はほぼ完全な形の円形で丸底のフライパンをひっくり返したような形で、原野として残っていて、幅3m、深さ1.2mのV字形の周堀がめぐる。周辺の地形と合わせて全体を見ると、界隈では最も高いところで、今は民家の水田の一角にあって、大郷町指定文化財となっている。」(Wikipedia「諏訪古墳」

下り松(サガリマヅ/垂松)
 「粕川村粕川に在り山上より懸崖に下り樹枝地上に繁茂す樹幹三丈古は二株あり槁るれば代木生ずと云ふ現今一株を存す樹枝枯損せるもの多し幹の後方岩壁に薬師像を刻む」(『黒川郡誌』)。
  ♪大松沢の流れくる ここに粕川下り松♪(「黒川願人節」)


第二節 ◯羽生(ハンニュ)
築館城
 「築館城(つきだてじょう)は、宮城県黒川郡大郷町羽生〔はにゅう〕にあった日本の城(丘城)。別名葦が城。
 大郷町の大谷保と呼ばれている羽生・川内地区にあった城で、この地区の北部には西から東へ吉田川が流れ、現在はその周辺に広大な水田が広がっている。300年ほど前までは、吉田川や鶴田川、その他の小さい川がたくさん流れ込み、大雨が降って大洪水になると大郷から大崎市鹿島台、松島にまたがり仙台藩でも最大の湖とも言われるほどの品井沼という大きな沼が形成された。沼の水は、ふだんは小川から鳴瀬川に流れ出ていたが、日照りが続くと、沼一面に草が生えた谷地になった。
 築館城は鎌倉時代から室町時代末期にかけてこの地区を支配した岡山城〔おかやましろ〕が居城したと伝えられる城である。比高15mほどの丘の上にあって、現在は西側斜面に構築された一二三段の曲輪群が築館公園(城址公園)となっており、北部の田園地帯や、船形山、泉ヶ岳、北泉ヶ岳などの眺望が良い。この地域一帯は、鎌倉時代以降、菅原氏、吉良氏、大崎氏、留守氏、葛西氏などが支配を巡って交代して戦いを繰り広げた。岡氏はそれらの傘下でこの地区を中心に荒野・谷地を開発し支配領域を形成し、室町時代末期には黒川氏・葛西氏・留守氏などの大勢力の狭間で滅亡したとみられている。
 1992年(平成4年)3月 一帯が築館公園として開園。 四阿〔あずまや〕や児童向けの遊具を備えている。 」(Wikipedia「築館城」

伊達政宗直筆書状
 「天正14[1586]年〔田村〕清顕は嗣子のないまゝ急死し、家臣たちは後継問題をめぐり、清顕の娘婿伊達政宗に頼ろうとする伊達派と、清顕の室の実家相馬氏を頼ろうとする相馬派とに分裂した。
 天正16[1588]年〔4月8日〕相馬派の石川弾正が挙兵し、〔翌閏5月12日〕相馬義胤は三春城の乗っ取りを策したが、伊達派の橋本刑部〔顕徳〕の機転により失敗し、これを機に伊達政宗は弾正を攻め、さらに相馬派の大越顕光を攻め」(『角川日本地名大辞典』)た。「大越顕光は小野城の田村梅雪斎親子〔顕基・清通〕とともに相馬方にくみした。天正16[1588]年〔6月上旬〕顕光は相馬勢を大越城に入れ、早稲川館を衝いて常葉城を攻めようとする相馬義胤を援護した(奥相茶話記)。これに対し、伊達政宗は6月伊達成実を派して大越を討(政宗記)」(『角川日本地名大辞典』)った。
 同年8月、「政宗は田村に入り、田村宗顕を三春城代として相馬に通ずる者は滅ぼして、田村を鎮圧した。これに反対した田村梅雪、小野右衛門〔田村右衛門清康〕、大越紀伊守〔顕光〕は〔同8月末ごろ〕相馬氏との盟約を解いて岩城常隆に通じた。」(『平市史』)
 翌1589(天正17)年4月、「爰〔ここ〕に大越紀伊守〔顕光〕つげづくと思案しけるに、常隆も小野・大越の抱へ末々迄はなり難し、我身大事迫れり、此の上は〔伊達〕政宗へ降参して日頃の非を改めんと忽〔たちまち〕に心を変じ」(『奥陽仙道表鑑』)た。
 「偖〔さて〕も大越紀伊守〔顕光〕が陰謀露見せし事は、田村宮内小輔顕貞〔顕康〕が許より内々示し合せし謀書を、紀伊守懐中して有りけるが誤って途中へ落せしを、其の妾〔つま〕是を見付けてひろい取り、舎弟〔兄?〕橋本〔大越〕甲斐守と云ふ者に見する。甲斐守是を取りて、暫時預かるべき由云ふて受け取りけるが此の甲斐守元来紀伊守と其の仲よからず、今主君に対して逆心を企る、是に与すべき様なしとて、忽ち此の状を常隆に見せ奉る故、事露見して紀伊守囚れける。此の忠節によりて、大越の城を、常隆より甲斐守にぞ賜りける。」(『奥陽仙道表鑑』)
 同「天正十七[1589]年六月、政宗は遂に葦名氏を滅ぼし会津を平定した。更に〔須賀川〕二階堂氏を攻めたが、二階堂氏は岩城、佐竹の両氏に援を乞うた。常隆の武将竹貫中務少輔、植田但馬守などは二階堂氏を援けた。然しながら戦いは不利、但馬守は戦死し、竹貫中務少輔は従兵と共に竹貫に帰つた。」(『平市史』)
戦国時代の書状、伊達政宗直筆と確認 勢力拡大期の高揚感伝わる
 宮城県大郷町の民家で保管されていた戦国時代の書状が今[2021.08]月、仙台市博物館により、仙台藩祖伊達政宗(1567-1636)直筆のものと確認された。政宗が20代のころ、現在の会津地方を拠点に勢力を広げていた時に書いたといい、当時の政宗の揚々とした様子が伝わる。
 市博物館によると、書状は1枚で、1589(天正17)年、旧暦の7月5日付。敵対していた岩城常隆の軍勢が政宗の支配下にあった田村領に攻め入り、田村勢が勝利を収めたことなどに触れ『為御満足候』と心境をつづっている。
 同館の職員が8月上旬に実物を確認し、筆跡や花押から政宗直筆の書状と断定した。一部が切り取られ宛名は不明。花押が私用の書状に用いた形をしていることから、伊達一門を含む家臣に宛てたとみられる。
 会津黒川城主だった芦名氏に政宗が大勝した摺上原(すりあげ〔かみ〕はら)の合戦から約1カ月後に記された。同館学芸企画室の明石治郎さん(63)は『反伊達の勢力を駆逐し、勢力を拡大していたことがうかがえる』と言う。
 明石さんによると、同館がこれまでに実物を確認した政宗直筆の書状は約1400通に上る。2019年夏以降も、約40通が新たに確認された。古文書の収集家や古物商などからの照会が多いという。
 今回確認された書状は、大郷町羽生の農業鎌田武志さん(78)方で保管していた。遠戚に当たる大郷町出身の郷土史家柴秀也さん(74)=仙台市若林区=が同館に鑑定を依頼した。
 『政宗直筆の書状は文体が独特。当時は政宗が東北の覇者になりつつあった絶頂期で、高揚感が感じられる』と柴さんは語る。
 鎌田さんの祖先は大郷町を拠点とした豪族とみられ、代々、書状を家宝のように扱ってきた。鎌田さんは『本物と確かめられてよかった。今まで通り大切に保管したい』と話す。」(河北新報ONLINE NEWS 2021.08.20
 「8月〔3日〕には〔清顕の甥〕田村宗顕を清顕の後継者と定め」(『角川日本地名大辞典』)「、清顕の室〔相馬氏〕を船引城に隠退させた(伊達治家記録・奥陽仙道表鑑)。こうして伊達政宗は、田村全域の事実上の支配者となった。」(『角川日本地名大辞典』)
  ♪丸山長崎通り抜け 羽生山崎味明とか♪(「黒川願人節」)


第三節 ◯味明(ミアゲ)

第四節 ◯山崎(ヤマサギ)
渋川助太夫『日新録』

第五節 ◯不来内(コズネイ)
第六節 ◯宮城郡
小野


 

第六章 穀田道〜大童道〜鳥屋道



第一節 ◯穀田(コグダ)

 既述のとおり、「同地清水の道側田の畔に往古より石ありて米湧き出でたれば此地方を穀田と稱せりとぞ安永風土記[1774]にみえたり」(『黒川郡誌』)。
建石
 「富谷村穀田清水の道側田の畔に三尺四方の石あり建石と名づく伝へ曰ふ往古之より米湧き出でたりとて此地方を穀田と稱せるなり蓋し其量を多くせんとてその口を開きたるに石二つに割れたりとぞ現今此石二つに割れ居れり 」(『黒川郡誌』)。

第二節 ◯大童



第七章 明石道〜西成田道〜今泉道〜幕柳道



第一節 ◯明石(アガイス)

第二節 ◯西成田(ヌスナンダ)
西成田小学校
西成田コミュニティセンター(富谷市) 増改築重ねた旧小学校校舎/住民の心のよりどころ
 富谷市の田園地帯、西成田地区に、西成田コミュニティセンターは立つ。茶系統で統一した板張りの外壁や白の窓枠が特徴的だ。
  1873(明治6)年に開校した旧西成田小の校舎で、増改築を重ね、昭和期の1950年代に今の形が整った。
  市民俗ギャラリー学芸員の清水勇希さん(29)は『近代教育が始まった頃にはやった偽欧風の建物の名残がある。歴史的な価値は高い』と話す。
  74(昭和49)年に富谷小と統合し、閉校した後も、約50年にわたり交流拠点として地域を見守ってきた。『校舎の風景を残してほしい』との地域住民の要望を踏まえ、建て替えはせず往時の外観を今もとどめている。
 近年は2009~11年度と16年度に、内部を中心に大規模な改修工事を実施。宿泊機能を備え、研修や催事などで活用されている。
 自身も旧西成田小の卒業生で、西成田地区コミュニティ推進協議会の佐藤新次会長(66)は『施設は、多くの住民の心のよりどころ。地域の結束力を確かめる場になっている』と語る(肘井大祐)
[メ モ]西成田コミュニティセンターは木造平屋で床面積約470平方メートル。調理室や大小の浴場、ホールなどを備え、板張りのプレイルームなどは主に子育てサロンとして使っている。富谷市西成田郷田一番94。連絡先は市生涯学習課022(358)5400。」(河北新報ONLINE NEWS 2021.08.18<いぎなり仙台>まちかどブラ昭和


第三節 ◯今泉(イメズミ)
今泉神楽
今泉小学校



第八章 一ノ関道〜小野道〜野村道〜大沢道


第一節 ◯一ノ関(イヅノシギ)

浄光山長楽寺
 「寺跡富谷村一ノ関字要害にあり
  曹洞宗
 本寺 仙台連坊小路五峰山松音寺
 由緒 寛永十五[1638]年寺本〔本寺〕九世住持民国鱗泰の開山にして安永以後に至り退転す」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音三十番札所
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌三十番 一ノ關長樂寺 煩悩のくもはれてゆく一ノ關 まして眞如の月をなかめて♪

第二節 ◯小野
神明社

第三節 ◯宮城郡
野村
大沢


等々、等々、等々、古代黒川郡東山道(奥大道)の沿道に織り込まれた「点と線」の絹絵巻からは、「田村麿・八幡太郎・鎌倉殿伝説」の類いの故事、古跡、伝承のはるかな幻影がまざまざとあぶり出され、利府勿来関の信憑性と鶴巣小鶴沢長根街道一里塚の史実を傍証している。
 明治以降の新造語である「白河以北(河北/かほく)」ならぬ、文字どおりその向こうを張る「黒川以北」という古代史の定形表現も、もちろんこちらの方がはるかに古く且つ普遍的なのである。
 事ほど左様に、我が郷土奥州「黒川郡」「鶴巣(つるのす)」「別所」は遠く太古から開け、歴史と伝説とロマンに彩られた、由緒ある土地柄なのである。



(続く)


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